夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

改めて、『愛しき日々』が流れた頃・・♪

2009-02-02 18:02:03 | 音 楽
午後のひととき、私は音楽棚からCDの背文字を眺めながら、
ときには堀内孝雄の歌声も聴こうとし、
『堀内孝雄 ベスト・ソング集』のアルバムを取り出して、聴いたりしていた。

そして、あんな時代もあったなぁ、とその時代に思いを馳せたりしていた・・。

私はあるサイトに於いて、
【 『愛しき日々』が流れた頃・・♪ 】
と題して、2006年2月5日に投稿したことがあるので、再掲載をする。

【・・
堀内孝雄氏の歌った『愛しき日々』が街に流れた頃は、
確か昭和62年の春だったと記憶している。

前年の歳末のテレビ時代劇『白虎隊』の主題歌に使われ、
作詞は小椋 佳氏、作曲は堀内孝雄氏だったと思う。

この頃のレコード業界は、おニャン子ブームが席巻し、
中年のサラリーマンの慰めは、この『愛しき日々』と
テレサ・テンの『時の流れに身をまかせ』ぐらいだったと思う・・。

日米の経済摩擦があり、中曽根内閣の時代だった・・。

日本の企業は改革をし、多くのサラリーマン達は、時代に翻弄した時代だった・・。

私も経費削減で業務の見直しをしたりして、会社事態も苦境に立たされている時だった。

そのような中で、この『愛しき日々』の歌詞が、
中年のサラリーマンとして、心に沁みた・・。

♪風の流れの 激しさに
 告げる想いも 揺れ惑う
      ・・・

【『愛しき日々』 作詞・小椋 佳、作曲・堀内孝雄 】


この歌を街角から流れ、
聴きながらそっと涙を浮かべたサラリーマンは、数多くいたのではなかろうか・・。

いつの時でも、その時代に翻弄されるサラリーマンの多くは存在する。

・・】


このように私は綴ったりしていたが、昨今の経済の悪化で、
多くの方たちが翻弄されるニュースを視聴したり、
或いは新聞で読んだりする時、
私は民間会社を定年退職した年金生活の5年生の無力な身ながら、
ため息ばかりすることが多いのである。



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心の発露は、言霊(ことだま)の力を信愛し・・♪

2009-02-02 10:10:00 | 定年後の思い
私は民間会社を定年退職して、まもない時にブログの世界を知った。
そして私は、各サイトのブログ、ブログ系に加入して投稿をし始めて、
5年生となっている。

私は年金生活を始めたのであるが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことを
心の発露の表現手段として、写真、絵とかの素養もないが、
何より言葉の力を信じて投稿してきたのである。

古来、日本は人々の会話の伝達の時代が過ぎた後、
少なくとも飛鳥の時代から言葉を綴り, 日記、随筆、小説、詩、短歌、俳句、
川柳などは文字で表現してきたのである。

そして、その時代なりに数多くの人々により、
心を思いを満天の星空のように、数多くの遺されて、現世に至っている。

私は確固たる根拠もないが、私なりの拙(つたな)い感性と感覚を頼りに、
随筆形式で綴ってみようと、投稿文としている。

その日に応じて、簡単に言葉を紡(つむ)ぐ時もあれば、
言葉がなかなか舞い降りてこなくて苦心惨憺とすることも多いのである。

このような時、言霊に対して自己格闘が甘いのかしら、
或いは幼年期からの甘さの多い人生を過ごしてきたから、
このような拙い文章を綴るしか表現が出来ない、
と深刻に考えたりすることがある。

このような時、私は文章を綴ったのは、少年期の何時頃であったのかしら、
そして、その後は・・と拙(つたな)い我が身を振りかえることがある。


たまたま昨年の今頃、
【 私が初めて文章を綴ったのは・・♪ 】
と題して、あるサイトに投稿していたのであるが、再掲載をする。

【・・
私は昭和19年に、東京の郊外の農家の三男坊と生を受けた。

初めて文字を書いたのは、小学校に入学したからだった・・。
この頃は、私の住む村では幼稚園が出来たのは、私が小学校3年頃だったと思う。

私は最寄の託児所で2年ばかり通い、小学校に入学したが、
託児所は、文字などは教えることのない時代で、礼儀作法、お遊戯で過ごしていた。

小学校に入学すると、『こくご』の授業で初めて、文字を覚え、
真っ先にひらがなで、私の名前を升目の大きなノートに書いたりしていた。

そして、ひらがな、カナ字、そして漢字を学び、
3年生頃から『さくぶん』の授業で、今の時代で云うと粗雑な藁半紙で書かされたのである。

この頃に家にある本と云えば、
農協の発刊する『家の光』ぐらい記憶していなかったので、
小学5年の時、近くに引っ越してきた都心に勤めるサラリーマンの宅に行った時に、
書棚に本が並んでいたを見たときは、
子供心でも眩暈(めまい)を感じたのである。

夏休みには、宿題として作文があったが、苦手な私は苦心惨憺で綴ったのは、
今でもほろ苦く覚えている。

私が都心にある高校に入学してから、
突然に読書に目覚めて、高校二年の夏に小説の真似事の原稿用紙に習作をした。

東京オリンピックの直前に、私は大学を中退し、
映画青年、文学青年の真似事を4年ばかり過ごした。

養成所の講師から、ある月刊誌の記事の取材、下書きを分けて貰い、
ノンフェクション・ライター気取りで取材し、指定された原稿用紙に綴り、
講師に手渡し、幾ばくかの金銭を受けたりしていた。

確固たる根拠もなく、シナリオとか小説の習作していたが、
ある年のお彼岸の懇親の折、親戚の小父さんから、
『30過ぎから・・家族を養えるの・・』
と素朴に叱咤され、私は自身のつたない才能に自信を失くした。

この後、大手の企業に中途入社する為に、
コンピュータの専門学校に一年通った後、サラリーマンの一員となった。

・・】


このように幼い文章で綴っていて、苦笑したりしている。

私は幼年期にたくさんの本のあるサラリーマンの家に生まれ、
学生時代は素直に国文学を専攻した後、最終として大学教授になった人に、
嫉妬と羨望を感じたりすることもある。

人生は無念ながら2度とない、と古人からの伝え通り、
私はやむえず、亡くなわれた小説家のひとりの方が、
マイナスの人生を体験すれば、何よりの言霊の支えになる、
と遺(のこ)された格言を信じて、今後も随筆らしき散文を綴り投稿する。



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