夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

過ぎし青年時代、小説家にあこがれて敗退した私は、創作される方に敬意を重ね・・。

2015-07-17 12:52:34 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅に住む年金生活の70歳の身であるが、
今朝、テレビのニュースをぼんやりと視聴していたら、
第153回芥川賞・直木賞が決定された、と報じていた。

そして芥川賞は羽田圭介さん(29歳)の『スクラップ・アンド・ビルド』(文学界3月号)と
又吉直樹さん(35歳)の『火花』(同2月号)、
直木賞は東山彰良さん(46歳)の『流(りゅう)』(講談社)が対象作品であった。

私は文才もある方が努力を重ねた上、作品が結実され、今回受賞された3人に、
未読であったが、良かったですねぇ、と心の中で呟(つぶや)いたりした・・。
          

やがて私は文芸評論家の清水良典(しみず・よしのり)・著作の『あらゆる小説は模倣である。』(幻冬舎新書、2012年)を
思い馳せたりした。

この本は作家志望者に対する小説創作指南書のような形で、
《・・村上春樹がデビュー作の翻訳を許可しないのはなぜか。
英語にしてしまうとある米作家の作品を踏襲していることがわかってしまうからだとと著作者は推測する。
ほかにも寺山修司、芥川龍之介などの事例を元に「模倣」と「盗作」の境界線を提示し、
作家志望者に対して「巧みに模倣する」ことを勧める。・・》
              
このように記載された名言を想いだして、私は過ぎし45年の青年時代に於いて、
映画・文学青年の真似事をして敗退した身であった為か、苦笑を重ねたりした・・。
          
                  
人は誰しも、若き日のひととき、小説、随筆などを読み、読書に魅せられ、
やがて一部の人が、ある作家たちの作品に魅了され、多くの作品に感銘さえ感じることだろう。

或いは世界、日本文學全集などで読む中で、圧倒的に魅せられる作家を見いだし、
単行本、文庫本、文藝雑誌を読んだりすると思われる。

こうした中で、一部の人は、このくらいの作品であったならば、
私だって書けると錯覚して、習作されると思ったりするが、
もとより読者と創作する作者とは、天と地以上に差異があることに気付かされたりする。

或いは魅了されている作家の作風、文体を真似ていたことに気付き、
創作者にあこがれるが、創作者には到底なれないと自覚させられ、断念する人が多い。

こうした中で、この作品を書き上げなければ、一歩先に進めない、と自覚する方で、
独自な作風、文体を確立しそうな方だけが、作家の第一歩に相応しい、と感じている。

従って、どのような分野の作家も、魅了された先人の創作者の模倣から始まり、
やがて独自な作風、文体を確立できなければ、職業作家としては失格となる。

こうしたことは小説の世界にとどまらず、映画の作品も同様である。
ある作品を観れば、先人の創られた作品に影響され、あるシーンを巧みに模倣している、
と気付いたりすることもある。

或いは音楽の世界でも、メロディーラインも同様なことが発生し、多くの方も気付いていると思われる。

私は定年後の年金生活10年を過ぎている中で、読書は好きであるが、
小説を読むことは激減して、随筆、ノンフェクション、近現代史を読むことが圧倒的に多い、
と微苦笑したりしているのが昨今となっている。
          
                              
私は1955年(昭和30年)の小学4年生の頃から、独りで映画館に通ったりした映画少年であったが、
都心の高校に入学した直後から、遅ればせながら読書の魅力に取りつかれたりした。

新潮文庫本、岩波文庫本を中核に読み、ときおり単行本を購読したのであるが、
創作者より、文字から伝えられる伝達力、創造力が
それぞれ読む時、感受性、知性、想像力により多少の差異があるが、
心の深淵まで綴られた文章はもとより、この行間から感じられる圧倒的な魔力に引きづり込まれた。

たまたま小説に熱中していた私は、ある小説家の作品を読んでいたら、
このくらいの作品だったら、僕だって書けそうだ、
と自惚(うぬ)れながら、高校一年の夏休みに50枚ぐらいの原稿用紙に、 初めて習作した。

そして 私は写真部に所属していたが、まもなく文芸部の先輩に見てもらったりした。
やがて一週間が過ぎた頃、川端康成(かわばた・やすなり)さんの影響を感じられるが、
何よりも青年の心情が感傷過ぎている、と苦笑されたりした。

こうした高校生活を過ごしたりし、映画は相変わらず映画館に通い鑑賞し、
映画専門誌の『キネマ旬報』などを精読し、付随しているシナリオを読んだりしていた。

こうした中で、脚本家の橋本忍(はしもと・しのぶ)さんの『切腹』(監督・小林正樹、1962年)を観て、
圧倒的に感銘させられ、やがて大学2年の時に、映画の脚本家になりたくて、中退した。
                    

そして専門の養成所に学び、この養成所から斡旋して下さるアルバイトをしたりして、
映画青年の真似事をし、シナリオの習作をした。

その後、養成所の講師の知人の新劇の長老からアドバイスを頂き、
映画で生活をするは大変だし、まして脚本で飯(めし)を食べていくは困難だょ、
同じ創作するなら、小説を書きなさい、
このような意味合いのアドバイスを頂いたりした。

この当時の私は中央公論社から確か『日本の文学』と命名された80巻ぐらいの文学全集を読んでいたが
その後に講談社から出版された『われらの文学』と名づけられた全22巻の文学全集を精読したりした。
こうした中で、純文学の月刊誌の『新潮』、『文學界』、『群像』を愛読していた。

或いは中間小説の月刊誌『オール読物』、『小説新潮』、『小説現代』を購読したりしていた。

こうした中で、魅了された作家は20名ぐらいあったが、
圧倒的に魅せられたのは、井上 靖、そして立原正秋の両氏であった。

やがて私は契約社員の警備員などをしながら生活費の確保と空き時間を活用して、
文学青年のような真似事をして、この間、純文学の新人賞にめざして、習作していた。
          

しかし大学時代の同期の多くは、大学を卒業して、社会人として羽ばたいて活躍を始めているらしく、
世の中をまぶしくも感じながら、もとより私の方からは連絡も避けていた。

そして私はこの世から取り残されている、と思いながら、
明日の見えない生活をしながら、苦悶したりしていた。

こうした中で確固たる根拠もなかったが、独創性はあると思いながら小説の習作したりし、
純文学の新人コンクールに応募したりしたが、当選作の直前の最終候補作の6作品の直前に敗退し、
こうしたことを三回ばかり繰り返し、もう一歩と明日の見えない生活をしていた。

こうした時、お彼岸の懇親の時、親戚の小父さんから、
『今は若いからよいとしても・・30過ぎから・・家族を養えるの・・』
と素朴に叱咤された。

結果としては、30代に妻子を養う家庭のことを考えた時、
強気の私さえ、たじろぎ敗退して、やむなく安定したサラリーマンの身に転向を決意した。
          

そして何とか大手の企業に中途入社する為に、
あえて苦手な理数系のコンピュータの専門学校に一年通い、困苦することも多かったが卒業した。
          
やがて1970年〈昭和45年〉の春、この当時は大手の音響・映像のメーカーに何とか中途入社でき、
そして音楽事業本部のある部署に配属された。

まもなく音楽事業本部の大手レーベルのひとつが、外資の要請でレコード専門会社として独立し、
私はこのレコード専門会社に転籍させられた。
      
やがて中小業の多い音楽業界のあるレコード会社に35年近く勤め、
定年退職を迎えたのは2004年(平成16年)の晩秋であり、
最後の5年半はリストラ烈風の中、出向となったりし、敗残者のようなサラリーマン時代を過ごした。
          

この間、私は40代の少し前、あるレコード会社で社内のシステム開発で奮戦していた時、
若き日に映画・文学青年の真似事をして、創作家にあこがれを持ち、
小説家になりたい、と念願していたことが、いかに甘かったか、と遅ればせながら気づかされたのである・・。

こうした心情の奥底の思いは、私と似たような作家志望の人たちに対して、
後年に長年に出版社の光文社で、ご活躍された山田順(やまだ・じゅん)氏が、的言している。

氏の長年の編集者の体験をした発露のひとつ、
《・・私の経験から言うと、作家志望者のほとんどが、実際には印税や名声を望んでいるだけである。
彼らが作品を書くのは、それを得るための手段に過ぎない。

ほとんどの作家志望者は、社会に伝えたい明確なメッセージや思想を持っていないし、
それを裏付ける経験もない。・・》
このように明言され、今後も創作者をめざす人には、貴重な哲学のような銘言と私は感じたりした。
          

そして小説家をめざす数多くの人は、文学部で学び基礎を習得し、その中のほんの一部の方が、
純文学の『新潮』、『文學界』、『群像』などの雑誌で掲載される機会があり、
こうした方たちでも、果たして筆一本で妻子を養っていける方が少ない、と学んだりした。

若き日に私が、たとえ純文学の新人賞を得たとしても、
その後の作品を書き上げて、掲載される保証もなく、才能も乏しく、
やむえず生活の為に、この世に多い教養講座の文藝講師などにありつければよい方だろう・・。

そして、たえず生活費に追われながら、文學の夢を捨てきれない時期を過ごしていただろう、
と深く思ったりした。
                     

このように私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された定年退職後の人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思ったりしているひとりである。

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

日常は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

ときおり、庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、小説、近代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。
          
          
ここ10数年の出版業界の不況を読書好きな私は憂いたりしている。

作家・瀬戸内寂聴さんが確か2009年(平成21年)10月で読売新聞社・主催の講演会で、
発言されたことを思い重ねている。

《・・私を見習って、もしもみなさんの中に小説を書こうと思っていらっしゃる方がいれば、
お勧めしかねますね。
非常に険しい道でございます。
そして人が認めようが認めまいが、芸術というのはその人に才能がなければ意味がないんですね。

一に才能、二に才能、三に才能なんです。
あとは運ですよ。
努力なんてしなくても才能があればモノになる。
これは芸術だけでございます。

作品がどれだけ読まれるか、残るかというところで勝負がつきます。
だいたい流行作家のよく売れてる本というのは死んだら3年と持ちませんよ。
          

わたしの先輩の円地文子さんが、女流作家では最高のところにいらっしゃった方で、源氏物語も訳した方なんです。
その方が顔を見るたびに言ってらっしゃったんです。
「作家なんて生きている間だけよ、生きている間に稼ぎなさい」と。

私もその教えが身にしみていますから、本当に死ねば誰も読んでくれなくなるんですよ。
・・
文学というものは量ではなく質です。
私がなかなか文学賞をもらえないように、これも量ではなく質の問題で、
いくら量を書いても意味がないんですね。
          
しかしその中でも人は認めないけれども、私がよしとするものもあるんです。
それがないと作家なんてやってられませんからね。
小説家で通す、書くことだけで生活する、というのは、やはりとても難しいことです。

私は長く生きて、長くこの世界におりますけれど、今また最低の時代がやってきました。
本屋に行くと山ほど本がありますよ。
読みきれないほど新刊本が並んでおります。
その中でどれだけ残るかわからない。

目まぐるしく人の嗜好(しこう)が変わっておりますからどんどん読み捨てになっています。
出版社がだんだん、もちきれなくなっている。 (2009年12月3日 読売新聞)一部を引用 ・・》
                    

こうした出版業界と創作者の作家の状況の中、電子書籍の時代の著作権が不明確のまま到来、
何よりも出版社と著作者に無断のまま、本を裁断してコピーし、販売する業種も出現し、
出版社などは大揺れの状況下となっている。

或いはアマゾンなどのネット書店に席巻されて、街にあった中小書店が激少し、
出版業界全般として縮小している。


昨今、私が衝撃を受けたは、芥川賞作家の柳美里さんが、インタビューした記事の中で、
《・・多くの作家が経済的に困っている状態ということですか、と問いに、
柳美里さんは、「書くことだけで食べている作家は30人ぐらいではないか」という話を聞いたのですが、
かなりリアルな数字だと思います。
ただ「貧乏は恥ずかしい」と考えている方が多く、公にしないだけだと思います。・・》

こうしたことに私は動顛させられた。
          

そして私が勤めてきた音楽業界のレコード会社の各社でも、
1998年(平成10年)に売上のピークで、これ以降今日まで下降している。

主因としては、経済の低迷化の中で、ネットの違法な音楽配信の蔓延化、そして社会全般の多趣味化であり、
やがて正規な音楽配信元でも、無料、或いは有料の音楽利用料金が普及してきたが、
著作権を有するアーティストに対しての対価は、余りにも廉(やす)過ぎる、と私は感じたりしている。

このような環境下では、肝要の音楽アーティストの多くは、
収入の激少化となり、生活もままならず、創作意欲がなくなってしまうのではないか、
或いは転職を余儀なくされてしまうのではないか、と憂いたりしてきた。
                    

この世には職業には貴賤がないといわれているが、
たとえば政治家の諸兄諸姉は、法律を立案や憲法を改定したり、外交が破綻した時は戦争をしたり、
或いは財界人は経済を発展させる基盤を施策したりして、国民の豊かさを享受させる能力を有する方が、
ここ百年でも歴然といる。

こうした方の前では、小説家とか音楽アーティストなどの創作家の多くは無力であるが、
しかしながら一部の人に圧倒的に感動させたり、感銘させる心を豊かにする作品に、
私は小説家になれなかった劣等感の為か、敬意し絶賛してしまう習性が、ここ50数年の深情である。


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厚生年金受給者でも、或るご家庭の困窮化を学び、無力な私は涙を浮かべて・・。

2015-07-16 15:15:09 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅に住む年金生活の70歳の身であるが、
民間会社の中小業のある会社に35年近く奮戦し2004年(平成16年)の秋に定年退職し、
最後の5年半はリストラ烈風の中、出向となったりし、敗残者のようなサラリーマン時代を過ごした。

その上、私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思い、年金生活を始めた・・。

そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に築後37年を迎える古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

そして私より5歳若い家内も、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。
          

過ぎし2011年(平成23年)の7月下旬のある日、
いつものように午前中のひとときに、駅前のスーパーに向かい買物に行った。

その後はいつものように本屋に立ち寄った時、過日の読売新聞の出版広告で、
たまたま中央公論新社の新書本の案内のひとつで、
西垣千春・著作の『老後の生活破綻 ~身近に潜むリスクと解決策~』を知り、
いずれは読んでおきたいと感じたりしたことを思い出して、本書を手に取ったのである。
            

そして解説文を読んだりした・・。
《・・認知症、病気、詐欺、事故、子どもの失業――老後の生活にはさまざまなリスクが潜んでいる。
そして一度問題が生じると、周囲に気づかれないまま生活が破綻してしまうことも、
現代の日本社会では少なくない。
高齢者を助けるサービスはたくさんあるのに、なぜ十分に活用されないのか。
苦しむ高齢者を一人でも減らすため、また、自分や家族がそうした事態に陥らないために、何が必要なのか。
豊富な実例とともに考える。・・》

