夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

高齢者の転倒予防は、無理なく 散歩、体操、ストレッチが肝要、と老ボーイの私は学び・・。

2015-08-16 12:11:15 | ささやかな古稀からの思い
私は年金生活の老ボーイの70歳の身であるが、
昨夜のひととき、ときおり愛読しているネットのサイトを見たりしていた。

産経新聞の基幹サイトのひとつの『Sankei Biz』であり、
私は年金生活の中で、企業の動向、暮らし、社会などを多々学んだりしている。

ぼんやりと各記事を見たりした中で、
【高齢者は転倒予防を 散歩、体操、ストレッチ 無理なく】
と見出しを見て、微苦笑したりした。
          

私は民間会社の中小業の会社に35年近く奮戦し、2004年(平成16年)の秋に定年退職し、
多々の理由で年金生活を始め、早や11年生となっている。

東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住み、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

日常の殆どは私が年金生活の当初から、平素の買物を自主的に専任者となり、
独りで殆ど毎日のように家内から依頼された品を求めて、買物メール老ボーイとなっている。

こうした中、最寄のスーパーに買物に行ったり、
或いは駅前までの片道徒歩20分ぐらいのスーパー、専門店に行ったりしているが、
根がケチなせいか利便性のよい路線バスに乗るのことなく、歩いて往還している。

しかしながら暑い33度以上の日は、熱中症で倒れて救急車で運ばれて、
目覚めたら病院のベットの上だった事態は、何かと単細胞の私でも困苦するので、
路線バスに乗り、車内の冷気に甘えて往復したりしてきた。
          

その後、私が何よりも怖いのは認知症であり、
もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
独りで自宅から数キロ以内の遊歩道、小公園などをひたすら歩き廻ったりして、
季節の移ろいを享受している。
          
そして70代入門の初心者して、心身共に自立し健康的に生活できる健康寿命を意識して、
確かな『生きがい』と『健康』、そして『気力』を持続できるように、
ときおり願いながら歩いたりしている。
                            
昨今、家の居間は床は板張りにして半分ほどは絨毯を敷いているが、
この絨毯の片隅に躓(つまづ)いたりしたことが、この1か月に二回ばかりあり、
そして少しボケてきたのかしら、油断大敵だなぁ、ひとり微苦笑したりした・・。

このような状況もあったので、高齢者の転倒予防を学ぼう、とクリックした。
そして配信された記事は、少し古い一昨年の2013年12月1日であったが、
高齢者の私にとっては、大切な今後のテーマと思いながら、精読した。

無断であるが転載させて頂く。
          

《・・「老化は足から」という言葉があるが、高齢者が転倒すると、
骨折して寝たきりになったり、頭などを打って命を落としたりする危険がある。
元気に年を重ねるために防ぎたい転倒。散歩や体操、ストレッチングなどを無理のないペースで続け、
転びにくい体づくりを目指そう。(竹岡伸晃)

◎衰えの把握が第一歩

厚生労働省の国民生活基礎調査(平成22年)によると、要介護となった人のうち骨折・転倒が原因は10・2%。
脳卒中(21・5%)、認知症(15・3%)などとともに主要原因の一つだった。
人口動態統計(24年)によると、転倒・転落による死亡数は7761人で、増加傾向にある。

「高齢者が転倒すると本人も家族も大変。もっと予防に力を入れるべきだ」。
『いくつになっても転ばない5つの習慣』(青春出版社)などの著者で
「転倒予防医学研究会」世話人代表、武藤芳照・日体大総合研究所(東京都世田谷区)所長はこう話す。
          

◎高齢者が転倒する主な理由

高齢者が転倒する主な理由は武藤所長によると、
(1)老化による衰弱
(2)運動不足による体の機能低下
(3)病気による体のひずみ-の3つ。

脳梗塞や神経、脊椎の病気などが隠れているケースもあるため、「たかが転倒」と考えず、
必要な検査や治療は受ける。

(1)や(2)は、衰えを把握することが予防の第一歩。
日常生活の中では「片足立ちがしっかりできているかどうか」が判断基準となる。
「立ったままズボンや靴下をはく、道を歩く、階段を上り下りする、
浴槽をまたいで湯に入るなど、日常生活には片足立ちを基本とする動作が数多くある。

