夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

『社会保障税』の新設、年金生活の私さえ切望する。

2010-05-14 10:26:10 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
読売新聞を読んだり、ネットでニュースを見たりしているが、
昨今は憂いのすることが多い・・。

《・・日本人の平均寿命は83歳で、
 欧州のサンマリノと並んでWHO加盟193か国中1位だった。

 日本は、女性が86歳で、フランスなどの85歳を抑え、単独1位。
 一方、男性は79歳で、4位だった。
・・》

確かに喜ばしいニュースであるが、益々高齢化の社会になって、
社会保障費は限りなく増大する、と高齢者の入門となった65歳の私は感じてしまうのである。


この一方に於いては、
《・・
   国の借金 882兆円…2009(平成21)年度末
               国民1人あたり693万円

財務省は、2009年度末時点の国債や借入金などを合わせた「国の借金」(債務残高)が、
前年同期に比べて36兆4265億円(4・3%)多い882兆9235億円で過去最高になった。
・・》


昨日のニュースに於いて、
《・・
   20~30代自殺率、最悪…動機に生活苦

 警察庁は13日、昨年1年間の全国の自殺者3万2845人の動機や年齢別などの調査結果を公表した。

動機別では「失業」や「生活苦」が大幅に増加し、50歳代以降の「孤独感」も目立った。
景気低迷や人間関係の希薄化が進み、
若年層から高齢者までの幅広い世代で先行き不安が広がっている実態を示した格好だ。

昨年の自殺者は前年を596人上回り、
1978年に統計を取り始めてから5番目に多く、
12年連続で3万人超となった。
・・》

私は《12年連続で3万人超・・》と再読するたびに、
日本のある市町村の30000人が、ここ12年に毎年消滅した、
と深く感じたのである。


この三つのことでも、無力な私でも憂いを増している。

日本の再建は、経済の復興と『社会保障税』の新設で、
財政基盤を少しでも安定させる以外にないかしら、とここ数年考えたりしてきた。

このような失意の気持ちで、私はこのサイトに綴ってきたことを振り返ったりしている。


昨年の2009年9月25日に於いて、
【原英次郎氏の『われわれは本当の弱者を知らない!・・ 』を拝読して・・。】
と題して、投稿していた。

【・・
・・略・・
午前中のひととき、ネットのダイヤモンド社のビジネス情報サイトとして名高い
【DIAMOND online】を見ていたのであるが、
この中のひとつの記事に於いて、私はまさに私の思いと同じだ、
と思いながら深く読んだりし、そしてため息をしたのである。

この記事は【経済・時事】コーナーの中で、
DOL特別レポートとして掲載された記事である。
ジャーナリストの原英次郎氏が2009年9月25日に於いて、

《 われわれは本当の弱者を知らない!
        民主党に求む納税者番号制度の早期導入 》

と題された記事であり、適切な真摯な提示をされているので、
出来うる限り多くの人々に読んで頂きたく、無断であるが、転載させて頂く。


《・・
ようやく訪れた政権交代は、
50年以上に及ぶ自民党政権が残した“負”の遺産を処理する絶好の機会である。
だが、その負の遺産は、途方もなく大きい。
その解決は長い時間と国民的なコンセンサスが必要になる。

青臭いと言われようが、ここは拙速を避けて、基本的な理念や基準を確立すべきだ。
それが長期にわたって、国民の支持を得るためのカギを握っている。
ここでは、最大の課題の一つである財政再建をテーマに、そのことを考えてみたい。


☆借金は“未体験ゾーン“に突入

まず、現在の日本政府の財政状況を見てみよう。
ご承知のように、今の財政は、支出(歳出)が収入(歳入)を大きく上回っていて、
大赤字の状態が続いている。
その赤字を国債という名の借用証書を発行して、穴埋めしている。
 
この5年間の国債の発行額は、2004年度35兆円、2005年度31兆円、2006年度27兆円、
2007年度25兆円、2008年度が33兆円だ。
今2009年度は、本予算が成立した直後に補正予算が組まれたため、合計で44兆円もの発行が予定されている。

歳入をどれくらい国債に頼っているかを測る指標が、国債(公債)依存度。
これは順に、42%、37%、34%、31%、37%となり、
2009年度は再び40%以上にまで高まる見通しだ。
支出のほぼ半分を借金で賄うという異常な事態である。
赤字に次ぐ赤字で、積もりにつもった国債の残高は、2008年度末で546兆円に達している。
これはGDP(国内総生産)の110%に達する金額だ。
日本が、1年間に生み出す付加価値をも上回っている。
 
中央政府、地方政府、年金など社会保障基金も加えた借金の額と、
GDPを比較したOECDの統計によれば、
200年で、日本は171%、これに対してアメリカ66%、ドイツ64%、フランス71%、
EUで最悪の財政状況といわれるイタリアでも117%だから、
日本の借金比率は、群を抜いて高い。

富田俊基氏の著書『国債の歴史』によれば、
戦争の費用を賄うために、国債を大量発行した第2次世界大戦中の1943年度で、
国の借金の残高はGDP比の133%だったから、
現在の日本政府の借金が、いかにすさまじいレベルに達しているかが分かる。


☆目先の不幸と長期の悲惨

これほどの借金大国なのに、経済が混乱しないのは、1500兆円を上回る家計の金融資産があるからだ。
この6月末現在で、国と地方を合わせて860兆円にも達する借金があっても、十分に国内でファイナンスできる。
  
加えて、長期国債の金利が1%台と歴史上まれにみる低金利で安定しているのは、
国債の投資家達が、元金の償還(返済)や利息の支払いが確実に行われると、
日本政府を「信認」しているからに他ならない。

この信認が揺らげば、国債が売られて、長期金利が上昇する。
国債の消化が困難になれば、国債が売れるまで金利を上げなくてはならないから、利払いは膨らみ、
利息も含めた借金を借金で返すという悪循環が拡大する。
結果、社会保障費などの歳出カットと、増税に追い込まれる。

国債の金利は、すべての金利の基準となるから、
企業の借入金利も、住宅ローンの金利も上がり、経済は大きなダメージを被ることなる。
短期の不幸に余りにとらわれすぎると、長期の悲惨が待っている。

財政問題の難しさは、税や社会保険料の負担と、公共サービスの提供が直接結びついていないため、
国民に財政赤字の深刻さが、直接的には感じられないことにある。
さらに、国債に対する市場の信認がいつ崩れるかは、誰も正確には予想できない。
極端にいえば、それは明日かもしれないし、5年後かもしれないので、
実際に起こってみるまで、認識できない。

もちろんまだ時間的な余裕はある。
だからこそ、民主党政権は、市場に追い込まれる前に、財政再建の道筋をつけなければならない。
加えて、景気回復、格差是正という難題にも、同時に取り組まなければならないから、
新政権は重い課題を背負ったスタートとなる。


☆本当に手を差し伸べるべき対象は誰なのか?

周知のように、民主党のマニュフェストには、
子ども手当てを始め、政府の出費がかさむものが、ずらりと並んでいる。
無駄を省いて、財源をねん出するというものの、おそらく我々は無駄を省くだけでは解決できないほど、
膨大な負債を背負ってしまったのだ。
収入は限られている。
だから、限られたおカネを、有効にかつ効率的に使わなければならない。

歳出の中で最も大きな割合を占め、今後も増え続けざるを得ない年金、医療、介護などの社会保障費について考えてみよう。
おカネを効率的に使うには、第一に民主党が「公平」についての理念を明確にしなくてはならない。
次に、その公平性を確保するための手段が必要だ。
もちろん、すべての国民が、合意する公平の概念はあり得ないとしても、
より多くの国民が、「こういう人たちには、手を差し伸べるべきだ」と考える合意点はあり得るだろう。

簡単に言えば、誰に負担してもらい、誰に再配分するかを、どのような理念と方法で行うかということだ。
だが、これを特定するのは、案外と難しい。
大事なのは、現在、流布されている通説・常識を疑ってみることである。


例えば、ジニ係数。
ジニ係数とは所得格差を表す代表的な指数で、0から1までの数値を取り、0に近いほど所得格差は小さい。
厚労省の「所得再分配調査報告書」(2005年)によれば、
税や社会保障で再配分する前の当初所得のジニ係数は0.5263、再配所得は0.3875で、
所得格差はかなり是正されている。

一方、時系列でみると、当初のジニ係数は拡大しているものの、再配分後はそれほど拡大していない。

しかし、足元では、非正規雇用者は解雇され、失業率は上昇を続け、格差や貧困は拡大していると感じている。
このギャップはどこから生じているのか。
厚労省が意図的に数字を操作しているのか、調査に時間差があるためか。
現状をより正確に把握することが必要になる。

老齢者は弱者であるというのも、検証しなくてはならない。
高齢者の平均当初所得は、84.8万円しかないが、再配分所得は370.7万円に増える。
再配分によって、所得は4倍以上になっている。

他方、母子家庭の平均当初所得は191.1万円で、再分配所得は249.4万円。1.5倍にしかなっていない。
にもかかわらず、今年度から生活保護の母子加算は削減された。

資産についてみれば、例えば、70歳代の純貯蓄(貯蓄-負債)は、2080万円、
30歳はマイナス20万円と、負債が多くなっている(総務省「2004年全国消費実態調査」)。

筆者は失業中に、介護の職業訓練を受け、実際に訪問介護の実習を受ける機会を得た。
そのとき、忘れられない光景が二つある。
一人は初期認知症の老女。
トイレは汲み取り式で、地震が来ればおそらく倒壊するだろう古いアパートに、一人で住んでいた。

もう一人は、寝たきり状態のお爺さんで、息子と二人暮らし。
昼間は息子が働きに出るため、一人きりになる。
その一方で、かなり大きなお宅に住み、経済的にも恵まれていそうな老人がいたことも確かである。

このように、我々は誰がもっと負担し、誰がもっと再配分されるべきかを、
実はよく知らないのだ。
その基準となる有力な指標は、やはり所得だろう。
だが、この所得も正確には捉らえられていない。
「トーゴーサン」といわれるような、サラリーマンと自営業者などの間には、
所得の捕捉率に差がある。

資産格差に基づく所得格差は、さらに捉えるのが難しい。

だからこそ、所得をより正確に把握するために、納税者番号制度導入すべきではないか。
所得は、税=だれから取るか、給付=誰に与えるか、双方の基準となるからだ。

財政でいえば、歳入・歳出双方に関わってくる。
民主党政権が、これまでより公平性と透明性を重視するのであれば、
納税者番号制度はそれを確保する重要な手段であり、公約通り、導入に向けて積極的に動いてほしい。

ちなみに、先進国で納税者番号制度を導入していないのは、イギリス、フランス、日本だけである。
・・》
注)記事の原文にあえて改行等を多くした。


http://diamond.jp/series/dol_report/10018/
☆【DIAMOND online】 2009年9月25日
原英次郎・寄稿『われわれは本当の弱者を知らない! 民主党に求む納税者番号制度の早期導入』☆


私は2004(平成16)年の秋、中小業の民間会社のサラリーマンを定年退職をした身であり、
この後の私は年金生活をしたのである。

私は定年の5年前に改めて退職後の人生設計を家内と話し合い、
私達夫婦は子供に恵まれなかったので、2人だけで老後の歳月を過ごすので、
結果としては残された人生はお互いの趣味を尊重して、堅実な生活を過ごせば、
年金生活でも何とかなると判断をしたのである。

古惚けた一軒屋に住み、厚生年金を頂き生活費の基盤として、
共通趣味の国内旅行、冠婚葬祭などは、程々の貯金を取り崩していく基本家計設計としたのである。

私達は退職後に銀行、郵便局、生命保険等をボケたことを配慮して、
出来うる限り集約したのである。
そして、貯金関係は殆ど国債の元本保証プラスわずかな金利を選定したのである。

この時は、支店長から3分の2をある投資信託で高い金利、
残りの3分の1を安全利回りで運用されれば確実に増えます、と勧誘のような助言されたりした。
しかし私達は、私は金利の変動は良いことあれば悪いこともあり、
悪化しマイナスになった場合は、残された人生に狂いが生じるので、安全な国債などしたのである。

もとより私は小心者のせいか株、投資信託などのハイリターン、ハイリスクで、
残された大切な人生に一喜一憂するのは、何よりも険悪していたのである。

国債が絶対的に大丈夫、と問われれば、
『国債が駄目になった時は日本が滅びる時である・・
その時は私達の生命財産はもとより保障されないので・・』
と私は今でも公言をしている。


私は今日の経済の悪化、社会の劣化を無力ながら憂いているひとりである。
根幹としての解決策は、やはり社会保障を数多くの国民が実感できる制度の確立と確信している。

もとより今の制度は毎年一兆円が増加し、益々高齢化の社会を迎えているので、
やむえず消費税を廃止し、新たに社会保障費を新設して、
現役の働いて下さる方たちだけに負担をさせるのでなく、
どの世代も程々に負担して、財源の基盤を安定させる。

この結果として、高齢者の人々の不安が解消されれば、何とか貯金をしてきたのをと崩して、
国内需用も増えて、経済の活性化により、雇用の増加などにより、
やがては、数多く人たちが明日に希望が期待できる社会となる、と切望しているのである。

