夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

年金青年、『節分の日』の雑学のあれこれ・・♪

2009-02-03 19:23:46 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の5年生であり、
古来からの風習、文化などを、遅ればせながら学んでいるひとりである。

このような思いがあるので、たとえ『節分の日』でも、
何かと気になり、私が年金生活を過ごすうちに学んだりした雑学を、
恥ずかしながら綴ったりしているので、再掲載をする。


昨年の本日に於いては、
【 されど、『節分の日』・・♪ 】
と題して、投稿している。

【・・
東京の郊外の調布市に住む私は、
今朝、スーパーのチラシを見て、少し驚いている。

『恵方巻』
今年の恵方は南南東。
恵方に向かってまるかぶり!

『節分いわし』
古来よりいわしの頭を焼いて、ひいらぎのとげやいわしの焼けた臭気で、
邪気が家に入るのを防ぐといわれています。

『節分そば』
旧暦では立春から年が明けるといわれ、
前日の節分にそばを食べて身を清め、
晴々しい気持ちで立春を迎える風習があったといわれている。

『節分豆』
豆まきに使う大豆は、
一説では鬼の目に打つ【魔目=まめ】、
魔を減ずる【魔滅=まめ】に通じるといわれています。


私の幼少時代、東京の郊外では『恵方巻』の習慣がなく、
西日本の文化のひとつの食べ物から、と思ったりしている。

『節分いわし』には、記憶がないが、
祖父の晩酌の時にニシン、イワシ、アジなどの大衆魚を食べていたので、
断言できるほど自信がない。

ひいらぎに関しては、この樹木は実家に多くあったので、
多分、父が神棚か、玄関脇に飾っていたかもしれない。

私は前日、このスーパーで一合枡に入った『節分豆』を購入してきたので、
ささやかに『鬼は外、福は内』と呟(つぶや)き、
私の晩酌の友に加わり、家内と適度に頂く程度である。

尚、このスーパーでは、
『節分サラダ』と称して、節分豆でトッピングしたサラダが掲載されて折、
家内と笑ったりしていた。

そして何より感心したのは、
老田酒造店 飛騨自慢『鬼ごろし』(辛口)であった。
《720ml 1、000円 数量限定》

このように掲載されて折、鬼退治には最適な呑み物かしら、
と私は微笑んだりしていた。

尚、『鬼ごろし』は、飛騨地方をはじめ、全国の各地それぞれにあり、
呑兵衛の私は旅行先などで愛飲している地酒のひとつである。

・・】



そして、一昨年の本日に、
【 節分の豆、鰯(いわし)、そして恵方巻・・♪  】
に綴ったりしていた。

【・・
先程、何時ものように買物に出かけたが、
冬晴れであり、マフラー巻けば寒さを感じないひとときである。

買物に出かける時は、スーパーであったならば家内がチラシに必須の品物として赤丸印を付ける・・。

私も赤丸印の品物を確認してチラシを見たりする。
『節分の豆』
豆まきに使う大豆は、一説では鬼の目に打つ【魔目=まめ】、
魔を減ずる【魔滅=まめ】に通じるといわれています。

『節分いわし』
古来よりいわしの頭を焼いて、ひいらぎの枝に刺し、家の入り口に差すと、
ひいらぎのとげやいわしの焼けた臭気で、邪気が家に入るのを防ぐと言われています。

『恵方巻(えほうまき)』
節分の夜にその年の恵方に向かって、
目を閉じて無言で太巻きをまるかじりすると、
幸せな年になると言われています。

今年の方位は《北北西》


このように綴られて折、私は思わず微笑んだ・・。

私は節分の豆は、50歳を過ぎた頃から年の数だけといっても食べすぎと感じているので、
年を重ねた昨今、省略して6粒ほど頂いている。

鰯に関しては、ときたま頂いたりしているが、
背黒目刺も美味しいけれど、中羽目刺も欠かせない。
迷っているが、特に鰯は目が生きているような状態が全てであると思っている。

