夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
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昨年の沖縄本島の北谷(ちゃたん)滞在、遊学記 第2章 異国情緒あふれる美浜『アメリカンビレッジ』

2018-04-10 16:16:33 | 旅のあれこれ

私たちが宿泊滞在している『ザ・ビーチタワー沖縄』より、5分たらずにある『アメリカンビレッジ』は、
私たちは多彩な飲食店で、滞在した殆どは食事をしたり、カフェで休息したり、
或いは家内は雑貨店、土産物店を見て、魅せられた品を買い求めたりした・・。

この『アメリカンビレッジ』は、在日米軍施設キャンプ・フォスターのうち海岸沿いにあったハンビー飛行場が、
1981年(昭和56年)に返還され、やがて1988年(昭和63年)には飛行場跡地北側に隣接する海岸で、
新たに埋め立て地が造成された、と伝えられている。

そして両地区は一体的な開発が行われることになり、このうちの埋め立て地部分に建設されたのが、
北谷町運動公園とアメリカンビレッジとなった。

こうした中で、在日米軍施設が集中するこの地域の特性を生かして、
アメリカの雰囲気を前面に押し出すことになった、と私は学んだりした。

そしてアメリカンビレッジは、1997年(平成9年)から本格的な工事が始まり、翌年から施設が順次開業し、
2004年(平成16年)にほぼ完成した。

こうした中、2003年における年間来客数は、延べ830万人にのぼった活性化したリゾート街並みとなっている。
https://www.okinawa-americanvillage.com/
☆『アメリカンビレッジ』公式サイト☆

私たち夫婦は、このアメリカ風を中核とし、琉球、沖縄、インドなど異国情緒あふれる多彩な建物、それぞれの店、
そしてアメリカが多い欧米人、台湾、中国、韓国、インドそして日本人らアジア人が利用している不思議な街並みであった。
   

   

   

こうした中、アメリカが世界の諸国の中で、圧倒的な突出した経済、軍事力を有し、
もとより政治、外交も世界の主要国さえ、優に威圧できた1950年代、1960年代中期までのベトナム戦争の以前の時代、
この当時の雑誌『TIMES』、E.プレスリーのジャケットが、さりげなく店に掲げられていた・・。
   

こうした情景を見た私は、私は中学、高校生で、やはりアメリカ文化をまぶしく感じていた時代であったので、
あの当時の頃を思い馳せたりした・・。

私が都心の高校に入学したのは1960〈昭和35〉年の4月であり、
小学4年生の頃から映画館に独りで観たりした映画少年で、相変わらず映画を観たりしてきたが、洋画中心になっていた。

そして小・中学生は劣等生だった私が遅ればせながら高校に入学してまもなく、
突然に読書に目覚めた・・。

この時から小説、随筆、ノンフェクション、月刊雑誌などを乱読すると同時に、
授業を学ぶ楽しさも初めて体験し、成績も向上した。

こうした中で、音楽も聴き始め、ポピュラーとして、真っ先に浮かんだのは、コニー・フランシスであった。

私がコニー・フランシスを初めて意識的に聴いたのは、確か高校2年前後の1962年の頃であったと思う。

ラジオから甘くせつない声がながれてきた・・。
この頃、実家の居間にはテレビがあったが、自分の個室はラジオぐらいで、
ラジオは殆ど付けっぱなしであった。

中学時代は、テレビでザ・ピーナッツを視聴したりし、
ラジオではコニー・フランシスの何となく甘くせつなく、色合いのある声を聴き、
『マイ・ハピネス』、『カロリーナの月』、『泣かせないでね』等であったと思う。

そしてレコードまでは買えなかったけれど、良くラジオから流れ、聴いたりしていた・・。

その後、『可愛いベイビー』の日本語も流れ、日本の歌手では中尾ミエが歌うようになった。


私が50代になった時、あるレコード会社に勤めて、業務の忙しい中、
休日の時、急にコニー・フランシスの唄声が聴きたくなった。
そして私は、CDアルバムを7枚ばかり購入して、聴き入っていた。

その後、人事異動をして営業本部で奮闘していた時、
洋楽畑の人から、私がコニー・フランシスのファンであること知り、セット物のCDを頂いた。

アメリカ市場の流行のブック形式で、豪華な解説書ある直輸入の商品であった。
日本の発売に併せ、豪華な日本語の解説書が加わった、CD4枚組であった。
       
       ☆今回、ブック形式のジャケットの表を記念に撮った☆

私はアメリカの本国で曲の編成に興味もあったが、
何よりあの当時のコニー・フランシスはどのように評価を受けていたのか、と解説書を精読した。

《・・彼女は、ナンシー・シナトラ、ペトゥラ・クラーク、ディォンヌ・ワーウィック、
そしてブレンダ・リーなどといった競合するライバルを遥かにしのぐレコード売上げで、
1960年代最も成功した女性ヴォーカリスト・・》と綴られていた。

私はコニー・フランシスを聴くたびに、ときには甘くせつなく、色合いのある唄声に魅了されるが、
やはり私の中学、高校時代の想いでも重なるので、
人一倍、その一曲、一曲は心にしみて聴こえてくる・・。

そして、『トゥルー・ラブ』を繰り返して、聴いたりすることもある。

私はアメリカで編成されたコニー・フランシスの4枚組のCD、全118曲を聴いてたりした後、
私は中学2年頃に『マイ・ハピネス』、そして『カラーに口紅』を確かに聴いていた、と教えられたりした。

この当時の私としては、《カラーに口紅》という意味合いから連想して、
少年心に、口紅を付けた素敵なお姉さん・・素敵なワンピースを着た人・・
と勝手な思いで想像していた14歳の男の子であった。

コニー・フランシスの『渚のデート』、『大人になりたい』、『ヴァケイション』、
『ボーイ・ハント』等を聴いていると、まぎれなく、甘くせつない色合いの唄声は、
あの中学生の時代の頃は、大衆文化の移り変りの早かった時代である中、
思春期の私は、アメリカの文化の香り、豊かな経済力、と共に心酔し、
そしてコニー・フランシスのような素敵なお姉さんにあこがれていた、と思われる。

私はワンピース、或いはツー・ピースを着た女性に、何かしらときめきを覚える。
そしてスカートのすそ先が少し揺れ、胸元がまぶしく、
中学生の時から、齢ばかり重ねた今でも、このような女性に対しての憧憬させられる思いは変わらず、
ときおり私は独り微苦笑をしたりする。

こうしたことの原点は、コニー・フランシスから感じたことが始まりである。

このようなことを私は思い浮かべて、家内が魅了されて店で買物している時、近くで待ち侘びて思い重ねたりした・・。

やがて私たちは歩き出すと、私は足を止めて眺めたりした・・。
             

あの当時のアメリカは、アメリカ人にとっては黄金時代であった、と私は感じ深めたりした。

《つづく》


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