第5章 『長崎市 永井隆記念館』を訪ねて
私は永井隆氏の名を知ったのは、遅ればながら高校二年の時で、
昭和37年であった。
幼年期の5歳頃、ラジオから『長崎の鐘』の歌が流れ、
幼児の心なりに悲しみを覚えたりし、
この後には母に手を引かれて映画の『長崎の鐘』を観たりしたのである。
このような思いは、私はこのサイトに於いて、
【 『長崎の鐘』を聴くときには・・。 】と題して、
2007年8月27日で投稿しているが、えて今回は再掲載をする。
【・・
私は昭和19年9月に東京の郊外で生を受けた。
昭和25年の頃に、自宅のラジオから『長崎の鐘』がよく流れてきた・・。
♪こよなく晴れた 青空を
悲しと思う せつなさよ
うねりの波の 人の世に
はかなく生きる 野の花よ
【『長崎の鐘』 作詞・サトウハチロー 作曲・古関祐而 唄・藤山一郎 】
私は5歳の幼児であったが、何かしら物悲しく感じたりした。
♪なぐさめ はげまし 長崎の
ああ 長崎の鐘が鳴る
【『長崎の鐘』 作詞・サトウハチロー 作曲・古関祐而 唄・藤山一郎 】
ここまで聴いていると、いじけた幼児の私でも涙があふれてきた・・。
翌年の夏、近くの寺院の境内で、映画が放映された。
この頃の時代は、学校の校庭とかで、スクリーンを張って、ときたま映画が放映されていた。
娯楽の乏しかった時代、ご近所の方達が集まって、
このような催しが行われた時代でもあった。
近くの寺院の境内で上映されたのは、映画の『長崎の鐘』であった。
母に連れられて、初めて観た映画だった。
帰路、満天の星空が綺麗だった、ということが今でも残っている。
映画のストリーは忘れてしまったけれど、幾つになっても、藤山一郎の歌声を聴くと、
私は涙ぐんだりしている。
私は後年になると、作詞はサトウハチロー、作曲方は古関祐而と知るのであったが、
肝心な『長崎の鐘』という原作を書かれた永井 隆は無知であった。
その後、このお方の人生経路を知り、涙で曇った。
♪召されて妻は 天国へ
別れてひとり 旅立ちぬ
かたみに残る ロザリオの
鎖に白き わが涙
【『長崎の鐘』 作詞・サトウハチロー 作曲・古関祐而 唄・藤山一郎 】
ここまで転記させて頂いているが、著者の永井 隆の人生を思い馳せると、
また瞼(まぶた)が熱くなってしまう。
国家の国益という怜悧の中、アメリカは広島に続き、
長崎にも原子爆弾を投下した。
思えば、7月26日に於いて、アメリカ、イギリス、ソビエトの首脳により、
『ポッタム宣言』で日本に降伏を勧告したが、
日本政府と軍の首脳部が混迷し、黙殺した結果となり、
8月6日に広島に続き、9日に長崎に投下された。
こうした事実を少しづつ知りはじめると、
なお一層、この歌は悲劇を通り過ぎて、悲惨な過去の実態にうっすらと涙を浮かべる。
私は年を重ねた62歳の身であるが、
ここ10数年、8月15日の敗戦日になると、
昼のひととき『長崎の鐘』を聴いて、平和の大切さをかみ締めている・・。
・・】
このような思いもあったりしたが、
今回の旅行の旅立つ数週間前に、ネットで『永井隆博士の生涯』などを学び、
少なからず衝撃を受けたのは、
長崎医大物理療法科の部長の時、
この当時は劣悪なレントゲン機器の状況となった中で、数多く撮った結果、
ラジウムの放射線で白血病となり、
昭和20年6月に余命3年と診断された、ということであった。
そして永井隆氏は、妻に告げるのであるが、
この時の心情を思うと、私は思わず涙を流したのである・・。
http://www1.city.nagasaki.nagasaki.jp/na-bomb/nagai/nagae01.html
館内の展示品を拝見しながら、
この後の原爆投下後の状況、そして無念ながら亡くなるまでの軌跡に、
改めて感銘を受けたのであった。
そして館を辞する直前、私は書籍の即売コーナーで、
恥ずかしながら未読であった『長崎の鐘』(アルバ文庫)を購入して、
ホテルで深夜の2時半過ぎまで読み、敬意を重ねたのである。
