前回は、昨年の11月の13日の本日に投稿した分を掲載したが、
それ以前の日々を掲載する。
一昨年の2007年の11月13日に於いて、
【 私の苦手なキムチ・・♪ 】
と題して、朝の8時半に投稿していた。
【・・
私は塩漬けした白菜は、唐辛子を少し掛けて、醤油を足して頂くのは、
晩秋から早春までの好きな食べ物であるが、なぜかキムチ系の食べ物は苦手である。
家内はキムチを食べながら、
『どうして・・こんなに美味しいのに・・』
とからかわれたりしている。
私は残念ながら幼年期では巡り逢ったことのないキムチであったことが、
主因と思ったりしている。
味、味覚は幼少時期でその方の一生は決定される、と料理の著名の方が何かの時に発言されて、
私なりに納得しているひとりである。
これと同様なのか、タラコは好きであるが、明太子は苦手である。
私はニンニクに関しては、好きな調味のひとつであり、
例えば鶏(ニワトリの肉を焼いたり、煮たりした時、
ニンニクを淹れたりすると、寒さを感じる季節には好感して、食べ過ぎてしまうのである。
人それぞれ食べ物の趣向はあるのは承知しているが、
家内に云わせると、貴方も偏食が多すぎるわ、と新婚時代に云われたりした。
一番困るのは、九州の博多に近い周辺を観光周遊ツアーを利用した時、
明太子の名店に寄り、販売員の方から見本品の賞味を進められ、
私は避け、横にいる家内が私の分まで頂いたりする。
私はそんなに美味しいの、と数多くの方たちが賞味しているのを、
唖然としながら微苦笑している。
・・】
この後、この日の昼下がりの2時半過ぎに、
【 東京の郊外では、小公園の樹木も色づきはじめて・・♪ 】
と題して、投稿していた。
【・・
私の住む東京の郊外の調布市は、街路樹、公園、住宅地は、
落葉樹が朱色、黄色と色づきはじめている・・。
昨夜に報じた天気予報に寄れば、
晩秋らしい快晴の陽気であるが、ところによると木枯らしが吹くと、気象庁は伝えていた。
幸いときおり微風が吹く程度で、おだやかな晩秋の陽射しとなっている。
先程、買物に行った帰り、私の住む近くにある団地の小公園に寄ったが、
風にないのに陽射しを受けた中、はらはらと小さな葉が空を舞いながら、地上に落下している・・。
私は足を止めて、煙草を喫いながら、呆然と見つめていた。
5本程植えられている槐樹(エンジュ)の樹であるが、
わずかに黄色味に染められた葉で、このような色づきで落葉してしまうのか、
と驚きながら見つめていたのである。
春の裸樹から瞬く間に芽吹き、小さな黄味緑色をたわわに付けて、
5月の頃には若緑色の葉は周辺を日陰となし、この後は淡い黄白色の花色を見せて、
やがて今日のような情景をもたらすのである。
この樹木は、縁起の樹木として、
中国では各戸に必ず一本は植えられていることで有名であるが、
私の住む街では公園、遊歩道で見かける程度である。
こんな思いで、陽射しの中、はらはらと音もたてず、空を舞いながら、落ちていく・・。
私が立ちすくんでいたので、ご年配の80歳前後の女性が足を止めて、
落葉している葉を見つめた。
『このように早目に散るとは・・私は知りませんでした・・』
と私は80歳前後の女性に声を掛けた。
『そうですわね・・でも、陽射しの中・・散り急ぐのも・・素敵ですわね・・』
と私に答えた。
このような形で会話がはじまり、
周辺の欅(けやき)、ドウタン・ツツジ、公孫樹(イチョウ)などの落葉樹の色づくの時節を、
互いに言葉を交わした。
『奥さま・・毎年・・11月の末頃・・街路樹の公孫樹は黄色に染められた後・・
昼下りの陽射しの中で散るのは・・私は毎年見惚(みと)れています・・』
などと私は云ったりしていた。
私は見知らぬ女性であったが、こうした季節感のある会話は好きで、
ときおり遊歩道を散策したりしている時などは、言葉をかけたりしている。
そして、今年も秋の季節のうつろいを確かに受け止めはじめている。
・・】
2006年のこの日は、朝7時前に、
【 朝夕は寒さが増して・・♪ 】
と題して投稿していた。