その上、どの時代でも生活に困窮される人々を救済するのも、社会保障制度であるので、
私は国はいち早く社会保障費を新設して
確かな社会保障制度を安定させるのが、何よりの責務であると思考しているのである。

そして、この基盤を支えるのは、
原英次郎氏の明示した納税者番号制度導入であり、
これくらいの制度はいち早く実施するのが、何よりの優先課題のひとつと確信している。


私は今回、原英次郎氏の『われわれは本当の弱者を知らない! 民主党に求む納税者番号制度の早期導入』の記事を拝読して、
喚起されて、思いつくまま綴った投稿文である。
・・】


この少し前の2009年9月11日に於いては、
【私は『消費税』を撤廃し、『社会保障税』を10数%の新設を期待する・・。】
と題して、投稿している。

【・・
・・略・・
読売新聞の朝刊の一面に於いて、
ここ数日、【民主党に注文】と題された特集記事が掲載され、
政治に疎(うと)く無力な身であるが、有権者の責務として読んだりしているのである。

9月9日には、第四回であり、東大教授・吉川洋氏が寄稿されていて、
少し読みながら。日頃の私の思いを的確に明示されている思いながら読んだりしたのである。
この記事とほぼ同一の記事が、読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】で、
掲載されている。

     『 社会保障 消費増税で 』

と題される記事であり、無断であるが記事の内容を転載させて頂く。

《・・
民主党の圧勝は、多くの人が閉塞(へいそく)感を感じ、新しい政権に期待した結果なのだろう。
そこを踏まえると、新政権の大事なテーマに成長戦略と分配の問題が挙げられる。


日本の経済成長に輸出が6割の寄与をしている。
このため、世界同時不況の影響を受けて、日本経済も収縮してしまった。
もう少し内需主体の経済にしようという発想には賛成だが、
子育て支援で達成できるほど単純ではない。
本格的な内需主体の経済を目指すなら、社会保障の将来像をきっちり描くことが不可欠だ。

分配の偏り、格差拡大は、規制改革だけが原因ではない。
少子高齢化や、所得の低い若者の独り暮らしが増えるなど家族の姿が変わってきた影響が大きい。
高齢化や経済のグローバル化、情報技術(IT)の変化など、
経済、社会を変える要因を十分に理解して政策を考える必要がある。

経済成長を促し、偏った分配を改める上で、国の予算を大胆に見直すことは正しい。
歳出に無駄があるなら洗い出すべきだ。
しかし、この議論はもろ刃の剣だ。
行き過ぎると「無駄はいくらでもあり、財源はいくらでも出てくる」
という幻想が生まれる。

無駄減らしだけで社会保障や様々な政策の財源が全部出てくると思ったら間違いだ。


結論から言えば、無駄減らしだけではお金が足りない。
税収、歳入増を図らなければならず、その本命は消費税だろう。
消費税を5%に据え置いて、ほかでお金をかき集めるという考えでは財政はもたない。
社会保障の将来も安定しない。

消費税を財源としてすべての人に7万円の「最低保障年金」を創設するというマニフェスト(政権公約)を機械的に見ると、
医療・介護や子育て支援も含めて消費税率は10%では足りなくなる。

歳出の洗い直しを早期に終わらせ、
「見直しで生まれる財源はこのくらい」という見通しを1~2年で示し、
新たな財源の議論に移るべきだ。


社会保障関係では、お金を支給する直接支援は所得水準の低い人たちに集中すべきだ。
そのためにも、所得を把握するための社会保障番号・カードが必要になる。
民主党は年金通帳の導入を主張しているが、
社会保障番号を入れて社会保険手帳に拡大するのが良い。


経済は外需も含めて成長しなければならない。
日本経済の屋台骨は製造業や輸出産業だ。
厳しい国際競争にさらされ、労働力人口が減る中で、
イノベーション(技術革新)が生命線である点も忘れてはならない。

国家戦略局などの制度は器であり、問題はその運用にある。
過去の経緯にとらわれず事実を虚心坦懐(たんかい)に見て、
マニフェストに書いていなくても、いいことは積極的にやるべきだ。
(聞き手 経済部次長 京屋哲郎)

(2009年9月9日 読売新聞)
・・》

注)記事の原文にあえて改行を多くした。
http://www.yomiuri.co.jp/election/shugiin2009/feature/0003/fe_002_090909_01.htm
☆【YOMIURI ONLINE】吉川洋『社会保障 消費増税で』☆


私はこの記事に喚起され、日頃の私の思いを綴ることにする。

私の何よりの念願は、ベルリンの壁の崩壊前の日本の姿になることである。
短絡的に表現すれば、数多くの日本人が総中流家庭が実感でき、明日に希望を託すことのできた時代で、
今後の日本の指針は総中流家庭の復興で、数多くの人々が安心し実感できる社会である。

この目的を達成する為には、もとより経済の成長は不可欠であり、
急速な高齢化社会を迎えている今日、社会保障制度の基盤の安泰が何よりの前提条件となるのである。

問題は各世代の負担であるが、以前にもこのサイトで明記しているが、
もとより30、40代の若い世代に現状のように加重負担させるのは過酷であり、
肝要な働いて下さる多くの方の明日への芽を摘み取ることになる。

現状の財産形成の人口分布は、高齢者の方達が圧倒的に多く占有しているが、
高齢者自身は安心でき、将来も託すことのできる社会保障制度になっておらず、
多くの高齢者はやむえず自己防衛のために、生活を切り詰めて、少しつづ貯金をしているのが実態である。

私はサラリーマンの現役時代に数多く人々と同様に多忙の時、
終電も過ぎたのでタクシーで帰宅する途中、
『旦那・・景気を良くする方法はないですかねぇ・・』
とドライバーの方から訊ねられたことが、数多くあった。

『年金生活をしている方に、消費して頂ただければ、内需は拡大し日本経済も良くなります。
その前提としては、社会保障制度が安心できると実感されれば、
貯金を崩されて買物をされると思います・・』
と私はドライバーの方に云ったりしていた。


現状の時点に於いては高齢者の年金だけ見ても、
若い30、40代の人たちが羨望するような額が、高齢者の多くの方たちに支給されている実態である。
私さえ民間の中小業に35年ばかり勤め、年金は満62歳を過ぎてからは月平均20数万円頂いている身である。

もとより社会保障制度の年金、医療、介護の基盤は、
高齢者が使う費用を、その時の現役世代が保険料や税で負担する財政方式(賦課方式)を取っている。
つまり、現役世代がその時の高齢者を支えているのである。

このような現状の制度のままで放置すれば、
若い30、40代の人たちが過重負担となり、耐え切れず反乱されても致しがたいであろう。
たとえば、若い働いて下さる方たちは、高齢者の人たちを負担させるばかり人たちと思い、
邪魔な存在と感じながら、益々粗末にする風潮のなる世界である。


このようなことを配慮して、私も高齢者に入門する身であるが、
あえて、消費税5%を撤廃し、社会保障税を少なくと10数%(専門家の諮問委員会で試案させる)を設定し、
年金、医療、介護の専用の財源とし、国からの負担の助成とする。
そして数世代の人々が社会保障税として程々に負担するのが望まく、社会保障制度を万全とした上で、
誰でも安心できる社会を期待しているのである。

このことが私がめざす総中流家庭の復興の確実な一歩と思っている。
・・】


このように私は投稿していたが、
家内の母は独り住まいで後期高齢者の身であるので、
後期高齢者の世代の心情は多少は理解しているつもりである。
そして何よりも、働いて下さる若い人たちの切実な現実も、
甥っ子の30代後半が4人いるので、少しばかり判っている・・。

あえて私が、このように長く綴ってきたのは、不幸な世代間の対立の論争を解消致したく、
どの世代でも明るい明日を・・この一心で投稿したのである。



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わが街『調布』に、ようこ~そ・・♪

2010-05-13 10:13:00 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
いつものように読売新聞の朝刊を読んでいたら、ひとつの記事を読み微笑(ほほ)えんだりしたのである。

29面の【地域】の『武蔵野版』に於いて、

《 ゲゲゲの調布 絶好調
  
       朝ドラ効果 観光客増えた 》

と大きな見出しがあり、
私は朝のまばゆい陽射しを受けながら思わず精読した・・。


この記事とほぼ同一の記事が読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】の中、
【地域】の『東京23区』に於いて掲載され、
無断であるが転載させて頂く。

http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/tokyo23/news/20100513-OYT8T00168.htm?from=navr
☆【YOMIURI ONLINE】【地域】の『東京23区』 ゲゲゲの調布 絶好調☆



私は調布市に家内と結婚した5年間を除き、60年住んでいるので、
幼年期から、齢を重ねた今でも散策したり、買物をしたりしている。

調布市の中で私が住んでいる地域は、
調布市の片隅の世田谷区と狛江市に隣接しているので、
幼年期より京王腺の『仙川』駅、『つつじヶ丘』駅、
小田急線の『狛江』駅、『喜多見』駅、『成城学園前』駅を利用しているので、
この地帯は、秘かな私のホームグランドと思ったりしている。

http://www.city.chofu.tokyo.jp/www/contents/1254286074632/index.html
☆【調布市役所 ホームページ】『調布まっぷ』☆ 

そして京王腺と小田急線にサンドイッチされたような地域で、
生家の実家の近くに一戸建に住み、かれこれ33年になり、古惚けた家となっている。


朝のひととき、この記事を精読し、
NHK連続テレビ小説『ゲゲゲの女房』の影響に驚いたりしている。

今朝、この番組を視聴していたら、
『深大寺』、『神代植物園』の深大寺口の情景が放映されて、
私にとっては、やはり心のふるさとのひとつであるので、
微笑みを感じたりしたのである。


私は、このサイトに於いても、数多く私の住んでいる地域のことを投稿してきたが、
この中のひとつを再掲載する。

【我が心のふるさとのひとつは、都立『神代植物園』・・。】
と題し、今年の1月25日に投稿したひとつである。

【・・
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
この時節になると花が少なくなり、少し寂しい気になる時もある。

こうした折、付近の小公園、遊歩道を散策したりしている。
ときには飽き足らず都立の公園に行ったりしている。

私の住む最寄の大きな公園としては、
都立の『神代植物公園』があり、隣接した所に深大寺もあるが、
我が家からは少しばかり遠い徒歩で45分前後の道のりである。

私は野川の川沿いの遊歩道を歩くのが圧倒的に多いが、
時として違ったコースを歩き、途中からパスを利用することもある。

いずれにしても、この公園は私が通った地元の神代中学校の付近にあり、
私が中学校を卒業した1960(昭和35)年の頃に開園したが、
自転車で通学していた私は、
ときおり開園前の雑木林の中を下校の時などに、学友と自転車で走りまわったりしていた。
その後、人生の節目などを含めて、四季折々通ったりしてきた。

私が心に迷ったりした時などは樹木を眺めたり、それぞれの花に心を寄せて、
心の濾過をして浄化されたりしてきた。

私がこれまで生きてきたつたない人生には、
時として心の証(あかし)が梅(ウメ)、椿(ツバキ)、櫻(サクラ)、花水木(ハナミズキ)、躑躅(ツツジ)、紫陽花(アジサイ)、
花菖蒲(ハナショウブ)、蓮(ハス)、木槿(ムクゲ)などに心を寄せてきたので、
それぞれのコーナー園が私のひとときの迷いも知っていると思っている。
             

東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年に、
私は大学2年であったが、この公園の雑木林を歩いたりしながら、
中退を決意したりしたのである。

私は結婚して2年が過ぎた頃、私の生家の実家に近くに家を建てた後、
家内を家の周辺を案内したり、ときおり神代植物園にも訪れたりしていた。

そして私が40代の頃は、サラリーマンの多忙の休日の折、
四季折々に家内を誘い、私は純米酒の辛口を弐合ばかり持参して、
花咲く樹木の前で、ベンチに座りながら家内と語り合いながら、
呑んだりりしたことが多かったのである。

50歳代になると私は会社の業務が益々多忙となり、
家内の方はテニスに熱中していたので、
国内旅行だけは何とか休暇のスケジュール合わせる程度となり、
私が日曜日に休めた時は、ひとりで通ったりしていた。

私は定年退職後の年金生活に於いても、
独りで植物公園まで四季折々、訪ねてたりしている。


一昨日、家内と夕食の時、
昨年の桜を観て以来、久々に神代植物公園に行ってみよう、と私は提案した。

我が家は世田谷区と狛江市の隣接した調布市のはずれにあり、
付近には霞嶺神社、明照院があり、私の実家も近くにある。
私は結婚前後の5年を除き、この地を60年過ごしているので、心のふるさとの原景は
我が家の周辺にある。

私は農家の児として生を受けたのは、1944(昭和19)年の秋であり、
祖父、父を中心に小作人の手を借りながら、程ほど広い田畑を耕していた。
そして竹林、雑木林に囲まれた農家であった。
この頃の周辺の情景も京王腺の駅付近を除き、
田畑や雑木林の多い緑豊かな村里の情景であった。