そして私は帰宅後、最優先に読み終えた後は、
長い老後を安らかに生きる為の教科書のひとつだ、と心の中で呟(つぶや)いたりした。

本書の中では、《高齢社会の現実》の章に於いては、《高齢化の特徴》、《健康》、《血縁と地縁》、《家計》、
《事例で見る生活破綻》の章に於いては、《判断力の低下》、《健康状態の変化》、《予期せぬ事故・災害》など、
或いは《高齢者特有のリスク》の章に於いては、《生活破綻の実態》、《セルフマネジメント能力の低下》、《人間関係の変化》など、
そして終章の《高齢者の生活破綻を防ぐために》に於いては、多々実例を記載されている。

こうした本書は、齢を重ねた高齢者にとっては、誰しもが避けて通れない切実な難題が明記されている。
                    

私たち夫婦は、幸運にも大病に遭遇せずに今日まで至っている。
医院にお世話になったのは、私たち夫婦はお互いに歯が劣化して、
歯科医院に幾たびか治療を受けてきたぐらいである。

或いは私が2010年〈平成22年〉の秋の健康診断で糖尿病と明示されて以来、
食事の内容はもとより、ひたすら歩き廻ったりして大幅に改善されている。

このように年金生活で、生活破綻だけは回避致したく注意してきた・・。
          

本日、台風11号の影響で雨が降ったりしていた午前中の秋の健康診ひととき、
ネットで新潮社の公式サイト【矢来町ぐるり】を見たりしていた中で、
『日本の貧困と格差(前篇) 「年金では生きていけない赤貧の現場」――亀山早苗(ノンフィクション作家).』
という記事を読んだりした。

こうした不遇の赤貧の実例を学んだりした中で、
特に厚生年金受給者でも、或るご家庭は赤貧化を学び、動顛させられた・・。

無断であるが、ノンフィクション作家・亀山早苗(かめやま・さなえ)さんの寄稿文を転記させて頂く。

《・・コツコツと働けば定年後は年金で相応の暮らしが、というのは過去の話だ。
年金は引き下げられ、医療費や介護保険料は上昇。
ひとたび不慮の事態が発生すれば、赤貧状態に突入する。
もはや誰にとっても他人事ではない貧困と格差の現状を、3回にわたり報告する。

(略)

■厚生年金をもらっていても
          

厚生年金さえもらっていれば生活は安泰なのかといえば、そんなことはない。
人生は「まさか」の連続だ。

都内在住の坂口亮一さん(69歳)=仮名=は、同い年の妻と息子(40歳)の3人暮らし。
長女は結婚して北海道にいる。

高校卒業後、とあるメーカーに就職し、60歳の定年まで無事に勤め上げた。
大手企業ではなかったから給料は高くなかったが、妻もパートで協力、ふたりの子は大学を出してやることができた。

退職金は1000万円ほど。うち500万は自宅のローンの支払いに消えたが、
やりくり上手の妻は800万ほど貯金をしておいてくれた。
そして、坂口さんは定年後も関連会社で、嘱託として働いた。

「60代後半になったら年金も入ることだし、仕事は週に3日くらいにして、
夫婦で旅行をしようと話していたんです」
             

だが、65歳になり、ようやく年金が入るようになると同時に、妻が倒れた。
心筋梗塞だった。
手術を3回もおこなって一命はとりとめたが、入院、転院を繰り返すことになる。

「妻が入っていた医療保険は給付額1日数千円と少なく、貯金を取り崩していくしかありませんでした。
しかもその頃、結婚していた息子が離婚して、ひとりで出戻ってきたんです」

息子は自宅に帰ってくるや、仕事もやめ、ひきこもるようになった。
坂口さんは妻の看病に忙しく、息子の様子にまで気が回らなかったという。

「そのうち仕事を探すだろう、今は疲れているのだろうからそっとしておこう、と思ったのが間違いでした。
息子は養育費を払うと言いながら、働いてもいないから払えず、
結局、私が払うしかなくなったのです」

妻が蓄えてくれた貯金は、みるみる減っていく。
そのうち、家に置いてあったお金がなくなっているのに気づいた。息子である。
坂口さんは、何度も息子に「仕事を探せ」「具合が悪いなら病院へ行け」と言ったが、
息子はのらくらとしているだけだった。

「妻は今、リハビリ病院にいます。高額療養費制度などを利用していますが、
それでも、あれこれ含めると月に6万円以上かかります。
妻が倒れてからは年金だけの生活で、月に20万円になりません。
息子が払うべき養育費が月に3万円。息子にせびられて1万、2万と渡すこともあります」
          

小さな声で、坂口さんは話し続けた。
妻が倒れて4年で、彼自身4キロも痩せたという。

食事は自炊しているが、妻の料理とはほど遠い。
安い米を手に入れ、閉店間際のスーパーで安くなった総菜を買う。
60代とは思えないほど皺の多い疲れた表情に胸が痛む。

■相談することもできない

「息子との諍(いさか)いも増えています。
『そろそろ働いたらどうだ』と声をかけると、『仕事を探しに行くから金を貸してほしい』と言う。
『ちゃんと探しているのか』と叱ると、のそっと私の前に立つんです。

今にも殴られそうでね。警察にも相談しましたが、
誰かに危害を加えたわけではないので、いかんともしがたいと……。
こんな息子になってしまったのも、私たちのせいなんだと思います」
         
         
預貯金はすでに200万円を切っている。
妻の病気が長引けば、坂口さんの生活が破綻するのは目に見えている状態だ。

「預金通帳を見るたびに心臓がどきどきするほど、不安でたまりません。
妻は私が行かないと食事もとらない。
少し認知症が入ってきているかもしれない、と医者に言われました。

だけど、もう看病だけしてはいられない。
元いた会社にすがりついて、半年前から関連会社で週3日、働かせてもらっています。
月に7万円くらいにはなるのですが、それを知った息子にせびられて困っています」

坂口さんは大きなため息をつくと、「どうしてこんなことになってしまったのか」とつぶやいた。
1000万円を超える貯金があったとしても、夫婦どちらかが大病をすれば、
あっけなくなくなってしまうのが現実なのだ。

しかも、こういったケースでは、まだ生活が完全に破綻していないので、
どこかに相談することさえできない。

坂口さんも、妻が倒れてからは親戚づきあいをほとんどしていないし、
病院の相談窓口に行ったこともないそうだ。

「他人に迷惑をかけたくないから」

今まで社会を支えてきた人たちが、そうやって社会と縁を絶つように孤立していく。
彼の場合、息子のことも頭痛のたねだが、誰にも相談できていない。
          

厚労省が目安として発表している厚生年金の平均給付額は、約22万7000円。
だが、総務省の調査によれば、高齢者世帯の消費支出の平均は約23万4500円にのぼる。
最低限の消費支出に、年金がついていっていないのだ。

しかも、高齢になれば健康を損ねる確率も高くなるし、オレオレ詐欺にあったり、
投資だと騙されて預貯金を預けてしまうケースも増えていると、(略)
厚生年金だけでは、不慮の事態にはとても対処できない。

河合克義・明治学院大学社会学部教授は、
根本的には、年金制度の水準が低いことが高齢者の貧困を深刻化させていると言う。

「年金額が実質引き下げられていますし、国民健康保険や介護保険など、
払わざるを得ない保険料が、生活をさらに圧迫している。

それを支える家族も、ぎりぎりの生活をしていることが多い。
貧困状態にある高齢者は他者との交流が少なく、生きがいをもっていないケースがよくあります。
人間は、ただ生きるだけではなく、たまには旅行に行ったりコンサートに行ったりするような生活をすべきなんです。

それが憲法に謳われている『健康で文化的な最低限度の生活』のはず。
今は、その権利が崩れ去っていると思います」

高齢者の貧困問題は、まだまだ表層に出てきていない。
しかし、ギリギリの生活に不安を抱えながら、黙って耐えている人が大勢いる。
それは、明日のあなたの姿かもしれないのだ。・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
          

私は改めて高齢者の貧困を学び、特に厚生年金受給者でも、転記させて頂いたご家庭が、
赤貧化になる実態を知り、動顛させられた・・。

やがて『誰しもが』この人生『予測もつかないまさか』の出来事に遭遇に、悲嘆な実態を学び、
無力な私は、涙を浮かべながら転記したりした・・。

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ここ4日、我が家の65歳の家内は、山ガール以上に早朝から孤軍奮戦して・・。

2015-07-15 14:21:53 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅に住む年金生活の70歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に築後37年を迎えた古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

そして家内は高齢者入門の65歳の身となり、
私たち夫婦はお互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。
           
         
私は中小業の民間会社に35年近く勤め、2004年〈平成16年〉の秋に定年退職となり、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたく、その直後から年金生活をしている・・。

そしてサラリーマンの現役時代に於いては、もとより我が家の収入の責務は私であるので私なりに奮闘し、
家内は結婚して3年を除き、専業主婦の身で、洗濯、掃除、料理、買い物などしたり、
親族の交際も含めて、我が家の専守防衛長官の責任を果たしてきた。

私が年金生活を始めて最初に配慮したことは、
家内の従来の専業主婦の日常のペース、ささやかな憩(いこ)いひとときなどの過ごし時を配慮して、
私は独りで外出して、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受し、
本屋、古本屋に寄ったりしている。
          
          
こうした中で家内は少なくても料理、洗濯、掃除などがあり、
私は現役のサラリーマン時代から、小庭の手入れをするぐらいであったので、
せめて退職後の年金生活に於いては、日常の買物ぐらいと思い立ち、私は自主的に買物の担当となったりした。

それでも小心者の私は、引け目を感じて、家内の茶坊主に専念し、
家内がコーヒーが飲みたい雰囲気を察して、私は日に5回ぐらいは淹れたりしている。
                     

過ぎし12日より、私の住む地域は早朝から快晴となり、やがて最高気温は真夏日の30度前後熱さとなり、
本日の15日まで続いている・・。

この間、家内は2時より起きて洗濯するわ、と呟(つぶや)くように言ったりし、
実行してきた。

本日の朝、私は6時過ぎに起床して、居間に下り立てば、
家内はNHKのテレビニュースを視聴していた。

そして私は何時に起きたの、と家内に訊(たず)ねば、
朝1時半過ぎに起床して、洗濯をしたり、掃除をしたらしい・・。

そして日の出の4時半頃の時間に合わせて、家屋に隣接した小庭にある外干しの竿(さお)に、干したりしていた、
と何かと愚図の私は聞いたりした。

『ここ10数年ブームとなっている山ガールだって・・
この時節は3時半に起床して・・5時前後に次の行程を歩きだすのが、
夏山の標準日程なのに・・XXちゃんは早すぎるょ・・
せめて日の出の頃から起床して、洗濯物を洗濯機にセットすれば・・』
と私は若き学生時代に山歩きのクラブでテント生活をしてきた体験を含めて、
家内に言ったりしてきた。
                       

『それじゃ・・洗濯物は予定通り終わりません』
と家内は言いながら、やがて第二波、第三波と洗濯物を洗濯機にセットし、
やがて外干しの竿(さお)に、干してきたのが、実情であった。

我が家の洗濯物は、ときおり独り住まいとなっている家内の母の季節物が加わっているので、
少し多いと思われる。

私より14歳ばかり齢上の高齢者である家内の母は、身の廻りのことが出来ても、
大掃除、季節ごとの室内のカーテン、暖冷房器具、衣服、庭の手入れをなどは、おぼつかなくなり、
長女の家内は季節の変わるたびに、程ほど長期に滞在し、孤軍奮闘を重ねている。

過ぎし6月29日から7月10日まで11泊12日間で、家内は実家に行った後、
家内の母の春物の普段着の衣服、カーテン、毛布などを宅配便を利用して、
我が家に送付したりしていた。

このような事情もあり、ここ4日、家内は私たち夫婦の洗濯物を含めて、
大量の洗濯物に対処してきたのである。
                       

本日の午前10時過ぎに、早朝より燦々照らす初夏のような陽射しの中、
いつものように私は買物に出かけた。

まばゆい陽射しで青空は雲ひとつなく、私は銀行に寄ったり、スーパーで買物を終えて、
我が家に帰宅したのは11時過ぎであった。

そして小庭にある外干しの竿(さお)に、多くの洗濯物が干されて、
これだったら昼過ぎまでは乾くし、洗濯日和だ、と私は微笑んだりした。

そして私は着替えて、アイスコーヒーを飲んだりし、
『少し昼寝をしないと、身体が壊れるょ』
と私は家内に言ったりしている。

『今朝の洗濯で、お母さんの物は終わったから・・あとはいつも通り・・大丈夫だわ』
と家内は私に応じたりした。

過ぎしここ2日間、家内は居間の片隅で夏掛けの布団にくるまり、
一時間ぐらい昼寝をしてきた。

その後は夜の9時過ぎに寝室に行き、寝付いてきた。
             

しかし家内は何かと早期解決の性格で、いつもの平常になっても、
遅くても早朝3時頃から、洗濯物を洗濯機にセットしてきているので、
『XXちゃんには・・負けるょ』
と私は家内に微苦笑しながら言ったりし、早や10年となっている。

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熱中症より “夏血栓”が怖いことを学んできた私は、思い浮かべて、やがて私は・・。

2015-07-14 13:18:11 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の70歳の身であるが、
本日の午前中のひととき、いつものように平素の買物専任者の私は、
家内からの依頼品を確認した後、最寄りのスーパーに向った・・。

そして夏季の制服のようになった半袖のスポーツシャツ、長ズボン、そして夏の帽子を深くかぶり、
ウォーキング・シューズで足元を固め、
そしてA4サイズのバックを斜め掛けにして颯爽と歩いたりしてきた。
          

しかしながら燦々と陽射しが照らし、雲ひとつない青空の中、歩いたりすると汗ばみ、
ハンドタオルで顔をふいたりし、ときおり扇子を取りだして扇(あお)いだりした。

そして体力の衰えた私は、人生は気合いだ、と自身を叱咤激励したりした。

この後、買物の帰路、小公園に立ち寄り大きな樹の付近にあるベンチで休んでいる時、
隣接している遊歩道を女性3名の方が歩きながら、
昨夜、お隣のご主人・・熱中症で救急車で・・と話し合っていたことが、私は聞こえたりした。

私は熱中症は未体験であるが、この熱い季節・・確かに怖いよなぁ、
と思ったりした後、やがて昨年 “夏血栓”をネットで偶然に知り、
熱中症より “夏血栓”が怖いことを学んだりした。
          