恵方巻については、東京の郊外では食べる習慣はなく、
関西寿司のような風味かしら、と思っている。

帰宅後、家内は1本巻を半分程に切った後、磁石を取り出して、
『北北西は・・こちらの方角かしら・・』
と煎茶を飲みながら、呟(つぶや)いたりしている。

そして半分程を食べはじめたので、
『夜に食べないと・・願いが叶(か)わないよ・・』
と私は言ったりした。

『解かっています・・半分は夜に頂くから・・』
と家内は微笑みながら、言ったりした。

私は東京の郊外で幼少から育っているので、寿司は江戸前しか頂かないので、
恵方巻を見詰めると婦女子の食べ物と感じたりしている。

・・】


そして私は明朗なB型であるので、一昨年の同日に、
【 『節分の日』、なぜ鬼がでるの・・?! 】
と題して、たわむれに投稿したりしていた。

【・・
東京の郊外は、本日、明日は冬晴れとなっるので、
数多くのお方達はお休みでご家族でのんびりと過ごされるのかしら、
と朝の陽射しを受けながら感じたりしている。

本日は『節分の日』と云われいるが、
何故この時に【福は内! 鬼は外!】と叫びながら豆を撒(ま)くの、
と思ったりした。
何より、鬼がどうして登場したのか、歳を重ねた私は改めて、思いをめぐらしたりしている・・。

私なりに調べ上げたので、最も解かりやすかったのは、
藤野邦夫・著の『幸せ暮らしの歳時記』であった。

無断であるが、転記させて頂きます。

【・・
立春の前日の2月3日に行われる『節分』は、
古代の中国にあった『追儺(ついな)』という行事が、形を変えたものだと云われている。
追儺とは、熊の皮をかぶって、金色の目玉が四つも付いた面をかぶった呪者が、
手に矛(ほこ)と楯(たて)を持って、疫病や災害を表す鬼を追い出す行事だったという。

それが日本に入ってきたのは、7世紀の飛鳥時代。
日本では『鬼やらい』とも云われるようになった。
『やらい』とは、追い出すことである。

8世紀の平安時代から、新年を迎える宮廷の行事のひとつとして、
大晦日に行われるようになった。

【慶雲3年(706年)に疫病が流行ったので、宮廷で鬼やらいをした】
という記録があるので、何か特別な事情があれば、
普段でも行われていたかもしれない。

このような形の行事が、次第に神社や仏閣に広がって、
鎌倉時代が終わる14世紀前半まで、延々と600年以上に亘(わた)って続けられたのである。

室町時代になると、鬼やらいは民間でも観られるようになり、
鬼に扮装した人を追い出す芸能形式のものと、
枡(ます)に入れた『炒(い)り豆』を撒く形式のものと二分された。

干支(えと)に当たる『年男』が撒いた豆を、年の数だけ食べる様式が成立したのも室町時代からのこと。
この豆撒きもまた中国から伝来した風習だといわれているが、
『まめ(健康)になる』という語呂合わせから、豆が撒かれたという説もある。

このような行事が『節分』と呼ばれるようになったのは、
文字通り『季節を分ける』行事だったからである。
つまり、鬼を追い出す行事は立春の前日だけでなく、
立夏、立秋、立冬の前日毎に、年に4回も行われるようになった。
また、芸能形式のものは衰えて、手数のかからない豆撒き形式が中心となっていった。

・・かつての節分は、病気と災厄を逃れる為の神聖な儀式であったことが解かる。
時代が下ると、今のように立春の前日だけに行われるようになったが、
それでも室町時代と同じく『福は内、鬼は外』と叫んで豆を撒く行事は、
暗鬱(あんうつ)な季節を過ごして春を迎える、
重要な節目であり続けたのである。
・・

以上、長々と転記させて頂きました。


私はこの歳になって、初めて由来を知った訳であるが、
多くの日本文化の伝統は、室町時代にほぼ完成をしているが、
この『節分』もひとつか、とも改めて教示を受けたりしている。

・・】


このように戯れに綴ったりしていたが、
こうして読み返して、何より私が独り微苦笑したりしているのである。




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されど、私の『節分の日』豆まきの想いで・・♪

2009-02-03 08:22:12 | 定年後の思い
東京郊外の調布市に住む私は、
早朝にカレンダーを眺めていたら、『節分の日』と朱字で明示されて、
私は苦笑したのである。

