夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

恥ずかしながら、初めて作家ハベル氏の存在を学び・・。

2009-04-04 10:51:58 | 時事【政治・経済】等
私は年金生活5年生の64歳の身であるが、
ときおりNHKのBSのドキュメンタリー番組を視聴する。

最近は、ベルリンの壁の崩壊前後の東ヨーロッパの各国の混迷の実態が
特集されて折、
昨夜も深夜であったが、少し迷いながらも見たのである。

http://www.nhk.or.jp/wdoc/backnumber/detail/090403.html

【・・
   『チェコ・学生たちの闘い ビロード革命の内幕』

20世紀の冷戦下、大国の間でゆれ動いたチェコ。
ドプチェク政権による「プラハの春」を経験したものの、
その後のソ連軍の侵攻で、市民の自由を認めない共産主義独裁政権が長く続き、
人々は秘密警察による恐怖政治の支配の中を生きた。

この番組は、自由への道を歩もうとゆるぎない信念で行動し、
執筆活動を通して、チェコの実情を西側に訴え続けた作家ハベル氏の証言と、
無血革命に導いた学生運動の中心メンバーの証言を中心に、
1989年のチェコ‘ビロード革命'が実現するまでを描いている。

硬直化する政権のもと、民主化へのきっかけとなったのはソ連のゴルバチョフ書記長の登場だった。
しかし、その民主化路線に歩み寄ることの出来なかったチェコ。
1988年の夏以降、反体制運動が高まり、翌年11月、学生たちによって大規模なデモが計画される。

当時の学生リーダーは、警察との激しい衝突の様子を振り返る。
民主化運動の指導者となったハベルは“我々はプラハの春では終わらない"と述べ、
賛同した市民デモが全国に広がり、革命は成功した。


今の学生たちのなかには、当時のことを知らない人も多いという。
ハベルは「世界には当たり前の自由を手に入れられない人々がいることを知るべきだ」と語った。
・・】

以上が番組の概要のNHKの解説である。
注)解説の原文に、あえて改行を多くした。


私は二十代の前半、『プラハの春』を新聞などで知り、
共産主義のソ連の衛星国のひとつのチェコが軍事介入されて、
国家はもとより市民の多くが踏みにじられる状況に涙を流したひとりであった。

この頃の私は、文学青年の真似事をしていた時期であり、
政治には無知であったが、私なりに連日に報道されるニュースに注視していたが、
詳細とか、国際間の巨大国にに寄る怜悧な実態には余り知らなかったのである。


このような拙(つたな)い私であったが、
その後のチェコの実態、そして『ビロード革命』も無知であったので、
番組が放映されていたが、少し遅れて視聴したのである。


ソ連の歴然とした支配下のチェコが、
共産主義の独裁政権の中で、秘密警察による市民への徹底弾圧の状況で、
ひとりの作家が忽然として政府に書献書を送付し、投獄される。
このことが西側諸国に知られることとなり、
まもなくチェコ政府は、やむえずこの作家を釈放する。

この作家がハベル氏であり、釈放後は市民達から挨拶などもされず、
徹底的に避けられたのである。
この頃の市民は、反政府に関わる人と接したりすると、
秘密警察により、本人の職業の剥奪はもとより家族まで被害が及んだので、
ハベル氏は無視されたのである。

その後、学生運動がはじまる前後、
ひとつの声明書が発表され、市民に署名を求めたが、
市民は弾圧を恐れ、ごくわずかな署名数となった。
こうした中でも、ひとりのご婦人が子供を4人を抱えたに関わらず、
署名したのである・・。
当人の職を失うことはもとより、
子供の通学にも支障をきたし、将来にも不遇の必然の背景でありがら、
決然と署名したのである。

