夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

10年前のこの日、『天上の神々』よりも、『八百万(やおよろず)の神』に信愛を深めて、読み返して・・。

2020-01-05 12:17:26 | ささやかな古稀からの思い

私は東京の調布市の片隅みに住んでいる年金生活の75歳の身であるが、
こうした中、ブログの世界を知って丸15年が過ぎ、
結果的には、パソコンの故障、国内旅行、或いは入院などしない限り、日に少なくとも一通は投稿してきた。                                                              

そして年金生活を過ごしている今、日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを

心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。                  

             

私の投稿文の殆どの内容は、幼年期からサラリーマン退職時まで、
そして年金生活の日々
の心情を脚色もないありのままの思い、
真情を投稿文に認(したた)めたく、 あますことのないように綴ってきた。


私は綴る際は、自身のその時の心に素直に綴るようにし、
あとで振り返った時、あの時はこのような思いで過ごしていたのか、
何より自身に対して、その時の思いの心情を大切にしているひとりである。

恥ずかしながら数多くの駄文を綴ってきたが、
ひとえに自身の為の心の軌跡の発露、と言っても差し支えない。

こうした中で、60代の投稿文の内容は、やはり幼年期~現役サラリーマン時代の想いでが多く、
或いは年金生活を過ごす実情を脚色もせず、数多くの綴ってきたりした。

そして70代になると、自身の体力の衰えを実感して、
健康、病気、介護、葬儀、家計などを学んだことに私の思いを前後に加味した投稿文に変貌した内容となり、
まるで餡子(あんこ)の入った『お饅頭(まんじゅう)』のような投稿文となり、独り微苦笑する時もある。          

先ほど、たまたま10年前の私のブログの投稿文を読み、やがて独り微苦笑をしたりした。

2010年1月5日に於いては、
【 『天上の神々』よりも、『八百万(やおよろず)の神』に信愛を深めて・・。】、
と題して投稿していた。

再掲載をすれば、つたない投稿文であるが、あえて再掲載をする。

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私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であり、
今朝、いつものように雨戸を開けたら、庭がしっとりと黒土になり、清々しい冬の情景となっていた。

私は地元の天気情報を見たら、未明から明け方にかけて小雨が降ったと知り、
朝の6時過ぎは3度、昼下がりは12度前後、夜の6時は8度前後で、
平年より暖かな冬晴れの一日かしらと微笑んだした。

何気なしにカレンダーを見たら、
『小寒(しょうかん)』と明記されて折、思わず微苦笑したのである。

もとより古来より小寒は、『寒の入り』であり、
この頃からは寒さのはじまりと伝えられている。
そして『寒中見舞い』も、この時節からご自由にお出ししても結構です、と解釈されている。

私の住む地域は、年末年始は平年より冬晴れの暖かい日に恵まれ、
昨年のクリスマスが終る頃に日本水仙は莟(つぼみ)となり、
家内の母が来宅した28日に歓待するように咲いて、私は驚いたのである。

平年は初春の今頃は、莟(つぼみ)となって、我が家の主庭の片隅を彩ってくれる情景となっている。

我が家は、年末年始に家内の母に来宅してもらい、
私達夫婦と生活を共にしたので、昨日に家内の母が帰宅した後、
家内は昨日から後片付けに大忙しとなっているが、ここ6年ばかり恒例となっているが、
予期せぬ出来事は、洗濯機が故障し、家内は手洗いを孤軍奮闘したくらいであった。

          

平常時になった私達夫婦は、清く貧しく美しくを信条に今年も過ごす所存であるが、

天上の神々に守られながら、生かされて過ごしているのが確かなことである。

このように私が見いだした言葉のひとつ『天上の神々』という明言を信愛してきたのであるが、
昨今の私はもっと身近な『八百万(やおよろず)の神』に、改めて、ひれ伏しているのである。

私は幼年期に農家の児として育ち、サラリーマンを35年ばかりして、都会の垢(あか)にまみれて後、
年金生活をして四季折々の情景を眺めて、こよなく愛惜を深めているひとりである。

このような心情で、抽象的な『天上の神々』よりも、
『八百万(やおよろず)の神』に守られての方が相応しいと深く思ったりしているのである。

          

『八百万(やおよろず)の神』については、知識人・飯倉晴武(いいくら・はるたけ)さんが適切な表現をされているので、
氏の言葉の言葉を借りれば、
《・・日本人はキリスト教やイスラム教のように唯一絶対の神ではなく、
自然万物のあらゆるものに神を見いだしてきました。

俗に八百万(やおよろず)の神というように、
太陽、月、星、風、雷といった神もいれば、土地、田、山、川、石などに、
また、家の台所、かまど、便所などにも神がおり、
さらには馬、犬などの動物、松、竹などの植物にも神が宿るというように、
多くの神々があまねく存在する点に特色があります。・・(略)・・》

このように知識人・飯倉晴武さんが編著された『日本人のしきたり』(青春出版社)の新書本の中で、
明示されている。

私は遅ればせながら、数年前に読み、ときおり繰り返し読んだり、
思考を重ねてきたのである。

このような思いから、齢を重ねてきた今、『天上の神々』よりも、『八百万(やおよろず)の神』に守られて、
確かに日々過ごし、生かされていると実感しているのである。

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私は自身の投稿文を読みながら、やはり10年前の65歳の頃は、
我ながらわれ理屈ぽい型ぐるしい文体だったよなぁ・・と微苦笑したりした。

しかしながら、あの頃は体力もあり、物忘れもなく、元気だったよなぁ・・、と教えられて、
たとえ拙(つたな)い投稿文でも、私の記憶のかたみになっている。

そして10年ひと昔・・と教えられても、私たち夫婦は年金生活の穏やかに過ごしてきたが、
それなりに心身変貌してきた10年だった、と思い馳せたりした。

コメント (4)
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