私の住む地域に地域に於いては、
古くから煎(い)った豆をまき、その人なりの年齢の数だけを食べると、
邪気を追い払い、病気にもならない、と伝えられている。

私は年金生活の五年生の64歳で、家内と2人だけの家庭であるが、
人の多い神社・お寺で『豆まき』で人の多い所は苦手であり、
自宅で豆まきをする元気もないのである。

せめて、日中のひととき、スーパーで『福豆』を買い求め、
私は晩酌の時、64粒は多すぎるので、6プラス4で、
10粒ばかり頂く予定である。

このように思ったりしているが、私の幼年期の頃、
そしてサラリーマンの現役の頃は、私なりに思い出がある・・。


幼年期の頃は、
【 『節分の日』豆まきの想いで・・♪ 】
と題して、2008年2月3日に於いて、あるサイトに投稿していたので、
再掲載をする。

【・・
私は昭和19年に東京の郊外で農家の子として生を受けたが、
私の幼年時代の頃は、『節分の日』には最寄の神社の高台で、豆まきをしていた。

神社といっても、村の住民で維持管理されている小さな神社で、
この時節も殆ど人影のないところであった。

それぞれの家長が一升枡の中で半紙敷いて、
自宅にある大豆を軽く炒った豆を三割方入れ、
夕暮れになると、大声で、
『ふくわう~ち!!・・おにはそ~と!!・・』
と叫んでいた。

私の住んでいた家から、少なくとも300メートルは離れていたが、
家の中で居ても充分に聴こえたのである。

『お父さん・・あの声・・XXさんの小父さんだね・・』
と私は父に確認したりした。

『だけど・・あの小父さん・・去年より・・豆まきをはじめる時間・・少し早いね・・』
と私は得意げで父に云ったりしていた。

我家でも、祖父が神社に行き、豆まきをして帰宅する頃は戸締りが終わっていた。

夜の七時ごろには、戸をすべて開け放ち、
『福はう~ち! 鬼はそ~と!』
と父は平素より遥かに大きい声で、外に向かって言っていた。

そして、戸をすべて閉め終わった後、私は次兄と妹たちとで、
部屋の畳の上、縁側の廊下にまかれた豆を拾い集めたりしていた。

そして、五合枡に入れた豆を、
『齢の数だけ・・食べてもいいわよ・・』
と叔母が私達に云った。

私は、7つだけか、と云いながら、
兄達の手には私より多くあったので、
おまけと云いながら、こっそりとひとつ余計にとった。

このような祖父、父達に囲まれて、楽しげな年であったが、
翌年の早春に父、晩春に祖父に死去され、我家は没落をしはじめた・・。

・・】


そして、サラリーマンの現役時代には、
【 真夜中の豆まき・・。 】
と題して、あるサイトに2005年2月3日に於き投稿していたが、
再掲載をする。

【・・
10数年前の頃だった。

私はサラリーマンで数多く人と同様に多忙な身であり、
帰宅できたのは、夜の11時30分過ぎだった。

洗面所で顔を洗い、パジャマ姿になると、12時近かった。

家内が
『深夜ですので、年の数だけ豆を、頂きましょうね』
と云った。

私ももっともだ、と思ったが、仕事で遅くなったんだから、
と素直に納得出来なかった。

『今からでも、遅くない』
と私は云って、私は雨戸を開けた。

『福はう~ち! 鬼はそ~と!』
と私は大きな声で庭に向って連呼した。

周りの一軒が台所の窓が開き、
そして、まもなくもう一軒のお宅では、ベランダのガラス戸が開いた。

XXさんの所、今頃何をやっているんだ、
いうような仕草が遠くからも解かった。

しかし、よきことの行事に対しては、
ご近所の皆様からは、クレームがなかったと、
後日に家内から聞いたりした。

・・】


このような私なりの思いでがあったが、
心の隅に残って折、この時節になると、思い出しながら苦笑したりしている。



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