私が中学2年生の時、昭和34年(1959年)であったから、
ひと昔のことである。
私は東京郊外の調布市に住んでいたが、
数年前頃から、私の住む地域に於いては、
田畑、雑木林から急速に新興住宅街に変貌した。
そして最寄の駅の商店街も発展をし、クリーニング店もでき、
おのおの家に巡回し、洗濯物の収集、仕上がり品の配達がされた時代のはじまりであった。
こうした中、若きクリーニング店の経営者が、店員さんを数名を配置しながら、
我家にたびたび我家にも来宅し、
親交を深めたのである・・。
次兄が高校一年で山岳部に所属し、山歩きをはじめた頃であった。
そして、クリーニング屋の若き経営者が次兄と、
山のあれこれを話していた時、富士山の話題になった。
そして、このお方は御殿場の高校に通っていた時代に、
ボッカと称した荷上げてのアルバイトをして、
いくども夏季の折、御殿場の新2合目より山頂まで登り下りをしていた、
と話されたのである。
そして、夏季の時だったならば、体験豊かな人に先導されれば、
登山の未経験の私でも大丈夫、と談笑されたので、
このお方に甘えた上、そして導かれながら、次兄、私が富士山に登頂することとなった。
http://gotemba.jp/fuji/gotemba.html
この当時の昭和34年(1959年)頃は、御殿場口、須走口からの登山口は、
私の記憶に間違いがなければ、夏季の登山シーズンに限り、
御殿場駅から新2合目まで路線バスがあった。
そして、登りは須走コース、下りは御殿場コースと決め、
このお方に導かれて、次兄と私は歩き出したのである。
おぼろげな記憶をたどれば、
確か夜の6時過ぎに須走口の新2合目から登りはじめて、
山頂の早朝時を目指したのである。
私は山歩きは未経験者であったので、ひたすら付いて歩いているうちに、
無事に山頂にたどり付いたのである。
ご来光の時には少し過ぎていたが、快晴に恵まれ、
寒いくらい涼しかったのが心の奥に残っている。
そして、次兄が気分がすぐれない、と云ったりしたので、
このお方から、高山病、と云われて、少し安静したのである。
私は山岳部に所属してる次兄が高山病になり、
素人の私が何ともなく山頂に登りつめた達成感であふれ、
次兄の顔を見ながら、微苦笑したのである。
しかし、私の全くの未経験者の上、無意識で無邪気に登りつめた結果、
と思われたのである。
この後、次兄と私は、互いに記念写真を撮ったりし、
気分爽快で山頂の周辺を散策した。
下山の時、御殿場コースを下りはじめた時、
私としては、急斜面で砂粒の厚く積もった砂走りと称された下山道で、
不安であったが、10分ぐらいすると、五歩、六歩進めて、
足元でくい止める方法で馴れた感じであった。
その後、9合目を下って、まもない時、
私は五歩、六歩進めて、足元でくい止めるようとしたが、
足元が砂で滑り、止まらなかったしまった・・。
私は急斜面を走るかのように下りはじめ、
足元を踏ん張ろうとしたが駄目であったので、
横にコースを取れば、斜面は並行となり下ることはないので、
咄嗟(とっさ)に横に方向したが、下山道から外れて、
砂粒から爆発時の岩の痕跡となった黒い岩の大小が数々観られたのである。
こうして私は斜面の横を自身の意思とは相違し、踏ん張って止めようとしたが、
一向に止まらず、失速し、私はあわてふためいたのである・・。
そして、動顚したせいか、何故か下りに進路を変えたのである。
足速は益々早くなり、失速しながら下った時、
死ぬこととは、こうしたことなのか、
とスローモーションのように実感しながら下ったのである・・。
まもなく、私は大きな黒い岩につまずいて、
背負い投げを受けたかのように地表に叩きつけられたのである。
そして、横に転がりはじめ、わずかな草の群生したひと株を私は握り締めたのである。
そして、上の方から、このお方と次兄が、