【・・
東京の郊外は、おだやかな秋日和の朝を迎えているが、
6時に戸を開け放つと、6度前後の寒さとなってきた。
私はこうした時は、北国の寒さを思うと、まだ贅沢と思ったりしている。
晩秋の夕暮れも早く、つるべ落とし、と古人達から伝えられているように、
急速に陽が沈み、暗くなり、少し侘しさが伴なってくる。
日中は晴れ間の一日となり、18度前後となる。
温暖な地域だから、とも思ったりしている。
主庭をも見つめて綴っているが、
小鳥達は先程から飛来して、黒土の上を小躍りしている。
朝の陽射しが差し込んできて折、新たな週のはじめである。
・・】
この後、午前10時過ぎに、
【 私の住んでいる街では・・♪ 】
と題して、投稿している。
【・・
私は東京の郊外に、農家の子として、敗戦の1年前の昭和19年に生を受けて、
結婚前後の5年を除き、調布市に住んでいるが、実質57年間の歳月を共に過ごしている。
世田谷区と三鷹市、そして狛江市に囲まれた小さな市である。
私は故郷でもあるこの街は、複雑な思いを持っている。
愛着心もさることながら、余りの変貌に驚いたり、ため息をついたり、
或いはこれ以上の物質的な利便性は止めて欲しい、とも思っているのである。
過日、読売新聞の武蔵野版で、我が町の小さな歴史が掲載されていた。
題して【京王線が変えた調布】として、
『森の中の小さな街』から『遊園地のある行楽地』、
そして『ベットタウン』の変貌記事であった。
大正初期に開通した京王線が、調布の街をどのように変えたかを紹介する写真展『京王線が通った!』が
開催されることに伴なって、新聞記事で紹介されている。
無断であるが引用させて頂きます。
《・・
調布~笹塚・駅間(12.2キロ)が開通したのは、1913年(大正2年)。
2年後の1915年には、新宿まで延長され、
新宿まで1時間34分で行き来出来るようになった。
京王電気軌道(現・京王電鉄)は、線路の施設と同時に沿線に電力の供給も開始。
『それまでランプや囲炉裏の火しかなかった住民の生活は大きく変わった』
街の雰囲気も変わり始めた。
電車に乗って、都心部の住民が調布周辺に行楽に訪れるようになると、
多摩川沿いにはアユを出す料亭や屋形船が並び始め、
今はない遊園地『多摩川原遊園』も整備が進んでいった。
現在は競輪場としてのみ名前が残る『京王閣』は、
開通の14年後に建てられた遊技場で、
大浴場やカフェ、ビリヤード場、食堂などをそろえた人気施設だった。
昭和初期には、実業家や高級官僚などの別荘も立ち並ぶように。
『別荘と言えば今では軽井沢だが、
当時はちょとした《武蔵野ブーム》に。
郊外の住宅地としての原点は、このころ築かれたようだ』
・・》
以上、読売新聞の記事を引用させて頂きました。
最近で我が街は、京王線の地下化工事が始まって折、更に大きく変貌をしょうとしている。
私の実家は徳川時代以前から、この地に住み始めたと伝えられているが、
私は敗戦後からの状況しか知らないので、
私の心身が健全まで果たしてどのような変わりをするのか、
楽しみでもあるが、憂いていることも本心である。
・・】
そしてこの後、午前10時半過ぎに、
【 最後は、黒と白となり・・♪ 】
と題して、投稿 していた。
【・・
私は『goo簡単ホームページ』のサイトは、
旅行に行ったり、或いはパソコンの故障がしない限り毎日綴って、
まもなく丸2年を迎えようとしている。
画面の『背景の画像』、『背景色』、『文字』等を先程改定したが、
黒の背景色と白い文字にした。
私はWebの技量もなく、文章を綴ることが好きであるので、
数多くのお方に出来る限り読んで頂きたく、
読み易(やす)さと美的感覚を配慮した結果、このような簡素な表示となった。
多くのお方は、それぞれデジカメの写真、飾り絵などのセンスの良さ、
Webの優(すぐ)れた技量に羨ましく思っているが、
時代遅れの私は活字文化の有効性を信じて綴るほかしかない。
私は読んで頂く上、同じようなジャンルを綴りすぎると飽きられたりするので、