これらの動作が難しくなったり遅くなったりした場合、老化が進んでいるサインといえる」(武藤所長)

そのうえで、一つ一つの日常の動作を意識してしっかり行うことを心掛ける。
武藤所長は「例えば、『階段を上るぞ』と意識するだけで筋肉の使い方が変わり、踏み外すリスクが減る。
階段は最後の一段まで気を抜かないことが大事」。

日光を浴びながらの散歩や体操、ストレッチング、プールでの水中歩行、
音楽に合わせて行うリズム体操などで、普段から体を動かすことも大事だ。
自分に合ったものを選び、無理なく楽しく長く続けることを目指す。
          

◎萎縮せず意欲的に

転倒しやすい場所を知り、対策しておくことも重要だ。
武藤所長は「『ぬ・か・づけ』に要注意」と警告する。

▽「ぬ」れている場所
▽「か」い段・段差
▽かた「づけ」ていない場所-の意味だ。

これらの場所では慎重に歩く、手すりを持つなど十分に注意する。
▽部屋を片付け、コード類は束にして壁側に寄せる
▽浴室の床に滑り止めマットを敷く
▽部屋と廊下の段差を解消する-など、できる対策はしておきたい。

日常生活での注意点をまとめた「転倒予防7カ条」。
第7条に「転んでも起きればいいや」とある。

武藤所長は「転倒・骨折しても正確な診断を受け、適切な治療を受ければ復帰が可能。
『二度と転びたくない』と萎縮するのではなく、意欲的に体を動かしてほしい」とアドバイスしている。
          

◎転倒予防7カ条(武藤所長提唱)

1、歳々年々、人同じからず(年齢とともに体の機能は変わる)
2、転倒は結果である
3、片足立ちを意識する
4、転ばぬ先のつえ(つえは正しく使う)
5、無理なく楽しく30年(自分に合った運動を継続する)
6、命の水を大切に(こまめに水を飲む)
7、転んでも起きればいいや
・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした
          

過ぎし私は高齢者入門の65歳を過ぎてから、
心身ともに自立し健康的に生活できる期間の健康寿命は、
男性の平均としては71歳であり、平均寿命は男性の場合は80歳と知った時、
恥ずかしながらうろたえたりした・・。

そして70代となれば、多くの人は体力の衰えを実感して、
75歳まではこれまでどおりの自立した生活ができるが、
80歳が見えてくる頃には介護を必要とするようになり、やがて80代後半では
何らかの介護付き施設に入居する可能性が高くなる、と専門家の人から数多く発言されている。

この後、私は介護については漠然とし、まして費用に関しても殆ど無知であったので、
少し学んだりしてきたりした。

私たち夫婦はお互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

こうした中、私たち夫婦は幸運にも大病に遭遇せず、今日に至っている。

しかしながら命ながらえば、やがていつの日にか、介護を受ける身となる。
          
          
私の希望としては、80歳を迎えた時、益々体力は衰えた身であるが、
我が家から最寄駅まで一キロばかりの道を、路線バスに利用することなく、
何とか歩いて往復したい、と念願している。

そして私が死去する時は、身の回りの世話の一部に手助けが必要で、
立ち上がり時などに、なんらかの支えを必要とする時があり、
排泄や食事は、ほとんど自分でできる 『要支援1』で、この世にお別れをしたい、
と秘かに思ったりしている。

しかしながら自助努力も必要であるが、こればかりは天上の神々の采配に寄る。

そして、この前提必須条件としては、日頃は転倒して骨折し、やがて寝たきりになることは、
避けたいので、今回の記事を読み終わった後、真摯に教示されたのである。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、無上の喜びです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログへにほんブログ村
人気ブログランキングへ