昨年の7月28日に若き男性向けの『週刊プレイボーイ』に掲載された記事のひとつで、
『週刊プレイボーイNEWS』として配信された記事を偶然に読んだりした。

無断ながら転載させて頂く。

《・(略)・・夏本番を迎えた日本列島。
そんなときに気をつけたいのは「熱中症」だが、もっと怖い障害が起こり得ることをご存知だろうか。

それが「夏血栓(なつけっせん)」だ。
つまり、夏に起こりやすい血栓だから「夏血栓」。
              

まずは血栓のメカニズムについて、池袋大谷クリニック院長の大谷義夫医師に説明してもらおう。
具体的には、夏に起こる心筋梗塞(しんきんこうそく)や脳梗塞(のうこうそく)、肺血栓塞(そくせん)症などだというが、

「血栓は、イメージとしては水道管などの曲がっている部分やふた股などに分かれている部分に
さびができたりゴミがたまったりするのと同じです。
血管の中に、血液に含まれるタンパク質や血小板などがたまってしまうのが血栓です。
これは誰にでも起こり得ます。

そして、この血栓の塊がはがれて血管の中を流れ、脳の細い血管に詰まって、
そこより先の細胞が壊死(えし)すれば脳梗塞になります。
心臓に詰まれば心筋梗塞になり、肺に詰まれば肺血栓塞栓症になるわけです」
          

血栓ができやすい要因は大きく分けて3つあると大谷医師は言う。

【1:血管が障害を起こしている】
高血圧や脂質異常症、糖尿病などによって、血管の内側が傷ついているときなど。

【2:血流が悪い】
飛行機やクルマなどの狭い座席に長時間同じ姿勢で座ったりして、血管が圧迫されているときなど。

【3:ドロドロ血】
脂質異常症や脱水症状などで、血液の成分がドロドロになっているときなど。

そんな血栓が夏に起こりやすいのは、熱中症と同様に、脱水症状が関係している。
          

夏血栓の予防を呼びかけている日本ナットウキナーゼ協会の原弘之氏が語る。

「冬の血栓症は暖かい部屋から急に寒い室外に出たときなど、
急激に血管が収縮し、血流が早くなって血栓がはがれ、脳や心臓の血管に詰まることが多いといいます。

一方、夏血栓は脱水症状などで血がドロドロになることが主な要因です」

もちろん、ドロドロ血に加え、長時間同じ姿勢をして血流が悪くなれば危険度はさらに上がる。

「トラックの運転手の方やデスクワークの方など、
何時間も同じ姿勢でいると肺血栓塞栓症を発症しやすくなります」(前出・大谷医師)

また、外回りでなくデスクワークだからといって安心していると、
エアコンの風のために汗をかいた自覚がなくても、知らないうちに脱水症状になっていることもある。

つまり、夏の暑い日に急に気分が悪くなれば、まず熱中症を疑いたくなるが、
実は夏血栓の場合もある、ということだ。

しかも、そこで間違った処置をしてしまうと命を落とす危険が一気に増す。

「例えば、急性肺血栓塞栓症と診断が確定され治療した場合の死亡率は、2%から8%ですが、
夏血栓とわからず適切な治療が行なわれなかった場合の死亡率は、30%に上ります」(大谷医師)

やっかいなのが、素人には自分が熱中症なのか、夏血栓なのか判断が難しいこと。
          

「熱中症の場合は、体を冷やすなどの処置をしますが、
脳梗塞などの場合は血栓を溶かす作業をしなくてはなりません。
判断を間違えたために障害が残ったという症例もあるようです」(前出・原氏)

そのため、熱中症だと思って日陰で休んでいたら、突然、死んでしまうという恐れも……。

「急性肺血栓塞栓症の死亡例の40%が、発症1時間以内の突然死です。
症状は発熱、冷や汗、動悸(どうき)、咳、呼吸困難、胸の痛み、血痰など。
もし苦しいと感じたら、自分で判断しないで早めに病院で検査を受けたほうがいいでしょう」(大谷医師)


では最後に、夏血栓の予防法、ズバリ教えてください!

「日頃からドロドロ血にならない食べ物を取るのも大切です。
例えば、納豆に含まれているナットウキナーゼは血栓を予防する効果があります」(原氏)

「とにかく同じ姿勢でいないこと。そして脱水症状にならないようにこまめに水分補給をすることです」(大谷医師)
(取材/村上隆保)・・》
注)記事の原文あえて改行を多くした。
          

私は恥ずかしながら「夏血栓(なつけっせん)」は、昨年の今頃初めて学んだ・・

そして何よりも怖いのは、《夏の暑い日に急に気分が悪くなれば、まず熱中症を疑いたくなるが、
実は夏血栓の場合もある》、
《素人には自分が熱中症なのか、夏血栓なのか判断が難しいこと。》
その後の処置、治療を誤れば・・怖い、と感じたりした。


私は過ぎ去りし年の2010年〈平成22年〉の秋の健康診断を受診した時、
糖尿病と明示され、茫然としながら、翌日より食事の内容はもとより、ウォーキング、散策をしたりして、
大幅に改善されている。

お酒大好きなの呑兵衛の私は、日本酒の純米酒、ビールを長き45年ぐらい夜のひととき愛飲してきたが、
糖尿病と宣告されて以来、 冠婚葬祭、懇親会、国内旅行など以外は、
原則として自宅で呑むのは、5日に一度ぐらいとしてきた。

この間、最寄の内科に4週間毎に定期健診を受けているが、
ここ4年は悪玉コレステロールは基準値の90%、これ以外はほぼ優等生となって、
改善努力の成果となっている。

こうした定期健診を受けるたびに隣接した薬局で、血糖値を下げる薬を頂き、
日々朝食後に飲んでいるが、これ以外は至って健康だ、と思ったりしている。
          

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に築後37年を迎える古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

そして私より5歳若い家内も、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。


私の朝食の原則として、前菜を必ず頂いている。
キャベツを千切って電子レンジで少し温めて、もずく三杯酢をかけて盛大に頂くこともあるが、
昨今は天候不順で、新鮮なキャベツにめぐり逢えないと気が多くなっている。

こうした時は、新タマネギをスライスし、生ワカメとあえて、
そしてミッカンぽん酢とお醤油をかけて、大きな皿に盛大に食べたりした。

やがて十六穀米の入った白米のご飯、インスタントのワカメの味噌汁、
コブの佃煮、ラッキョの塩漬け、福神漬け、カブの醤油漬け、カブの葉の塩漬け、焼きノリ、
そしてシャケの瓶づめ、或いはサバ缶のミソ煮で頂く、

私は幼年期に農家の児として育ったので、齢はかり重ねた今でも、
ご飯と汁、おかずと香の物で成り立っていた庶民の代表とされる『一汁三菜』の真似事をしている。

そして夕食を頂く前に、前菜を朝食と同様に頂くことが、ここ5年ばかり続いている。
                       

そして殆ど毎日、平素の買物メール老ボーイの私は、
最寄りのスーパー、或いは駅前のスーパー、専門店に行ったりしている。

いずれの方面の路線バスの利便性は良いが、年金生活を始めてから原則として散歩も兼ねて、
路線バスを利用することなく、ひたすら歩いたりして、季節のうつろいを享受している。

こうした根底には、歩きながら観える景観に良いし、
四季折々の季節のうつろいに心も身もゆだねて、何よりも健康にもよい、と固く信じてして歩いてきた。
何よりも歩けなくなった時は、もとより自由な時が制約され、何よりも困苦するのは自身だ、
と秘めながら日々歩いている。
          

こうした時、ときおり ♪しあわせは 歩いてこない  だから歩いて ゆくんだね・・
と何かと単細胞の私は、1968年(昭和43年)の頃に流行(はや)った歌を心の中で唄うこともある。

今回の夏血栓(なつけっせん)のことを改めて思い浮かべて、やはり歩き、よく寝て、程ほどに食べて・・
日々を過ごせれば・・と思いを深めたりしている。

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東京郊外の住む我が家、昨夕より夏の陣の体制となり、私は微笑み・・。

2015-07-13 11:59:05 | ささやかな古稀からの思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の70歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に築後37年を迎える古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

そして私より5歳若い家内も、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。
                       

私の住む世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅の地域は、
過ぎし日の6月29日より霧雨、小雨が降る日が多く、気温は平年より低く、
梅雨の時節であるが、ときには梅雨の晴れはどうしたのょ、
と私は空を見上げたりして、戸惑ったりしてきた。

やがて7月10日を迎えると、10日ぶりの陽射しの中、午後より快晴となり、
急激に最高気温が28度ぐらいとなった。

一昨日の11日は快晴となり30度となり、今年初めて真夏日かょ、
と私は微苦笑したりした。
          

私は幼年期に農家の児として育てられた為か寒さには強く、暑さに何よりも苦手な身であり、
家内は寒さに弱いが、夏の暑さは30度ぐらいでは平然としている。
こうした風変わりな夫婦なので、困ったなぁ、と少しばかりため息をしたのである。

このような状況であり、家内はクーラーの冷風が苦手であり、
私はクーラーの冷風をこよなく愛するタイプであり、
毎年、夏の初め梅雨の時節は、我が家は『冷たい戦争』となってきた・・。

家内からすれば、女の人は冷え症の方が多く冷風は禁物なのよ、
と天上の神のような声に私には聴こえたので、
これ以来、私なりに多少耐えてきたのが実情となっている。

私が若き40代の当時、サラリーマンで奮闘していた時、
休日の時、テレビで確か主婦連の女性が、
夏のクーラーは程々に倹約して27度を超えたら、体調を配慮してクーラーを、
このような発言をしていた。

我が家は古い温度計しかなかったので、
まもなく私は真夏日の日曜日に渋谷のデパートに出かけて、
西ドイツ(現在・ドイツ)製の堅牢な温度・湿度計を購入したりした。
               
                我が家の居間にあるが、今回は特別に移動して記念写真とした。
そして、この後の暑い日になると、
『XXちゃん・・30度を超えているょ・・
主婦連だって・・体調を配慮してクーラーを・・と言っていたよ』
と私は温度計を指して、家内が見た後、クーラーの冷風をセットするのが、
ここ20年の我が家の習性となってきた。
          


一昨日の11日の午前中のひととき、私は平素の買物専任者のメール老ボーイの身であるので、
この日は歩いて10分ばかりのスーパーで買い物をしたりした。

燦々と陽射しが照らす中、夏の帽子を深くかぶり、半袖のスポーツシャツ、
長ズボンの容姿で颯爽と歩いたりしたが、汗ばみ、ハンドタオルで顔をふいたりした。
そして帰宅後、洗面所で冷たい水で顔を洗ったりした。

家内は窓を開け放ち、掃除をしていた・・。
そして部屋の片隅で、扇風機の羽根が元気よく廻っていたのであった。

『扇風機かょ・・』
と私は心の中で呟(つぶや)き、
やむなく私は団扇(うちわ)を取り出して、扇(あお)いだりした。

やがて昼下がりのひととき、私は奥の和室に簡易ベットを敷いて、
私は扇風機の風を受けながら、横たわりながら本を読んだりし、少し昼寝をしたりした。


昨日の12日の午前中のひととき、私はいつものように平素の買物し、
この日は歩いて8分ばかりのスーパーで買い物をし、帰宅した。

この後、私たち夫婦は昼食代わりの素麺(そうめん)を頂いている時は、
30度を超えていたので、
私は扇風機の風に吹かれて、家内と話したりしていた。

『節電の時世・・数年前、確か政府は28度ぐらいの室温に協力を・・と言っていたよねぇ・・』
と私はエアコンの冷気が苦手な家内に言ったりしたのである。

『そうでしたよねぇ・・』
と家内は微笑みながら私に言った。

『確か・・25年前頃・・主婦連の方たちが、夏のエアコンの最適な温度は、
27度ぐらいが理想的・・と記憶しているが・・』

『あの当時は・・エアコンは冷やすものだと・・
各家庭が寒いぐらいに冷やしていた時代だから・・適温を言ったのよ』
と家内は笑いながら私に言ったのである。

『先ほど、そこにある温度計・・30度を超えていたよ・・
我が家でも、今年初めてのエアコン・・セットしょうか?』

『今頃から・・エアコンのお世話になると、非国民と言われますよ・・』
と家内は私に言ったりした。

『非国民かょ・・XXちゃんも昭和24年生まれなのに・・よく知っているねぇ』
と家内より5歳ばかり齢上の私は苦笑したりした。
          

やがて3時過ぎ、家内は奥の納戸から収納している簾〈すだれ〉を取りだして、
各部屋に掛け始めた・・。

この間、クーラーの自動掃除をセットしたりした。

平年ならば学童が夏休みに入る21日の頃に、私の住む地域は『梅雨明け』となり、
これに順応して、我が家はクーラーの冷気の生活となるのであるが、
高齢者を大切にしましょう、と私は家内に幾たびか言ったりしていたので、
こうした効果が表れたのかしら、と私は微苦笑したりしていた。

そして、冷風を受けた私は、夏の熱い時期はこの世で一番の贈り物だ、
と確信を深めたりした。
          

このような事は、ここ10数年の習〈なら〉わしとなっている。

洋間であったら、雨戸、網戸、ガラス戸があるが、この季節はカーテンを外して簾〈すだれ〉とし、
和室も同様に、雨戸、網戸、障子となっているが、簾〈すだれ〉を掛けたりしている。

そして居間を中心に、和室、洋室、玄関、洗面所、トイレの窓際まで、
簾〈すだれ〉を付けている。
          
            玄関の内部の窓辺、簾〈すだれ〉の上に、黒地の布をして、陽射しの熱さを防いでいる。

この熱い時季は朝涼(あさすず)が残る9時が過ぎる頃まで、
網戸と簾〈すだれ〉にして、風を通したりしている。

そして私は駅前までの片道徒歩20分のスーパーに行ったりした後は、
散策も近回りのコースを歩き廻ったりして、ときには扇子を取りだして扇(あお)いだりしているが、
汗がひたたり落ちる・・。
          

やむなくハンドタオルで顔などを拭いながら、できる限り樹の下にある歩道を歩いているが、
炎天下の道もあるので、高齢者の私でも気合いを入れて、冬の寒さを思い浮かべて、
足早に歩いているのが実情であった。

こうした中でも、34度前後を超えた場合は、やむなく利便性の良い路線バスに乗り、
バスの車内の冷気に甘えて帰宅することもある。

もとより高齢者の私が、熱中症で倒れて救急車、病院に入院するは、
世の中にご迷惑するので、私なりに自己防衛策としている。

そして帰宅後は、洗面所で顔を洗い、エアコンの冷気の中で、衣服を着替えたりしている。

この間、家内は平素の室内の掃除を終えて、
居間のエアコンの冷房を省エネの28度に設定している・・。
やがて居間、玄関の内部、洗面所、トイレ、台所など完全冷房となる。