あえて色々なジャンルを意識して綴っている。
このように綴っているが、ときおり文章が紡(つむ)ぎだせなくなり、苦心惨憺することもある。
そしてブログ上は、小説、論文と違い、この画面でお読み頂く為、
あえて改行を多くしている。
・・】
そして、この日の昼下がりの2時過ぎには、
【 東京の郊外も錦繍がはじまり・・♪ 】
と題して、投稿していた。
【・・
先程、買い物に出かけてきたが、秋日和の中、行く時に少し遠回りをした。
東京の郊外は、『文化の日』の3日頃から樹木、草花の葉が色付きはじめ、
『勤労感謝の日』の23日頃まで錦繍につつまれる。
中にはハナミズキの朱色、イチジク、紫木蓮などは黄色に染まり、
早くも落ち葉となったりしている。
欅(ケヤキ)の大木は、少し黄色に染められ、
公園の雑木林の樹木が陽射しの中で黄色に色合いとなってきた。
もうしばらくすると、銀杏(イチョウ)は黄色となり、モミジは朱色の艶(あで)やかな色合いとなる。
秋日和の静寂の中で、このような贅沢なひとときを過ごせ、
私は晩秋の陽だまりの中、甘受している・・。
・・】
定年退職後の一年を過ぎた2005年のこの日の朝の8時過ぎに、
【 心の貧しい人・・♪ 】
と題して、投稿していた。
【・・
昨日、私のあるブログの『掲示板』に書き込みをして頂いた方があった。
タイトルは、《あいうえお》
内容は、ゲボリッチ
ゲボリッチャン
発信人は、f4rr
発信時間は、20.39
と綴られて、ご丁寧に8回連続されていた。
私はこれには、困ったなぁ、と感じた。
私は書き込みをされた方が、たとえ大学、大学院などを卒業されても、心の貧しい人と思っている。
私の住む所に、ときたま缶コーヒーの空き缶、ひどい時はゴミを投げ込んでいる時もある。
こうした時、私は家内に、
『世の中、程度の低い人もいるんだなぁ・・』
と云ったりしている。
私は後始末をしながら、
こうした方は先々、これからの人生に、きっと良いことない、と信じている。
私のこのブログの内容に不快に思われた方、
以前私は『煙草はひとつの文化である』と綴った折、
男性の方から冷静にご自分の信条を述べられ、反論された方がいた。
こうした方法は、正鵠である。
私は61年間人生を過ごしてきたが、自分の敵は自分である、
と思い生活を送っているひとりである。
・・】
この日の一時半すぎに、
【 私の『大人のおもちゃ』・・♪ 】
と題して、投稿している。
【・・
昨年の秋の定年退職に向けて、何かしら記念になる品を私は昨年の春先から考えていた。
家内は、
『貴方は、デジタル・カメラが欲しがっていたのだから・・』
と言った。
その後、会社の帰宅の途中のパソコン販売店、日曜日に家電の量販店を観たりした。
確かにデジタルの一眼レフは良いが、交換レンズのことを考えると、
私の一時的な凝り性から言って、予算を超えてしまう恐れがあった。
かと言って、定番のコンパクト・カメラ本体を目から離し、液晶体の画面を頼りに撮るカメラは、
抵抗感があった。
私は高校時代は写真部に所属し、一眼レフを愛用し、風景写真を撮ったりしていた。
新婚の頃は、手軽なバカチョン・カメラ、その後はズーム付のカメラであった。
こうした体験から、色々と迷った。
そして方向としてデジタル・カメラは、800画素程度で
ズームが35mm換算で35~200mm程度のレンズ一体型を選択した。
そしてこの範囲の中、ニコン、キヤノン、ソニー、コニカミノルタの中から、選定した。
結果として選んだのは、手ぶれ装置のあるコニカミノルタの『ディマーシュA2』であった。
そしてコンバクト・フラッシュ512MB、予備としてリチウムイオン電池を購入した。
こうしてカタログを観ながら、ブッブッと呟きながら、触れたりした。
『このカメラ、こんなことも出来るんだぁ・・』
と私は家内に言ったりしていた。
私にとって、バソコンと同様に、機能を十二分使い切れない、大人のおもちゃである。
私は旅行とか、付近の公園で撮ったりしているが、未だに初心者である。