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

終戦記念日、戦争を知らない私でも、国民のひとりの責務として、ここ48年黙祷をして・・。

2015-08-15 12:48:57 | ささやかな古稀からの思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の70歳の身であるが、
朝の6時半過ぎ洗面した後、庭のテラスに下り立ち、襟を正して黙祷した・・。

私は1944年〈昭和19年)9月に東京郊外で農家の三男坊として生を受け、
翌年の1945年〈昭和20年)8月15日に日本は連合国に降伏し、敗戦となった時、
一歳未満の乳児であったので、戦争を知らない世代のひとりである。

しかしながら少なくとも沖縄戦が事実上終結した6月23日の『沖縄慰霊の日』には沖縄本島に向い、
対戦中のアメリカが、人類史上初めて広島市の市街に原子爆弾を投下された8月6日の『原爆の日』には広島市に、、
その後まもない9日の長崎にも原子爆弾が投下された『原爆の日』には長崎市に向い、黙祷をしてきた。

そして本日の15日の敗戦なのに『終戦記念日』称しているこの日の朝、都心の皇居に向かい黙祷した・・。

こうした根底には、かの大戦に於いて、余りにも多くの方たちが亡くなわれて、
尊い犠牲の上で、今日の日本の平和の礎(いしずえ)である、と思いながら、
戦争を知らない私でも深い心の傷として、今日に至っている。

このような思いから、私は国民のひとりの責務として、ここ48年黙祷をして尊い命のご冥福を祈っている。

そして私はいつも感じることは、若き10、20代の諸兄諸姉に対して、
少なくとも日本の過去には、こうした現実があった、と認識して欲しい、固く願っているひとりである。
          

私は、皇居に向って黙祷をする真情は、 かの大戦の当時の国民風潮として、
『天皇陛下の御為と国の為に死ぬ事が日本人の美徳と教えられ、
戦死したら靖国神社に神として祀(まつ)られ、
崇(あが)められると信じて疑わない殆どの国民がいた・・』
と当時の時代の風潮の中で生き、亡くなわれた人々に哀悼の意を表しているに他ならない。

いずれにしても、戦争は多くの場合は外交の破綻から発生し、
最悪の場合は戦争となるが、勝戦国となる国民も敗戦国となる国民も余りにも過酷で悲惨である。


私はここ9年ばかり、この15日に於いては、
都心の千代田区の千鳥ケ淵戦没者墓苑の碑に刻まれた両陛下の詠まれた歌に、思いを重ねたりしている。

   国のため いのちささげし
      人々の ことを思えば 胸せまりくる         
                       昭和天皇

   戦なき 世を歩みきて
      思ひ出づ かの難き日を 生きし人々
                       平成天皇

私はこの歌を深く拝読するたびに、思わず胸が熱くし、
その時代を少し学んできた歳月に思いを馳せ、まぎれない鎮魂曲のように感じている。
          
この昭和天皇の歌の思いは、
靖国神社から程近い所にある千鳥ケ淵戦没者墓苑は、
訪れる人も少なく、この季節は蝉時雨が響き渡る情景の中、 詠まれた伝えられている。

平成天皇の歌は、戦後60年の年の歌会始の儀で詠まれた、と報じられていた。

そして昭和天皇の御製の碑と向き合う形で、
2005年(平成17年)9月に平成天皇の御製の碑が完成した、
と確か読売新聞で読んだりし、私はつたない身ながら学び、思いを深めている・・。
          

私は高校生の時に、近現代史にも関心して以来、数多く本を乱読してきた・・。
どうしてあのような無謀な世界第二次大戦を、日本は開始してしまったのだろうか、
と重く心によどんだりしてきた・・。

私はアメリカが計画してきたオレンジ計画に、日本の軍部の上層部は、深く対処できずに、
怜悧な総合戦略も思案できず、それぞれ思惑で迷走を重ねて、やがて戦争に突入してしまった、
このような思いで、ここ十年ばかり思ったりしてきた。