大丈夫か、という叫び声を私は聴こえたのである・・。
私は呆然としながら、ノロノロと起き上がると、
何故か6畳ぐらいの平地で草がわずかに生えていたのである。
そして下る方向の数メートル先は、切り落とされたかのような崖となり、
遙か彼方の下界となっていた。
そして私は自分の手足、身体をおそるおそる触れ、
軍手を外し、手は砂粒と黒い岩でわずかに切り、バスケット・シューズは所々擦り切れ、
おでこに少しかすり傷ぐらいであった。
この後の私は、このお方と次兄に守られるように下山し、
このお方の知人が8合目で山小屋を経営しているので、
少し休息しょうと、この山小屋に寄ったのである。
私達3人は、お茶を頂ただいたのであるが、
『先ほど・・上の方で・・もんどりひっくり返って転げたひとりを見たが・・
ありやぁ・・死んだよ』
と山小屋の主人は、このお方に云ったりしていた。
『あのぅ・・叩きつけられて・・転んだのは・・僕です・・』
と私は元気のないかぼそい声で云った。
『君だったのかぁ・・よく助かったょ・・
岩に足を取られて・・もんどり返った時・・
偶然に俺は見ていたが・・あれで死んだと思ったょ・・
まして、その先は、千メートルぐらいの崖下となっているし・・』
と私は山小屋の主人に教えられて、
私は改めて恐怖で少し震えたのである・・。
帰路、電車の空いた中、
『XXちゃんが・・転げ落ちた時・・
俺・・アンタのお母さんに・・何てお詫びしょうか・・と思ったよ・・』
とこのお方は初めて安堵した表情で、私に云った。
私は後年、大学時代に中退するまで、
ワンダーフォーゲル部に所属し、山歩きをしたりしたが、
急激な下り道は、この富士山の恐怖の体験したせいか、
いつまでも苦手となった。
尚、このお方とは、私達が住む場所も住宅の密集地となり、
50年過ぎた今、商域もかけ離れているが、
私が家内と駅前に出かけた時などで、
偶然にお逢いした時、私は懐かしげに私は感謝の心で挨拶をしている。
ひと昔のことである。
私は東京郊外の調布市に住んでいたが、
数年前頃から、私の住む地域に於いては、
田畑、雑木林から急速に新興住宅街に変貌した。
そして最寄の駅の商店街も発展をし、クリーニング店もでき、
おのおの家に巡回し、洗濯物の収集、仕上がり品の配達がされた時代のはじまりであった。
こうした中、若きクリーニング店の経営者が、店員さんを数名を配置しながら、
我家にたびたび我家にも来宅し、
親交を深めたのである・・。
次兄が高校一年で山岳部に所属し、山歩きをはじめた頃であった。
そして、クリーニング屋の若き経営者が次兄と、
山のあれこれを話していた時、富士山の話題になった。
そして、このお方は御殿場の高校に通っていた時代に、
ボッカと称した荷上げてのアルバイトをして、
いくども夏季の折、御殿場の新2合目より山頂まで登り下りをしていた、
と話されたのである。
そして、夏季の時だったならば、体験豊かな人に先導されれば、
登山の未経験の私でも大丈夫、と談笑されたので、
このお方に甘えた上、そして導かれながら、次兄、私が富士山に登頂することとなった。
http://gotemba.jp/fuji/gotemba.html
この当時の昭和34年(1959年)頃は、御殿場口、須走口からの登山口は、
私の記憶に間違いがなければ、夏季の登山シーズンに限り、
御殿場駅から新2合目まで路線バスがあった。
そして、登りは須走コース、下りは御殿場コースと決め、
このお方に導かれて、次兄と私は歩き出したのである。
おぼろげな記憶をたどれば、
確か夜の6時過ぎに須走口の新2合目から登りはじめて、
山頂の早朝時を目指したのである。
私は山歩きは未経験者であったので、ひたすら付いて歩いているうちに、
無事に山頂にたどり付いたのである。
ご来光の時には少し過ぎていたが、快晴に恵まれ、
寒いくらい涼しかったのが心の奥に残っている。
