私は東京の調布市に住む年金生活の70歳の身であるが、
今朝、テレビのニュースを視聴していたら、
小学生の学童の多くが、一昨日の18日の土曜日から『夏休み』に入った、と遅ればせながら私は知った。
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
無念ながら孫もいない上、年金生活をしていると、ともすれば曜日の感覚も薄れ、
微苦笑させられることもある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/06/5a0f21ddd9769e5175ea6902200026bf.jpg)
やがてぼんやりと玄関の軒下に下り立ち、朝涼の残る小庭を眺めたりした。
そして学童が『夏休み』かょ、と思いながら、
私の遠い昔の60年前の頃、小学生時代の『夏休み』は・・と思い馳せたりした。
やがて夏休みの期間は、早朝にラジオ体操をしていたことが、 鮮明に思いだされて、
私は微苦笑させられた・・。
私は今住んでいる近くに生家があり、1944年〈昭和19年〉の秋に農家の三男坊として生を受けた。
この当時の生家は、祖父、父が中心となって先祖代々から農業を引き継いで、
程ほど広い田畑、雑木林、竹林などを所有し、小作人だった方の手をお借りながらも田畑を耕していた。
こうした中、私は長兄、次兄に続いて生まれた三男坊であり、
農家の跡取りは長兄であるが、この当時も幼児に病死することもあるが、
万一の場合は次兄がいたので万全となり、今度は女の子と祖父、父などは期待していたらしい。
私の後に生まれた妹の2人を溺愛していた状況を私なりに感じ取り、
私は何かしら期待されていないように幼年心で感じながら、
いじけた可愛げのない屈折した幼年期を過ごした。
やがて私が地元の小学校に入学したのは、1951(昭和26)年の春だった・・。
この当時、夏休みになると、近くのお寺の境内で『ラジオ体操』が行われていた。
集合時間は、忘れてしまったが朝の7時頃だったかしら、と思っている。
1957年〈昭和32年〉の当時は、このように整備されていなく、素朴な境内であった。
お寺の正面にあるお賽銭箱の横の階段に、ラジオが置かれて、
NHKの『朝のラジオ体操』が流れると、近所の30名前後の小学生の前で、
6年生の班長が少し高い台でお手本のように始め、数多くの小学生の生徒がそれに習って続いていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/a9/557fad31edb4cc7e80c6b4e4c0f4d3e6.jpg)
小学生は家を出る時は、必ず所定の出欠カードを持参し、
体操が終わった後、班長から出席のマークをカードに押して貰ったりしていた。
私の長兄、次兄は学業の通信簿の成績は『5』と『4』の多い優等生であったので、
6年生になると班長に選出されていた。
三男坊の私は、この当時も何かといじけた劣等生で『3』と『2』ばかりの成績であったので、
学期末に通信簿を頂くたびに、担当の先生から、
『お兄さんのふたりは・・優秀なのに・・』
とため息まじりに私に言われたりしていた。
こうした中、私が1953年(昭和28年)の小学2年の三学期に父が病死し、
翌年の1954年(昭和29年)の5月に祖父も他界され、
生家は大黒柱の2人が亡くなり、没落しはじめた・・。
そして1955年〈昭和30年〉の頃から、都会の人たち達が周辺に家を建てられ、
私が小学校を卒業した1957年〈昭和32年〉であるが、
この頃になると都心に勤める方のベットタウンとなり、新興の住宅街に大きく変貌した。
このような関係で私が6年生なると、夏の『ラジオ体操』の班長に選ばれる確率は少なかった。
やがて私が年長の6年生なると、班長は私が選任されて、
この年から何故かしら副班長が新設されて、このお寺の住職の娘の同級生が選ばれた。
この夏、6年生の私は照れながら、俺でいいのかしら、と心の中で呟(つぶ)やいたりして、
多くの小学生の一年生から同級生までの出席マークを押したりした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/49/96/59e9fde4e63c70d9b89268c565fb33e2.jpg)
後年になると、私は小学生の夏休みの『ラジオ体操』を夢をみたりする時もあり、
悪夢のようなことが多く、私は目覚めるたびに苦笑したりしている。
この寺院は、私が幼年期には周辺に幼稚園がなかった当時であり、
託児所となっていたので、私は通ったりした。
或いは小学校の入学前、この境内で隅にスクリーンが張られ、夜のひとときを上映してくれた。
私は母に連れられ、近所の方達と共に立ちすくんで観た。
この当時の私の住む地域に於いては、娯楽が少なく、こうした映画を無料で観られるのは、
稀(まれ)であったので、盛会だったと記憶に残っている。
この映画は、『長崎の鐘』であり、私としては最初に観た作品なので、心の片隅に残っている。
このようなことを思い重ねて、私は微苦笑したが、今朝のひとときであった。
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今朝、テレビのニュースを視聴していたら、