私共が旅行に行く際、家内はご自分用として、使い捨てのインスタント・カメラを携えていく。
・・】
そして、この日に午後の6時過ぎに、
【 我が家にない乗用車・・♪ 】
と題して、投稿していた。
【・・
我が家では、乗用車と携帯電話がない。
私が結婚し、実家から遠くに離れた時から車の運転はしていない。
しかし自動車の免許証だけは、更新していた。
新婚の賃貸マンションの時は、駅から歩いて5分程だった。
今住んでいる所は、バス停から数分である。
車を持つ事もちょっと考えたが、
サラリーマンの勤務実態は、激務で合ったので、
ドライブをすることを思っても、二週間に一回程度しか想像が出来なかった。
このことを考えて、住宅ローンが重く圧(の)し掛かっていたので、止める事にした。
新築まもない我が家、
私が会社に行っている時は、セールスマンが来宅した。
『トヨペットですか・・』
とセールスマンが明るく大きな声で玄関に向って云った>
『なにやさんですか・・』
と家内は玄関の横にある小窓から云った。
私が帰宅後、この話を家内から聞いた。
『貴方、可笑しいのよ・・、
そのトヨペットの方、黙ってお辞儀をした後、
帰られたわよ・・』
と家内は云った。
『その人・・トヨタの乗用車のセールスマンだょ・・』
私は家内に言った。
『そのセールスマン、びっくりしていなかった・・』
と家内に訊(き)いた。
『黙って、お辞儀をして帰ったわ・・』
と家内は私に云った。
私の家内は茶事は少し知っているが、
車に関しては無知であることを改めて知ったのである。
・・】
このように私は本日の11月13日時点を基軸に、
昨年の2008年から定年退職後の一年少し前の2005年まで遡(さかのぼ)ったのであるが、
果たして進化してきたか、或いは退廃してきたか、解からないのである。
ただ、買物をする時、野菜や果物の値段に応じた新鮮な品の見極め方、
洗剤の種類などが少しばかり解かるようになった年金生活の6年生である、
と恥ずかしながら苦笑している。
a href="http://www.blogmura.com/">
それ以前の日々を掲載する。
一昨年の2007年の11月13日に於いて、
【 私の苦手なキムチ・・♪ 】
と題して、朝の8時半に投稿していた。
【・・
私は塩漬けした白菜は、唐辛子を少し掛けて、醤油を足して頂くのは、
晩秋から早春までの好きな食べ物であるが、なぜかキムチ系の食べ物は苦手である。
家内はキムチを食べながら、
『どうして・・こんなに美味しいのに・・』
とからかわれたりしている。
私は残念ながら幼年期では巡り逢ったことのないキムチであったことが、
主因と思ったりしている。
味、味覚は幼少時期でその方の一生は決定される、と料理の著名の方が何かの時に発言されて、
私なりに納得しているひとりである。
これと同様なのか、タラコは好きであるが、明太子は苦手である。
私はニンニクに関しては、好きな調味のひとつであり、
例えば鶏(ニワトリの肉を焼いたり、煮たりした時、
ニンニクを淹れたりすると、寒さを感じる季節には好感して、食べ過ぎてしまうのである。
人それぞれ食べ物の趣向はあるのは承知しているが、
家内に云わせると、貴方も偏食が多すぎるわ、と新婚時代に云われたりした。
一番困るのは、九州の博多に近い周辺を観光周遊ツアーを利用した時、
明太子の名店に寄り、販売員の方から見本品の賞味を進められ、
私は避け、横にいる家内が私の分まで頂いたりする。
私はそんなに美味しいの、と数多くの方たちが賞味しているのを、
唖然としながら微苦笑している。
・・】
この後、この日の昼下がりの2時半過ぎに、
【 東京の郊外では、小公園の樹木も色づきはじめて・・♪ 】
と題して、投稿していた。
【・・
私の住む東京の郊外の調布市は、街路樹、公園、住宅地は、
落葉樹が朱色、黄色と色づきはじめている・・。
昨夜に報じた天気予報に寄れば、
晩秋らしい快晴の陽気であるが、ところによると木枯らしが吹くと、気象庁は伝えていた。
幸いときおり微風が吹く程度で、おだやかな晩秋の陽射しとなっている。
