夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
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作家の阿川弘之氏の逝去、慈父のように敬愛してきた私は、ご冥福をお祈りし・・。

2015-08-10 11:12:24 | ささやかな古稀からの思い
私は年金生活の70歳の男性の身であるが、
過ぎし日の5日の朝、いつもように読売新聞の読んでいたら、
作家の阿川弘之氏の逝去を知り、とうとうお亡くなりなされた、と知った。

そして記事を精読した後、ネットで各新聞社が配信された記事を読んだりしたが、
私としては産経新聞が、短いニュース記事で的確に綴られている、と思ったした・・。
          

《・・作家の阿川弘之氏が死去 文化勲章受章者、正論執筆メンバー
小説「雲の墓標」や評伝「山本五十六」など数々の戦争文学で知られる作家で、
文化勲章受章者の阿川弘之(あがわ・ひろゆき)氏が3日、老衰のため死去した。94歳。
葬儀・告別式は近親者で行う。後日、しのぶ会を開く。

大正9年、広島市生まれ。
昭和17年、東大国文科を卒業後、海軍予備学生に。海軍中尉として中国に渡った。
21年に復員し、尊敬する作家の志賀直哉を紹介され、文筆の道に。
27年、戦時下の日々を自伝風に書いた長編「春の城」で読売文学賞を受賞。

同時期にデビューした吉行淳之介さんらとともに「第三の新人」と称された。
以後、「雲の墓標」「暗い波濤(はとう)」「軍艦長門の生涯」といったリアリティーあふれる戦争小説を発表し続け、
作家としての地位を固めた。

「米内光政」など海軍軍人を題材にした重厚な評伝を著す一方、紀行文や私小説的な短編小説も多数発表。
35年に産経児童出版文化賞を受けた「なかよし特急」など、児童書も手がけた。

他の主な作品に「井上成美」「志賀直哉」がある。
平成11年、文化勲章受章。日本芸術院会員。
本紙「正論」執筆メンバーとしても活躍した。
法学者の阿川尚之さんは長男、エッセイストの阿川佐和子さんは長女。

産経新聞 8月5日(水)20時9分配信・・》
          

この後の評伝も、私が読んだ中で、産経新聞が優れている、と感じ深めたりした。

《・・自身の海軍体験をもとに数々の戦争文学を生み出してきた作家の阿川弘之さんが94歳で亡くなった。
「小説の神様」と呼ばれた志賀直哉に師事し、平明で引き締まった名文の書き手として知られた。

青春時代を過ごした海軍と、戦死した同世代に対する思いは深かった。
戦没者は無駄死にだ、とする戦後の風潮に強く反発。

「自分の知る本当のことを書き残しておきたい」との思いを抱いたことが、
出世作の自伝的小説「春の城」をはじめ、戦争を題材にした作品執筆の原動力となった。

代表作の一つ「雲の墓標」は、特攻隊員となった海軍学徒兵の、生と死の間で揺れ動く心情をつぶさに描き、
文学性豊かな新しい戦争小説の世界を開拓した。

太平洋戦争時の3人の海軍大将を描いた評伝「山本五十六」「米内(よない)光政」「井上成美」の提督3部作は、
伝記文学の傑作として評価が高い。
ともに日独伊三国同盟や日米開戦に反対するなど、
時代の熱狂に流されない合理的思考を備えた愛国者だった3人に対する深い共感は、
そのまま阿川さんの姿勢にも重なる。

戦中の軍国主義と同じく戦後の左派的風潮も嫌い、産経新聞「正論」欄で長く健筆を振るった。
政治を論じても悲憤慷慨(ひふんこうがい)調にはならず、常に心の余裕を忘れない。
「私は右翼も左翼も嫌い」と語り、中庸のバランス感覚と、海軍仕込みの英国流ユーモアを愛した。