私が小学生2年に父が病死し、まもなく祖父も死去し、
我が家は衰退したが、小学校を卒業する頃に、東京のベットタウンに変貌しはじめ、
住宅街となった。
そして、この間に曲がりくねっていた野川も本格的に大きな川として護岸工事の上、
整備されたり、遊歩道や小公園も新たに設けられたりした。


昨日、11時少し前に家内と神代植物公園に向かって川沿いの遊歩道を歩いた。
冬晴れの澄み切った青空で風もなく暖かな11度前後の中、歩き出したのであるが、
日曜日の為か、家族連れの方たちの散策されたり、ジョキングをされる若い人たちを見かけたりした。

川の水辺の近くに鷺(サギ)、鴨(カモ)が数多く観られ、そして鶺鴒(セキレイ)、椋鳥(ムクドリ)も飛来して、
私は興味がなかったが、家内は動物、小鳥達が好きだったので歓声をあげていた。

深大寺に着いて、いつもだったならば付近の蕎麦屋に入り昼食とし、
ビールで喉を潤(うるお)した後、十割蕎麦を頂き、蕎麦湯を飲んだりすることが多かったが、
今回は遅い朝食だったので、通り過ぎたのである。

深大寺を参拝した後、神代植物公園内を散策しはじめた。
この時節は、梅園に寄り、全般としては莟(つぼみ)の多い情景であったが、
白梅の清楚な白難波(シロナンバ)、恥らうように咲いている冬至(トウジ)、
紅梅の華やかな大盃(オオサカヅキ)、若き女性の頬(ほお)のような紅鶴(ベニズル)、
このような早咲きに私はしばらく見惚(みと)れていたのである。

この後、蝋梅(ロウバイ)の咲き始めている花に近寄ったりした。
色は黄色で花の中心は紫褐色となって折、冬の陽射しの中で安らぎのある情景を彩っていた。
この近くに黄色の花色となって、中心が淡い黄色となっているのに私は魅了させられた。
品性があり、芳香が少し強い難点を除けば、私の好きな冬の花となる。
主木の外れに『ソシン・ロウバイ』の樹木名の札があった。

そして、蝋梅の近くに、マンサクは黄色い莟となっていて、
こうした光景に魅了されて、この梅園の中で何よりも心酔させられたのである。


この後、藪椿(ヤブツバキ)を誉(ほ)めたりした後、
福寿草を探したが、数輪が土の中から黄色い花が見られた程度であった。
家内は身体が冷えたというので、正門の喫茶コーナーに行き、
陽射しが受ける温室のような窓辺の席で、家内はコーヒーとホットケーキ、
私はヒールを呑みながら、ソーセージの盛り合わせの軽食としたのである。

そして正門の近くに、寒ボタンの美麗な数々が展示されていたが、
私は先程に椿園で観た秘っそり咲いていた薄紅色の卜伴錦(ボクバンニシキ)と名づけられた椿に心を奪われていたので、
ボタンは華やかさだスターのような花だけ、と心の中で呟(つぶや)いたりした。

この後、家内の要望の温室に寄ったが、私は温室は何かしら好きになれない。
私は樹木、草花に魅了されるのは、その地の四季折々の自然の中で、
それぞれの移ろいがあるので、心を寄せているのである。
食べ物の世界でいうと、人工栽培より露地野菜を好む習性と同様と思っている。

まもなく、私達は欅(ケヤキ)、クヌギ、コナラ、ハクウンボク、ヒメシャラ、
イヌシデ、ヤマボウシ、コブシなどの冬木立の中を歩いた。

私はこうした葉を落とした冬木立の光景が歳を重ねるたびに、最も魅了させられている。

陽が高いうちに引き上げようとして、私達は3時過ぎに神代植物園の深大寺門を後にした。

http://www.kensetsu.metro.tokyo.jp/seibuk/jindai/
☆ 都立『神代植物公園』ホームページ☆

・・】


このように投稿していたが、これまでこの周辺の情景が映し出された映画としては、
私が知る限り、和泉聖治・監督の『お日柄もよくご愁傷さま』(1996年)の作品である。

京王腺の『つつじヶ丘』駅、路線バスの車窓からの深大寺周辺、
主人公と父が歩かれる深大寺の前の歩道を歩かれるシーン、
そして主人公の深大寺に住む家、庭の情景・・
私の好きな映画のひとつである。

尚、私は1944(昭和19)年に農家の三男坊として生を受け、
都会のサラリーマンなどをし定年退職した後、
秘かに名刺をパソコンで作成し、
【 調布の里っ子 】と肩書きをつけて持ち歩いたりしている。



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松田聖子ちゃんの『風立ちぬ』を思わず鼻歌を唄いながら・・♪

2010-05-12 16:11:48 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
家内は過日の8日の土曜日から今週の14日の金曜日まで
独り住まいの家内の母宅に大掃除で行ったりし孤軍奮闘している。

私は『おひとりさま』の生活となっているが、
昨日は雨が降っていたので、家事はお休みと怠(なま)けてしまい、
今朝の10時過ぎに薄日となり、やがて陽射しが差し込んできた。
私は昼食後は少しばかり掃除する前に、窓を開け放ち、風を取り入れた。

そして台所ので皿洗いなどをした後、我が家の庭の一面は歩道に面しているが、
ここ一週間ほど歩道を掃き清めてしなかったので、
気合をいれ、立ち箒(ほうき)を持ち、歩道に下り立った。

幅は一間(約2メートル弱)ぐらいで、我が家の責任分担は約50メートル程度であり、
この時節は散ったツツジの花や私にとっては名も知れないご近所の花など、
或いは常緑樹の葉が新旧交代よと一部の古い葉が落ち、散乱したりしている・・。

私は掃きだしたのであるが、ときおり風が吹き、
数々の葉が歩道で戯れているようであった。

私はB型のお調子者の血筋を引いているので、

♪風立ちぬ 今は秋
 今日から私は 心の旅人

☆【『風立ちぬ』 作詞:松本隆、作曲:大瀧詠一 】

と小声で鼻歌を唄いだしたのである。

この後、はっと気付いたのである・・。
そして私は下校時の小学生に逢わなくて良かった、と思ったのである。

『あすこの家の小父さん・・変なの・・
今は5月中旬なのに、秋の歌などを唄って・・
第一、下駄を履いて、長いホウキで掃いて・・その上、大学生のような長袖のシャツを着て、
齢相応って・・あの小父さん・・判らないのかしら・・』

このような情景が想像できるのである。

私は歩道に誰もいないことを確かめて、

♪風のインクで したためています
 SAYONARA SAYONARA

☆【『風立ちぬ』 作詞:松本隆、作曲:大瀧詠一 】

と小声で鼻歌を唄いだしたのであるが、
塵取りと小さい箒でゴミ袋に入れようとしていた時、風が強く舞い上がり、
結果として、5分ばかり風に遊ばれていたのである。


http://www.youtube.com/watch?v=eNa2jyxx2Ho&feature=related
☆【『風立ちぬ』 作詞:松本隆、作曲:大瀧詠一、編曲・多羅尾伴内、唄・松田聖子 】



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五木寛之(いつき・ ひろゆき)・著の『わが人生の歌がたり』を遅ればせながら読みはじめ・・。

2010-05-12 10:17:31 | 読書、小説・随筆
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
昨日、雨の降る中、駅前の歯科医院で治療を受けた後、本屋に寄った。

これといって心に決めた本はなかったのであるが、
単行本のコーナーで、五木寛之氏の『わが人生の歌がたり』の

http://www.kadokawa.co.jp/book/bk_detail.php?pcd=200604000209
☆角川書店 五木寛之・著の『わが人生の歌がたり』~昭和の哀歓~ ☆
 
http://www.kadokawa.co.jp/book/bk_detail.php?pcd=200608000259
☆角川書店 五木寛之・著の『わが人生の歌がたり』~昭和の青春~ ☆

http://www.kadokawa.co.jp/book/bk_detail.php?pcd=200608000260
☆角川書店 五木寛之・著の『わが人生の歌がたり』~ 昭和の追憶~ ☆

このシリーズの三冊が並んでいた。


私は最初の第一集の【『わが人生の歌がたり』~昭和の哀歓~ 】に関しては、
二週間前に古本屋で偶然に目が止まり、購読した後、数日で読み終えた・・。

この本のシリーズの概要は、本の帯に解説されている通り、
《五木寛之の歌語り、NHKの「ラジオ深夜便」で話題のトークが本になりました!》
と明記されているが、
私はNHKの「ラジオ深夜便」を聴いたことがなく、無知であった。

読みはじめて感じたことは、作者の人生の歩みと共に、
その当時の流行(はや)った歌への思いを語る、と判ったが、
私がラジオから聴いて感じた思いと作者の思いの落差を感じ、微苦笑を重ねたり、
教示されることが多かったのである・・。

もとより作者は1932(昭和7)9月生まれのお方であり、
私は1944(昭和19)9月生まれであるので、世代も遥かに上のお方の上、
たとえ幼年期さえまったく環境の違う身であるので、
この歌はそのように思われたのでしたか、とページをめくりながら、
その時代の空気を学んだりしたのである。


本屋で未読の第二巻『~昭和の青春~』、最終巻の『~昭和の追憶~』の二冊を購入し、
雨降る中を帰宅したのである。


私は著作者の五木寛之氏に関しては、
少し複雑なこだわりのような気持ちが10数年前の頃まであったことを、
恥ずかしながら告白する。

東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年、
私は映画に熱愛して大学を中退し、映画青年の真似事した後、
文学青年の真似事した時期があった。

この当時の私の読み物は、小説の単行本はもとより、
月刊雑誌として、純文学の『文学界』、『新潮』、『群像』を読んだり、
中間小説としては『オール読物』、『小説新潮』、『小説現代』を精読していた。

この中の『小説現代』に於いて、1966(昭和41)年の当時、
新人応募コンクールの『小説現代・新人賞』があり、五木寛之氏の『さらばモスクワ愚連隊』が選定された。

私は何より斬新な新しい時代の発想力、そして確かな筆力で、
読者を読まさせる力の秘めたお方、と瞬時に感じながら、圧倒される思いで、
ため息を重ねながら精読したのである、
新人賞の選考委員のひとりの中間小説の大家で柴田錬三郎氏は、
辛口の選評をされる方であるが、この『さらばモスクワ愚連隊』の作品を絶賛した言葉を重ねていたのである。

その後、五木寛之氏は、『蒼ざめた馬を見よ』を発表されて、
1967(昭和41)年に直木賞を受賞され、
まぎれなく中間小説界に新しい旋風をまきおこしたことは周知の通りである。

この当時の私は、純文学の新人募集に投稿をしていたが、最終選考に残れず、落胆していた時代である。

その後、五木寛之氏は、確か『新潮』だったと思われるが、
『黄金時代』という題名であったと記憶しているが、大学時代のご自身のことを綴られた内容であった、
とおぼろげながら記憶している。


私はアルバイトをしながら文学青年の真似事をし、明日の見えない状況に苦悶し、
結果として、30代になった頃に妻子を養なって家庭生活を思い浮かべると、
とても過ごす自信もなく、あえなく挫折した。

やむえず人生軌道を修正し、この当時も民間会社は新卒が最優先の時代であったので、
何とか大企業に中途入社する為に、
ひとつの手段としてコンピュータの専門学校に入学したのは、
1969(昭和44)年の24歳の時であった。

そして一年ばかりソフト学科を学び、
ある大手の音響・映像の会社に、知人の尽力も得て、何とか中途入社できたのは、
1970(昭和45)年の4月であった。

その後、この会社の一部がレコード会社として独立し、
私は転属させられて、その後35年ばかり勤めて、定年退職をした。


この間、本屋に寄ったりし、遥か雲の上のような存在となった五木寛之氏の作品は、
ときおりためらいながら買い求めてきたが、
私が熱愛している作家の作品のように漏れなく時系列で読むことはなかったのである。

遠い存在・・眩(まぶ)しいようなお方・・この人の前では敗残者のような思い・・
このようなわだかまりのあり、素直に受け止めるできなかった50歳の前後まで、
私にはあったのである。


このような少しばかり複雑な思いを五木寛之氏の作品に感じていたのであるが、
昨今のここ10年数年は、こだわりも霧のように立ち消え、
読みながら多々教示を受けたりしている。




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斉藤由貴(さいとう・ゆき)さんの発露された言葉に、思わず微苦笑させられて・・。

2010-05-11 08:38:14 | 映画・テレビ
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
昨夜、読売新聞の夕刊を読んでいたら、ひとつの記事を読み微苦笑させられたのである。

13面に『テレビ&ラジオ』で、
私は視聴していない【テレビ朝日系「同窓会~ラブ・アゲイン症候群」】に
出演されている斉藤由貴(さいとう・ゆき)さんが、
読売新聞のインタビューに於いて、

《 恋愛 私にはほど遠い 》

と大きな掲げられて、齢を重ねた私は、思わず記事を精読し、
読み終えた後、この中で発露された言葉に、思わず微苦笑させられ後、
確かな大人の女性の思いである、
と感心させられたのである。


この記事とほぼ同一の記事が読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】に掲載され、
片山一弘・記者の綴られた記事であり、無断であるが転載させて頂く。