そして私たち夫婦は、17畳ぐらいの居間で、日中の大半を過ごしている。

私は居間で机の上に置いているパソコンに向かったり、
或いはソファーに座り、本を読んだりし、ときおり庭を眺めたりする時、
ほのかな暗さを通して、樹木、草花が涼しげに見えたりし、微笑んだりしてきた。
              

この簾〈すだれ〉は紐でスルスル上げ下げの調整も出来、
その上に布地も少し左右に開くことが出来るようにしたので、
平安時代の高貴な女性の部屋のように思えて、私は家内に我が家は平安朝だよねぇ、
と時折たわむれた事を言ったりしている。

こうした中、居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

そして昼下がりのひととき、簡易ベットを敷いて、
私は横たわりながら本を読んだりし、ときには昼寝をしたりしている。

家内はソファーに座り、本を読んだりし、テレビを視聴したり、
日中のひととき、居間の片隅で夏掛けの布団にくるまり昼寝をしたりしている。

やがて夜の8時過ぎには、2階の寝室に冷房のセットをしたりしている。

このような我が家の夏の陣としているが、もとより熱中症で救急車のお世話になることは避けたく、
冷茶、アイスコーヒー、ときにはペットボトルの麦茶、ウーロン茶を飲んだりして、
私たち夫婦は熱い季節を過ごしたりしている。

こうした生活を残暑が残る秋のお彼岸の頃まで、過ごすが我が家の実態となっている。

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年金生活11年生の私、こよなく読書を愛して、早や55年が過ぎ・・。

2015-07-12 12:35:34 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活の70歳の身であるが、
私は今住んでいる近くに生家があり、1944年〈昭和19年〉の秋に農家の三男坊として生を受けた。

この当時の生家は、祖父、父が中心となって先祖代々から農業を引き継いで、
程ほど広い田畑、雑木林、竹林などを所有し、小作人だった方の手をお借りながらも田畑を耕していた。

こうした中、私は長兄、次兄に続いて生まれた三男であり、
農家の跡取りは長兄であるが、この当時も幼児に病死することもあるが、
万一の場合は次兄がいたので万全となり、今度は女の子と祖父、父などは期待していたらしい。

私の後に生まれた妹の2人を溺愛していた状況を私なりに感じ取り、
私は何かしら期待されていないように幼年心で感じながら、
いじけた可愛げのない屈折した幼年期を過ごした。
          

やがて1953年(昭和28年)の3月になると、前の年から肝臓を悪化させ、寝たり起きたりした父は、
42歳の若さで亡くなった。

そして祖父も跡継ぎの父が亡くなり、落胆の度合いも進み、翌年の1954年(昭和29年)の5月に亡くなった。

どの農家も同じと思われるが、一家の大黒柱が農作物のノウハウを把握しているので、
母と父の妹の二十歳前後の未婚のふたりの叔母、
そして長兄は中学1年で一番下の妹6歳の5人兄妹が残されたので、
家は急速に没落なり、生活は困窮となった。

そして私たち子供は母と叔母に支(ささ)えられ、そして親類に見守り中で、貧乏な生活が始まった。
          

この間、私が地元の小学校に入学したのは、1951年〈昭和26年〉の春である。

私は小学校の学業は、兄ふたりは優等生であったが、
なぜかしら私は通信簿『3』と『2』ばかりの劣等生であった。

そして、この頃に生家にある本と云えば、
農協の発刊する月刊誌の『家の光』ぐらい記憶にない。

やがて小学5年の時、近くに引っ越してきた都心に勤めるサラリーマンの宅に行った時に、
居間にある書棚に本が並んでいたを見た時は、
私は子供心でも、眩暈(めまい)を感じたりした。

その後、私が都心にある高校に入学してから、
遅ればせながら、突然に読書に目覚めて、活字から綴られた底しれぬ内容はもとより、
行間から感じられる深淵に、圧倒的に魅せられた。
そして高校二年の夏に、初めて小説の真似事をし、原稿用紙に習作をしたりした。

この間、小学4年生の頃から独りで、たびたび映画館に通ったりしてきた映画少年の体験も加わり、
これが原因で、東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)の直前に、
映画の脚本家になりたくて、大学を中退した。
                    

この少し前の高校3年を卒業するころから、映画専門誌の『キネマ旬報』などを精読し、
古本屋まで行って買い求めたりし、 一年後には500冊ぐらいなったりした。

そして、脚本家として橋本 忍(はしもと・しのぶ)さんを神様のように信愛した。
映画監督の場合だと特にデビット・リーン、そしてセルジオ・レオーネの両氏に夢中になったりしていた。
アルバイトをしながら、映画青年の真似事をし、シナリオの習作をしたりしていた。

この間、専門養成所に入り、やがて講師の知人の新劇の長老から、
映画は衰退するばかりで、同じ創作分野だったら小説を書けば、と強く勧められたりした。
          

私は遅ればせながら高校に入学してまもなく、突然に読書に目覚めて、
この時から小説、随筆、ノンフェクション、月刊雑誌などを乱読してきた。

読書に魅せられるのは、創作者より、文字から伝えられる伝達力、創造力が
それぞれ読む時の感受性、知性、想像力により多少の差異があるが、
綴られた文章はもとより、この行間から感じられる圧倒的な魔力から、
高校生の時からとりつかれたのであった・・。
                 
       
そして小説・随筆系は文学全集のひとつ中央公論社の『日本の文学』90巻を基盤として精読した上、
純文学の月刊誌『文学界』、『新潮』、『群像』、
中間小説の月刊誌『オール読物』、『小説新潮』、『小説現代』を購読したりし、
こうした中で、魅了された作家は20名ぐらいあったが、
圧倒的に魅せられたのは、井上 靖、そして立原正秋の両氏であった。

この当時の私は、アルバイト、契約社員などをしながら、習作をしていた。

そして確固たる根拠もなかったが、独創性はあると思いながら小説の習作したりし、
純文学の新人コンクールに応募したりしたが、当選作の直前の最終候補作の6作品の直前に敗退し、
こうしたことを三回ばかり繰り返し、もう一歩と明日の見えない生活をしていた。

こうした時、お彼岸の懇親の時、親戚の小父さんから、
『今は若いからよいとしても・・30過ぎから・・家族を養えるの・・』
と素朴に叱咤された。

結果としては、30代に妻子を養う家庭のことを考えた時、
強気の私さえ、たじろぎ敗退して、やむなく安定したサラリーマンの身に転向を決意した。

そして何とか大手の企業に中途入社する為に、
あえて苦手な理数系のコンピュータの専門学校に一年通い、困苦することも多かったが卒業した。
          

やがて1970年〈昭和45年〉の春、この当時は大手の音響・映像のメーカーに何とか中途入社でき、
そして音楽事業本部のある部署に配属された。

まもなく音楽事業本部の大手レーベルのひとつが、外資の要請でレコード専門会社として独立し、
私はこのレコード専門会社に転籍させられた。
      
                                         
その後の私は、数多くのサラリーマンと同様に多忙な生活となり、
こうした中で、あるレコード会社の情報畑、管理畑に勤めながら、
特に水上 勉、庄野潤三、城山三郎、松本清張、山口 瞳、向田邦子、宮脇俊三、倉本 聡、浅田次郎の
各氏の小説・随筆、シナリオを読むことが多かった。

そして2004年(平成16年)秋に35年近く勤務し定年退職したが、
この最後の5年半は、リストラ烈風の中、はかなくも出向となったりした。

出向先は、各レコード会社がCD、DVDなどの音楽商品を委託している物流会社で、
不馴れな職場で、自分の敵は自分です、と自身を叱咤激励したりした。

こうした中で、先輩、同僚、後輩の一部は、やむなく退職を余儀なくされ、
私は何とか定年退職を迎えることができたので、敗残者のようなサラリーマン航路を過ごした。

このように私のつたないサラリーマン時代であり、
一流大学を卒業され、大企業、中央官庁などで、38年前後を邁進し栄達されたエリートとは、
私は遥かに遠い存在である。

私は定年退職するまで人生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれながら、つたない言動も多く、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思い、年金生活を始めた・・。
          

こうした中で、読書好きな私は、単行本、新書本、文庫本の書籍に於いては、
定年後からは特に塩野七生、阿川弘之、佐野真一、藤原正彦、嵐山光三郎、曽野綾子、三浦朱門、
高峰秀子、松山善三、櫻井よしこ、徳岡孝夫、中西輝政の各氏の作品を中核に購読している・・。

雑誌の月刊総合雑誌としては、『文藝春秋』は45年近く購読し、毎月秘かに逢える心の友のひとりとなっている。
そして『中央公論』、『新潮45』は特集に魅せられた時は購読している。
或いは季刊誌としては、『文藝春秋SPECIAL』を購読しているが、
今や季節をめぐる毎の秘かな恋人ように愛読してきた。
          

ここ数日は、10日に発売された月刊総合雑誌の『文藝春秋』(8月号)、
そして『中央公論』(8月号)を購読している。

たとえば、『文藝春秋』(8月号)に於いては、
特集のひとつとして『戦後70年 崩壊する神話~この国のかたちを問う53人の提言~』
各知識人のそれぞれの提言を読み終わった後、そうですよねぇ・・、と同意したり、
私は無知でした、と心の中で呟(つぶや)いたりし、教示されたりしてきた。

或いは『中央公論』(8月号)に於いては、
特集のひとつとして『地方移住は「姥捨て山」か~激震!介護破綻 増田リポート~』として、
舛添要一×増田寛也、両氏による『都知事、高齢者の増加を受け止めきれますか? 』、
或いは藻谷浩介氏の『目覚めよ! 東京圏の市民』など、多々教示されたりしてきた。

そして特集のひとつとして『終活 人生の幕引きを考える』では、
鎌田實、山折哲雄、下重暁子、荻野アンナ・・4人のお方の人生観や死生観を学び、
微苦笑しながら、そうでしたか・・、と溜息を重ねながら、思案させられたりしてきた。
            

こうした乱読をしてきた読書は、つたない私でも、こよなく愛して、早や55年が過ぎている。

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ふたたび我が家は、ふたりで一人前の家庭体制となり、私は・・。

2015-07-11 09:14:52 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅に住む年金生活の70歳の身であるが、
昨日は何かと読書好きで深夜族の老ボーイの私でも、家内が我が家に帰宅となる日なので、
朝は4時過ぎに目覚めて、部屋の掃除、台所、洗面所などを少し丁重に手入れをしたりした。
   
やがて私は、居間でぼんやりと10日ぶりの陽射しを眺めて、
ゆったりすると、疲れを感じたか眠くなり微苦笑したりした。

しかしながら午後1時から見のがしていた映画『わが命つきるとも』がBS3で放送されて知り、
私は居間でテレビを視聴しながらブルーディスクに録画をセットし、
ゆったりとソファに座り、鑑賞した。

もとより映画『わが命つきるとも』は、監督・フレッド・ジンネマン、 脚本・ロバート・ボルト で、
有力な数多くの俳優を配して、1967年に公開され、
やがて第39回アカデミー賞の作品賞、監督賞、主演男優賞、脚色賞など
8部門を獲得した名作品である。

私は無念ながら見のがして名画であったので、眠さも吹き飛び視聴していた・・。

やがて2時半過ぎに、玄関のチャイムが、かろやかに『コッキラコ~ン・・』と二回ばかり居間の片隅に響き、
私は今頃どなたかしらと思いながら、『はぁ~い』と明るく大きな声で玄関に向かった。
            

そして玄関の軒下で、家内が両手に紙袋を提げて、立っていた。

『XXちゃん・・少し早いじゃないの・・お疲れ様でした』
と私は家内に言ったりした。

家内は家内の母宅に滞在している昨夕、私は電話連絡の中で、
日中は熱くなるから、夕方の涼しくなる頃が楽だから、
と私は家内に言ったりしていたが、早めに我が家に帰館としたので、少し驚いたりした。
          

家内は過ぎし6月29日より家内の母宅に11泊12日で行き、
この間は家内は、家内の母の宅で孤軍奮闘しているが、
残された私は我が家で『おひとりさま』の独りぼっちの生活となってきた。

そして何かと愚図で齢ばかり重ねた私は、季節ごとに独り住まいの家内の母宅に6泊7日前後で、
孤軍奮闘している家内をときおり思いながら、
残された私は『おひとりさま』の特別演習かしら、と思いながら手抜きながら生活を過ごしてきた。


やがて夜の6時半過ぎ、お互いに風呂に上がった後、
家内が帰宅の途中で、デパートの地下階のお惣菜コーナーで買い求めた5品ばかり、
私たち夫婦はお互いに缶ビールを呑みながら、夕食とした。

こうした中で家内の母の情況を私は教えて貰ったり、
私の『おひとりさま』の生活の失敗談を話したりして、2時間ばかり談笑し、
ふたりだけの宴会をしたりした。

やがて私は眠くなり寝室に向かった。
            


私は中小業のある民間会社に35年近く奮戦して2004年(平成16年)の秋に定年退職となり、
多々の理由で年金生活を始めた。

当時、家内は専業主婦だったので、家内の日常のペースを出来る限り乱したくないので、
家内は殆ど従来通りの料理、掃除、洗濯などをしてもらい、その間のささやかな息抜き・・趣味ごと、
これを邪魔にするのは、まぎれなく天敵と私は確信を深めていた。

そして一日、少なくとも一回は外出し、家内の自由な時間を作ることと思い、
せめて日常の買物ぐらいはと思い、買い物の担当を引き受け、
独りで殆ど毎日スーパー、専門店に行き、ときおり本屋に寄ったりしている。

その後は自宅の周辺にある遊歩道、小公園などををひたすら歩き廻り、散策をしながら、
季節のうつろいを享受している。
                       
こうした中で年金生活をした当初、独りで近所の遊歩道を散策したりすると、
こんなに自由に働くことなく散歩できるなんて、この世の中で許されても良いのかしら、
と定年直前までの多忙期を思い重ねたりし、戸惑いながら甘受したりした。
          
       
そして何よりも朝の陽射し、昼下りのひととき、そして夕暮れ時に、
ゆっくりと時と共に過ごし、苦楽の激しかった現役時代を思いながら、微苦笑を重ねたりする時もある。
                

定年後の年金生活の日常の大半は、平素の買物専任者の責務を終えた後、
散策したりした後、随筆、ノンフィクション、現代史、総合月刊雑誌などの読書、
ときおり20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
或いは音楽も聴いたりしている。

ときたま小庭を手入れをしたり、退職後の年金生活で過ごして今日に至っている・・。

このような年金生活をしているが、
ときおり家内から、働かなくても私たちの生活できるのだから、ありがたいわ、
と言われたりするたびに、
私は拙(つた)ない自分の半生のひとこまが、走馬灯のように甦(よみがえ)ったりしている。
                    