こうした状況の中で、まもなく学生運動の高まりとなり、
そして市民が同調し、独裁政権は崩壊する。


私はハベル氏の言動に感動させられたり、
そして、たったひとりのご婦人の強い思いの言動にも感銘を受け、
ひとり深夜、涙を流したのである。

そして、私は恥ずかしながら無知だった、ハベル氏を
ネットで検索した。


フリー百科事典と知られている『ウィキペディア(Wikipedia)』に於いて、
私は初めて、この人の軌跡を学んだのである。

【・・
ヴァーツラフ・ハヴェルヴァーツラフ・ハヴェル(Václav Havel, 1936年10月5日 - ) は、
チェコの劇作家。

チェコスロバキア大統領(1989年-1992年)、チェコ共和国初代大統領(1993年-2003年)。プラハ生まれ。


プラハの名家に生まれる。
1954年、中学校卒業後、映画・音楽芸術アカデミー(FAMU)を受験するが試験に落ち、
高等専門学校(運輸経済専攻)に進む。

1957年、他の大学に移ろうとしたが失敗し、その後軍に召集。
軍内では工兵として勤務しつつ、劇団を組織し、自身も俳優として活動した。

除隊後、演劇批評活動を再開し、「Divadlo」、「Kultura」誌に記事を掲載した。

1968年、プラハの春と呼ばれる改革運動がワルシャワ条約機構軍によって潰された後の「正常化」時代に、
反体制運動の指導者として活躍。

1977年に、ヘルシンキ宣言に謳われた人権擁護を求める「憲章77」を起草。
以後、幾度となく逮捕・投獄される。
1986年、エラスムス賞受賞。

1989年、反体制勢力を結集した「市民フォーラム」を結成し共産党政権打破(ビロード革命)の中心となる。

ビロード革命後の12月に連邦最後の大統領に選出され、
連邦解体後の1993年1月に新たに成立したチェコの初代大統領に就任、
1998年に再選され、2003年2月の任期満了で退任した。
・・】
注)原文より、あえて改行を多くした。


このようなハベル氏の軌跡を知り、
私は改めて、チェコの歴史はもとより、ハベル氏の功績も知らず、
齢ばかり重ね余りにも無知なことが多すぎている恥ずかしい身であると、
明け方まで布団の中で眠れなかったのである。



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東京の郊外も、遅ればせながら『春本番』となり・・♪

2009-04-03 07:42:20 | 定年後の思い
東京の郊外は、春のおだやかな陽射しにつつまれて、
朝を迎えている・・。

3月のお彼岸入りまでは、春暖に恵まれて、
今年は桜が満開になるのは早いかしら、
と戸惑いながら期待していたのであるが、
昨日まで春雨が降ったり、風が強く吹いたりして、
花冷えの日々が続いていた・・。

先程、地元の天気情報を視聴していたら、
朝の6時は5度、昼下がりは17度前後となり、
11日ぶりに15度を越えて、桜も満開に近くなりますので、
おだやかな春本番のお花見日和になるでしょう、
そして、夕刻の6時は14度が予測され、あたたなか夜空の中、
月も微笑えむことでしょう、
と少しボケた64歳の私はこのように聴こえたのである・・。


私は日中のひととき、買物や散策をしているが、
常緑樹は新芽、落葉樹は芽吹きを眺めたりして歩き、
欅(けやき)などの大きな樹木が、芽吹き萌黄色に染まるのを眺めたりしている。

そして本日は、陽春の陽射しにつつまれる中、
桜も開花から余りにもゆっくりと満開へとなった情景に、
遅くなってごめんなさい、と恥らうように咲く、桜花に心を寄せるだろう、
と私はぼんやりと思ったりしている。



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過ぎ去りし、定年後の私の4月2日の思いは・・♪

2009-04-02 09:54:09 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の5年生の身であるが、
いつものように日の出と共に起床し、
煎茶を淹れた後、新聞を読んだり、NHKのニュースを視聴し、
この間にも、主庭のテラスに下り立ち、樹木、草花を眺めながら、
煙草を喫ったりするのが、ほぼ定例のようになっている。

朝の6時過ぎ8度となり、快晴の中、ときおり北風が強く吹くので
さわやかな春麗(はるうらら)には程遠い、
と呟(つぶや)きながら、居間に退散し、
日中の買物、散策はどうしょうかしら、とぼんやりと考えたりしていた。

朝食後、私はこのサイトを開き、
定年退職後の4月の初めの頃は、私はどのような思いで過ごしていたのかしら、
と思い、読み返したのである・・。


私は民間会社を定年退職後、まもなくしてプログの世界を知り、
四つばかりのサイトに加入して、ほぼ毎日数通は綴ってきた。
定年退職後の年金生活の身過ぎ世過ぎの日常生活の中、
その日に感じたこと、思考したことを心の発露とし、綴っている。