《・・
「中学卒業後30年目の同窓会」の場面に、
高校生の頃から歌やドラマに活躍してきたこの人の姿があると、
同年代の視聴者には、本当の同窓会のように見える。

40代の恋愛をサスペンス調に描く、テレビ朝日系のドラマ「同窓会」(木曜午後9時)で、
黒木瞳、高橋克典、三上博史らと共演中だ。
撮影前は、プライドがぶつかりあうような硬い空気の現場になるのでは、と不安だったという。

「だって、すごい方ばかりですから。10年前なら、本当にそうなったかも」

始まってみたら、意外なほど楽しくて、安心した。

「みんなホントに大人で、格好つけた部分もなく、気楽な、ほどけた感じ。
黒木さんが、全体をまとめる女親分です」



脚本は「白い巨塔」「14才の母」などをヒットさせた井上由美子。
井上作品への出演は初めてだ。

「現実の出来事としては、それはないのでは、というベタなセリフもあります。
でも、例えば昔の歌謡曲って、ちょっと聞くと恥ずかしいかもしれないけれど、
実は計算されていて、だからこそ人の心に残る。
そういうことも井上さんの中で咀嚼(そしゃく)した上での台本なのかな、と思います」

演じる西川陽子は、中学時代にはメガネの秀才だったが、
今は起業家の妻となり、ぜいたくな暮らしを楽しむ。
反面、夫が愛人に産ませた子を引き取って育てるという複雑な事情を抱えてもいる。

「彼女は間違いなく努力家。
すごく頑張って、いい学校に入り、自分を磨いて、いろんなものを手に入れた。
でも、それゆえに悩みを人に言えず、自分の殻を破れずにいる。
その孤独感にウソをつかず、きちんと体験するように演じたい」

陽子と自分に共通点は少ない、と言いながらも役への理解は深い。
「私には、ほど遠いもの」という恋愛についても同じだ。

「恋愛というのは、自分の社会的立場や、この年齢ならこうあるべきという概念から外れた行為。
自分の中の若い部分と葛藤(かっとう)し、じたばたする。
大人の恋愛というのは格好いいものではなくて、みっともないくらいのものなのかも知れません」

私生活では3児の母。
「子育てはとても楽しい」と相好を崩す反面、出産後はいつも、あまり長くは休まずに復帰してきた。

「仕事がしたかったんでしょうね。
便宜上『仕事』と言ってますけど、私にとってお芝居は、自分が自分でいられるために必要な場所。
普段は存在が希薄な人間なので、役を演じることで、ちょうどいい濃さになる。
両生類的なんです」

制作発表では、「私は学校が楽しくなかったので『同窓会恋愛』って、ちょっと謎です」
と話して周囲の苦笑を誘った。
率直で、豊かな言葉を紡ぐ人である。
(片山一弘)

(2010年5月10日 読売新聞)
・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。

http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/tv/tnews/20100510-OYT8T00643.htm?from=yolsp
☆【YOMIURI ONLINE】
【テレビ朝日系「同窓会~ラブ・アゲイン症候群」】に出演されている斉藤由貴さん インタビュー記事☆


私は斉藤由貴さんに関しては、映画に出演されている作品は観賞した記憶もなく、
テレビ・ドラマも視聴したこともなく、
ラジオからこのお方の唄われた音楽を聴いた程度である。

しかし、何かの雑誌でこのお方を見たり、読んだりしているので、
何かしら私にとっては、遠い親戚の娘さんのような存在である、と身勝手に思っている・・。

偶然に今回のインタビュー記事を読んで、感心させられたのは、
《・・
「恋愛というのは、自分の社会的立場や、この年齢ならこうあるべきという概念から外れた行為。
自分の中の若い部分と葛藤(かっとう)し、じたばたする。
大人の恋愛というのは格好いいものではなくて、みっともないくらいのものなのかも知れません」
・・》
このお方なりに人生体験をされて、発露された言葉・・
まぎれなく正鵠な言葉を表現された、と感心させられ、真の大人の女性・・
と思いながら、
斉藤由貴さんは素敵な女性、と私は微笑んだりしたのである。




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齢を重ねた私の応援歌のひとつは、中島みゆき女史の『ヘッドライト・テールライト』・・。

2010-05-10 11:03:18 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
私達夫婦は子供に恵まれなかったので、我家は家内とたった2人だけの家庭であり、
古惚けた一戸建てに住んでいる。

過日の8日の土曜日から今週の14日の金曜日まで
家内は独り住まいの家内の母宅に大掃除で行ったりしていたので、
私は『おひとりさま』の生活となってしまったが、
家内が作ってくれた料理、スーパーのお惣菜コーナーの売り場で、適度に選定し、食べたりしている。

たまたま昨日は昼前後にスーパーに買物に行った後は、
深夜までの大半は音楽を聴いたりしていた・・。


数多くのCDアルバムを3時間ばかり聴いた後、
やはり私は一枚のCDを音楽棚から取り出したのである。
中島みゆき女史の『短編集』とタイトル名であり、11曲目の『ヘッドライト・テールライト』をCDラジカセに指定した・・。

このアルバムは2000(平成12)年11月15日に発売され、
私は中島みゆき女史のファンのひとりであるので、
退社後の駅前のソフト販売店で購入したアルバムのひとつである。

私は中島みゆき女史のファンの証(あかし)に関しては、
このサイトに於いても数多く綴ってきたので省略をするが、
この頃もアルバムが発売されるたびに買い求めてきた。

このアルバムが発売された当時の私は、
前年の1999(平成11)年2月より、本社の勤め先より、出向となっていた。

私はあるレコード会社に1970(昭和45)年より勤めていたが、
レコード業界は、業界全体の売上げピークは1998(平成10)年で、
デパート業界と同様にかげりが見え、
この前後に各社が社内業務の見直し、組織の大幅な改定、グループ会社内の統廃合、
そして資本による合併などが行われたりした。

これに伴ない、正社員のリストラが行われ、人事配置転換による他部門の異動、出向、
早期退職優遇制度により退職が行われた。

先輩、同僚、後輩の一部の人が、第二の人生を選択し、早期退職優遇制度に申請を出されていたが、
私は定年まで勤め上げる思いが強くあったので、彼等の決断を見送っていた。

その後、私が人事担当の取締役から、出向の話を打診された時、
私は出向を受け入れ、取引会社のひとつに勤めはじめた。
そして、半年ぐらいは都落ちのような心情で落胆していたが、
何とか立ち直れ、業務に精進し、この後の5年近く勤めて、定年退職を迎えた。

この間、確か2000(平成12)年の頃だったと思われるが、
家電メーカーなど大手企業がリストラ旋風になり、
『レコード各社は中小業であり・・特に外資系は先手となりリストラをし、俺のように出向となったり・・
家電メーカーは今頃になって・・リストラかよ・・やはり大手企業は余裕があるよなぁ・・』
と私は苦笑させられていた。

この一方では、時代を反映させてかNHKが『プロジェクトX 挑戦者たち』が放映され、
この番組の主題歌として中島みゆき女史の『地上の星』、
そしてエンディング・テーマ曲として『ヘッドライト・テールライト』が流れていた。

私が初めて『ヘッドライト・テールライト』聴いた時、
瞬時に魅了され、そして感銘を受けたのは、

♪語り継ぐ人もなく
 吹きすさぶ風の中へ
 紛れ散らばる星の名は
 忘れられても
 ヘッドライト・テールライト 旅はまだ終わらない

【『ヘッドライト・テールライト』 作詞・中島みゆき 】

という詞であった。

そして何よりも出向となっていた私の心情を支えてくれたり、
この後の定年退職後の現在、最も励ましてくれる詞が、


♪行く先を照らすのは
 まだ咲かぬ見果てぬ夢
 遥か後ろを照らすのは
 あどけない夢
 ヘッドライト・テールライト 旅はまだ終わらない

【『ヘッドライト・テールライト』 作詞・中島みゆき 】

この励ましてくれる詞が、私にとっては何よりも大切な言葉となっている。
私なりに大切なことは、昨日に投稿した【ふたたび、我が拙(つたな)き半生の果てには・・。】で明記しているので、
省略をする。

私の人生の半ば、中島みゆき女史の『エレーン』、その後の『永久欠番』で救われたり、
齢を重ねた今は、『ヘッドライト・テールライト』が支えとなっている。
私の秘かな心の女神は、家内は別格であるが、まぎれなく中島みゆき女史である。


尚、私はあるレコード会社の管理畑を多く勤めた身であるが、
中島みゆき女史の専属契約先のレコード会社とは、
無念ながら関係がないことを明記する。

最後に、この『ヘッドライト・テールライト』の名曲は、
中高年の大半のサラリーマンの諸兄諸姉で、
特に時代に翻弄された方たちはご存知と思われるが、
今回《YouTube》、そして放送権のあるNHKのお力を借りて、添付する。

http://www.youtube.com/watch?v=uNVKbRClxRA&feature=related
☆【『ヘッドライト・テールライト』 作詞、作曲・中島みゆき  編曲・瀬尾一三   唄・中島みゆき】☆




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ふたたび、我が拙(つたな)き半生の果てには・・。

2010-05-09 18:14:29 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
2004(平成16)年の秋の定年退職後まもなくして偶然にブログの世界を知り、
若き日々より中断したこともあったが日記を書いたりし、
これとは別の状況で色々と綴ったりしてきたが、
改めて何らかの形式で公表したく、これ幸いと幾つかのブログ、
ブログに準じたサイトに加入して綴ってきた。

定年退職後の身過ぎ世過ぎの日常で日々に感じたこと、
或いは思考したことを心の発露とし、明記してきたことはもとより、
幼児からサラリーマンの退職時までの色々な思いを
書き足らないことも多々あるが、余すことなく綴ってきている。

誰しも人それぞれに、苦楽の光と影を秘めて日常を過ごしているのが人生と思っているが、
私なりに時には、ためらいを感じながらも心痛な思いで、
綴ったりしてきたこともあった。


私は1944(昭和19)年に農家の三男坊として生を受けたこと、
祖父や父が長兄、次兄と後継ぎ候補の男の子に恵まれたので、
秘かに今度は女の子を期待していたらしく、私は何となく感じて、いじけたこと。
そして、小学生に入学しても、兄ふたりは優等生で、
私は中学生までは劣等生だったこと。

小学2年の時に父が42歳の時に病死され、まもなく祖父も亡くなり、
農家の旧家でも大黒柱のふたりが亡くなることは、没落し、貧乏になること。
そして、幼年期には本といえば、『家の光』しかなく、
都心から引越してきた同級生の家には沢山の本があり、愕然としたこと。


高校時代になって初めて勉学が楽しくなり、
遅ればせながら読書にも目覚めたり、小説らしき習作を始めたこと。

そして大学を中退してまで映画・文学青年の真似事をしたり、
その後は幾度も小説新人の応募で最終候補作に漏れ、落胆したこと。

この後は、コンピュータの専門学校に学び、
これを梃子(てこ)とした上で、知人の強力な後押しのお陰で、
大手の民間会社に中途会社にできたこと。

そしてまもなくレコード会社に異動させられて、
六本木にある本社でコンビュータの専任者となり、時代の最先端にいる、と勘違いしたこと。
この間、幾度も恋をしたが失恋の方が多く困惑したことや、
結婚後の数年後に若気の至りで一軒家に茶室まで付け足して建てて、
住宅ローンの重みに耐えたこと。

そして、定年の5年前に出向となり、都落ちの心情になったこと。


このように私は大手企業のサラリーマンの一部に見られるエリートでなく、
屈折した日々の多い半生を歩み、定年を迎え、
半生記は自慢史が多いと云われているが、私は程遠い存在である。

私は確固たる実力もないくせに、根拠のない自信があり、
感覚と感性は人一倍あると思いながら、独創性に優れていると勝手に思い込み、
ときには独断と偏見の多い言動もしたりしてきた。
そして、ある時には、その分野で専門知識があり優れた人の前では、
卑屈になったりした・・。
このように可愛げのない男のひとりである。


私は定年退職時の5年前頃からは、
漠然と定年後の10年間は五体満足で生かしてくれ、
後の人生は余生だと思ったりしている。

昨今の日本人の平均寿命は男性79歳、女性86歳と何か本で読んだりしているが、
私は体力も優れていないが、
多くのサラリーマンと同様に、ただ気力で多忙な現役時代を過ごしたり、
退職後も煙草も相変わらずの愛煙家の上、お酒も好きなひとりであるので、
平均寿命の前にあの世に行っている、確信に近いほどに思っている。

世間では、よく煙草を喫い続けると五年前後寿命が縮じまるという説があるが、
身勝手な私は5年ぐらいで寿命が左右されるのであるならば、
私なりの愛煙家のひとりとして、
ときおり煙草を喫ったりしながら、思索を深め日々を過ごす人生を選択する。
そして、昨今は嫌煙の社会風潮があるので、
私は場所をわきまえて、煙草を喫ったりしている。


このように身勝手で屈折の多い人生を過ごしたのであるが、
この地球に生を受けたひとりとして、私が亡くなる前まで、
何らかのかけらを残したい、と定年前から思索していた。
あたかも満天の星空の中で、片隅に少し煌(きらめ)く星のように、
と思ったりしたのである・・。