先程、買物に行った帰り、私の住む近くにある団地の小公園に寄ったが、
風にないのに陽射しを受けた中、はらはらと小さな葉が空を舞いながら、地上に落下している・・。
私は足を止めて、煙草を喫いながら、呆然と見つめていた。
5本程植えられている槐樹(エンジュ)の樹であるが、
わずかに黄色味に染められた葉で、このような色づきで落葉してしまうのか、
と驚きながら見つめていたのである。
春の裸樹から瞬く間に芽吹き、小さな黄味緑色をたわわに付けて、
5月の頃には若緑色の葉は周辺を日陰となし、この後は淡い黄白色の花色を見せて、
やがて今日のような情景をもたらすのである。
この樹木は、縁起の樹木として、
中国では各戸に必ず一本は植えられていることで有名であるが、
私の住む街では公園、遊歩道で見かける程度である。
こんな思いで、陽射しの中、はらはらと音もたてず、空を舞いながら、落ちていく・・。
私が立ちすくんでいたので、ご年配の80歳前後の女性が足を止めて、
落葉している葉を見つめた。
『このように早目に散るとは・・私は知りませんでした・・』
と私は80歳前後の女性に声を掛けた。
『そうですわね・・でも、陽射しの中・・散り急ぐのも・・素敵ですわね・・』
と私に答えた。
このような形で会話がはじまり、
周辺の欅(けやき)、ドウタン・ツツジ、公孫樹(イチョウ)などの落葉樹の色づくの時節を、
互いに言葉を交わした。
『奥さま・・毎年・・11月の末頃・・街路樹の公孫樹は黄色に染められた後・・
昼下りの陽射しの中で散るのは・・私は毎年見惚(みと)れています・・』
などと私は云ったりしていた。
私は見知らぬ女性であったが、こうした季節感のある会話は好きで、
ときおり遊歩道を散策したりしている時などは、言葉をかけたりしている。
そして、今年も秋の季節のうつろいを確かに受け止めはじめている。
・・】
2006年のこの日は、朝7時前に、
【 朝夕は寒さが増して・・♪ 】
と題して投稿していた。
【・・
東京の郊外は、おだやかな秋日和の朝を迎えているが、
6時に戸を開け放つと、6度前後の寒さとなってきた。
私はこうした時は、北国の寒さを思うと、まだ贅沢と思ったりしている。
晩秋の夕暮れも早く、つるべ落とし、と古人達から伝えられているように、
急速に陽が沈み、暗くなり、少し侘しさが伴なってくる。
日中は晴れ間の一日となり、18度前後となる。
温暖な地域だから、とも思ったりしている。
主庭をも見つめて綴っているが、
小鳥達は先程から飛来して、黒土の上を小躍りしている。
朝の陽射しが差し込んできて折、新たな週のはじめである。
・・】
この後、午前10時過ぎに、
【 私の住んでいる街では・・♪ 】
と題して、投稿している。
【・・
私は東京の郊外に、農家の子として、敗戦の1年前の昭和19年に生を受けて、
結婚前後の5年を除き、調布市に住んでいるが、実質57年間の歳月を共に過ごしている。
世田谷区と三鷹市、そして狛江市に囲まれた小さな市である。
私は故郷でもあるこの街は、複雑な思いを持っている。
愛着心もさることながら、余りの変貌に驚いたり、ため息をついたり、
或いはこれ以上の物質的な利便性は止めて欲しい、とも思っているのである。
過日、読売新聞の武蔵野版で、我が町の小さな歴史が掲載されていた。
題して【京王線が変えた調布】として、
『森の中の小さな街』から『遊園地のある行楽地』、
そして『ベットタウン』の変貌記事であった。
大正初期に開通した京王線が、調布の街をどのように変えたかを紹介する写真展『京王線が通った!』が
開催されることに伴なって、新聞記事で紹介されている。
無断であるが引用させて頂きます。
《・・
調布~笹塚・駅間(12.2キロ)が開通したのは、1913年(大正2年)。
2年後の1915年には、新宿まで延長され、
新宿まで1時間34分で行き来出来るようになった。
京王電気軌道(現・京王電鉄)は、線路の施設と同時に沿線に電力の供給も開始。
『それまでランプや囲炉裏の火しかなかった住民の生活は大きく変わった』