投稿が出来なかった日は、ときおり国内旅行に行っているか、
左目が赤っぽくなり、眼科の医師から一日だけドクター・ストップとなったり、
そしてパソコンが壊れ、買い替えまでの5日間だけである。


私なりの4月2日のそれぞれの年の思いは、
読んだりし、あの時はこのような思いでいたのか、
と微苦笑させられたのである・・。


2005年4月2日に於いては、
【 私の死生観・・。 】
と題して、投稿していた。

【・・
ときたま家内とこんな話をする。
『70歳まで五体満足で生かしてくれれば良い。
・・後は、余禄だ』
と私は云ったりする。

60歳の今から、後の10年間をこの星の下で生を受け、
生きた証(証)を残し、心身ともに燃焼出来れば良いと考えている。


70歳を過ぎて、延命処置とか一切ほとこすな、と家内に言っている。
或いは、自己の精神が自分でコントロールできなくなった場合、
その前に自裁したい。

一番望ましいのは、急に容態が悪くなり、
病院で3日間位、入院した後に亡くなるのが理想と思える。

最近、公正証書で遺書を作成した。
子供のいない私どもは、残された家内の後生の生活を案じて、作成した。

葬儀に関しては、家族と親族で執り行ってほしい、と家内に言っている。
親戚、友人、かっての会社関係の人々は、喪中の葉書で通達すれば良い。
わざわざ、葬儀に来て頂くまで、ご足労をかける事は無い、と考えている。

墓地に関しては、以前、家内と別所温泉に滞在し、
散策した折、寺のはずれに墓地があった。

彼岸なかばであったのか、お花が数多くみられ、お線香がたなびいていた・・。

その外れに松林のゆったりした丘があり、ここに数多くの墓石が転がっていた。
人が訪ずれた形跡もなく、墓石に松葉が舞い降り、あたり一面に枯れた敷き松葉であった。
私は、この情景を好んだ。
土に還える、とはこの事だろう、と思案した。
この旅の最大な収穫であった。

この地方に無念ながら人のつてはなく、
まして納骨は新しい墓地で埋葬されるから、別に当たらなければならなかった。
たまたま、樹木葬なるものを知り、これだったら土に還える、と納得した。
北東北にこの寺と墓地があるという。

家内には、遠いけれど、温泉旅行か何かの機会に折、
気が向いたとき、お墓参りをしてくれれば良い。
数年に一回でも良いし、或いはそのままお墓参りなどしなくて、
ご自分の余生を楽しんだ方が良い、と家内には云ったりしている。


『貴方みたい・・独断と偏見の強い人は、
長生きするわよ』
と家内は私に云う。

『そうかなぁ・・』
と私は考えながら答えた。



2006年4月2日に於いては、短めの投稿を五つばかり投稿しているが、
この中のひとつとして、
【 図書館の想いで・・♪ 】
と題して、投稿していた。

【・・
私は図書館を利用する事は少ないが、
ときおり市内の分館から借りたりしている。

三年前の初夏の頃、分館に行って時であった。

隣接した処に竹林があり、孟宗竹が5、60本前後が微風を受けて、揺れていた・・。

私は郷土の歴史書、陶芸の豪華本、民家の歴史書の豪華本を観て、
数冊抜き取り、読者コーナーのテーブルに置いた。

ソファーに座り、郷土の歴史書を読み始めた・・。

江戸時代、明治、大正と読んでいるうちに、疲れを覚え、窓辺を観て、
孟宗竹の揺れを観ていた・・。

遠い人々の営(いとな)みを思い浮かべ、
あの頃の生活様式で・・と先人のご足労を考えたりした。
・・】



2007年4月2日に於いては、ふたつばかり投稿しているが、
この中のひとつとして、
【 あるひとつの総合雑誌・・♪ 】
と題して、投稿していた。

【・・
家内と10時過ぎに家を出た時は、春雨が止んでいた。

川沿いの遊歩道を歩いたが、週明けの月曜日の午前中であったので、人影も少なかった。
雨でしっとりした中、染井吉野の桜、山桜、白木蓮、辛夷の満開の花に見惚(みと)れたりした。