私はこれといって、特技はなく、
かといって定年後は安楽に過ごせれば良い、といった楽観にもなれず、
いろいろと消却した末、言葉による表現を思案したのである。

文藝の世界は、短歌、俳句、詩、小説、随筆、評論などの分野があるが、
私は無念ながら歌を詠(よ)む素養に乏しく、小説、評論は体力も要するので、
せめて散文形式で随筆を綴れたら、と決意したのである。


私は若き日のひととき、映画・文学青年の真似事をした時代もあったが、
定年後の感性も体力も衰えたので、
ブログ、ブログに準じたサイトに加入し、文章修行とした。

何よりも多くの方に読んで頂きたく、あらゆるジャンルを綴り、
真摯に綴ったり、ときには面白く、おかしく投稿したりした。
そして苦手な政治、経済、社会の諸問題まで綴ったりしたが、
意識して、最後まで読んで頂きたく、苦心惨憺な時も多かったのである。


私の最後の目標は、人生と文章修行の果てに、
たとえば鎌倉前期の歌人のひとり鴨 長明が遺され随筆の『方丈記』があるが、
このような随筆のかけらが綴れれば、本望と思っている。


こうして定年後の年金生活の身過ぎ世過ぎの日常生活で、
家内とふたりだけの生活の折、買物の担当をしたり、
散策をしながら、四季折々のうつろいを享受し、
長年の連れ合いの家内との会話も、こよなく大切にしている。

そして時折、何かと甘い自身の性格と文章修行に未熟な私さえ、
ときには総合雑誌の『サライ』にあった写真家の竹内敏信氏の連載記事に於いては、
風景写真を二葉を明示した上で、文章も兼ね備えて掲載されていたが、
このような形式に誘惑にかられ、悩んだりする時もある。

私が国内旅行をした後、投稿文に写真を数葉添付して、旅行の紀行文の真似事をすれば、
表現上として言葉を脳裏から紡(つむ)ぐことは少なくすむが、
安易に自身は逃げる行為をしていると思い、
自身を制止している。

そして、言葉だけによる表現は、
古来より少なくとも平安時代より続いてきたことであるので、
多くの人の心を響かせるような圧倒的な文章力のない私は、
暗澹たる思いとなりながらも、まだ修行が足りない、と自身を叱咤したりしている。


そして拙(つたな)い才能には、
何よりも言葉による表現、読書、そして思索の時間が不可欠であり、
日常の大半を費(つい)やしているので、年金生活は閑だというのは、
私にとっては別世界の出来事である。

このような思いで今後も過ごす予定であるので、
果たして満天の星のひとつになれるか、
或いは挫折して流れ星となり、銀河の果てに消え去るか、
もとより私自身の心身によって決められることである。


余談であるが、私と同じような年金生活をしている方で、
生きがいを失くし、目に輝きを失くした方を見かけたりすると、
齢ばかり重ね、孫の世代の人々にお恥ずかしくないのですか、
と私は思ったりしている。



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『教職員・・痴漢は生涯賃金408万減』・・!?

2010-05-09 08:28:30 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
昨夜、たまたま読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】を見ていたら、
このようなことが一般社会常識として、ありえるの、と驚いたりした。

《 痴漢は生涯賃金408万減…市教委が規定手引 》

と題された記事である。

無断であるが、記事の詳細を転載させて頂く。

《・・
教職員らによる相次ぐ不祥事を受けて、
名古屋市教育委員会は服務規定の手引書を作成した。

懲戒処分の種類や過去の不祥事例、生涯賃金への影響を説明したほか、
自己チェック欄も掲載されている。

同市では昨年6月以降、小学校教頭が交際相手の女性を中傷するビラを配った名誉棄損事件や、
中学校、高校の教諭による痴漢事件、事務職員らによる公金着服事件などが続発。
懲戒免職者も5人と、ゼロだった一昨年度から激増した。

「誇りを胸に」と題した手引書には、
地方公務員法で定められた職員の義務や懲戒処分についての説明のほか、
過去の事例として、
「ちかんは停職6か月」
「公金横領は免職」
「体罰は減給10分の1、1か月」
などが紹介されている。

35歳の教諭が停職6か月を受けた場合は、生涯賃金が408万円減るなどと記されている。
市立の全学校や幼稚園に配布される。

手引書を作成した市教委教職員課は
「今までも資料は配布してきたが、より具体的な内容に踏み込むことで、
教職員の自覚を促そうと考えた」
としている。

一方で、職員の中からは
「ここまでしないとモラルが保てないとしたら情けない」
といった声も出ている。

(2010年5月8日18時04分 読売新聞)
・・》
注)記事の原文にあえて改行などを多くした。

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20100508-OYT1T00690.htm
☆【YOMIURI ONLINE】 『痴漢は生涯賃金408万減…市教委が規定手引』☆


私は少しボケた高齢者のひとりであり、2回ばかり読み、
名古屋市の教育委員会が、市立の幼稚園、小学校、中学校、高等学校、大学まで、
学校の先生、職員の方たちに『服務規定』として手引書を作成し配布する、と解釈した。

私は驚きながら、この後は苦笑し、このようなことは笑止千万、と瞬時に感じたのである・・。

私は民間の中小業のサラリーマンを35年ばかり勤めた身であるが、
職務規定書はあったが、外資系のせいか、
このような社会的な悪質の場合は、解雇であった。

どうして教職員は罰則が甘いのか不思議である。
もとより教職員の諸兄諸姉たちは、私のように大学中退以上に、遥かに上の高級学校を学ばれ、
先生の場合は生徒に教育を教える崇高な責務をなされている人たちなのである。


この中のひとつの『痴漢』のひとつを採り上げても、
私が勤めていた時代で、1980(昭和55)年の頃、
千代田線の『乃木坂』駅の近くで、ある有数な外資の会社の部長が痴漢騒ぎ起し、
まもなく解雇された事件があった。

私はこの当時、35歳前後であったが、
『どうして・・痴漢などをし・・ご自分の大切な人生を棒に振るの・・』
と思い、こうしたことが私は理解できなかったのである。

もとより私も男性のひとりであるので、恥ずかしながら私の実態を告白すれば、
愛しき妻と性愛を重ね、この上に男性としての不思議な欲望としてあった時は、
こっそりと風俗店に行ったりした。

私は会社の職場上、通勤上、家庭には整然し、ズルい男かも知れないが、
友人と談笑した居酒屋の席の隅で、
俺も同じ、とお互いに微苦笑をしたりしていた。


昨今の教職員を含めて一般の男性が、痴漢などで新聞に掲載されたりすると、
もとより相手の女性に心身傷つけ、ご自分の家庭の方に・・どう釈明するのか、
そして勤め先に寄るが解雇となり、家庭の崩壊となることが多い、
と憂いたりしている。

まして先生たちの場合は、このような事件を起した場合、
先生として教壇で、生徒に教育を教示することなどは、恥ずかしさで当然できないし、
そして辞職し、一生教師の道を閉ざされ、やがて家庭の崩壊となることが多い、
と思われるので、今回の停職6か月などは、私にとっては笑止千万、と思っている。


このような思いから私は、男性諸氏の一部の方に、もっとご自分を大切にしてほしい、
と切に感じている、





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昨日の読売新聞の朝刊、特集『経済再生へ政策転換を』・・。

2010-05-08 15:39:43 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
昨日の朝、いつものように読売新聞の朝刊を見たら、

トップの一面に、

《 経済再生へ政策転換を

         読売新聞社 緊急提言  》

と大きく題されて、そして中央に五本柱のように、命題が掲げられていた。

《・・

☆ 『マニフェスト不況を断ち切れ』~政策ミスで日本を破滅させるな~

☆ 『コンクリートも人も大事だ』~デフレ脱却に公共投資は必要だ~

☆ 『雇用こそ安心の原点』~福祉は産業活性化に役立つ~

☆ 『内需と外需の二兎を追え』~官民で海外需要を取り込め~

☆ 『技術で国際競争を勝ち抜け』~先端分野に集中投資しよう~

・・》

私は寝ぼけ眼であったが、この1面、2面、3面、4面、8面~9面、
そして12面~15面の特集記事を2時間ばかり、ざあっと読んだりしたのであり、
共感したり、多々教示をされたのである。

私は年金生活の無力な身であるので、
働いて下さる現役の諸兄諸姉の人たちの方が、遥かな役立つ特集記事と確信をしたのであるが、
私なりに何とかまとめて、このサイトに投稿しよう、と思ったのである。

3時間ばかり考えたのであるが、つたない私の力量と筆力では、無理と断念したのである。

先程、ぼんやりと読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】を開いていたら、
同一の記事が掲載されていたので、
特に働いて下さる現役の諸兄諸姉の人たちに、紹介致したく、
無断であるが転載させて頂く。


http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/special/keizaiteigen/kt100507.htm
☆【YOMIURI ONLINE】 読売新聞社 緊急提言 『経済再生へ政策転換を』 ☆

提言のポイントを懇切丁寧に掲載されているので、
コーヒーか煎茶を飲みながら、お読み頂だだければ幸甚と思ったりしている。



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吉岡 聖恵(よしおか・ きよえ)ちゃんの唄声に、朝のひとときに励まされて・・。

2010-05-08 10:34:45 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
私達夫婦は子供に恵まれなかったので、我家は家内とたった2人だけの家庭であり、
古惚けた一戸建てに住んでいる。

私は朝の7時より、NHKの総合ニュース『おはよう日本』を殆ど視聴している。
家内は洗濯、掃除に追われているが、
私は家内の茶坊主でコーヒーを淹れたりするくらいで、
ぼんやりとニュースだけは見ることが多い。
そして8時半過ぎまでは、テレビを点(つ)けて、ときおり家内が見るのが、
我が家の習性のようになっている。

今朝もいつものように見ていたのであるが、
『特集 いきものがかり』と表示されながら、彼ら三人がインタビューを受けたり、
ライブのシーンがあったりして、
体力の衰えた私は、思わず微笑を浮かべたりした・・。


確か4月の初めの頃だったか、私はパソコンでこのサイトを8時過ぎに開いていたら、

♪ありがとうって伝えたくて

とテレビから流れて、
私は『聖恵(きよえ)ちゃんの唄声だ・・』
と思わずテレヒの番組を見たのである。

何かしらNHKの連続テレビ小説の『ゲゲゲの女房』の主題歌で、
いきものがかりの『ありがとう』と少し判りかけたのである。

そして彼らの吉岡聖恵ちゃんの唄声に魅せられている私は、
肝要のテレビ小説の『ゲゲゲの女房』内容よりも、
殆ど吉岡聖恵ちゃんの唄声を聴き、励まされている・・。

http://www.youtube.com/watch?v=iFGtoOssGdM
☆【いきものがかりの『ありがとう』 作詞、作曲・水野良樹、唄・吉岡聖恵】☆


私が偶然にボーカリストの吉岡聖恵ちゃんの唄声に魅せられたのは、
このサイトで数多く綴っているが、
この中のひとつを再掲載する。

【 心の中で、『帰りたくなったよ』を唄い・・♪ 】
と題し、一昨年の2008年6月8日に投稿した綴りである。

【・・
東京の郊外は、小雨の降る朝であり、
日中も雨の降り、明日の早朝まで降りしきる・・。
そして朝、昼、そして夕方も20度前後という変わった状況なので、
少し肌寒いかしら、と暑さに苦手な私は微笑している。

玄関庭で、小雨の降る空を見つめたり、
樹木の枝葉がしっとりと濡れている情景を眺めていると、
私の心は深夜に視聴した『いきものがかり ライブ』が甦(よみがえ)ってきた・・。


昨夜、NHK総合を視聴していたら、
BS2の11時より、『いきものがかり ライブ』の予告スポットを偶然見て、
深夜を1時間半の番組を視聴したのである。

私は彼等のグループ『いきものがかり』と女性ボーカルの吉岡聖恵の歌声に魅了された、
と5度前後このサイトに投稿している。


私は5月の中旬に富山市の呉羽山に私達夫婦と家内の母の三人で温泉滞在旅行に行く途中で、
高速道路にあるサービス・エリアに休息となり、バスから下り立った時、
お土産売り場の外れのスピーカーから、
徳永英明の歌に続いて、未知の歌声が流れてきたのである。
のびのびとした爽(さわ)やかな歌声に瞬時に魅了されたのである・・。


♪帰りたくなったよ 君が待つ街へ
 大きく手を振ってくれたら 何度でも振り返すから

【『帰りたくなったよ』 作詞、作曲・水野良樹、唄・吉岡聖恵 】


偶然に彼等を知り、たまたまその歌声に魅了され、
後日、水野良樹と山下穂尊、そして同級生の妹・吉岡聖恵によるスリーピース・バンドで、
『いきものがかり』というバンド名で、
『帰りたくなったよ』という曲を知ったのである。