街の雰囲気も変わり始めた。
電車に乗って、都心部の住民が調布周辺に行楽に訪れるようになると、
多摩川沿いにはアユを出す料亭や屋形船が並び始め、
今はない遊園地『多摩川原遊園』も整備が進んでいった。
現在は競輪場としてのみ名前が残る『京王閣』は、
開通の14年後に建てられた遊技場で、
大浴場やカフェ、ビリヤード場、食堂などをそろえた人気施設だった。
昭和初期には、実業家や高級官僚などの別荘も立ち並ぶように。
『別荘と言えば今では軽井沢だが、
当時はちょとした《武蔵野ブーム》に。
郊外の住宅地としての原点は、このころ築かれたようだ』
・・》
以上、読売新聞の記事を引用させて頂きました。
最近で我が街は、京王線の地下化工事が始まって折、更に大きく変貌をしょうとしている。
私の実家は徳川時代以前から、この地に住み始めたと伝えられているが、
私は敗戦後からの状況しか知らないので、
私の心身が健全まで果たしてどのような変わりをするのか、
楽しみでもあるが、憂いていることも本心である。
・・】
そしてこの後、午前10時半過ぎに、
【 最後は、黒と白となり・・♪ 】
と題して、投稿 していた。
【・・
私は『goo簡単ホームページ』のサイトは、
旅行に行ったり、或いはパソコンの故障がしない限り毎日綴って、
まもなく丸2年を迎えようとしている。
画面の『背景の画像』、『背景色』、『文字』等を先程改定したが、
黒の背景色と白い文字にした。
私はWebの技量もなく、文章を綴ることが好きであるので、
数多くのお方に出来る限り読んで頂きたく、
読み易(やす)さと美的感覚を配慮した結果、このような簡素な表示となった。
多くのお方は、それぞれデジカメの写真、飾り絵などのセンスの良さ、
Webの優(すぐ)れた技量に羨ましく思っているが、
時代遅れの私は活字文化の有効性を信じて綴るほかしかない。
私は読んで頂く上、同じようなジャンルを綴りすぎると飽きられたりするので、
あえて色々なジャンルを意識して綴っている。
このように綴っているが、ときおり文章が紡(つむ)ぎだせなくなり、苦心惨憺することもある。
そしてブログ上は、小説、論文と違い、この画面でお読み頂く為、
あえて改行を多くしている。
・・】
そして、この日の昼下がりの2時過ぎには、
【 東京の郊外も錦繍がはじまり・・♪ 】
と題して、投稿していた。
【・・
先程、買い物に出かけてきたが、秋日和の中、行く時に少し遠回りをした。
東京の郊外は、『文化の日』の3日頃から樹木、草花の葉が色付きはじめ、
『勤労感謝の日』の23日頃まで錦繍につつまれる。
中にはハナミズキの朱色、イチジク、紫木蓮などは黄色に染まり、
早くも落ち葉となったりしている。
欅(ケヤキ)の大木は、少し黄色に染められ、
公園の雑木林の樹木が陽射しの中で黄色に色合いとなってきた。
もうしばらくすると、銀杏(イチョウ)は黄色となり、モミジは朱色の艶(あで)やかな色合いとなる。
秋日和の静寂の中で、このような贅沢なひとときを過ごせ、
私は晩秋の陽だまりの中、甘受している・・。
・・】
定年退職後の一年を過ぎた2005年のこの日の朝の8時過ぎに、
【 心の貧しい人・・♪ 】
と題して、投稿していた。
【・・
昨日、私のあるブログの『掲示板』に書き込みをして頂いた方があった。
タイトルは、《あいうえお》
内容は、ゲボリッチ
ゲボリッチャン
発信人は、f4rr
発信時間は、20.39
と綴られて、ご丁寧に8回連続されていた。
私はこれには、困ったなぁ、と感じた。
私は書き込みをされた方が、たとえ大学、大学院などを卒業されても、心の貧しい人と思っている。
私の住む所に、ときたま缶コーヒーの空き缶、ひどい時はゴミを投げ込んでいる時もある。
こうした時、私は家内に、
『世の中、程度の低い人もいるんだなぁ・・』
と云ったりしている。
私は後始末をしながら、
こうした方は先々、これからの人生に、きっと良いことない、と信じている。
私のこのブログの内容に不快に思われた方、
以前私は『煙草はひとつの文化である』と綴った折、