花見で人出の多い中より、こうしたゆっくりと満開の花を誉(ほ)めるられるのは、
贅沢なひとときと思ったりした。

家内の歯科医院で治療を受けるので、駅前で別れ、
私はコーヒー・ショップの『ドトール』で、
持参した塩野七生・著の『ローマ人の物語』第12巻(新潮文庫)を読んで待機していようと思った。

ここしばらく、このお方の『ローマ人の物語』をあと4巻手元にあるので、
本屋に寄っていなかった・・。

『ドトール』に入る前、何かしら雑誌はないかしら、
と思い立ち、本屋に入った。

総合・教養コーナーの陳列で、ひとつの雑誌が目に止まった。

表紙の左隅には、

《現地イタリア・インタビュー》
塩野七生
ローマ人、司馬遼太郎、そしてリーダーとは!

《ロング・インタビュー》
浅田次郎
型破りな父がのこした言葉

という特集記事であったので、私は両氏の愛読者のひとりとして、
購入することにした。

『ドトール』でコーヒーを飲みながら、この雑誌を改めて見た。
知的円熟世代のブィジュアル総合誌『文藝春秋』の5月臨時増刊号であり、
副題として《黄金の10年へ》と明示されていた。

最初、目次で記事のタイトルを眺めていたら、
団塊世代の人々が本年より定年退職をされるので、
この人達の祝砲として企画された増刊号と理解できた。

定年退職後の多くは、60歳代は体力は衰えても知力は充実した年代でもある。

私達夫婦が2年前に北海道の団体観光ツアーに参加した折、
私達より10歳前後ご年配のご夫婦より、
『私達・・旅行が好きなので・・
体力もあった60代の時は、海外にもあちらこちら行けたの・・
ご存知と思いますが、ゴールデン・イヤーズでしたよ・・』
と教えてくれ、私達夫婦に深く心に残ったりした。

その後、この雑誌の企画のセンスの良さを思考し、煙草に火を点(つ)けた。
・・】
             

昨年の2008年4月2日に於いては、ふたつばかり投稿しているが、
この中のひとつとして、
【 昼下りの夢のひとときは・・♪ 】
と題して、投稿していた。

【・・
私は年金生活の4年生の身であり、
起床は日の出と共に起きるのを殆ど実践しているが、
ここ1週間の昼下りは読書をした後、昼寝を1時間前後する習慣が戻っている。

現役のサラリーマン時代は、数多くの人と同様に、
睡眠時間を削り精勤していたので、
せめて退職後は好きな時間に昼寝ができたら、
と長年念願していたひとつである。

私は昼下りの2時前後、寝室に行き、
障子越しの明るい中、布団にもぐり、
私の最も好きな読書をはじめるのである・。

『こうして・・本を読めるなんて・・夢のような時間だよ・・』
と私は家内に云ったりしている。

そして、私は本を開き、1時間前後読みながら眠りに付く・・。

目覚めると、玄関庭の軒下で、
夕陽を受けた樹木の芽吹きを眺め、煙草を喫ったりている。

ときには、午後に小用などで、読書と昼寝がままならない時があると、
何となくリズム感がおかしいと感じ、微苦笑したりしている。


尚、大熊照雄・医学博士の言葉によれば、
夜間に6時間以上の睡眠時間が望ましいが、
やむえず不足した場合は、居眠りは15分、昼寝は1時間半で補(おぎな)うのも、
ひとつの健康維持、と名言されていたのを
思い浮かべたりしている。
・・】



そして、この日の夜も、
【 齢を重ねた私が、『Web環境』を学ぶ時・・♪ 】
と題して、投稿していた。

【・・
私が自宅にインターネットを導入したのは、
遅ればせながら定年退職の数ヶ月前であった。


私は1944年に1年間、コンピュータの専門学校でソフト学科を学んだ後、
企業に中途入社したのは25歳の時であった。

現場を一年配属された後、私は本社でコンピュータの専任者となり、
これ以降、20年近く情報部門に所属していたので、
ある程度コンピュータの先端ソフトなどを知っていた。