《つづく》
私は永井隆氏の名を知ったのは、遅ればながら高校二年の時で、
昭和37年であった。
幼年期の5歳頃、ラジオから『長崎の鐘』の歌が流れ、
幼児の心なりに悲しみを覚えたりし、
この後には母に手を引かれて映画の『長崎の鐘』を観たりしたのである。
このような思いは、私はこのサイトに於いて、
【 『長崎の鐘』を聴くときには・・。 】と題して、
2007年8月27日で投稿しているが、えて今回は再掲載をする。
【・・
私は昭和19年9月に東京の郊外で生を受けた。
昭和25年の頃に、自宅のラジオから『長崎の鐘』がよく流れてきた・・。
♪こよなく晴れた 青空を
悲しと思う せつなさよ
うねりの波の 人の世に
はかなく生きる 野の花よ
【『長崎の鐘』 作詞・サトウハチロー 作曲・古関祐而 唄・藤山一郎 】
私は5歳の幼児であったが、何かしら物悲しく感じたりした。
♪なぐさめ はげまし 長崎の
ああ 長崎の鐘が鳴る
【『長崎の鐘』 作詞・サトウハチロー 作曲・古関祐而 唄・藤山一郎 】
ここまで聴いていると、いじけた幼児の私でも涙があふれてきた・・。
翌年の夏、近くの寺院の境内で、映画が放映された。
この頃の時代は、学校の校庭とかで、スクリーンを張って、ときたま映画が放映されていた。
娯楽の乏しかった時代、ご近所の方達が集まって、
このような催しが行われた時代でもあった。
近くの寺院の境内で上映されたのは、映画の『長崎の鐘』であった。
母に連れられて、初めて観た映画だった。
帰路、満天の星空が綺麗だった、ということが今でも残っている。
映画のストリーは忘れてしまったけれど、幾つになっても、藤山一郎の歌声を聴くと、
私は涙ぐんだりしている。
私は後年になると、作詞はサトウハチロー、作曲方は古関祐而と知るのであったが、
肝心な『長崎の鐘』という原作を書かれた永井 隆は無知であった。
その後、このお方の人生経路を知り、涙で曇った。
♪召されて妻は 天国へ
別れてひとり 旅立ちぬ
かたみに残る ロザリオの
鎖に白き わが涙
【『長崎の鐘』 作詞・サトウハチロー 作曲・古関祐而 唄・藤山一郎 】
ここまで転記させて頂いているが、著者の永井 隆の人生を思い馳せると、
また瞼(まぶた)が熱くなってしまう。
国家の国益という怜悧の中、アメリカは広島に続き、
長崎にも原子爆弾を投下した。
思えば、7月26日に於いて、アメリカ、イギリス、ソビエトの首脳により、
『ポッタム宣言』で日本に降伏を勧告したが、
日本政府と軍の首脳部が混迷し、黙殺した結果となり、
8月6日に広島に続き、9日に長崎に投下された。
こうした事実を少しづつ知りはじめると、
なお一層、この歌は悲劇を通り過ぎて、悲惨な過去の実態にうっすらと涙を浮かべる。
私は年を重ねた62歳の身であるが、
ここ10数年、8月15日の敗戦日になると、
昼のひととき『長崎の鐘』を聴いて、平和の大切さをかみ締めている・・。
・・】
このような思いもあったりしたが、
今回の旅行の旅立つ数週間前に、ネットで『永井隆博士の生涯』などを学び、
少なからず衝撃を受けたのは、
長崎医大物理療法科の部長の時、
この当時は劣悪なレントゲン機器の状況となった中で、数多く撮った結果、
ラジウムの放射線で白血病となり、
昭和20年6月に余命3年と診断された、ということであった。
そして永井隆氏は、妻に告げるのであるが、
この時の心情を思うと、私は思わず涙を流したのである・・。
http://www1.city.nagasaki.nagasaki.jp/na-bomb/nagai/nagae01.html
館内の展示品を拝見しながら、
この後の原爆投下後の状況、そして無念ながら亡くなるまでの軌跡に、
改めて感銘を受けたのであった。
そして館を辞する直前、私は書籍の即売コーナーで、
恥ずかしながら未読であった『長崎の鐘』(アルバ文庫)を購入して、
ホテルで深夜の2時半過ぎまで読み、敬意を重ねたのである。
《つづく》