こうした中で、私たち夫婦の共通趣味のひとつは、国内旅行であり、
子供に恵まれなかった為か、若き新婚時代から、数多く旅を重ねたりしているが、
定年後は旅程の制約から解放されて、5泊6日前後で観光ホテルに滞在し、
周辺を歩いたりして遊学している。

このような旅路が多いが、私たち夫婦がそれぞれ意欲と体力があるうちに、
ノコノコと出かけて歩き廻ることが多いのである。
                              
          
そして私はこれまでの60代の日々は、幸運にも大病に遭遇せずに過ごし、
家内も心身溌剌としている。

もとより健康でなければ自身の日頃のささやかな願いも叶わないこともあり、
実践のひとつとしては、何よりも怖いのは、痴呆症などであり、
これだけは回避したく、ひたすら歩いたりしている。


我が家は年金生活を始めた時、我が家は無念ながら金庫がないので、最寄りの銀行の貸金庫を利用している。
こうした時、私たち夫婦は重要な不動産に関する書類、定期貯金通帳などをあずけているので、
私たちは出し入れをする時は、間違いないようにも、必ずふたりで確認してきた。

或いは人通りの少ない道に家内が出かけたり、ときおり家内の要望で駅前に買物をしたり、
年に4回ぐらいは都心の新宿のあるデパートに買い物をする時は、
体力の衰えた高齢者の私でも、一家の主(あるじ)の責務と確信を深めて、
家内のボディーガード兼お供、そして荷物持ちで、共に出かけたりしてきた。
          
ときおり小庭の手入れに関しては、私の責務の範疇となっているが、蚊の出る5月下旬頃から10月頃を除き、
体力の衰えた私を見かねて、家内の支援を受けている。

こうした理由の根底には、私が定年後まもなくして、
ご近所より少し広い我が家は、植木屋さんに年に数回依頼すれば、数10万円と教えられたので、、
家内は3泊4日ぐらいの私たちの旅行が2回ぐらいできるわ、と私に言い、強力な支援の根源となっている。
                    

初夏の陽射しが射す頃には、我が家は家内の指揮のもとで、 簾〈すだれ〉を各部屋に掛けているのが、
ここ10数年の習〈なら〉わしとなっている。

洋間であったら、雨戸、網戸、ガラス戸があるが、この季節はカーテンを外して簾〈すだれ〉とし、
和室も同様に、雨戸、網戸、障子となっているが、簾〈すだれ〉を掛けたりしている。

そして居間を中心に、和室、洋室、玄関、洗面所、トイレの窓際まで、
簾〈すだれ〉を付けている。
          
こうした時は、納戸に保管している簾〈すだれ〉を家内の陣頭指揮のもとで、
私は頼りない助手となって、取り付けたりしている。
          
このように私たち夫婦は、ふたりで一人前だょねぇ、とお互いに微苦笑してきた。


我が家の戸締りの責任者は、もとより主(あるじ)の私であり、
夜の9時過ぎには、玄関、台所、お風呂場などを点検する時、
『ハイ、OKです!』
と指差し確認し、若き自衛隊の諸兄に負けないように、元気な声で言ったりしている。

この後、居間でテレビを視聴しているか、雑誌を読んでいる家内に、
『戸締り・・終了致しました!』
と私は家内に報告したりする。

その直後、『ご苦労であった!』と家内は私に言うのである。

私の現役時代に於いては、ご苦労さまでした、と家内は何かと従順で優しく労(ねぎら)いの言葉をしていたが、
どうしてなの、と私は不思議に思ったりした。

その後、思い当るとすれば、家内は以前にNHKの連続ドラマの『篤姫』を視聴した頃からで、
お姫さま、或いは奥方に影響されたのか、
このような言葉を私にするようになっていることが多い。
                              

ご近所の方の奥様たちから、私たち夫婦の年金生活を見かけ、
仲良しねぇ、と社交辞令のお世辞を頂いている。

しかしながら実際は日常生活の中で、ときおり私が失敗事をしたりすると、
平素は『あなた・・』と呼ばれるのに、
『ボケチンねぇ・・』と家内から微笑みながら私に苦言される時もある。

私たち夫婦の結婚生活は、私が定年するまでは波乱もあり、この先に何かと憂いたりしてきたが、
定年後の年金生活は、私が65歳高齢者となった頃から、体力の衰えを共に感じて、
ときおり私は、二人で一人前だよねぇ、と家内に言ったりして過ごしている。
                      
         
このように老後の生活を迎えている私たち夫婦は、甘味な年金生活を続ける中、
いずれは私か家内か大病となり、やがてどちらかが『おひとりさま』となるので、
私たち夫婦としては、今が人生最良の時期かしら、と思ったりしている。

しかしながらこればかりは天上の神々の采配に基づく範疇なので、
日々を大切に過ごせばよい、と深く思ったりしている。

余談であるが、本日の日中は、お中元参り、買物メール老ボーイの責務もあり、
平素より早めの投稿時とした。

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家内が帰宅する前、我が家で独りぼっちの私は、何かと慌ただしく・・。

2015-07-10 11:52:00 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の70歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
年に4回ぐらい家内は、独り住まいの家内の母宅に行っている。

私より14歳ばかり齢上の高齢者である家内の母は、
私が民間会社のサラリーマンの定年退職した2004年〈平成16年〉の秋の直前に主人に病死され、
独り住まいの生活をされて、早や11年目となっている・・。
       
こうした中で、家内の母は自身の身の周りは出来ても、
大掃除、季節ごとの室内のカーテン、布団、暖冷房器具、衣服、庭の手入れなどは、おぼつかなくなり、
長女の家内は季節の変わるたびに、7泊8日前後で母宅に泊りがけで行っているのが、
ここ10年の恒例となっている。
                             
       
たまたま今回、家内は過ぎし6月の29日より家内の母宅に、11泊12日となり、
もとより家内は、家内の母の宅で孤軍奮闘しているが、
この間は私は『おひとりさま』の独りぼっちの生活となっている。

そして本日の夕方に、家内は我が家に帰宅する。
            

今回の当初は、わずか3泊4日で予定で、家内の母が大腸の検査を受ける為であった。
          
家内の母は、私より14歳ばかり齢上の高齢者であり、
80歳過ぎた頃から膝(ひざ)を悪化して、まもなく杖(つえ)を突く身となって、
『要支援2』となっている。

ここ半年、ときおり膝(ひざ)などに激痛が感じるのよ、と家内に電話連絡などで言ったりし、
整形外科と内科に通院をしたりしてきた。

そして3週間前の頃に、血便になっているから不安だわ、
と家内の母は長女の家内に電話連絡で言ったりした。

まもなく家内は、家内の母が住んでいる周辺の病院を検索して、
東京女子医科大学のある医療センター があり、
やがて大腸の検査の予約日時が確定した。

そして私たち夫婦は、大腸の検査について調べたりして、
後期高齢者で膝(ひざ)などに時折激痛が感じる母なので、
家内は家内の母が受診する前日から行き、当日の大腸の検査日、
そして翌日は自宅で安静日と思案して、今回は3泊4日だけとなっていた。
          
やがて過ぎし6月30日、家内が付き添って家内の母は、初めての大腸の検査を受けた。

結果として大腸のガンの要素、ポリープも無かったが、数多く服用している薬の中で、
血液をサラサラする薬の副作用で、大腸の一部に傷がつき、血便になっている、
と診断結果であった。

そして安静と経過状況を確認する為に、急遽入院することになり、
やがて7月4日に退院となった。

このような関係で、家内は家内の母の退院後の状況を見守りながら、
掃除、料理、洗濯をしたり、季節ごとの室内のカーテン、布団、暖冷房器具、衣服など
整備したりし、孤軍奮戦をしてきた。
            

私は季節の変わるたびの定例行事のような『おひとりさま』の生活をしてきたが、
何かと愚図でノロマの私でも、手抜きながら食事、掃除、洗濯をし、
ここ6年は安定化している、と独り微苦笑することもある。

しかしながら本日、家内が我が家に帰宅となれば、
今朝は4時過ぎに目覚めて、部屋の掃除、台所、洗面所などを、
家内との暗黙の信頼関係により、少し丁寧にしたりした。
            
        
やがて私は、居間でぼんやりと10日ぶりの陽射しを眺めて、
ゆったりすると、何かと深夜族の老ボーイの私は、疲れを感じたか
眠くなり微苦笑したりしている。

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『介護費用は月にいくらかかるのか?』、具体的に学び、私は・・。

2015-07-09 12:14:11 | ささやかな古稀からの思い
私はゴールデン・イヤーズと称される60代を昨年の9月に卒業して、
私としてのこれまでの10年は、我が人生として最も安楽な期間を享受できたりしてきた。

そして70代入門の初心者して、心身共に自立し健康的に生活できる健康寿命を意識して、
確かな『生きがい』と『健康』、そして『気力』を持続できるように、
ときおり願いながら歩いたりしている。
       
私たち夫婦の両親は、家内の母だけとなってしまい、
独り住まいの生活をしているが、4年前の80歳前後に膝(ひざ)を悪化して、
杖(つえ)を突いて歩く身となった。

そして市の福祉課を通して、『要支援2』と認定されて、
市の福祉課からのアドバイスにより、住まいの一部を補修したりしたが、
介護の助成金のお蔭で、たった一割負担で済んだりした。


過ぎし私は高齢者入門の65歳を過ぎてから、
心身ともに自立し健康的に生活できる期間の健康寿命は、
男性の平均としては71歳であり、平均寿命は男性の場合は80歳と知った時、
恥ずかしながらうろたえたりした・・。

そして70代となれば、多くの人は体力の衰えを実感して、
75歳まではこれまでどおりの自立した生活ができるが、
80歳が見えてくる頃には介護を必要とするようになり、やがて80代後半では
何らかの介護付き施設に入居する可能性が高くなる、と専門家の人から数多く発言されている。

この後、私は介護については漠然とし、まして費用に関しても殆ど無知であった。
          

たまたま本日のひととき、ネットでニュースなどを見たりしていた中で、
【いったい、介護費用は月にいくらかかるのか?在宅、遠距離、施設入所でシミュレーション】
と題された見出しを見て、クリックした。

朝日新聞社の関連公式サイト【dot】が2014年10月14日に配信され、
記事の原文は、【AERA】2014年10月20日号に掲載された記事のひとつであり、
無断ながら転載させて頂く。

《・・在宅、遠距離、施設入所と、ケースによってさまざまな介護費用。
いざというときに慌てないために、親が元気なうちから話し合っておこう。(編集部・石臥薫子)

明日早朝からの出張に備えて早めに帰宅し、家族で夕食を囲んでいたときのこと。
電話を取った妻の顔色が変わった。
「お父さんから」
遠方で一人暮らしの父親が転倒して骨折。明日が手術だという。出張はキャンセルだ。
考えないようにしてきた「介護」がついに現実になってしまった。
          

●在宅の平均は月7万円

これは明日のあなたかもしれない。
日本法規情報が7月、30~50代の男女1263人に聞いたアンケートでは、
親の介護について「親子で話し合ったことがない」人は58%。
「話し合ったことがある」はわずか12%で、
5%は「考えたくない」という思考停止状態だった。
怖いから考えない。考えないから怖い、という悪循環だ。

「介護の情報は、必要になってからでも集められますが、お金は急に降ってきてくれません。
だからこそ、事前にしっかり考えておくと安心です」

そう語るのは介護のポータルサイト「MY介護の広場」を運営する明治安田システム・テクノロジーの村松円さんだ。

在宅介護にかかるお金は大きく分けて二つ。
(1)公的介護保険の介護サービスの利用費(訪問ヘルパーやデイサービスなど)、
(2)介護サービス以外の費用(医療費やオムツ代など)
(下記「介護費の負担を減らすための、介護保険の仕組み」参照)。

家計経済研究所が在宅で親を介護している人を対象に行った調査(2011年)では、
(1)は月平均3万7千円。(2)は3万2千円。合計で6万9千円かかる計算だ。

(1)については介護保険の支給限度額内
(自己負担1割)でカバーできたのは1万3千円で、残り2万4千円は全額自己負担分だ。

いざ、介護が必要になったら、地元の介護相談窓口である地域包括支援センターへ行こう。
そこでケアマネジャーを紹介してもらい、サービスの内容を相談して決める。
          

■介護費の負担を減らすための、介護保険の仕組み
介護保険の支給限度額までは【1割自己負担】 ※注1
2015年8月から一定の所得(年金年収なら年280万円以上)がある人は自己負担が1割から2割にアップ

(1)公的介護保険の介護サービスの利用費
要支援1 5003円/サービスの目安:週2~3回
要支援2 1万473円/サービスの目安:週3~4回
要介護1 1万6692円/サービスの目安:1日1回程度
要介護2 1万9616円/サービスの目安:1日1~2回程度
要介護3 2万6931円/サービスの目安:1日2回程度
要介護4 3万806円/サービスの目安:1日2~3回程度
要介護5 3万6065円/サービスの目安:1日3~4回程度

→それを超えたら【全額自己負担】
※注1:金額は公的介護保険による在宅サービスの月額自己負担限度額。標準的な地域の例

(2)介護サービス以外の費用 【全額自己負担】※注2
配食・家事代行・紙おむつ支給など+医療費
※注2:補助が出る自治体もある
          

●認知症進むと増す負担

冒頭の「父親」が要介護2と認定され、退院後、自宅に戻って一人暮らしを続けると仮定しよう(下記ケース1)。
<食事や排泄に何らかの介助を必要としたり、立ち上がりや歩行などに何らかの支えが必要。
もの忘れや直前の行動の理解の一部に低下が見られる>というレベルだ。

まず、車椅子と介護用ベッドをレンタル。
月曜から土曜までは朝30分程度、ヘルパーに来てもらい、着替えや朝食の介助を受ける。
週に3回、デイケアに通ってリハビリ。
介助を受けながら入浴まで済ませる。
ここまでで費用は19万3千円。

要介護2の支給限度額は標準的な地域で19万6160円(地域の人件費や物価によって加算あり)
だから、限度額いっぱいだ。
自己負担は1割の1万9300円。

しかし、一人暮らしだと食事が心配だ。
毎食自炊は無理だし、好きな総菜ばかり買っていたのでは栄養も偏る。
平日はバランスの取れた夕食の宅配を使えば月1万800円。
ここまでは、同居の場合もあまり変わらない。

仕事をしていれば日中、親は一人になるし、食事の時間やメニューも家族と合わないこともあるからだ。
掃除・洗濯は2時間6300円の代行サービスを月4回頼むことにしよう。

遠距離介護で心配なのは、緊急時。家の中でまた転んで動けなくなったら──。
一定時間トイレのドアの開閉がないとセンサーで察知し、
駆けつけてくれる民間の見守りサービスを利用すると、月額約4千円。
ここまで総額5万9300円だ。