私はその後『花は桜 君は美し』、『SAKURA』、『うるわしきひと』等も知り、
ときおり聴いたりしている。


私は齢を重ねた63歳の年金生活の身であるが、
『・・ライブ』を視聴した後は、少し昂奮し、余韻にしたりながら、
ネットで彼等のサイトを見つけて、1時間ばかり見ていたりした。

http://www.ikimonogakari.com/

そして彼等の全貌が少し解かり、
2時過ぎに布団にもぐったのである。


今朝、ぼんやりと玄関庭の軒下で煙草を喫っていたら、
心の中で、彼等のライブの表情が甦(よみがえ)り、
そして『帰りたくなったよ』のメロディーが流れてきたのである。

そして私の心の中で、


♪帰りたくなったよ 君が待つ街へ
 大きく手を振ってくれたら 何度でも振り返すから

【『帰りたくなったよ』 作詞、作曲・水野良樹  】


唄いだしたのである・・。


そして、彼らが無名時代に夢に向かって路上ライブを長年した後、
メジャー・デビューして3年過ぎ、各地のライブ・コンサートは賞賛を受けている、
と『・・ライブ』で改めて知ったのである。


私は偶然に、遅ればせながら彼等の音楽を知り得たのであるが、
すれ違うことの多い人生の中で、
秘かに63歳の身を夢中にさせてくれたことに感謝をしている。
・・】

私は彼らが夢に向かって、無名な時に路上ライブを長年し、
何より詞と曲の良さ、そして聖恵ちゃんの特有な唄声で、多くのファンを獲得された、
と思ったりしている。

私が2年前の63歳の時、最初に魅了された彼らの曲を添付する。
http://www.youtube.com/watch?v=6mWm6DEmE4E
【『帰りたくなったよ』 作詞、作曲・水野良樹、唄・吉岡聖恵  】


尚、私はあるレコード会社の管理畑に35年ばかり勤めた身であるか、
彼ら『いきものがかり』の専属契約先のレコード会社とは関係がないが、
良き音楽作品とアーティストに私が魅了された場合は、
齢も重ねても絶賛する性格なので、綴った次第である。




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今宵ひととき、私は『芭蕉布』の歌を心の中で唄い・・。

2010-05-07 23:12:56 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
ここ2日ばかり、【つたない我が身の『沖縄』の思いは・・。】と題し、
物狂いのように15回に及び投稿してきた・・。

先程、小雨降る玄関庭を観ながら、軒下で煙草を喫ったりしていた。

♪海の青さに 空の青
 南の風に 緑葉(みどりば)の

【『芭蕉布』 作詞・吉川安一、作曲・普久原恒男 】

と何気なしに心の中で唄っていた。

私は沖縄への思いの余情が残っていたのか、と思わず微苦笑を重ねて、

♪芭蕉(ばしょう)は情(なさけ)に 手を招く
 常夏(とこなつ)の国 我(わ)した島沖縄(うちなー)

【『芭蕉布』 作詞・吉川安一、作曲・普久原恒男 】

沖縄は過去幾たびか薩摩藩、その後の鹿児島県に略奪を重ねられ、
敗戦後はアメリカの軍政下におかれ、
本土復帰後は日本の政治家、官僚のずるさ、
したたかなアメリカの怜悧な国益の施策に翻弄され、
内地の日本人は見てみないふりする人が多く、
こうした劣悪な環境の中で、沖縄人は健気に、したたかに生きてきた・・。

このように旅人のような感情を心に秘め、怜悧な現実を学ぶたびに、
その時代ごとに翻弄されている沖縄の人たちに思いを深めたりしている。

♪首里(しゅり)の古城の 石だたみ
 昔を偲(しの)ぶ かたほとり
 実れる芭蕉 熟(う)れていた
 緑葉の下 我した島沖縄

【『芭蕉布』 作詞・吉川安一、作曲・普久原恒男 】

このように心の中で唄いながらも、無力な私は・・と思うと、
まぶたが熱く・・。

せめて今宵は、『芭蕉布』の歌に心を託して・・。


http://www.youtube.com/watch?v=HkQl5TNbO2c&feature=related
【『芭蕉布』 作詞・吉川安一、作曲・普久原恒男 唄・?】

注)《YouTube》で『芭蕉布』の数々が掲載され、最も魅了されたのを添付しましたが、
  唄われる方は無念ながら私は知りません。



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つたない我が身の『沖縄』の思いは・・。 最終章

2010-05-07 15:42:13 | 定年後の思い
      最終章 普天間基地の移設問題の昏迷に・・。

私は恥ずかしながら政治・外交・軍事・経済なども疎(うと)く無力な身であるが、
鳩山首相の就任以来の言動に大きく戸惑いながら失望してきたが、
特に『普天間基地の移設問題』に関して、昏迷した言動に落胆してきた。

そして私はこの問題についても、疎(うと)ながら数多くを綴り、
4月10日発売の総合月刊雑誌の『文藝春秋』に於いて、
外交評論家の岡本行夫(おかもと・ゆきお)氏の寄稿文を深く精読した。
『ねじれた方程式「普天間返還」をすべて解く』と題された寄稿文であり、
具体的に課題のひとつ提示し、私なりに共感したり、多々教示させられたのである。
特に私は防衛費に伴う経費を学んだのである。

そして、過日の4日の鳩山首相の沖縄訪問の前後、
いたたまれずこのサイトに沖縄県民はもとより、国民を愚弄している鳩山首相の言動に怒りを覚えて投稿してきた・・。

そして批判することは園児でも出来きるので、国民のひとりとして無責任であり、
何とか解決策はないのかしら、と深く思い、
無謀で幼稚な内容で、5月5日に於いて、
【 私なりの『普天間基地の移設問題』、解決策のひとつの私案としては・・。】
と投稿してきた。

私は投稿した後、沖縄の本島の人びとに、
橋本政権から麻生政権までの自民党政権のくびきだった普天間問題として、
米政府、日本政府、沖縄県の考え方が初めて一定幅に収まった状態で、
日米両政府の2006年の合意で、
普天間飛行場の移設先となった米軍キャンプ・シュワブ沿岸部(同県名護市辺野古)の原点とするのを、
住民の方たち『住民税』『医療費』『防音費』などの無料、『転居優遇費』などを付帯条件とし、
住民投票で賛意を得る。

このような無謀な優遇策で賛意を得るのは余りにも安直すぎ、
何よりも住民の良心を踏みにじった、と反省をしたのである・・。

そして後悔を重ねながら、私のこれまでの『沖縄の思い』とは何か、と思いながら、
【 つたない我が身の『沖縄』の思いは・・。】
と題して、結果としては今回で15回ばかり投稿となった。

昨夜の深夜12時過ぎに、初めて『沖縄県のホームページ』を開き、
『沖縄県財政の展望と課題』を読んだり、
『今後の財政収支の見通し ~粗い長期推計~』を見たり、
2時間ばかり考えさせられたのである。

素直に発露すれば、私の予想以上に悪化し、
ため息をしながら、暗澹たる思いになったことを告白する。

私は東京の郊外に住む年金生活の無力な身であるが、
日本を守る防衛に関しては国民ひとりひとりの問題であるので、
少なからず今後も『普天間基地の移設問題』を注視していく責務がある。

特に沖縄の諸兄諸姉の前では、役立たずの私は恥らいながら、
このサイトで私が不可解な『普天間基地の移設問題』の時は、
ときおり投稿する他しか義務を果たせないと思ったりしている。

                                  《おわり》



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つたない我が身の『沖縄』の思いは・・。 ⑭

2010-05-07 13:31:33 | 定年後の思い
      第13章 その後の沖縄の私の思いは・・。

もとより国際主要国は怜悧な国益に基づいて、外交、軍事、経済力などを背景とした政治が行われている今日、
中国、ロシアの大国、北朝鮮の不安定、日本の南下にまじかな台湾、そしてアジアの日本の経済航路を少なくとも配慮した場合、
日本の防衛の視点とアメリカの利権を合致した結束として、
日米の安保条約が締結されている。

そして防衛の基点が、地理学からして沖縄本島が選定されて、今日に至ったいる。


①中国が更に強国の巨大国となり、アメリカが太平洋の半分ほど撤去した国策に転じる。

②沖縄県が『琉球国』として独立国となり、中国の属国化となる。

③或いは中国が台湾を吸収合併をしたり、そして北朝鮮も温和な国に変貌し、
 東アジアの安定した状況になる。

このように今後が大きく変貌しない限り、現状のように沖縄本島の基地は存続する。


こうした思いを深めているが、沖縄が地政学の地理に於いて、全く離れた位置にあったならば、
と私は妄想を重ねたりすることもある。

たまたま2月下旬に、私達夫婦は小笠原諸島の『父島』に訪れた時、
このようなことも深めていた。

このサイトに私は【光と風の中、夢の島のひとつは小笠原諸島の『父島』・・。【2010.2.24.~3.7.】】綴ったり、
或いは旅の前に【東京から南下し、遥か彼方に無垢なる小笠原諸島があり・・。】などを投稿している。

【・・
昨年の9月が終る頃、家内が海上で遊泳している鯨(クジラ)を観てみたいわ、と私に云った。

そして私は、鯨(クジラ)かょ、と云いながら、ネットで検索したり、
駅前の観光案内所に置いてある旅行会社のパンフレットを頂き、見たりした。

私達夫婦は国内旅行は共通の趣味であるが、海外旅行は苦手であるので、小笠原諸島にしょうとした上で、
鯨を最も観られる確立の高い2月前後が良いかしら、と思案したのである。

そしてこの間に私は、小笠原諸島の父島などについて、
【YAHOO! JAPAN】の『地図』情報に於いて、検索したのであるが、
東京から南下し、遥か彼方の1000キロぐらいの時点に、父島があることがわかったのである。

この遥か西方には、同じような緯度で沖縄本島にあり、少しばかり驚いたりした。
そして、小笠原諸島は父島のある父島列島、母島のある母島列島をはじめ、
東方には日本の最東端の南鳥島、南下にはかの戦争で過酷な激戦地となった硫黄島のある硫黄列島、
西南方には日本の最南端として有名な沖ノ島が海上にある。

もとより小笠原諸島の父島は、同じような緯度にある沖縄本島とは、
人口、面積、そして託されている肝要の状況も全く違い、人口の最も多い父島さえ、
東京都小笠原村と明示されている。
このような状況下などで、交通の利便性は、
沖縄本島の那覇空港には羽田空港からは頻繁に3時間ばかりの航空路であるが、
父島は東京の竹芝桟橋から週に2回だけ客船で25時間半で、何とか接岸するのである。

私は後日、小笠原村の産業観光課が考案された『小笠原』の観光パフレットを頂き、
表紙には、鯨の遊泳と美麗な島の光景を背景とした写真の中に、
《 無垢なる海洋島 》と明記されていたので、思わず微笑させられ、
今回の私の表題に《無垢な》という言葉をお借りしたのである。


この間、私達夫婦はネットで小笠原諸島の父島を中核に調べたりした。

http://www.ogasawaramura.com/
☆ 小笠原村観光協会 ホームページ ☆


そして私は小笠原村の歴史、現状などを学びたくて、
http://www.vill.ogasawara.tokyo.jp/
☆ 小笠原村ホームページ ☆

見たり読んだりして、多々教示されたのである。


結果として、定期船の程ほどのクラスの船室で往復して、
ホテルのように宿泊設備のある場所に一週間滞在するプランを作成したのである。
具体的には船中泊は往復路で2泊となり、リゾートホテルで9泊となる。
そして現地の島で、家内はもとより『ホエール・ウォッチング』を必須として、『森・山歩き』などを思案してるが、
私は秘かに南洋から観た満天の星空を何よりに期待しているのである。
・・】

【・・
        第3章  扇浦海岸の周辺を散策すれば

ホテルの目前にある扇浦海岸を散策しょう、と私達は出かけたのであるが、
ホテルの前の道路を渡ると、左手にコテージ風の休憩所があり、
四角い木目の大きなテーブルが四つあり、それぞれ長イスがあって、外れにはシャワー・ルームとトイレが備えられて折、
村営の休憩所として優美なたたずまいである。

前方に幅広い砂浜が広がり、そして青い色をなして白く打ち寄せる波、彼方は蒼い色の海原、
ときより風はそよ風となり、長イスに座っていても、見飽きない情景であった。

私達は扇浦海岸の砂浜を歩き、ときおり家内は打ち寄せる波の処を歩き廻ったりした。

この後、海岸の外れのゆるい丘の南国に相応しい雑木林を歩いた後、
下り道の一角に納戸小屋が見え、ひとりのお齢を召した女性から、私達は話しかけられたのである・・。

まもなく90歳になる女性は、太平洋戦争前は硫黄島でご夫婦で農業をされて、
強制退避させられて、八丈島で移住して農業をされた後、
この父島が日本に返還された1968(昭和43)年に移住されて農業をする為に、
この地を買い求めて住まわれている。
この間、ご主人を失くされ、今は独り住まいとして、硫黄島の強制撤去による土地補償代もあり、
こうして暮らしを立てて生活をされている、と微笑しながら、
私達に話されたのである。

歴史に翻弄されながら、健気に生活されている女性に、
大変な時代を過ごされまして、と私は云いながら思わず頭(こうべ)をたれたりしたのであった。


この後、私達はホテルの近くにある『小笠原神社』を参拝したり、
『開拓小笠原之碑』、『無人島発見之碑』を見たりした後、
休憩所の道路際にある『小花作助之碑』の功績文を読んだりしたのであった。