親しい友人だった作家仲間の遠藤周作さんや北杜夫さんらとの交遊を描いたユーモラスなエッセーも多い。
乗り物好きでも有名で、各国の鉄道を訪ね歩いた紀行文「南蛮阿房列車」や、
年老いた蒸気機関車が主人公の絵本「きかんしゃ やえもん」を生んだ無類の鉄道マニアでもあった。

満90歳を機に筆をおき、数年前に入院した都内の病院では読書三昧の日々を送っていた。
長女の佐和子さんの活躍ぶりには常々、眼を細めていたという。

産経新聞 8月5日(水)22時53分配信・・》
             

私は東京オリンピックが開催された1964年(昭和39)年の秋、
大学を中退して、映画青年の真似事をした後、養成所の講師の知人のアドバイスに寄り、
文學青年の真似事をしたりした。

こうした中で、中央公論社から確か『日本の文学』と命名された80巻ぐらいであった
と思われる文学全集を読んだりした。

やがて講談社から出版された『われらの文学』と名づけられた文学全集を購読したりした。
この文学全集は、確か1965年(昭和40年)の頃から毎月一巻発刊され、全22巻であった。

そしてこの当時に最も勢いのある大江健三郎、江藤 淳の両氏による責任編集の基で刊行され、
この当時の老成家した作家を除外した斬新で新鮮なな全集であり、
選定された28名の作家の作品を私なりに精読していた。

そして、この全集の中で、第15巻として『阿川弘之、有吉佐和子』が、
1966年(昭和41年)7月に発刊された。
             

これ以前に、阿川弘之・著作は、確か新潮文庫であったと記憶しているが、
『春の城』(1953年)、『雲の墓標』(1954年)を二十歳過ぎの時に読んだりした。

特に『雲の墓標』は、阿川弘之氏が純文学月刊雑誌のひとつの『新潮』に、
1954年(昭和29年)に於いて、連載し発表された作品である、と学びながらも、
私はこの戦時中の時代の空気も描かれ、
鹿屋基地にある海軍海兵団の青少年の心情も深く表現されている作品に感銘を受けたひとりであった。

そして私は、《・・雲こそ吾が墓標、落暉よ碑銘をかざれ・・》の一節にも感銘させられて、
この小説は、私の人生観を揺さぶられたひとつの書物となっていた。

そして『われらの文学』に於いて、氏の未読だった作品を読んだりし、
氏の『文学的出発の頃』を読みながら、敗戦後の野間 宏さんなどの戦後派の作家の隆盛の中で、
清貧の生活の中で、氏の文学を確立されるまでの状況に圧倒的に感銘をさせられた。

やがて第三の新人と称される庄野潤三、遠藤周作、安岡章太郎、北 杜夫など各氏と共に、
氏の作品を読んだりしてきた。

そして漢詩のひとつ『年々歳々 花相似 年々歳々 人不同・・』、
中国の初唐時代の詩人である劉廷芝(りゅうていし)が遺(のこ)された詩であるが、
私は阿川弘之氏の作品から学んだひとつの詩である。

或いは上記に明記された以外の作品でも、『舷燈』(1966年)、『故園黄葉』(1999年)、
『葭の髄から』(2000年)、『春風落月』( 2002年)、『大人の見識』( 2007年)
『天皇さんの涙 葭の髄から・完』( 2011年)などが愛読したりした。


私は氏の数多く小説、随筆を乱読してきたが、特に日本人として思考、中庸の大切さ、礼節など深く教示させられ、
私は小学2年時に父に病死された為か、氏には慈父のように敬愛を重ねてきた。
             

この間、阿川弘之、阿川佐和子・共著の『蛙の子は蛙の子 ~父と娘の往復書簡~』(ちくま文庫)は、
ここ10数年、再三に私は愛読している本でもある。

父は1920年(大正9年)、娘は1953年(昭和28年)生まれの社会背景の中、
父から娘、娘から父への想いが真摯に綴られている。

父の阿川弘之氏は、戦後の文学風潮の中、小説家としての自己の文学の悩みなど発露され、
敗戦後から平成の8年までの、単なる家族関係でなく、
社会風潮も根底に秘められ、私なりに学ぶことが多いのである。
          