オレンジ計画はアメリカ海軍が戦間期(1920年代から1930年代)において、
起こり得る大日本帝国(日本)との戦争へ対処するために立案された、

アメリカは交戦可能性のある全ての国を網羅してそれぞれ色分けされ計画されたもので、
日本はオレンジ色に識別したが、日本だけを特別敵視していたわけではない。

そして計画は1919年に非公式に立案され、1924年初頭に陸海軍合同会議で採用されていた。

アメリカはスペインとの戦争によりフィリピン、グアムを獲得した。
そしてアメリカが西太平洋をそのまま西進して行き着く方向には、
日本が日清戦争により朝鮮半島含め大陸へと進出し始めていた。

わずか半世紀前にマシュー・ペリー率いる自国の東インド艦隊が訪問して開国させた日本が、
富国強兵策を取って中国へ進出してきたことは、
スペインとの戦争を終えたアメリカにとって潜在的な警戒すべき問題となっていた。
この頃からアメリカは対日本戦争計画の研究作業を開始する。

日露戦争が終結すると中国問題が日米間で重要問題化しだし、両国間の緊張が高まりだす。

アメリカは日本を仮想敵国とした戦争計画の策定に本腰を入れ始め、
一連のカラーコード戦争計画の一つであるオレンジ計画が誕生する。

オレンジ計画では初期の頃より『日本が先制攻撃により攻勢に出て、消耗戦を経てアメリカが反攻に移り、
海上封鎖されて日本は経済破綻して敗北する』
という日米戦争のシナリオを描いてシミレーションされ、実際の太平洋戦争もこれに近い経緯を辿っていく。

日露戦争の最中、第一次世界大戦といった日本と協調関係にあった時期でも、
対日本戦争計画、オレンジ計画は研究され続けていた。
          


昨日、私が購読している読売新聞の朝刊に於いて、『戦後70年』の連載記事を読んだりした。
『[戦後70年 あの夏]どう負けた 皆知らない 作家 半藤一利さん 85歳』
と題された記事を襟を正して読んだりした。

もとより作家の半藤一利(はんどう・かずとし)さんは、昭和史研究家として突出されたお方である。
一部を無断ながら、転記さらて頂く。

《・・敗戦の原因は、日本人固有の精神構造にあると思います。
情報を直視せず、自分に都合のいい結論のままどんどん行った。
ミッドウェー海戦では、敵機動部隊は出てこないと決めつけ、
ガダルカナル島の戦いでも、敵はすぐに引くと根拠もなく信じた。
兵站へいたんが限界を超えても出て行った。

陸海軍合わせ240万人の戦死者のうち、7割が餓死か栄養失調か、それに伴う病死でした。
そんな無残な死に方をする戦争なんてありえません。
国全体が集団催眠にかかり、勢いで突き進んだ結果でした。・・》
          

この後、半藤一利さんにインタビューされた編集委員・服部真さんが、
半藤一利さんの思いの記事が掲載されていた。

《・・「一等国」意識の暴走 背景に国民の熱狂

明治から昭和にかけての歴史は、日露戦争(1904~05年)でいったん切った方がわかりやすいと、
半藤さんは言う。

日露戦争までは、欧米列強に植民地にされるのを回避するため、近代化を急いだ時期だ。
巨額の軍事費をまかなうため、国民は重い負担に耐えた。
ロシアに対して、世界中が日本が負けると思っていた戦争を始めたのも、自衛のためだった。

日露戦争から昭和の初めまでは、日本が大国として振る舞った時期だ。
戦争に勝ち、「一等国」の仲間入りをしたと国民は確信するが、そこから日本が変わっていく。
自分たちは一等国民だという意識で動き始めたようだ。

例えば、第1次世界大戦の戦後処理を決める1919年のパリ講和会議では、
分け前を声高に主張してひんしゅくを買う。

国際社会で孤立を深めた日本は、英米に敵対感情を抱くようになり、33年には国際連盟を脱退する。

当時の指導者たちは、情勢を直視せず、国際法を顧みずに暴走した。
そして、米国を相手に、勝ち目のない戦争へと突き進んだ。

その背景に国民の熱狂があったことが、半藤さんの話から伝わってくる。 (服部)・・》

私はこうしたあの時代に、現世の私は心を痛め、ただ黙祷し、項垂(うなだ)れたりした。


☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、無上の喜びです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログへにほんブログ村
人気ブログランキングへ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