男性の方から冷静にご自分の信条を述べられ、反論された方がいた。
こうした方法は、正鵠である。
私は61年間人生を過ごしてきたが、自分の敵は自分である、
と思い生活を送っているひとりである。
・・】
この日の一時半すぎに、
【 私の『大人のおもちゃ』・・♪ 】
と題して、投稿している。
【・・
昨年の秋の定年退職に向けて、何かしら記念になる品を私は昨年の春先から考えていた。
家内は、
『貴方は、デジタル・カメラが欲しがっていたのだから・・』
と言った。
その後、会社の帰宅の途中のパソコン販売店、日曜日に家電の量販店を観たりした。
確かにデジタルの一眼レフは良いが、交換レンズのことを考えると、
私の一時的な凝り性から言って、予算を超えてしまう恐れがあった。
かと言って、定番のコンパクト・カメラ本体を目から離し、液晶体の画面を頼りに撮るカメラは、
抵抗感があった。
私は高校時代は写真部に所属し、一眼レフを愛用し、風景写真を撮ったりしていた。
新婚の頃は、手軽なバカチョン・カメラ、その後はズーム付のカメラであった。
こうした体験から、色々と迷った。
そして方向としてデジタル・カメラは、800画素程度で
ズームが35mm換算で35~200mm程度のレンズ一体型を選択した。
そしてこの範囲の中、ニコン、キヤノン、ソニー、コニカミノルタの中から、選定した。
結果として選んだのは、手ぶれ装置のあるコニカミノルタの『ディマーシュA2』であった。
そしてコンバクト・フラッシュ512MB、予備としてリチウムイオン電池を購入した。
こうしてカタログを観ながら、ブッブッと呟きながら、触れたりした。
『このカメラ、こんなことも出来るんだぁ・・』
と私は家内に言ったりしていた。
私にとって、バソコンと同様に、機能を十二分使い切れない、大人のおもちゃである。
私は旅行とか、付近の公園で撮ったりしているが、未だに初心者である。
私共が旅行に行く際、家内はご自分用として、使い捨てのインスタント・カメラを携えていく。
・・】
そして、この日に午後の6時過ぎに、
【 我が家にない乗用車・・♪ 】
と題して、投稿していた。
【・・
我が家では、乗用車と携帯電話がない。
私が結婚し、実家から遠くに離れた時から車の運転はしていない。
しかし自動車の免許証だけは、更新していた。
新婚の賃貸マンションの時は、駅から歩いて5分程だった。
今住んでいる所は、バス停から数分である。
車を持つ事もちょっと考えたが、
サラリーマンの勤務実態は、激務で合ったので、
ドライブをすることを思っても、二週間に一回程度しか想像が出来なかった。
このことを考えて、住宅ローンが重く圧(の)し掛かっていたので、止める事にした。
新築まもない我が家、
私が会社に行っている時は、セールスマンが来宅した。
『トヨペットですか・・』
とセールスマンが明るく大きな声で玄関に向って云った>
『なにやさんですか・・』
と家内は玄関の横にある小窓から云った。
私が帰宅後、この話を家内から聞いた。
『貴方、可笑しいのよ・・、
そのトヨペットの方、黙ってお辞儀をした後、
帰られたわよ・・』
と家内は云った。
『その人・・トヨタの乗用車のセールスマンだょ・・』
私は家内に言った。
『そのセールスマン、びっくりしていなかった・・』
と家内に訊(き)いた。
『黙って、お辞儀をして帰ったわ・・』
と家内は私に云った。
私の家内は茶事は少し知っているが、
車に関しては無知であることを改めて知ったのである。
・・】
このように私は本日の11月13日時点を基軸に、
昨年の2008年から定年退職後の一年少し前の2005年まで遡(さかのぼ)ったのであるが、
果たして進化してきたか、或いは退廃してきたか、解からないのである。
ただ、買物をする時、野菜や果物の値段に応じた新鮮な品の見極め方、
洗剤の種類などが少しばかり解かるようになった年金生活の6年生である、
と恥ずかしながら苦笑している。
a href="http://www.blogmura.com/">