ホテルの部屋でぼんやりとしていると、
午後5時に村役場からの時報代わりに、『椰子の実』のメロディが静かに鳴った。


私はこの夜、遅ればせながら父島の歴史を改めて学んだりした。
江戸時代の1670年に於いて、紀州の蜜柑(ミカン)船が『母島』に漂着して、
『八丈島』経由で伊豆『下田』に生還し、
島の存在が下田奉行所経由で幕府に報告された・・、
このような事柄に私は興味をいだいたりしたのである。

もとより母島はスペイン人が発見したという説、
19世紀に欧米の捕鯨船が父島に寄港したり、その後はハワイ人が入植したこともあるが、
学べば学ぶほど興味はつきないのである。

そして私はベランダで煙草を喫いながら、散りばめられた幾10かの星を眺めたりした。
・・】


【・・
         第12章  そよ風を海辺の休憩所で受けながら

3月5日の朝食後、明日の6日は『おがさわら丸』に乗船するので、
家内は帰り仕度の荷物の整理をしていた。

私達は日中はホテルの間近にある休憩所でのんびり過ごそう、と昨夜に話し合ったていた。
ホテルの前の道路を渡ると、左手にコテージ風の休憩所があり、
四角い木目の大きなテーブルが四つあり、それぞれ長イスがあって、外れにはシャワー・ルームとトイレが備えられて折、
村営の休憩所として優美なたたずまいである。

前方に幅広い砂浜が広がり、そして青い色をなして白く打ち寄せる波、彼方は蒼い色の海原、
私達は最初にこの場所に来た時から、何かと気に入って、
近くにある村営バスの『扇浦海岸』のバス停で街中に行く時も、
この休憩所を利用させて頂いたのである。

10時過ぎに大きなテーブルのひとつにバックとデジカメを置き、
長イスに座って、前方の白い砂浜に打ち寄せる波、そして青い浅瀬の海が広がり、
その先は蒼い色彩を増しながら彼方まで続く洋上を眺めると、時が過ぎさるのが忘れるくら見惚(みと)れていたのである。

そして、時折そよ風を私は受けながら、煙草を喫ったりしていると、
旅も終わりに近づいてきたことをぼんやりと感じてきたのである。


思い返せば、2月24日に早朝に自宅を出て、竹芝桟橋に早めに到着し、
『おがさわら丸』は定時の午前10時に出航し、一路南下して翌日の25日の午前11時半に父島の二見港に入港した。

そして滞在するホテル『ホライズン』にチエック・インし、この夜から創意工夫のある夕食、そして朝食を頂いたりした。

26日の日中は大村の街中に行き、『小笠原ビジター・センター』でビデオを3本ばかり観賞し、
小笠原諸島のことを多々教示を受けたりした。

27日は初めての『ホエール・ウォッチング』の観光船に乗船し、
潮風を受けたり、潮水を浴びたりしたが、ザトウクジラを数多く観られ、洋上からの父島、兄島の景観に魅せられた。

そして28日には、津波警報に驚きながら『扇浦 交流センター』に避難し、
夜の8時の避難解除まで過ごしたりした。
この間に『おがさわら丸』は二見港を定時の午後2時に出航が遅れ、深夜の未明に出航したと翌朝知ったりした。

3月1日からは、3日の『おがさわら丸』が午後3時に入港するまで、
ホテルの宿泊客は私達夫婦だけとなり、レストラン等で何かと落ち着かない日々が続いた。

2日の日中は、二度目の『ホエール・ウォッチング』の観光船に乗船し、
まぎれなく神秘の南島に上陸し、散策しながら数多くの景観に魅了させらたのである。

3日の午前中はホテルから程遠くない『亜熱帯農業センター』を散策したり、
夜のひとときは『ナイト・ツアー』に参加し、夜の情景を眺めたりした。

4日の日中は、三度目の『ホエール・ウォッチング』の観光船に乗船し、
高速大型船で父島の西岸を北部の彼方から南部の彼方まで、縦横くまなく走破しながら、
ザトウクジラを見飽きるほど観せてくれたのである。


このようなことを思い浮かべたりしたのであるが、過ぎてしまえば余りに早く感じる・・。

前方の浅瀬の海に、カヤックが三隻が観られ、
この中のひとりの指導員がシーカヤック挑戦の初心者を教えている。
家内は微笑みながら、この状景を見つめたりし、
私も挑戦すればよかったわ、と私に云ったりしながら笑ったりした。

この後、家内がホテルに引き返して、缶ビールを2本とおつまみ、お菓子を提げてきた。
よそ風に身をゆだねて、ビールを呑み、前方の海の色合いを観れば、
贅沢すぎるかしら、と感じるのである。
そして私にとっては、このような天国であったならば、通俗の言葉で記すと、確かな極楽だね、
と心の中で呟(つぶや)いたりした。
・・】

この中の一部を再掲載したが、風光明媚な情景の中、純粋なのどかな村であり、
村民の方たちは、けなげに前向きのしななやかな日常生活を過ごされていた。

ときおり私は余りにも沖縄本島と違うことに、戸惑いを心の片隅にあったことを
事実であった。



                                 《つづく》


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つたない我が身の『沖縄』の思いは・・。 ⑬

2010-05-07 11:54:48 | 定年後の思い
     第12章 佐野眞一・著『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史 』教示させることは・・。

このことに関しては、2一昨年の2008年12月28日に於いて、
【私が魅了された2008年の3冊の本は・・♪】と題して、
私が2008年で読んだきた本の中で、氏の『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史 』をベストワンに選定した理由を綴っている。


この本に関しては、このサイトに11月22日に於いて、
【佐野眞一・著の『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史 』、読みはじめ・・♪】
と題して、投稿しているので、あえて再掲載をする。

【・・
過日、遅ればせながら佐野眞一・著の『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史 』を本屋で見かけ、
購入したひとりである。

著作者の佐野眞一氏に関しては、ここ数年、数多くの作品を拝読しながら、
作品の内容を深める執念のような取材力、構成力、
何より誰しも難題と思われる日本の光と影を帯びた問題に挑む力量に圧倒され、
愛読しているひとりである。

http://books.shueisha.co.jp/tameshiyomi/978-4-7976-7185-8.html

私は午後から、今回の作品を読みはじめている。
作品の主旨、概要は、著作者自身がネット上で明示されているので、
無断であるが転載させて頂く・・。

《・・
  (略) このことは前章で掲載しているので、省略する。
・・》


そして、私はこの後も、このサイトに11月24日で、
【再び、佐野眞一・著の『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史 』・・。】
と題して、投稿したのであるが、再掲載をする。

【・・
私は昨夜、10時過ぎに布団にもぐり、1時間ばかり、
佐野眞一・著の『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史 』を読んでいたが、
日中の庭の手入れの疲労感の為、眠ってしまったのである。

今朝は、5時過ぎに目覚め、再び本を開き、7時過ぎまで読んでいた・・。
第一章の『天皇・米軍・沖縄県警』しか読了していないが、
やむえず本を閉じたのである。

先ほど、短くなった庭の樹木を眺めたりし、私の沖縄の原点は・・と思考したのである・・。


私はこのサイトに、【私の沖縄問題の原点・・。】と題して、
2007年6月20日に投稿している。

再掲載は少し気が引けるが、私なりの沖縄の深い思いがあるので、
つたない私なりの沖縄の思いを連載投稿する。

【・・
私の手元に、1冊の本がある。
『沖縄問題二十年』である。
この本は、中野好夫・氏と新崎盛輝・氏のお二人による共著であり、
岩波新書で1965年6月21日 第一刷発行と記されている。

この頃の私は、大学2年で中退し、映画青年の真似事をしていた時であった。

高校時代以来、時事に興味を抱き、
ベトナム問題と同様にまとわりのない問題に思考が整理できず、
深く悩んでいた・・。

そしてこの本に出会ったのは、21歳の時だった。


この本のまえがきに書かれている、

《・・
なぜ私達がこんな本を書いたかという動機については、
私達本土の日本人は、戦後、そして現在、
沖縄が置かれている実情について、
もっとよく身近に知らなければならない、
そしてまた、我々自身の問題として考えなければならない、
いわば義務をもっていると信じるからである。
一種の道徳的責任といってもいいと思う。

こうした言い方をすることを、
最近はなにか感傷的偽善といった風に考える風潮も出ているように見えるが、
少なくとも沖縄に関する限り、私達はそうは考えない。

沖縄同胞の祖国復帰運動を語る本土日本人の声の中に、
それは「母なる本土」への復帰をねがう悲願、
「母鶏の翼の下を求める雛鶏」の願い、
というような表現を見かけることがある。

事実、沖縄返還の運動に精力を傾けている人達の中にあってさえ、である。
善意を理解するにはやぶさかでないし、
また美辞麗句としてならともかくだが、
もし少しでも客観的に、冷厳に、
本土と沖縄との過去の歴史を顧みるならば、
どんな意味でもこんな感傷的な言葉は出ないはずである。

ここで、藩制時代の島津藩が行なった経済的収奪、
更に明治期に入っての沖縄に対する差別的処遇、等々の
そういった古い歴史まで遡のぼろうとは思わない。

だが、最近、太平洋戦争末期の沖縄戦、
そしてそれ以降、サンフランシスコ条約に至る経過だけを考えて見ても、
果して私達「本土」は、沖縄に対して「母なる本土」であったろうか。


戦後日本の「奇蹟的」復興とやらにつけても、
私達は、爆撃の災禍はさておき、
とにかく本土が戦場にならなくてすんだ幸福を、
今更のように思う。

だが、それにひきかえ沖縄はどうであったか。
わずか3ヶ月の戦闘に20万近い犠牲者を生んだ沖縄戦、
しかもその半ば近くが実に非戦闘員の県民であった。
意図的にそうしたとまではいわないが、
少なくとも結果的に見れば、ある意味で私達は、
沖縄同胞の犠牲の上において、
本土戦場の不幸は免れたともいえるのではないか。


そして最後には、サンフランシスコ条約の第三条である。
沖縄同胞は、しばしば「売り渡された」という言い方をする。
県民の意志は何ひとつ問われることなく、きずいた時には、
祖国から引きちぎられ、不沈の軍事基地という運命を
背負わされていたというのである。

もし「母なる本土」であるとすれば、重ね重ね、
随分ひどい仕打ちを繰り返した母親といわなければならぬ。


正直に言うが、少なくとも私達は、
戦後の沖縄県民の間から、祖国復帰の運動が起きる等とは、予想しなかった。

歴史的な収奪、差別的処遇があった上、
更に最後に沖縄戦という犠牲を強いられた人々が、
もはや祖国に愛想をつかして、日本から離脱を考えたところで、
私達としては、到底一言もなかったからである。

だが、事実はその後まもなく強い祖国復帰への動きが、
脈々として盛り上りつつあることを知らされて、正直にいって驚いた。

これは絶対に応えなければならない義務と責任があることを直感した。
沖縄出身でもなければ、沖縄の土を踏んだこともない
《もっと正確にいえば、踏むことを許されない》私が、
柄にもなく沖縄に関心を持ち出したきっかけである。
    (略)
・・》        
以上、著作者の中野好夫氏が綴っている。

注)原文より、私は勝手ながら改行を多くさせて頂きました。


私は21歳の感受性が豊かであったので、
年長者の暖かいアドバイスを頂いたようになった。
この言葉に導かれて、私は沖縄に対しての理論整然と観かたを教示され、
基軸となったのである。

それ以降、社会人となり、やがて定年退職後の生活を送っている現在、
沖縄、のことばを聴くと、何かしら今だに後ろめたい気持ちを引き摺(ず)っている。

私はこの一冊の本に寄り、安易な沖縄観光気分で訪れる避け、
30年後の50代の初めに沖縄諸島の土を初めて踏み、
更に思いを深めたりした。

・・】

このようなことを投稿した後、昨年の10月下旬で8泊9日で、
私達夫婦は家内の母と3人で本島を周遊したり、
マスメディアの『沖縄』の記事を注視したりしてきた。

しかし、私は学者、評論家の本、新聞、テレビ、雑誌などのマスメディアしか知るよしもなかったので、
佐野眞一氏の題されたまぎれもなく『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史 』の明示された事柄は、
予期した以上に動揺させられたのである。

そして、私は現役時代の一時時期、
沖縄の名護市出身の女性が部署が一緒だったので、
私としては何かとこの若き女性に対しては、父親がわりのような思いで、
懇親をかさねたりしたのである。

この女性の父親、母親の数10年の生活実態、これからの思いや、
この女性の幼児から近日までの軌跡を忌憚なく、話してくれたのである。
こうしたマスメディアに表面化しない話題こそ、
何より歴然とした事実であり、数多くの方たちを軌跡を積み重ねれば、
沖縄の戦後史、と思ったりしている。


私はこのような思いも重ね、
日中のひととき、再び佐野眞一・著の『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史 』の次章を、
熱中し、読み続ける予定である。
・・】