又吉直樹さんの『火花』、芥川賞受賞作品をめぐる騒動に、微苦笑させられ・・。

2015-08-15 09:50:01 | 真摯に『文学』を思考する時
私は遅ればせながら高校に入学してまもなく、突然に読書に目覚めて、
この時から小説、随筆、ノンフェクション、月刊雑誌などを乱読してきた。

読書に魅せられるのは、創作者より、文字から伝えられる伝達力、創造力が
それぞれ読む時の感受性、知性、想像力により多少の差異があるが、
綴られた文章はもとより、この行間から感じられる圧倒的な魔力から、
高校生の時からとりつかれたのであった・・。

そして何かと読書に魅了されて早や55年が過ぎている。

こうした中で、月刊総合雑誌のひとつの『文藝春秋』に関しては、
東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)の頃から特集に魅せられた時は買い求めて、
やがて1970年(昭和45年)4月より、毎月購読して今日に至っている。

そして文藝春秋が実質上主催となっている公益財団法人 日本文学振興会が制定する『芥川賞』が、
年に二回の選考が実施された結果、
受賞作品が、『文藝春秋』の誌上に、選考委員の選評と共に掲載されている。

私は掲載された『芥川賞』受賞作品をリアルタイムで精読したのは、
確か1965年に始まりと記憶していたので、津村節子さんの『玩具』が最初で、
最後は三田誠広さんの『僕って何 』(1977年)であった。

これ以降は、選考委員の選評だけは読み、受賞作品は殆ど読んだことはなく、過ごしてきた。
          

過ぎし7月16日に第153回芥川龍之介賞の選考委員会が開催され、
やがて又吉直樹さんの『火花』と羽田圭介さんの『スクラップ・アンド・ビルド』が受賞作に決まった事に関し、
テレビのニュースで知った。

そして又吉直樹さんについて、テレビや新聞などで盛んに取り上げられて、
人気お笑い芸人、と私は初めて知ったりした。

やがて私は、作家・丸山健二さん(1966年、芥川賞受賞作『夏の流れ』)が、
1994年に上梓された『まだ見ぬ書き手へ』(朝日新聞社)を思い浮かべた・・。

小説を志す人たちの中にはおらず、文学なんぞ青くさくて話にもならないと思い、
他の世界できちんと現実に立ち向かいながら、着実な仕事振りをしている方・・
こうした方に小説を公表して、文学の活性化を念願している・・
確かこのような内容と私は記憶していた。
          

この後、7日の朝、いつものように読売新聞を読んでいたら、
出版広告として、『文藝春秋』(9月号)と『中央公論』(9月号)が、
本日発売と表示されていた。

通常は10日発売の月刊総合雑誌であるが、
数多くの民間会社が夏季休暇は12日から始まると知ったりしてきたので、
少し早めたかしら、と思ったりした。

やがて『文藝春秋』は、恒例の芥川賞に於いて受賞作が掲載されてきたが、
今回は話題の又吉直樹さんの『火花』も掲載されているので、
出版業界は不況の中、又吉直樹さんの『火花』が単行本が爆発的に売れている中、
相乗効果で、今回の9月号は少し早めたかしら、と私は微苦笑したりした。


そして当日の7日の午前中のひととき、駅ビルの本屋に立ち寄り、
『文藝春秋』(9月号)を見たりしたが、近くに厚い『文藝春秋』があり、
何かしら特別付録として、昭和2年9月『芥川龍之介追悼号』が付いていたので、買い求めたりした。。
             