月に一度、様子を見に行くとすれば往復の交通費もかかる。
東京・福岡間だと航空会社の介護割引を使って4万2千円。
しめて10万1300円となった。

身体的な衰えと同時に気になるのは、認知症だ。
家計経済研究所のデータによれば、認知症の程度が重くなると介護費用も増える。
要介護度が1以下でも、認知症が重度だと介護費用は月5万7千円。

要介護度が4~5で認知症が重度であれば12万6千円に跳ね上がる。
          

■ケース1 福岡の父(要介護2)を遠距離介護
<介護保険の支給限度内(1割自己負担)1万9300円>
月~土 身体介護30分(着替えや食事の介助、デイケアに出かける準備など)
月・水・金 デイケア(機能訓練や介助付きでの入浴)
福祉器具貸与(車椅子など)

<その他のサービス(全額自己負担)4万円>
配食サービス(平日) 2700円/週×4
家事代行(掃除・洗濯など)6300円/2時間×4
見守りサービス(緊急時駆けつけ、ドアの開閉検知など)4千円/月

<月に一度、帰省 4万2千円>
東京―福岡往復 介護帰省割引を利用

【合計】10万1300円
※いずれのケースも介護者は東京在住を想定。
          

●6割が施設介護を望む

一般に、要介護3以上になると、一人暮らしは難しくなる。
同居の場合、介護度が重いと家族の負担も増える。
一緒にいるのだからとすべて抱え込むと共倒れしかねない。

ケース2(下記)のように、介護保険の範囲を超えても、夜間や休日にプラスαのサービスを追加すれば、
要介護3で約12万5千円となる。

では施設入居はどうか。
一昔前までは抵抗感もあったが、今では親のほうが施設を望むケースも増えているという。

生命保険文化センターの「生活保障に関する調査」(13年度速報版)では、
自分が要介護状態になった場合、約6割が施設介護を望んでいた。

すぐに思い浮かぶのは特別養護老人ホーム。費用は月5万~13万円程度だが、多くは数百人待ち。
これまで要介護1も受け入れてきたが、来年度から要介護3以上と条件が厳しくなる。

認知症がある場合、家庭的な雰囲気の中でスタッフと共同生活するグループホームも選択肢の一つ。
月額12万~25万円で、入居金が必要な場合もある。
症状が進んだり、介護度が重くなると退去しなくてはならないこともあるので、要チェックだ。

バリアフリーで一般的な賃貸住宅より住みやすいと、最近注目されているのがサービス付き高齢者向け住宅。
常駐のスタッフによる見守りや生活相談が受けられる。
それ以外のサービスは、在宅と同様、個別に契約する。

一時金はないところが多く、月額10万~25万円。
食費は利用した分だけ別払いが多い。
ここも施設によっては介護度が高くなると住み続けられない。
          

■ケース2 母(要介護3)を都内の自宅で介護
<介護保険の支給限度内(1割負担)2万6300円>
月~金 身体介護(着替えや排泄の介助、デイサービスに出かける準備)
月・木 デイサービス(レクリエーション、入浴も)
火・水・金 身体介護や訪問看護(水分補給や排泄介助、血圧や持病チェックなど)

<介護保険の支給限度を超える>
サービス(全額自己負担)5万600円
平日夜間 身体介護(夕食・排泄の介助や薬の投与)。家族の帰宅が遅くなっても安心

【合計】7万6900円

さらに、週末1泊のショートステイ(1万2千円/回×4)を入れると……
【合計】12万4900円
          

●話し合いを「見える化」

重度でも住み続けられるのは介護付き有料老人ホーム。
費用は入居金と月額使用料(居住費・水道光熱費・食費)に介護度に応じた介護保険の自己負担分が加わる。
「MY介護の広場」のサイトの試算では、職員の配置が手厚く居室も広い高級タイプは、
入居費2千万円、月額32万円。
中級タイプで入居費750万円、月額25万円程度。
普及タイプだと入居金150万円、月額14万円弱。
入居金ゼロの施設も増えているが、その分月額料金が高いケースもある。

全国的に急増しているので、選択肢は多い。
施設入居の費用捻出のため、マイホーム借り上げ制度を利用する手もある。

介護費用は「親に出してもらうのが基本」(村松さん)。
大事なのは、介護が必要になる前に、親の懐事情と、どんな介護を希望するかを聞いておくこと。

介護が始まった後では、本人の判断力が鈍ったり、お金を取られると思い、出し渋ることもある。
財産を狙っていると誤解されけんかにならないように、
「資産全部ではなく、介護費用に限ってどの程度賄えるかを知りたい」と伝えるのがコツだ。

最初は、通帳・カードをまとめておいてもらう程度でもいい。
保険の特約も見て、月々いくらまでなら出せるか確認し、
話し合ったことはエンディングノートなどに「見える化」しておく。

そして介護が現実となった時には、「仕事は絶対に辞めないこと」(村松さん)。
介護は永遠ではない。親を支えられるのは、自分の生活設計ができてこそ。
子どもが犠牲になるような介護は親も望んでいない。
          

■ケース3 父(要介護5)を仙台の介護付き、有料老人ホームで介護
入居一時金 750万円
月額利用料 24万5千円(年額294万円)・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
          

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に築後37年の古ぼけた一軒屋に住んでいる。

そしてお互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

こうした中、私たち夫婦は幸運にも大病に遭遇せず、今日に至っている。

しかしながら命ながらえば、やがていつの日にか、介護を受ける身となる。

私の希望としては、80歳を迎えた時、益々体力は衰えた身であるが、
我が家から最寄駅まで一キロばかりの道を、路線バスに利用することなく、
何とか歩いて往還したい、と念願している。

そして私が死去する時は、要支援1 掃除など身の回りの世話の一部に手助けが必要で、
立ち上がり時などに、なんらかの支えを必要とする時があり、
排泄や食事は、ほとんど自分でできる 『要支援1』で、この世にお別れをしたい、
と秘かに思ったりしている。

しかしながら自助努力も必要であるが、こればかりは天上の神々の采配に寄る。

今回の記事を読み終わった後、重い介護の身となった時、まるでお札が飛んで出てしまう、
とため息を重ねて、困窮したりしている。


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黒柳徹子・著作の『トットひとり』、宵の明星のような人、と思いを深めて・・。

2015-07-08 13:56:01 | 読書、小説・随筆
私は黒柳徹子さんのことを殆ど無知なひとりである。

確か私が小学3年生になった頃、ラジオから『ヤン坊ニン坊トン坊』が放送され、
父が病死した後、祖父も胃がんで入院していた時であったので、
いじけた可愛げない少年であった・・。

こうした中で、♪ヤン坊ニン坊トン坊・・とテーマ曲が流れると、
何かしら私は励まされるような感じたりしていた。

やがて後年になると、ヤン坊は里見京子さん、ニン坊は横山道代さん、トン坊は黒柳徹子さん、
と知ったりしたが、この当時の私は子供心に里見京子さんの声に、
素敵なお姉さん声、と魅せられたりしていた。

やがて1980年代は音楽番組『ザ・ベストテン』を私はときおり視聴して、
黒柳徹子さんと久米宏さんが司会されて、絶妙なコンビに好感していた。

この後は、ときおり家内が視聴している『徹子の部屋』、
或いは『世界・ふしぎ発見』を私はいずれも3回ぐらい見たことがあった。

このように殆ど黒柳徹子さんに無知な私が、黒柳徹子さん著作の『トットひとり』を知ったのは、
たまたまネットで、新潮社の公式サイト【矢来町ぐるり】を見ている中で、
『徹子だから語れる「見事に生きた人の話』/「トットひとり」』
と見出しされた記事を読み、やがて興味を増したりした。

http://www.gruri.jp/article/2015/06121830/
☆新潮社の公式サイト【矢来町ぐるり】<==『徹子だから語れる「見事に生きた人の話』/「トットひとり」』☆

私はこの本書の紹介文を読んだ後、購読しょうと誘惑されたのは、下記の一節である。

テレビの黎明期の生放送の時代、
《・・実力者『森繁久弥』も刑事役で出たドラマで、棺桶に入った死体役の『左卜全』さんが、
勘違いして先に帰ってしまい、
本番中に(『森繁久弥』が)お棺を開けたら死体がないという事態に絶句した・・》

このようにテレビの黎明期に、テレビ女優一号生と称されている黒柳徹子さんは、
新劇、浅草の芸人、歌い手、或いはテレビ男優、女優など多事多彩の芸達者な人たちを
長年に交遊されてきた、証言者だ、と思えて、生きた時代の流れを学びたく、買い求めた。
          

黒柳徹子さんが長年の芸歴の中で、数多く方にめぐり逢え、交遊を重ねて、
同じ時代を切磋琢磨しながら、同じ時代の空気の匂いを共にしながら、
やがて図(は)らずも数多く方に死去され、黒柳徹子さんは取り残こされひとりになってしまい、
数多く人への感謝と愛惜の「鎮魂曲」である、と感じ深めたりした。

そして各章は映画短編のように珠玉の作品となっている。

或いは黒柳徹子さん自身の幼年期から現在に至る多彩な時代の心情を発露され、
私は黒柳徹子さんは殆ど無知だったが、
黒柳徹子さんの特有な感性の深淵を学び、初めて魅了されたりした・・。
          

私は遅ればせながら高校に入学してまもなく、突然に読書に目覚めて、
この時から小説、随筆、ノンフェクション、月刊雑誌などを買い求めて乱読してきた。

読書に魅せられるのは、創作者より、文字から伝えられる伝達力、創造力が
それぞれ読む時の感受性、知性、想像力により多少の差異があるが、
綴られた文章はもとより、この行間から感じられる圧倒的な魔力から、
高校生の時からとりつかれ、早や55年が過ぎている。

今回、初めて黒柳徹子さんのご著書を読み終わった後、
漠然としながら空を見上げると、太陽、そして月についで明るく見える金星があるが、
夕方に見える「宵の明星」ような人かしら、と感じたりした。

余談であるが、黒柳徹子さんが小学一年生に退学になった理由、
やがてテレビ女優一号生でデビューまもない頃、私用で冬の京都の清水寺を早朝に訪れた時、
祭壇前の仏像の前に敷かれている大きな座布団に座り、多彩な動作・・
私は長らく笑ったりした後、徹子さん、私は降参しますょ、と心の中で呟(つぶ)いたりした。

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何かと愚図の私でも、ときおり『おひとりさま』の生活が出来てきた原動力は・・。

2015-07-07 12:25:38 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市の片隅に住む年金生活の70歳の老ボーイの身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に築後37年を迎えた古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私は中小業の民間会社に35年近く勤め、2004年〈平成16年〉の秋に定年退職となり、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたく、その直後から年金生活をしている・・。
          

そしてサラリーマンの現役時代に於いては、もとより我が家の収入の責務は私であるので私なりに奮闘し、
家内は結婚して3年を除き、専業主婦の身として、洗濯、掃除、料理、買物などしたり、
親族の交際も含めて、我が家の専守防衛長官のように責任を果たしてきた。

そして年金生活を始め、家内の日常のペースを出来る限り、乱したくないので、
決意して実行してきたことがある。
                
具体的には、家内は殆ど従来通りしてもらい、その間のささやかな息抜き・・趣味ごと、
これを邪魔にするのは、まぎれなく天敵と私は確信を深めていた。

そして一日、少なくとも一回は外出し、家内の自由な時間を作ることと思い、
せめて日常の買物ぐらいはと思い、買物の担当を引き受け、買物メール老ボーイとなり、
独りで殆ど毎日スーパー、専門店に行き、ときおり本屋に寄ったりしている。

その後も独りで自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを歩き廻り、散策をしながら、
季節のうつろいを享受している。
                                  
私の日常の大半は、随筆、ノンフィクション、小説、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある・・。

こうした間、家内が煎茶、コーヒーを飲みたい時を、私は素早く察知して、茶坊主の真似事をしている。

こうした中で、ときたま小庭を手入れをしたり、気の許せる悪友と居酒屋で談笑をしながら呑んだり、
或いは家内との共通趣味の国内旅行をして、その地の風土、文化などを学んだりしている。
                            

こうした中で私たち夫婦は、10日に一度ぐらい駅前に出かけたりして、日常の雑貨品などを買い求めたり、
年に数回はデパートに行ったりしているが、
このような時の私は、家内のボディガードそして荷物持ちのお供のような状態となっている。

こうしたありふれた私たち夫婦の年金生活に於いて、
ご近所の方の奥様たちから、仲良しねぇ、と社交辞令のような言葉を頂いたりしている。

私たち夫婦は39年ばかり寝食を共にした結婚生活の中で、
お互いの欠点に目をつぶり、そして特に定年後の年金生活になると、お互いの趣味を尊重し、
それぞれの時間を『ひとりを愉しむ』時を過ごすことが多くなっている。

こうした私の根底として、こうした生活がいつまでも続けば良い、と思ったりしているが、
いずれのどちらかは片割れとなり『おひとりさま』となるので、
強く思いの趣味を持てば、残された方は失墜感が少なくなると思え、
その後の『おひとりさま』の生活は少しでも心がやすらぐ、と思ったりしている。
         

このような年金生活を10年半ばかり過ごしてきた中、
年に4回ぐらい家内は、独り住まいの家内の母宅に行っている。

私より14歳ばかり齢上の高齢者である家内の母は、
私が民間会社のサラリーマンの定年退職した2004年〈平成16年〉の秋の直前に主人に病死され、
独り住まいの生活をされて、早や11年目となっている・・。
       
こうした中で、家内の母は自身の身の周りは出来ても、
大掃除、季節ごとの室内のカーテン、布団、暖冷房器具、衣服、庭の手入れなどは、おぼつかなくなり、
長女の家内は季節の変わるたびに、7泊8日前後で母宅に泊りがけで行っているのが、
ここ10年の恒例となっている。
                             
このような時は、家内は家内の母宅で孤軍奮闘しているが、
この間は私は我が家に取り残こされて『おひとりさま』の独りぼっちの生活となる。
そして何かと愚図の私でも、季刊誌のように『おひとりさま』の生活を、ここ10年半ばかり過ごしてきた。
          

年金生活を始めた2004年(平成16年)の当初の頃に、
敬愛している作家の曽野綾子さんの随筆を読んだりしていた・・。

私は遅ればせながら曽野綾子さん・著作の『近ごろ好きな言葉 ~夜明けの新聞の匂い』(新潮文庫)を読み、
多々教示を受けたが、この中のひとつに定年後の男性の生活者としての在り方について、
明記されていたので、私は微苦笑させられながら、読んだひとりである。

