夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

阿川さんは敗亡した祖国日本の葬式をたった一人でやってきた、と改めて教示させられ、同感を深めて・・。

2015-08-11 15:38:00 | ささやかな古稀からの思い
私の住む東京の調布市の片隅の住む70歳の身であるが、
午前中のひととき、いつものように家内から依頼された平素の買物を終えて、
帰宅した後、独りで自宅の近くに流れている野川の両岸にある遊歩道を散策しょうと歩き出した。

陽射しは燦々と照らし、ときおり曇り空に変貌をする中、
夏用のストレッチパンズの長ズボン、半袖のスポーツシャツ、
そしてウォーキング・シューズとなり、夏用の帽子を深めにかぶり、颯爽と歩いたりした。

こうした中で、紳士用の小物入れのA4サイズのショルダー式バックを斜め掛けをし、
バックから扇子〈せんす〉を取り出して、扇〈あお〉ぎながら歩いたりした。
          

この後、遊歩道に隣接した公園に立ち寄り、蝉しぐれの中を歩いたりした。
          

やがてベンチに座り、ハンドタオルで汗をぬぐったり、扇子〈せんす〉で顔、首筋を扇〈あお〉いだりした・・

まもなく今朝、読売新聞の文化面で読んだ記事を思い浮かべたりした・・。

昭和史に関し人物論・史論に突出されている半藤一利(はんどう・かずとし)さんが、
『阿川弘之さんを悼む』と題して、記者に談話形式で、記載されていた。

無断ながら記事の前半の一部を転記させて頂く。

《・・戦後すぐ、若かった頃、阿川さんの『年年歳歳』、『八月の六日』などを読み、
しみじみ「国破れて山河あり」の思いに打たれた。

1965年、海軍提督3部作の最初の『山本五十六』を出された頃は、
小説で軍人を書いたことに対して強い批判があったが、
その後、『米内光政』、『井上成美』を書き継がれた。

そして、『軍艦長門の生涯』をはじめ海軍の歴史をつづり、
徹底的に戦い、敗れた海軍のなかに一部あった良質な部分--
世界的な視野、国を愛する心など、日本人の誇るべき「精神の故郷」を描きだした。

空(むな)しく青春を散らした戦友への鎮魂の歌を一人で奏で続けてきた。
阿川さんは敗亡した祖国日本の葬式をたった一人でやってきたのである。
(略)・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
          
               
私は過ぎし5日に、阿川弘之さんが亡くなったことを知り、失意しながら、
昨日、このサイトで『作家の阿川弘之氏の逝去、慈父のように敬愛してきた私は、ご冥福をお祈りし・・。』と題して、
遅ればせながら追悼文ような投稿文を認(したた)めた。

私は半藤一利さんに関しては、1930年生まれで、
1945年3月の東京大空襲では逃げまどい中川を漂流し、死にかける体験をされた、
と氏の随筆で読んだりした。

そして東京大学文学部国文科卒業後、1953年に文藝春秋新社に入社し、
やがて『文藝春秋』編集長をされたりし、その後は専務取締役まで歴任された。

この間、その後も数多く昭和に関しての編集、監修をされたり、
『決定版 日本のいちばん長い日』( 1995年)、
『昭和史 1926-1945』、『昭和史 戦後篇 1945-1989』を確か2009年に語り下ろしで上梓され、
昭和史に関して総合月刊誌などで対談・座談も含め、私は愛読してきた。

このような私は、阿川弘之さんの追悼文、或いは伝記は、
半藤一利さんが最適任者だ、と思い馳せたりしてきた。

今回、半藤一利さんが『阿川弘之さんを悼む』と題した記事を読み、
特に《・・阿川さんは敗亡した祖国日本の葬式をたった一人でやってきた。・・》
と改めて教示させられ、同感を深めたりした。
          

私は、阿川弘之さんの作品に関しては、『年年歳歳』( 1950年 )、『春の城』(1953年)、
『雲の墓標』(1954年)、そして『舷燈』(1966年)は、
若き日の50年前後前、文学青年の真似事をしていた時期、瞬時に圧倒的に感銘させられ、熱愛した作品であり、
この後は平熱ながら今日まで購読を重ねて、慈父ように敬愛してきた愛読者ひとりである。


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