             
やがて二日遅れで、久々に芥川賞受賞作品の又吉直樹さんの『火花』だけを読んだりした・・。

そして又吉直樹さんの『火花』は、純文学を意識してか少し固い文体もあるが、
独自性もあり、描写が新鮮で好感した。
ただ苦言を呈すれば、終末に描かれた《胸豊》はない方が圧倒的に良質の作品に完成した、
と私は感じたりした。


昨夜、ネットで月刊『創』編集長の篠田博之さんが、
『皆、遠慮して言わないけど、『火花』が209万部ってどうなの?』と題された寄稿文を読み、
やがて微苦笑させられた。

無断であるが記事の前半部分を転載させて頂く。
          

《・・又吉直樹さんの『火花』の発行部数が209万部に達したという。
電車の広告ではいまだに「120万部突破」と書かれている。
広告を差し替えるのが追いつかないほどの勢いで増刷がかかっているのだ。
7月半ばの芥川賞受賞発表までは60万部強だったから、半月で100万部以上の増刷がかかったわけだ。

いま出版界は深刻な不況で、特に文学とノンフィクションのジャンルは本が売れないから、
業界がこぞって『火花』ヒットさせようとしたのはよくわかる。

特に芥川賞はこのところ、受賞が話題になることが多いから、今回も関係者はいろいろ考えたのだろう。
その結果、予想をはるかに上回るベストセラーが誕生したわけだ。
業界の多くの人がほっとしたし、これが起爆剤になって少しでも出版界が活性化すれば、と思ったことだろう。
          

でも、どうなんだろう。
そのブームはいまや独り歩きしてしまっているし、こういう現象って本当に出版界にとって良いことなのだろうか。
出版界ではこの10年程、「メガヒット現象」と言って、特定の本に売れ行きが集中し、
それ以外は本や雑誌がさっぱり売れないという状況が加速している。
今回の現象はそれを象徴する事柄だ。

お笑いの世界でもブームが訪れては翌年にはそれが消えていくという現象が続いているが、
『火花』のブームも「お笑い芸人が初めて芥川賞受賞」という話題性が、
普段本を読まない人にも関心を抱かせる要因になっているのは明らかだ。

購買動機が「話題を消費する」ことだから、『火花』の売れ行きが爆発的であっても、
それが他の文芸書に波及していくとは思えない。

『SPA!」8月11・18日号の「文壇アウトローズの世相放談『これでいいのだ!』」で文芸評論家の坪内祐三さんが
こう語っている。

「今回の芥川賞に関しては、周りのはしゃぎっぷりは見苦しいね。
『週刊文春』のグラビアでさ、選考委員の島田雅彦や山田詠美たちが又吉さんを囲んで嬉しそうに写ってたでしょ。
あれはサイアク。芸能と文学は五分と五分のはずなのに、あれを見ると文学が芸能に負けちゃってるんだよ」

「芸人が獲ったってだけで、こんなにみんなはしゃぐなんて、
今回の芥川賞で、いよいよ文学が滅びたなって感じがするんだよ。
少なくともオレの考えてる文学は滅びた感じがする。又吉さんの作品が文学なだけに、それが際立つよね。
文学的な作品が芥川賞を獲って、それで文学が滅びたってところがいいよね」

断っておくが、又吉さんの『火花』が作品としてだめだと言っているのではない。
それを文学として評価したうえで、今回の騒動については「文学が滅びた」と言っているのだ。
          

この何年か、出版界では「良い本が良い本だという理由だけで売れる時代は終わった」と言われている。
映像化によってブームを作り出すとか、何かの賞を受賞して話題になるとか、
そういうプロモーションを行っていかないと、良い本でもヒットは望めないという状況なのだ。

文藝春秋にプロモーション局が設置されたのは2012年だ。
そのプロモーション主導で作り上げたミリオンセラーが阿川佐和子さんの『聞く力』だった。
いや別に阿川さんの本が、中身がないのにプロモーションで売ったと言っているのではない。
でもあの本がミリオンセラーになっていったのを見ると、マーケティングとプロモーションの勝利だという印象は否めない。