そして、次兄が気分がすぐれない、と云ったりしたので、
このお方から、高山病、と云われて、少し安静したのである。
私は山岳部に所属してる次兄が高山病になり、
素人の私が何ともなく山頂に登りつめた達成感であふれ、
次兄の顔を見ながら、微苦笑したのである。
しかし、私の全くの未経験者の上、無意識で無邪気に登りつめた結果、
と思われたのである。
この後、次兄と私は、互いに記念写真を撮ったりし、
気分爽快で山頂の周辺を散策した。
下山の時、御殿場コースを下りはじめた時、
私としては、急斜面で砂粒の厚く積もった砂走りと称された下山道で、
不安であったが、10分ぐらいすると、五歩、六歩進めて、
足元でくい止める方法で馴れた感じであった。
その後、9合目を下って、まもない時、
私は五歩、六歩進めて、足元でくい止めるようとしたが、
足元が砂で滑り、止まらなかったしまった・・。
私は急斜面を走るかのように下りはじめ、
足元を踏ん張ろうとしたが駄目であったので、
横にコースを取れば、斜面は並行となり下ることはないので、
咄嗟(とっさ)に横に方向したが、下山道から外れて、
砂粒から爆発時の岩の痕跡となった黒い岩の大小が数々観られたのである。
こうして私は斜面の横を自身の意思とは相違し、踏ん張って止めようとしたが、
一向に止まらず、失速し、私はあわてふためいたのである・・。
そして、動顚したせいか、何故か下りに進路を変えたのである。
足速は益々早くなり、失速しながら下った時、
死ぬこととは、こうしたことなのか、
とスローモーションのように実感しながら下ったのである・・。
まもなく、私は大きな黒い岩につまずいて、
背負い投げを受けたかのように地表に叩きつけられたのである。
そして、横に転がりはじめ、わずかな草の群生したひと株を私は握り締めたのである。
そして、上の方から、このお方と次兄が、
大丈夫か、という叫び声を私は聴こえたのである・・。
私は呆然としながら、ノロノロと起き上がると、
何故か6畳ぐらいの平地で草がわずかに生えていたのである。
そして下る方向の数メートル先は、切り落とされたかのような崖となり、
遙か彼方の下界となっていた。
そして私は自分の手足、身体をおそるおそる触れ、
軍手を外し、手は砂粒と黒い岩でわずかに切り、バスケット・シューズは所々擦り切れ、
おでこに少しかすり傷ぐらいであった。
この後の私は、このお方と次兄に守られるように下山し、
このお方の知人が8合目で山小屋を経営しているので、
少し休息しょうと、この山小屋に寄ったのである。
私達3人は、お茶を頂ただいたのであるが、
『先ほど・・上の方で・・もんどりひっくり返って転げたひとりを見たが・・
ありやぁ・・死んだよ』
と山小屋の主人は、このお方に云ったりしていた。
『あのぅ・・叩きつけられて・・転んだのは・・僕です・・』
と私は元気のないかぼそい声で云った。
『君だったのかぁ・・よく助かったょ・・
岩に足を取られて・・もんどり返った時・・
偶然に俺は見ていたが・・あれで死んだと思ったょ・・
まして、その先は、千メートルぐらいの崖下となっているし・・』
と私は山小屋の主人に教えられて、
私は改めて恐怖で少し震えたのである・・。
帰路、電車の空いた中、
『XXちゃんが・・転げ落ちた時・・
俺・・アンタのお母さんに・・何てお詫びしょうか・・と思ったよ・・』
とこのお方は初めて安堵した表情で、私に云った。
私は後年、大学時代に中退するまで、
ワンダーフォーゲル部に所属し、山歩きをしたりしたが、
急激な下り道は、この富士山の恐怖の体験したせいか、
いつまでも苦手となった。
尚、このお方とは、私達が住む場所も住宅の密集地となり、
50年過ぎた今、商域もかけ離れているが、
私が家内と駅前に出かけた時などで、
偶然にお逢いした時、私は懐かしげに私は感謝の心で挨拶をしている。