或いは阿川弘之氏の数多くの随筆の中で、ご家族の状況を描かれ、
この中のひとりとして長女・佐和子さんも記載されていた。

このように私は、阿川弘之氏の愛読者のひとりであったので、長年読んだりすると、
佐和子さんの学生時代、その後のご様子も解り、
何かしら私にとっては、親戚の娘の姪っ子が10代から育つ情態が手に取るように、
氏の随筆から佐和子さんの軌跡を解ったりした。
              

たまたま2011年の10月初旬に、阿川佐和子さんは、
確かNHKのテレビの朝の番組【生活ほっとモーニング「この人にトキメキっ!】に於いて出演されていた。

《・・大学を卒業後、人生に彷徨(さまよい)いながら、
テレビの副司会者として起用されたのは、父上の阿川弘之氏からの親の七光り・・
その後は筑紫哲也氏などの番組の副司会者として出演でき、親の七光り・・
ですから親の14光り、かしら ・・》

このような意味合いの言葉を発言されたりし、
私はこのお方の感性に、瞬時に魅了されたのである。

もとより阿川佐和子さんはが多くのエッセイ、小説を発表されているが、
初期の頃は父上の阿川弘之氏の文章の手ほどきを受けたりし、
その後も文章を綴ることの労苦を味わっていたのである。

この番組で、《・・父が母と子供4人を、筆1本で家族を養ったこと・・》
と感謝しながら発言された感覚に、
改めて私は阿川佐和子さんのこれまでの軌跡を思い重ね、
この方の言葉、笑顔、しぐさに私は魅了され増したりした・。
          

やがて2012月1月に、阿川佐和子さんは『聞く力 ~心をひらく35のヒント』(文春新書)を上梓され、
昨今の出版不況の中、100万部を超えるヒット作となった。

こうした中、総合月刊雑誌の『文藝春秋』(平成24年10月号)の定例コーナーの『日本の顔』に於いて、
阿川佐和子さんが取り上げられた・・。

そして阿川佐和子さんの日常生活が公開され、こうした中で父上の阿川弘之さんがご病気で、入院されて、
娘の佐和子さんがお見舞いに訪れる情景の写真があった。

私は阿川弘之さんが90歳を過ぎ、やはり心身ご健在だった人でも、
御歳を召された、と悲しんだりした。

そして阿川弘之さんは、異例な寄稿文を綴り、父親がこの先の娘に案じる深い思いに、
私は読み終わった後、涙を浮かべたりした・・。
          

《90歳を過ぎてから、小生、身体のあちこちに故障が生じ、都内の某病院に入院、現在は、療養中です。
人と話すとひどく疲れるのでお見舞ひはすべて拝辞、勝手ながら「面会謝絶」といふことにしてをります。
失礼の段、どうぞお許しください。

それと併せてもう一つ、娘佐和子の件。
至らぬ者が今回、この欄に登場と決まり、望外の栄誉なれども、
親の立場としてはやはり若干の憂慮を抱かざるを得ません。

読書の皆さん、旧知の編集者諸賢、彼女が今後、どのやうな歩み方をするか、
厳しく、かつ、あたたかく行く末を見守ってやつて頂きたい。
(虫がいいけれど)くれぐれもよろしくとお願ひする次第です。》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。


そして私は阿川弘之・著『鮨(すし)そのほか』(新潮社)に於いて、
2013年4月が発刊されて、発刊日に本屋で買い求めたりした。
             

そして私は阿川弘之さんのご著書を愛読して、50数年になり、
阿川佐和子さんのご著書は、姪っこに対する心情のような思いで、ここ17年ばかり読んだりしている。

今回、阿川弘之氏の逝去を知り、慈父ように敬愛してきた私は、ご冥福をお祈りした後、
氏の遺(の)された数多くの作品を再読し始めている・・。


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コメント (4)
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