本書の初出は、総合月刊雑誌の『新潮45』で、この内容は『暗がりの夫族』と題された一部であり、
掲載されたのは、1995年(平成7年)8月6日である。

《・・(略)・・私たちの同級生の配偶者たちが、もうほとんど定年になる年になった。
私は毎年恒例になっているイスラエル旅行にでかけたが、
その年は大学の同級生の一人がボランティアに来てくれた。

旅の途中で、彼女は、今、真剣に夫に家事をしこもうと思っている、と言った。
もうこの年になると、どちらが先にどうなるかわからない。
死なないまでも、長期入院ということになったら、家に残った方が、一人で生活しなければならない。

彼女の家ではまず子供たちが、お父さんにエプロンを贈った。
長いこと社長業をしていたような人で、台所に入ったらどういうことになるか想像がつかない。
優しい子供たちは、何とかそれをユーモラスな出発として励ますことができないかと考えたようだった。

私は彼女の賢明さに打たれた。
もういいの悪いのという選択をしている時間がない。
明日にも、夫婦は一人で生きて行く必要が生じるかもしれない。
配偶者が入院したらその日から、或いは死亡したらその夜から、誰がご飯を作るのだ。
          

息子や娘たちは皆忙しい年齢である。
離れて住んでいるケースの方が多いだろう。
嫁にご飯を作りに来いなどと呼びつけられると思ったら、それは大変な時代錯誤というものだ。
(略)
私たちの世代の夫族の中で、どれほど生活者として無能な人がいるか、
長い間、私たちはそれこそ笑いの種にして来たのである。

妻がでかけようとすると「何時に帰る?」と聞く。
愛しているから、妻が誰と会うのか、どこへ行くのが心配なのではない。
心配の種は「俺の夕飯はどうなるのだ」ということだけだ。

大学を出ている癖に、夕飯を作る能力も、出前を取る才覚もないから、
奥さんが少し遅れて帰ってみると、電気もつけない薄暗がりの中でじっと座っている。

と言って皆笑うのである。
これはどうしても侮蔑の笑いてしかない。

暗がりの夫族の中には、東京大学の出身者、ことに法学部の卒業生も多かったので、
私たちは自分たちの出身校が秀才校でもないのを棚に挙げて、改めて幼稚な優越感を覚えることにした。
(略)
どうして秀才の夫たちは、ああも能がないのか。
今どきは、炊いたご飯そのものだって、「大盛りですか、普通ですか」という感じで
マーケットで売っているではないか。

デパートや商店街のおかず売り場で、適当に焼魚と野菜の煮ものでも買えば、
それほど栄養が偏(かたよ)るということもなくて済むのに、それができないのである。

昭和初年代の夫族の中に、おかずも自分の靴下も買ったことのない人は結構いるのは、
彼の母の責任だろうかそれとも妻の責任だろうか。

台所に入っても、お湯の沸かし方一つ手順がわからないからうろうろしている。
薬罐(やかん)がどこにあるかも知らないのだ。
洗濯機のボタンを押したこともないし、炊飯器の目盛りの読み方など、わかるわけもないから、
ご飯ぐらい炊けるでしょう、などと言われると、恐怖で不機嫌になる。
(略)
しかし彼らが、人間としたら、生存の資格に欠けていることには間違いがないのである。
つまり自分はご飯の心配もしなくて生きることが当然と思うのは、
実はとんでもない不遜な男かもしれない。

それは「お前作る人、俺は食べる立場」みたいな男女の性差別を容認し、
自分はそういう仕事をしなくて当然の、もっと高級な人間だと思い上がっている証拠なのだ、
と私もこのごろ悪意に解釈することにした。・・》
注)329ページ~332ページから抜粋。原文にあえて改行を多くした。
          

本書は曽野綾子さんの定年後の男性の生活者としての命題のひとつのテーマであるが、
この作品は1995年(平成7年)8月に公表され、
《 私たちの同級生の配偶者たちが、もうほとんど定年になる年になった。・・》
と綴られて、私たちの世代より15歳前後、ご年配の人たちとなる。

曽野綾子さんご自身は、聖心女子大学を1954年〈昭和29年〉に卒業された方であるが、
あの当時に女子大学を通うことができたのは、若き女性のほんの一部であり、
クラスの同級生の多くは、中央官庁、大企業のエリート、そして中小業の会社を創業された成功者、
或いは老舗の商店などに嫁がれた方が多いと思われる。

こうした嫁ぎ先のご主人が、第一線を退かれて、関係先の要職を務めて、第二の人生を歩み、家庭人となった現状・・。
このようの中で、一部の人は現役時代の栄誉も、食事のことで困惑する状況を的確に表現されているが、
私たちの世代、そして私のような中小業で奮闘した身となれば、苦笑してしまう。

しかし、私の場合も、『おひとりさま』になる日々もあるので、
単純に笑ってばかりは、いられない時もある。

これ以降、私は何かと『夫族の中で、生活者として無能な人がいて・・』と銘言を学び、
家内が里帰りした時、『おひとりさま』となった私は、叱咤激励されながら原動力となり、
過ごしてきた。
          

或いは過ぎし7年前に知人のひとりの奥様が病死されて、
この知人は『おひとりさま』となり、私たちの多くは哀悼をしながらも、動顛してしまった。

そして私たち世代の周囲の男性の多くは、60代で妻が夫より先に亡くなることは、
考えたこともなく、こうしたことがあるんだぁ、とこの人生の怜悧な遭遇に、
心痛な思いで深く学んだりした。
          

今回、家内は家内の母が大腸の検査を受けることとなり、6月29日より3泊4日で行っているが、
その後、家内の母が入院となり、付き添う為に、我が家に帰宅てきるのは、9日の予定となった。

昨日、私は家内と電話連絡で聞いたりした後、
10泊11日となり、家内も何かと疲れ果ててしまうかしら、と思ったりした。

そして私は『おひとりさま』の生活、いままでで一番長い期間だねぇ、
と心の中で呟(つぶや)きながら微苦笑したりした。

尚、私の『おひとりさま』の独りぼっち生活の最新の状況は、
6月30日に於いて、【ときには『おひとりさま』の独りぼっちの生活、何かと愚図の私は・・。】
と題して投稿している。
http://blog.goo.ne.jp/yumede-ai/e/e54caf24d2abe6758d421554956bef39

つたない私が手抜きながら奮戦している日々であり、お読み頂きご笑話して下されば幸いです。


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傘かしげ、小雨降る情景を眺めながら、過ぎし日のささやかな想い馳せて・・。

2015-07-06 10:34:25 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅みに住む身であるが、
今朝も早朝から小雨が降り、小庭の淡き緑色、或いは深緑色に染められた樹木を眺めたりしていた。

たわわな葉に雨脚の音を聴きながら、 私はぼんやりと見つめたりした・・。

平素の私は雨が降ると、少し長め傘を持ち、大きく広げて差したりしている。
雨降りしきる中、少し風が吹いても、自身の身体はもとより、
手持ちのバックなどが濡れるのが嫌いで、少し重いが長めの傘を愛用している。
          

過ぎし 2004〈平成16〉年の秋に定年退職後、
年に数回、友人と懇親会と称して、都心の居酒屋に行ったりしているが、
8年前の晩秋の夜の6時過ぎ、たまたま雨が降っていて、都心の込み合ったビル街の歩道を歩いたりした。

前方から三人の若い女性が、やはり傘を差し、道幅いっぱいのように思えたので、
私は右側に寄り、傘を傾(かし)げながらすれ違ったのであるが、
若き女性のひとりが悠然と傘を立てながら、私とすれ違い、
私の左側が雨粒で濡れたりした・・。
          

6年前の梅雨の時節、昼下りの雨降る中、住宅街の脇道を歩いていたら、
前方から70歳前後のご婦人が傘を差しながら歩いてきたので、
私は、傘を傾げて立ち止まった。

そして、ご婦人は私とすれ違う少し前に、傘を傾けて、
私とすれ違う時、
『ありがとう・・ございました・・助かりますわ・・』
と会釈しながら、私に言った。

このような『傘かしげ』は、江戸時代の頃から、
雨の日に狭い路地をすれ違うとき、お互いに反対側に傘を傾けた良き習性が、
町並みの人々から、たしなみとして続けられてきた。

まもなく私はご婦人の後ろ姿を見ながら、心まで美しい人、と感じたりした・・。
          

私が45歳前後の頃であったので、25年前の確か梅雨の季節だった。

私は六本木に所在している会社を退社した後、
自宅の最寄駅の『成城学園前』のタクシー乗り場に並び、
夜の11時過ぎ、雨の降る中、傘を差していた・・。

私の前に20人ぐらい並んでいて、1番後方だった。
しばらくすると、私の後方に人影を感じた。
私は左手にアタシュ・ケースを提げて、スーツのズホンが濡れないように、傘を深く差していた。

後方から、
『おじ(叔父)さま・・かしら?・・』
と声がした。

私は振り返ると、若い女性のツーピース姿を見た。
『XXちゃんか・・しばらく・・』
と私は言った。

遠い親戚の娘さんだった。

私はこの娘を私の立っている場所の前に譲り、
『ずいぶん・・遅いんだね・・』
と私は言った。

そして雨のしずくが水色のツーピースに掛からない程度に、傘かしげにした後、
少し間隔を開けた・・。

『おじさま・・知らなかった?・・私、今年から銀行にお勤め・・』
とこの娘は私に言った。

『大学に行ったのは聞いていたけど・・
そうかぁ・・社会人の一年生かぁ・・何かと大変でしょう・・』
と私は言った。

『思ったより楽しいけれど・・勤務時間が長くて・・今日もこんな時間になって・・』
と微苦笑しながら、私に言った。

『おじさんの所もね・・金融関係と違うけれど・・何かと忙しいょ・・』
と私は言った。

雨がしきりに降っていた・・。

まもなく並びの列の先頭となり、タクシーにこの娘が乗り込む寸前、
『おじ(叔父)さま・・お先に・・ありがとう・・』
と笑顔を浮かべながら私に言った。

私は走り去るタクシーの尾灯を見送った。
         

このような『傘かしげ』のことが想いだされて、歳月は余りにも早く過ぎ去っていく、
と微笑んだしている。

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定年後の年金生活10年半を過ごしてきた中、私が最も困苦したことは・・。

2015-07-05 12:00:08 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の70歳の身であるが、
本日は本降りの雨の一日を迎え、昨日はスーパーに2店ばかり買物を済ませたので、
小庭に降る雨をぼんやりと眺めたりした。

やがて私が定年後の年金生活10年半を過ごしてきたが、
最も困り果てたことは・・とりとめなく思い馳せたりした・・。


私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。
             
我が家の年金生活の基本は、厚生年金、わずかな企業年金を頂き、通常の生活費するのが原則としている。
しかし共通の趣味のひとつである国内旅行、或いは冠婚葬祭などの思いがけない出費などに関し、
程々の貯金を取り崩して、ささやかに過ごしている。

こうした中、私たち夫婦は毎年の年の始めた頃に、
思いついた購入する予定の品物、旅行計画などの概要の経費を話し合ったりし、
今日に至っている。
          
         
我が家の家内は、テレビ、パソコン、デジカメなどに無知なひとりで、
こうした商品は半永久的商品、と確信したように思い続けていることであった

年金生活をして5年ぐらいまでの頃は、特に耐久商品と称される品の購入には、
私は気弱になり、耐久商品の買い替え時にためらったりしてきた。

そして私が現役サラリーマン時代の時は、程ほどの年収を得ていたので、幾たびか買い換えてきたが、
しかし年金生活となれば、限りある厚生年金、企業年金からの収入には、もとより限度があるので、
私は気弱になり、予算を計上するできなかったりした。

こうした中で、私の愛してやまないパソコンが壊れたりすると、どうしてなのょ、
と私はパソコンを眺めて困惑した体験をしたりしてきた。

私は、恥ずかしながらガラケーと称される携帯電話、
そしスマホと省略されているスマートフォンも使えない拙(つたな)い身である。

その上にフェイスブック、ツイッター、そしてモバイルパソコンにも無縁であり、
やむなくインターネットは固定回線の光ファイバーの『フレッツ』を頼りに、
せめてと思いながら据え置き型のパソコンとノートパソコンを利用している。

このように無線のモバイル情報機器に遠い世界の出来事のような思いながら、
稀(まれ)な時代遅れの国民のひとりとなっている・・。
          

過ぎし2001年(平成13年)の秋になると、定年退職時が2004年(平成16年)の秋であったので、
定年後の生活に備えてパソコンを買い改めたりした。

この当時はウィンドウズ旋風の中で、ウィンドウズの基本システムは
『ウィンドウズXP』であり、たまたま富士通のディスクトップのタワー型を選定した。

そしてこの当時は、液晶ディスプレイが普及し始めていたが、迷いながらも何よりも安定性を配慮し、
19型のこの当時の最後の画面のブラウン管ディスプレーを買い求めたりとした。

選定したパソコンの基本の付属の記憶装置は、DVD-ROM、CD-R/RW、フロッピーであり、
10年ぐらいは大丈夫かしら、と漠然と思ったりしていた。
そしてプリンターも新調し、民芸風の大きな机、脇机、そして椅子を買い揃え、定年後に備えたりした。
                              
やがて私は2004年(平成16年)の秋に定年退職後、まもなくブログの世界を知り、
私は無我夢中に毎日数通は投稿し、そしてブログ上のコメントで知り得た8名の人と、
お互いにコメントを交わしていた私のブログ熱中時代の時であった・・。

そして定年後の生活に備えた肝要のパソコンは、
2006年(平成18年)9月中旬に、予告もなく突然にダウンした。

この当時は年金生活2年生をまもなく卒業を迎えようとしていた私は、
『10年ぐらい利用しょうと思ってたのに・・どうして突然に故障するのよ・・』
と心の中で呟(つぶや)きながら、長らく黒くなった画面を見つめ、落胆を深めたりしたりした。

やむなく買い求めたパソコンの量販店に修理を依頼したが、
1週間後に我が家に来宅することをなり、私は困窮した・・。

我が家は無念ながらパソコンは、この当時は一台しかなく、この来宅するまでの1週間の間、
どうしょうかしら、と私は悩んだりした。

この当時の私は、ブログ上で盛んにコメントで交流を重ねていた時代で、
コメントを頂いたりし、半日以内に必ず返信していた。

こうした状況下では、もとより返信が出来なくなり、
相手のお方はいつも半日以内に返信を下さるに、どうしたのかしら、
と戸惑うと思いながら悩んだりした。

もとよりリアルの交流であったならば、電話でお詫びの連絡もできるが、
ブログの世界は匿名が多く、連絡できる方法がないのである。
たとえ匿名の世界であっても、何よりも信頼が大切なのに、と私は困苦したりした・・。
          