私はこの後も、このサイトに於き、11月25日で、
【佐野眞一氏に『沖縄の・・戦後史 』を教示され・・。】と題して投稿をしている。

【・・
私は11時過ぎに、晩秋の陽射しの中、郵便局、スーパーの二店を廻り、
買物や散策をした。
モミジが朱色や朱紅色、そして紅色に色合いを深めた中、歩いたりしたが、
晩秋の情景が心に染めらるようであった。

帰宅後、我家のモミジは、まだ淡い朱色であることに眺めたりした後、
午後のひととき、ここ数日熱中している佐野眞一・著の
『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史 』を読みはじめたのである・・。

私のこれまでの沖縄と奄美本島との関係を何かの本で学んできたのは、
アメリカ軍が奄美本島は山間部が多く、戦闘し占領しても利用価値が少なく、
こうした状況下で過酷な戦地から免れたこと。
その後、敗戦後の沖縄本島で沖縄人の下で、奄美人が冷遇され働いた・・
この程度の拙(つたな)い知識であった。

佐野眞一・著の『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史 』の中、
私は遅ればせながら教示されたのである・・。

《・・
軍政下の奄美はいわば日本とは”異国”となり、
鹿児島などへの渡航はすべて密航扱いとなった。
奄美住民の目はいきおい、同じ米占領下にあった沖縄に向かわざるを得なかった。

ましてや米軍基地建設ラッシュに沸く当時の沖縄は、
働く場所にもありつけず食うや食わずの状態に置かれた奄美住民にとって、
願ってもない働き口となった。

北に行けば密航者として裁かれ、
南に行けば基地ブームで一旗揚げられる。
沖縄のように熾烈な戦闘もなかった奄美を占領したのは、
安価で豊富な基地建設労働力を狩り出すため、
アメリカがあらかじめ仕組んだ高度な植民地政策だったともいえる。
・・》
注)著作者の原文より、あえて改行を多くした。


私はこうした本書の一節を読むと、しばらく唸(うな)ったのである。

そして私は佐野眞一氏に導かれて、午後のひととき次節を読んだりしている。
・・】

その後、読了した後、氏の最後に綴られて言葉を重く受け止め、
私の旅人の感傷のような思考を複眼のような視線で、
改めて沖縄に関しても、考えさせられたのである。

この思い一節の言葉を転記すれば、
《・・
常に強者の顔色を見ながら世渡りする沖縄人の依存体質と事大主義を笑うのはたやすい。
沖縄人を育ててきたこうした風土が沖縄の”役人天国”の温床となり、
いまだにサトウキビの補助金行政にすがって時代にあわせた農政に転換できない
保守的体質を温存させてきたことは否定できない。

だが、沖縄人のこうしたパーソナリティをつくってきた背景は、
アメリカのしたたかな外交戦略の手玉にとられた日本と、
自分の勝手な都合で沖縄を思うように振り回してきた日本があったことを、
不勉強なメディアを含めて、
われわれ日本人は片時も忘れてはならない。

私は本書で、だれにも書かれたくなかった沖縄の戦後史を暴露してきた。
だが、本当に暴露しなければならない戦後史を隠蔽しつづけてきたのは、
沖縄の悲劇を他人事としてひとり繁栄を謳歌し、
世界に顔向けできない恥ずべき官僚や、
政権を突然に放り出す無責任な宰相を2人も生み出して、
いま国際社会のなかで急速に孤立化を深めるわれわれ日本人だったのではなかろうか。
・・》
注)著作者の原文より、あえて改行を多くした。


                                 《つづく》


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つたない我が身の『沖縄』の思いは・・。 ⑫

2010-05-06 20:36:39 | 定年後の思い
     第11章 佐野眞一・著の『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史 』、読みはじめ・・♪

私は一昨年の2008年11月22日に於いて、
このサイトに投稿したが、歴史はもとより光と影につつまれているが、
特に影となっている敗戦後の沖縄の実態を読了後、数多く学んだひとりである。

ここに紹介のような形になっているのは、
特に私を含めて、一部の人が知らないと思われ、あえて著作者の佐野眞一氏の言葉にすがった。

【・・
遅ればせながら佐野眞一・著の『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史 』を本屋で見かけ、
購入したひとりである。

著作者の佐野眞一氏に関しては、ここ数年、数多くの作品を拝読しながら、
作品の内容を深める執念のような取材力、構成力、
何より誰しも難題と思われる日本の光と影を帯びた問題に挑む力量に圧倒され、
愛読しているひとりである。

http://books.shueisha.co.jp/tameshiyomi/978-4-7976-7185-8.html

私は午後から、今回の作品を読みはじめている。
作品の主旨、概要は、著作者自身がネット上で明示されているので、
無断であるが転載させて頂く・・。

《・・

はじめに


戦後日本のありのままの姿を見ようとするとき、
私の視野にはいつも二つの国土がせりあがってくる。
一つは満州、一つは沖縄である。

世界史的にも類を見ない日本の高度経済成長とは、
失われた満州を国内に取り戻す壮大な実験ではなかったか。

私は長年抱いてきたそうした見方に基づいて、
満州を舞台とした作品を発表してきた。
その第一弾が、○五年夏に出版した『阿片王 満州の夜と霧』であり、
第二弾が、沖縄取材が終わった○八年五月に出版した『甘粕正彦 乱心の曠野』(いずれも新潮社)である。

戦後高度経済成長のシンボルである夢の超特急も、
合理的な集合住宅も、アジア初の水洗トイレも、すべて満州で実験済みだった。

日本は敗戦からわずか十年足らずで高度経済成長の足がかりをつかんだ。
それは、わが国がいち早くアメリカの核の傘の下に入って、
軍事防衛問題をほとんどアメリカという世界の警察国家にまかせっぱなしにし、
経済分野に一意専心することができたからにほかならない。

その反対給付の人身御供としてアメリカに差し出されたのが、沖縄だった。
沖縄は世界第二位の経済大国になる道を駆け上がった本土の繁栄をよそに、
東シナ海に浮かぶ日本最貧の島としての運命をたどることになった。

満州も沖縄も“還暦”を過ぎた戦後日本を検証する上で、
絶対に避けて通ることができない大きな宿題となっている。

日本の戦後社会を透視するため、満州という「時間軸」と、
沖縄という「空間軸」を立てる。
そしてその二つの軸がクロスしたところに結ばれた像こそ、
われわれがいま暮らす日本列島の掛け値なしの姿ではないか。
この仮説に、私はかなり前からとらわれていた。

満州を舞台にして暗躍し、“阿片王”と呼ばれた里見甫と、
“満州の夜の帝王”という異名をほしいままにした甘粕正彦。
日本近現代史上最も謎めいた二人の男の物語をとりあえず書き終えた私の目は、
自ずともう一つの仮説の立脚点の沖縄に向かった。


沖縄についてはこれまで夥しい数の本が書かれてきた。
だが私から言わせれば、ほとんどが“被害者意識”に隈取られた“大文字”言葉で書かれており、
目の前の現実との激しい落差に強い違和感をおぽえる。

沖縄本を覆う違和感とは何か。
大江健三郎の『沖縄ノート』に象徴される「本土から沖縄に怒られに行く」
「戦争の被害をすべて引き受けた沖縄に謝りに行く」という姿勢である。

渡嘉敷島の集団自決問題の論争で、
大江をエキセントリックに攻撃する漫画家の小林よしのりを擁護する気は毛頭ない。

だが、大江は沖縄県民を一点の汚れもない純粋無垢な聖者のように描き、
そうした中で自分だけは疚しさをもつ善良な日本人だと宣言し、
ひとり悦に入っている、という小林よしのりの大江批判にはそれなりの説得力がある。

沖縄県民を聖者化することは、彼らを愚弄することとほぼ同義だと私は考えている。
そこには、沖縄の歴史を一九四五(昭和二十)年六月二十三日の沖縄戦終結の時点に固定化させ、
この島にその後六十年以上の歳月が流れたことをあえて無視しようとする欺瞞と、
それにともなう精神の弛緩が垣間見えるからである。

大江や、これに同調する筑紫哲也の話題が出るたび、
心ある沖縄人たちから「われわれを“褒め殺し”するのも、もういいかげんにしてくれ」という台詞が出る場面に、
私は幾度となく遭遇した。


こうした跪拝意識に“大文字言葉”が加わって、沖縄は米軍に占領された被支配者の島である、
といった左翼宣伝ビラでもいまどき書かないようなプロパガンダ本が、
うんざりするほど生産されることになった。

“大文字言葉”とは何か。
いい機会なので、ここで私がよく便う[大文字」と「小文字」の違いについて、
少し噛み砕いて述べておこう。
「So what?」という英語の慣用句がある。
私流に訳せば「それでどうしたの?」という意味である。
私が言う[大文字」言葉とは、聞いたときにはわかったような気にさせるが、
あとから考えると「So what?」という疑問がわく言葉のことである。

テレビに登場するコメンテーターが口にする一見もっともらしい発言は、
だいたい[大文字」言葉だと思って間違いない。
私は彼らのおごそかな口調の割には無内容なコメントを聞くたび
「雨が降るから天気が悪い。悪いはずだよ、雨が降る」
という俗謡を思い出してにが笑いする。

彼らは同義反復しているだけで、実は何も言っていないのに等しい。
何かを言っているように聞こえるのは、彼らの顔や仕草を見て、
こちらが情報を補ってやっているからである。

これに対して「小文字」とは、
活字だけで世界がくっきり浮かび上がる言葉のことである。
それは小さい声ながら、有無をいわせぬ力で読者をねじふせる。

物事を「説くにには「大文字」言葉が便利だが、
物事を「語る」には「小文字」言葉を身につけなければならない。
「語って説かず」。
それがノンフィクションの最大の要諦だと、私は常々言ってきた。

私は里見甫を書くときも、甘粕正彦を書くときも、
[大文字」の“満州論”にはせず、彼らの魅力と魔力を、
どんな読者の胸にもまっすぐ届く「小文字」で書いてきた。

私は沖縄の知られざる戦後史を扱った本書でも、
読者がこれまで聞いたことも見たこともない「小文字」の物語だけを、
型通りの主人公を食う魅力的なバイプレイヤーたちを数多く登場させて書いていくつもりである。


本書は五つのジャンルから構成されている。

Iの「天皇・米軍・沖縄県警」では、
沖縄に対する私の立ち位置をあらためて明確にするとともに、
これまでの仕事を通じた沖縄と私の歴史的関わりや、
天皇と沖縄の微妙な関係、そして沖縄県警がたどった数奇な運命にふれた。

米軍問題も、基地問題一般を語るのではなく、
歴史に埋もれてしまった知られざる怪事件や、
この島に暗躍する米軍がらみのスパイたちの活動を通して描いた。


Ⅱの「沖縄アンダーグラウンド」では、
戦後沖縄ヤクザの発生から始まって現在の勢力図にいたる暴力団の消長のプロセスをあまさず描いた。

ここでは、現役のヤクザにインタビューするとともに、
苛烈な暴力団抗争の過程でヒットマンとなった男の痛切な告白もそのまま書きとめた。
このロングインタビューは沖縄そのものの身を切るような独白となっているので、
じっくり味わいながら読んでほしい。

また、これまでほとんど知られていなかった奄美大島の差別の歴史と、
そこからたくましく起ちあがった男が惚れる奄美のヤクザについても筆を割いた。


Ⅲの「沖縄の怪人・猛女・パワーエリート」では、
“沖縄の四天王”といわれる財界人たちにスポットライトをあてるとともに、
沖縄の戦後史に残る不撓不屈の政治家や、
左翼の枠組みにはおさまらない魅力的な組合活動家、
沖縄独立の夢に賭けた男たちにも言及した。

さらに、これまでまったく書かれてこなかった封印された沖縄の戦後メディア史や、
米留組といわれるアメリカ帰りのパワーエリート、
沖縄を実質的に支配する軍用地主、女傑といわれる女たちの群像をスケッチする一方、
○六年十一月に行われた沖縄知事選の舞台裏や、沖縄の知られざる金融事情についてもふれた。


Ⅳの[踊る琉球・歌う沖縄」では、
大阪でリバイバルした琉球民謡の復活から始まって、
ベトナム戦争下のコザで花開いた本格的ロックの発展まで、
沖縄の戦後史に重ね合わせながら、
この島を走破する形で沖縄芸能の全貌をルポした。
また、ここでは沖縄の芸能を支配しようとする本土の芸能プロダクションの動きも追った。


Vの「今日の沖縄・明日の沖縄」では、
米海兵隊のグアム移転にまつわる防衛省スキャンダルや、
また繰り返された米兵による少女暴行事件、
本土復帰に関わる沖縄密約問題などにからめながら、
沖縄が現在かかえる問題と将来の問題を総合的に展望した。


・・》

以上、ネットで掲載されていた。
注)著作者の原文をあえて改行を多くした。


私は昼過ぎに、本書でこの原文【はじめに】を拝読したのであるが、
少なくとも日本の敗戦後の政治、社会までに関心のあるお方、
このサイトで日本の政治、外交、軍事などを綴られる方たちは、
必読書のひとつかしら、と齢を重ね、政治に疎(うと)い私さえ、確信しはじめている・・。


                                 《つづく》


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