1990年前後に、私は他部門に異動する前までは、
IBMが開発したパソコンを広く技術公開をしたので、
数多くのパソコン・メーカーに共通のOSとして、
マイクロソフトがMS-DOSを発売し、パソコンの世界を一新させた。

これ以降、特にウィンドウズ95でインターネットが旋風したが、
私の情報部門の専門外であったので、素人なみの知識となった。


定年退職し、インターネットの検索、電子メールなどを盛んに利用していたが、
『ブログ』の世界を知り、私は衝撃を受けて、
『Web環境』を学びはじめた。

初心者用の専門解説書はもとより、梅田望夫・著の『ウェプ進化論』(ちくま新書)、
佐々木俊尚・著の『次世代ウェブ』(光文社新書)など6冊を読んだりしていた。


今の私は、年齢を重ねた63歳で年金生活の4年生の身であり、
現役時代と違い緊張感を失くし、少しボケた心情であるが、
只今読書中なのは、森 健・著の『グーグル・アマゾン化する社会』(光文社新書)を読んでいる。


http://www.kobunsha.com/shelf/book/isbn/9784334033699

私が本屋の店頭で少し立ち読みし、購入したのは、

【・・商品の多様化で利益を得るロングテールは、
その裏返しとして、ヘッドという一極集中を招くのではないか・・】

と著作者の言葉に促(うなが)されて、購読したのである。

読みはじめ、どうしてなの、と私は独り言を云いながら、ボケた頭を振り、
読んでいるのである。

そして、Webの世界はどこまで進むの、
と技量もなく体力を衰えた私は、深くため息をしながら、読んでいる。
・・】


このように投稿した文を読み返したりしたが、
果たして私なりに進歩はしているのか、と苦笑している・・。


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改めて、新たなる清浄明潔の時を迎えて・・♪

2009-04-01 10:47:54 | 定年後の思い
東京郊外の春雨の朝となったが、9時過ぎに霧雨は止(や)み、
私は主庭のテラスに下り立ち、
落葉樹の芽吹き、幼葉、そして常樹木の新芽を眺めたりしていた。

昨夜も深夜、NHK衛星放送で、
ベルリンの壁が崩壊する前後、旧・東ドイツの人々が、
ドイツ統一への道のり、実質は旧・西ドイツに吸収合併される混迷の状況を
描いたドキュメンタリーを視聴したりし、
改めて国が消滅する過酷な実態を学んだりしたのである。

この後、深夜の1時過ぎに、
弥生の3月のカレンダーにさよならすると、
新たな卯月の4月のカレンダーを見ながら、そうこ~そ、
と心の中で呟いた後、『清明(せいめい)』という言葉を目にした・・。

樹木は芽吹き、草花は花を咲かせ、
春の明るい陽射しの光につつまれて、
清らかに生きている万物に恵みの時、
と私は解釈している・・。

このようなことを思いながら、2時過ぎに眠ったのである・・。


私は東京郊外の調布市に住む年金生活の身であるが、
今朝、7時過ぎに目覚め、雨かょ、と呟(つぶ)やきながら、
玄関庭の軒下で煙草を喫いながら、
小学生の入学するピカピカの一年生・・
企業などに入社し、緊張感の中で迎えられる新社会人・・
お気の毒のスタートと思ったりしたのである。

そして、少しボケた身ながら、昨年の今頃とは、世の中は一変し、
世界中が経済の悪化で、日本も社会まで疲労困憊のような状況に、
知れば知るほど憂いている。

無力な私としては、夜明けの来ない日はない、と思ったり、
樹木などは冬が過ぎ、この時節になれば、芽吹き、やがて葉が生い茂る、
と心に問いかけたりしている。


このような心情で新たなる新年度の四月を迎えたのであるが、
やむ得ず、山川草木の世界に心を寄せたりしている。
東京の郊外も、3月のお彼岸の頃までは陽春であったが、
その後は花冷えの日が多く、私の周辺に於いては、
桜の花もわずかに3分咲きが観られる程度である。

古人の人々は、三月は『花咲月』、『花見月』と称したり、
四月になれば『花残月』とも評していたが、
私の住む街は、この四月の時節は、
『花見月』と『花残月』につつまれて過ごせそう、と私は微苦笑したりしたのである。



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