そして私はこの修理の期間、パソコンのレンタルを量販店に依頼をしたが、
弊社は扱っていません、と素っ気ない返事を私は受けたりした。

やがて修理が最悪の場合に備えて、このパソコンの量販店に最新のパソコンの下調べに行き、
魅了されたパソコンが販売価格25万円に、我が家の予算計上にしていないので、
ため息を重ねながら困り果てた・・。

この帰路、25万円かょ・・空から舞い降りてこないかしら、と思ったりして帰宅した。

         
そして待ち焦(こ)がれたパソコンの量販店の修理の技術者が予定通り来宅した時、
パソコンの故障を点検して結果、
心臓部のキャッシュメモリ、メインメモリの一部でわずかな磨耗があり、
部品の交換すると10万円を超える、と私は言われた・・。

私の現役サラリーマン時代の50代の頃は、冷蔵庫、クーラーなどを新調しょう、
と私は家内に気軽に言ったりして、購入したりしていた。

しかしながら、この当時の我が家の年金生活の年次購入予定品目もなかったが、
やむなくパソコンの新製品を買い改めることに決意した私は、
家内にどう説得するかであった。

そして私は長らく中小業の民間会社のサラリーマンをしていたので、
多事多難の対処には鍛(きた)えられ、こうした中で多少の悪知恵も備えられてきた。

家内は冷蔵庫、洗濯機をよく手入れをするタイプで、
過剰に掃除し過ぎ、やむえず新調した体験があったことを、思い馳せたりした。

やがて私は居間に置いているパソコンから、台所にいる家内に近くに寄り、
『XXちゃんさぁ・・昨今のパソコン自体、飛躍的に進歩しているし・・
前に買ったパソコンより遥(はる)かに廉(やす)くなっているの・・
この際、思い切って新しいのにしょうねぇ・・』
と私は少し懇願するように家内に言った。
          
          
結果として、データ強制移行料などを含めて、27万円弱で、魅了されたパソコンに新調し、
やはり最新のCPUは速い、と私は微笑んだりした。
         
私が魅了されて買い改めたのは、『ウィンドウズXP』の液晶の富士通のディスクトップで、
ディスプレイは、この当時の流行の20.1型のワイド画面のスーパーファインVXのハイビジョン対応であり、
CPUはインテルのデュアルコア、メモリは1GB、ハードディスクは400GB、
付属の記憶装置は、DVDスーパーマルチ等で、この当時としては、程ほど最強版となっていた。

パソコンのデザインも良く、安定したドライブの配置もあり、好感し、
年金生活の中で、日々こよなく愛用して、文字通り私の愛機となった・・。

こうしたことは一般の御家庭すれば笑い話になるが、
私としては年金生活10年半を過ぎる中で、何よりも困窮し危機一発の出来事であった。
          

この後のパソコンは2011年〈平成23年〉6月に於いて、
この当時の主流の『ウィンドウズ7(セブン)』の新機種を買い改めた。

選定した機種は、ソニーのディスクトップのテレビ不要型で、
ディスプレイは、この当時から流行したワンタッチパネルの21.5型のワイド画面で、
CPUはインテルの最強版、メモリは4GB、ハードディスクは1TBであった。

そして付属のドライブ装置は、ブルーディスク対応で、
この上に、外部ドライブ装置として、ある専用メーカーのハードディスクの2TBを連結させたりした。

このような苦い体験があったので、私の少しばかり広い机には、
やむなく従来の『ウィンドウズXP』と新たな『ウィンドウズ7(セブン)』を
当面2台のパソコンを置いたりしている。
          
         ☆この当時の記念写真・・右側は旧機の『ウィンドウズXP』、左側が現在愛用している『ウィンドウズ7(セブン)』☆

このような私のささやかなパソコンの足跡があるが、
『ウィンドウズXP』は2014年(平成26年)4月9日に賞味切れとなるので、
やむえなく私も『ウィンドウズXP』に別れを告げて、
2013年(平成25年)12月中旬に最新の『ウィンドウズ 8』を対応させた。
          
        ☆左側が現在愛用している『ウィンドウズ7(セブン)』、そして右側は買い求めた『ウィンドウズ 8』☆
          
そして選定したのはノートパソコンで、ソニーの秋冬モデル『VAIO Fit 15E』であった。
何かしら『Windows 8 64bit インテルCore i7-4500U(1.80GHz)、
メモリ 8GB、HDD 1TB、15.5型の高輝度液晶』このように記載されていた。

このように私が買い求めたパソコンの買い替え、そして性能も詳細に綴った理由は、
ここ10年余年でも急速に進化してきたので、どこまで進化したら気がすむのょ、と
ときおり戸惑ってきたからである。


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いつの日にか、私のブログの投稿文が、途絶(とだ)える日は・・。

2015-07-04 09:28:02 | ささやかな古稀からの思い
私は民間会社の中小業に35年近く奮戦して、2004年(平成16年)の秋に定年退職となり、
多々の理由で年金生活を始めた。

まもなく偶然に本屋の店頭で一冊の本にめぐり逢え、私は初めて『ブログ』の世界を知った・・。

やがて2004年(平成16年)11月12日にある大手のブログサービスに加入した後、
2つばかりのブログサービスに彷徨(さまよ)った後、
この【gooブログ】に翌年の2005年(平成17年)1月19日に加入した。

しかしながら、この後に他のブログサービスに加入して熱中して、2度ばかり【gooブログ】を中断したが、
2008年(平成20年)の5月以来は継続し、今日に至っている。  
          

私は年金生活を過ごしている中で、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。
          
こうした私の根底には、私の幼少時代から年金生活している現在までの生きてきた心の軌跡を発露して、
自己表現のひとつとして、心の証(あかし)の残したいからであった。
    
私の投稿文の殆どの内容は、幼年期からサラリーマン退職時まで、そして年金生活の日々の心情は、
脚色もないありのままの思い、真情を投稿文に認(したた)めたく、あますことのないように綴ってきた。
                    

私は綴る際は、自身のその時の心に素直に綴るようにし、
あとで振り返った時、あの時はこのような思いで過ごしていたのか、
何より自身に対して、その時の思いの心情が大切にしているひとりである。
       
そして数多くの駄文を綴ってきたが、ひとえに自身の為の心の軌跡の発露、と言っても差し支えない。    
                                                
こうした中で、私は投稿文の時に、多くの方に読んで頂きたい自己顕示欲もあり、
投稿文の中では、改行を多くし読みやすいようにしている。

或いは2年半前の頃から、何とか写真を添付することが出来たので、
乏しい筆力を補(おぎ)いながら、カット代わりに写真を掲載したりしている。
                       
         
私はブログを投稿する際、ひとつのテーマを決めて、真摯に、ときには楽しく綴ることもあるが、
恥ずかしながら筆力が乏しいながら、最後までお読み頂けるように試行錯誤をしたりしている。

しかしながら私の投稿文の内容は、あふれた思いを伝わるように熱意ばかりで、
一気呵成に書き上げてしまい、ときには長き投稿文になったり、
投稿文を送信した後、読み返したする時、つたない綴りが多いので反省することがある。
                                                                              
このような思いの中、私はブログの世界を知って10年半が過ぎて、11年生となっている。
結果としては、パソコンの故障、国内旅行などしない限り、日に少なくとも一通は投稿してきた。
          

今朝、ぼんやりと私がブログの投稿文が、途絶(とだ)える日は、
いつの日にか、と思ったりした・・。


私の希望としては、世界で有名なシンガーソングライターのブライアン・アダムスさんが、
確か死ぬまでロックだ、と発言されたと記憶しているので、
私も真似事をして、この世に別れを告げる寸前まで、ブログの投稿文を日々継続したい、と念願している。

しかしながら予期できることは、やがて私たち夫婦の両親で残された家内の母、
そして私たちの兄妹など死去に伴い、お通夜、告別式などは、
もとより何かと愚図の私でも、多忙となる。

何よりも失墜感で、ゆっくりとブログの投稿文を綴(つづ)っていることは、
出来ないだろう、と思い深めたりした。
そして後日、私のこうした心情をブログの投稿文で発露するだろう、と微苦笑したりした。

或いは家内に先立たれて、深い失墜感で長らく投稿文は、途絶えるだろう。
やがて私は、『おひとりさま』に相応しい小さなマンションに移転したりし、
やはり投稿文は、途絶えるだろう。

このように漠然と思案したが、私が心変わりして、ブログに関心がなくなる、
想定外のこともある。

何よりも恐れていることは、私が認知症となり、うつろな心情で、
ブログって・・何なのょ・・と思い至ることである。
             

余談であるが、今回このような投稿文になったのは。
家内が独り住まいの家内の母は入院している中、長らく里帰りして孤軍奮闘している中、
我が家で残された私は、独りぼっちの『おひとりさま』になっているので、
このように投稿文なってしまったかしら、と微苦笑している。


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記憶力がアップする! 「脳の強化」7つのメニューを学び、多々教示させられ・・。

2015-07-03 11:41:52 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の70歳の身であるが、
本日は本降りの雨の一日を迎え、買物と散策を中止することとし、
午前中のひととき、週に2回ぐらい愛読しているネットのサイトを見たりしていた。

ビジネス総合情報誌として名高い『プレジデント』の基幹サイトで、
私は年金生活の中で、健康、医療、介護など多々学んできました・・。

たまたま今回、【記憶力がアップする! 「脳の強化」7つのメニュー】と見出しを見て、
何かと齢を重ねたるたびに記憶が衰えを実感してきたので、
遅ればせながら学ぼうと思い、クリックして読んだりした。

恥ずかしながら知らなかったことが余りにも多く、
そうだったのか、知らなかったょ・・と心の中で呟(つぶ)きながら多々教示された。
          

http://president.jp/articles/-/15611
☆『PRESIDENT』配信2015年7月3日
==>「脳の学校」代表 加藤俊徳・医学博士【記憶力がアップする! 「脳の強化」7つのメニュー】
(原文は『PRESIDENT』2014年9月1日号 に掲載)

私は無知な事が多く、無断ながら記事の大半を転載させて頂く。

《・・脳が他の臓器と大きく異なるのは、各々が得た経験・刺激によって個性を持ち、
生涯成長し、変化し続けられることである。

脳はどんな年齢になっても伸びる

脳の仕組みを正しく理解すれば、相当の年齢を重ねた後でも、
より効率よくその悩みを解消・軽減する鍵を手に入れることができる、というのが私の持論です。

脳が肝臓や腎臓などと異なるのは、未完の臓器であり生涯成長し続けるという点です。
多くの人は、脳は幼少時の心身の成長期に全体が一気に成長して完成し、
誰でも同じような脳を持つに到るというイメージを持っています。

ところが、決してそうではないのです。
脳は使うことによって成長します。
経験、刺激が加わることによって、脳の中身・質が変わるのです。

ですから、脳をどんなふうに使ってきたか、
脳に対してどんな経験、刺激を与えてきたかによって、
人それぞれ臓器としての脳の中身・質は大きく異なっています。
脳は、いわば個性のある臓器なのです。

それゆえ、使わなかった脳細胞は死ぬ間際まで未熟なまま脳の中にあり続け、
その人にとっての苦手な分野として未開の状態にあります。
          

しかし、その未熟な脳細胞に効果的にアプローチすれば、
脳はどんな年齢になっても伸びます。新たな刺激によって脳は変わりうるのです。

私は脳の働きの区分けを「脳番地」という概念で説明しています。
脳番地とは、私がこれまで胎児から100歳超の高齢者まで1万人以上の人々の脳の画像を、
MRI(磁気共鳴画像)を用いて観察・分析してきた結果得た「脳の地図」です。


記憶系脳番地は、記憶の蓄積に深く関わる海馬の周囲にある。
左脳側が言語の記憶を、右脳側が映像など非言語の記憶を司る。

脳に存在する1000億個を超える神経細胞のうち、
似た働きをする細胞は1つにまとまり集団や基地を形成しています。

思考に関わる細胞集団、記憶に関する細胞集団、運動に関する細胞集団……等々。
大別すると、思考系・感情系・伝達系・理解系・運動系・聴覚系・視覚系・記憶系の8つに分けることができます。
これらを脳番地と名付けたわけです。

それぞれの脳番地は、何歳になっても細胞が残っている限り、
使われて経験・刺激を受けることで成長します。

成長とは細胞の数が増えるわけではなく、脳番地を形成する神経細胞と神経繊維が拡大あるいは太くなる、
つまりその脳番地の枝ぶりが立派になっていくことなのです。

記憶力の衰えを防ぐ、あるいはアップするには、
この記憶系の脳番地を意識して行動するといいでしょう。
          

◎脳番地を刺激する「記憶力アップ」7つの手法

▼互いに無関係な知り合いの共通点を探す
→知人・友人から無作為に選んだ2人の共通項を探す。記憶で大切な「情報の関連づけ」を行う。

▼1日20分の「暗記タイム」をつくる
→デッドラインを明確にすると、脳はそこに間に合わせるように働く。通勤・散歩中や就寝前に。

▼新語・造語を考えてみる
→何かを暗記するときよりも、記憶系脳番地を刺激する効果がある。

▼朝、前日に起きた出来事を3つ思いだし、覚えておく
→記憶を手繰り寄せる作業が記憶系脳番地を刺激。いったんノートに記録するなどして数日後に検証。

▼日曜日、翌週の予定をシミュレートしてみる
→自分の中に「理想像」をつくって行動することが記憶系脳番地の発達に影響。

▼その日のベスト&ワースト発言を選ぶ
→発言を振り返りつつ関連情報を掘り起こすことで、記憶系脳番地を活性化。

▼ガイドブックを持たずに旅行してみる
→行きたい場所の情報を優先的に覚える「したい思考」は、
ガイドブックをなぞる「させられ思考」より格段に効果アリ。・・》
          

私はゴールデン・イヤーズと称される60代を昨年の9月に卒業して、
私としてのこれまでの10年は、我が人生として最も安楽な期間を享受できたりしてきた。

そして70代入門の初心者して、心身共に自立し健康的に生活できる健康寿命を意識して、
確かな『生きがい』と『健康』、そして『気力』を持続できるように、ときおり願いながら歩いたりしている。
       
こうした中で、私は母の遺伝を素直に受けたらしく男の癖に、おしゃべりが好きで、
何かと家内と談笑したり、ご近所の奥様、ご主人など明るく微笑みながら談笑したりしている。

或いは、好奇心をなくしたらこの世は終わりだ、と信条している私は、
体力の衰えを感じている私でも、その時に応じて溌剌とふるまったりしている。

そして糖尿病の再発防止もさることながら、何よりも怖いのは認知症であり、
もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
独りで自宅から数キロ以内の遊歩道、小公園などをひたすら歩き廻ったりして、
季節の移ろいを享受している。
          

このような拙(つたな)私でも、今回の加藤俊徳・医学博士の的言、
《記憶系に限らず、脳は死ぬまで成長し続けます。》に激励を受けたりした。

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