小学生の学童の多くが、一昨日の18日の土曜日から『夏休み』に入った、と遅ればせながら私は知った。
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
無念ながら孫もいない上、年金生活をしていると、ともすれば曜日の感覚も薄れ、
微苦笑させられることもある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/06/5a0f21ddd9769e5175ea6902200026bf.jpg)
やがてぼんやりと玄関の軒下に下り立ち、朝涼の残る小庭を眺めたりした。
そして学童が『夏休み』かょ、と思いながら、
私の遠い昔の60年前の頃、小学生時代の『夏休み』は・・と思い馳せたりした。
やがて夏休みの期間は、早朝にラジオ体操をしていたことが、 鮮明に思いだされて、
私は微苦笑させられた・・。
私は今住んでいる近くに生家があり、1944年〈昭和19年〉の秋に農家の三男坊として生を受けた。
この当時の生家は、祖父、父が中心となって先祖代々から農業を引き継いで、
程ほど広い田畑、雑木林、竹林などを所有し、小作人だった方の手をお借りながらも田畑を耕していた。
こうした中、私は長兄、次兄に続いて生まれた三男坊であり、
農家の跡取りは長兄であるが、この当時も幼児に病死することもあるが、
万一の場合は次兄がいたので万全となり、今度は女の子と祖父、父などは期待していたらしい。
私の後に生まれた妹の2人を溺愛していた状況を私なりに感じ取り、
私は何かしら期待されていないように幼年心で感じながら、
いじけた可愛げのない屈折した幼年期を過ごした。
やがて私が地元の小学校に入学したのは、1951(昭和26)年の春だった・・。
この当時、夏休みになると、近くのお寺の境内で『ラジオ体操』が行われていた。
集合時間は、忘れてしまったが朝の7時頃だったかしら、と思っている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/c6/6680188c8dd2fb618248b260f899ae08.jpg)
1957年〈昭和32年〉の当時は、このように整備されていなく、素朴な境内であった。
お寺の正面にあるお賽銭箱の横の階段に、ラジオが置かれて、
NHKの『朝のラジオ体操』が流れると、近所の30名前後の小学生の前で、
6年生の班長が少し高い台でお手本のように始め、数多くの小学生の生徒がそれに習って続いていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/a9/557fad31edb4cc7e80c6b4e4c0f4d3e6.jpg)
小学生は家を出る時は、必ず所定の出欠カードを持参し、
体操が終わった後、班長から出席のマークをカードに押して貰ったりしていた。
私の長兄、次兄は学業の通信簿の成績は『5』と『4』の多い優等生であったので、
6年生になると班長に選出されていた。
三男坊の私は、この当時も何かといじけた劣等生で『3』と『2』ばかりの成績であったので、
学期末に通信簿を頂くたびに、担当の先生から、
『お兄さんのふたりは・・優秀なのに・・』
とため息まじりに私に言われたりしていた。
こうした中、私が1953年(昭和28年)の小学2年の三学期に父が病死し、
翌年の1954年(昭和29年)の5月に祖父も他界され、
生家は大黒柱の2人が亡くなり、没落しはじめた・・。
そして1955年〈昭和30年〉の頃から、都会の人たち達が周辺に家を建てられ、
私が小学校を卒業した1957年〈昭和32年〉であるが、
この頃になると都心に勤める方のベットタウンとなり、新興の住宅街に大きく変貌した。
このような関係で私が6年生なると、夏の『ラジオ体操』の班長に選ばれる確率は少なかった。
やがて私が年長の6年生なると、班長は私が選任されて、
この年から何故かしら副班長が新設されて、このお寺の住職の娘の同級生が選ばれた。
この夏、6年生の私は照れながら、俺でいいのかしら、と心の中で呟(つぶ)やいたりして、
多くの小学生の一年生から同級生までの出席マークを押したりした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/49/96/59e9fde4e63c70d9b89268c565fb33e2.jpg)
後年になると、私は小学生の夏休みの『ラジオ体操』を夢をみたりする時もあり、
悪夢のようなことが多く、私は目覚めるたびに苦笑したりしている。
この寺院は、私が幼年期には周辺に幼稚園がなかった当時であり、
託児所となっていたので、私は通ったりした。
或いは小学校の入学前、この境内で隅にスクリーンが張られ、夜のひとときを上映してくれた。
私は母に連れられ、近所の方達と共に立ちすくんで観た。
この当時の私の住む地域に於いては、娯楽が少なく、こうした映画を無料で観られるのは、
稀(まれ)であったので、盛会だったと記憶に残っている。
この映画は、『長崎の鐘』であり、私としては最初に観た作品なので、心の片隅に残っている。
このようなことを思い重ねて、私は微苦笑したが、今朝のひとときであった。
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