最近は、本は「一部の売れる本とそれ以外の本」に大別されると言われる。
文藝春秋も新潮社も、ごく一部のメガヒットとなった本の売り上げで書籍部門全体を引っ張るという構造が定着しつつある。
特定のメガヒットとなった本を除くと、書籍部門が対前年比マイナスだったりするのも珍しくない。

文藝春秋がプロモーション局を作ったり、新潮社が「映像化推進プロデューサー」という妙な肩書のスタッフを置いて、
文芸作品の映像化を意識的に働きかけたりしているのはそのためだ。
何らかの仕掛けによってベストセラーを作り出すというのを、意識的にやっていく、それが当たり前の時代になった。
同じ作家の作品でも、映像化などで話題になったものとそうでないものとでは部数に極端な違いが出たりする。

今回の『火花』の芥川賞受賞や、それを機に一気に何十万部も増刷をかけ、
「100万部突破」というニュースによって話題を加速していくという手法は、『聞く力』で成功したやり方だ。
文藝春秋も幾つかの経験を経て、プロモーションがうまくなっているといえる。

その手の手法としては、ドラマ化・映画化はもちろんだが、何かの賞をとらせて話題を作る、
あるいは年末のいろいろなランキングに作品をすべりこませ、それを宣伝に使っていくなど、
大手出版社ではそれが当たり前になりつつある。
          

戦後、日本の出版界は一貫して右肩上がりの成長を続け、
経済的な不況に陥っても本だけは読むというのが日本人の特性と言われてきた。
出版界にとっては、牧歌的で幸せな時代だった。

しかし、その出版界は1990年代半ばをピークにいまや落ち込む一方だ。
本が売れないと言われるなかで、ヒットを出すには何らかの「仕掛け」が必要になった。

その意味では『火花』は幾つかの仕掛けが完璧に功を奏した事例だろう。でも、
それが100万部を超え、200万部を超え、という異常なブームになってしまうと、喜んでばかりはいられない気もする。
作品の消費のされ方が、お笑い界のブームや、健康本が一過性でブームになってしまう経過とよく似ているのだ。
これって出版界にとって健全なことなのか。

救いなのは、こういうブームのなかで、当事者の又吉さんが決して浮かれていないように見えること、
あるいはこの現象を冷静に受け止める空気もまだ残っていることだ。 ・・(略)・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
          

私のつたない読書歴としては、純文学の世界に関して、
瀬戸内寂聴さんが晴美と明記していた1955年(昭和35年)の頃、
『純文学の(単行)本は3000部程度で、これ以上は何かしら加味されたもの・・』
後年に私は、このような意味合いの言葉を学んだりした。

まもなく石原慎太郎さんが『太陽の季節』で芥川賞を受賞された1955年(昭和35年)、
起爆剤ように社会現象として波及し、時の人となり、
出版業界はやがて日本の高度成長と共に活性化し、隆盛の時代となった。

これ以前、前年に芥川賞を『 白い人』授賞された遠藤周作さんは、
授賞も平穏で、授賞したから出版社から特別な注文はなかった、と私は後年読んだりした。


昨今、出版業界と創作者の作家の状況の中、電子書籍の時代の著作権が不明確のまま到来、
何よりも出版社と著作者に無断のまま、本を裁断してコピーし、販売する業種も出現し、
出版社などは大揺れの状況下となっている。

或いはアマゾンなどのネット書店に席巻されて、街にあった中小書店が激少し、
出版業界全般として縮小している。


そして数か月前、私が衝撃を受けたは、1996年に『家族シネマ 』授賞された柳美里さんが、
インタビューした記事の中で、
《・・多くの作家が経済的に困っている状態ということですか、と問いに、
柳美里さんは、「書くことだけで食べている作家は30人ぐらいではないか」という話を聞いたのですが、
かなりリアルな数字だと思います。
ただ「貧乏は恥ずかしい」と考えている方が多く、公にしないだけだと思います。・・》

こうしたことに私は動顛させられた。
                    

そして私が勤めていた音楽業界のレコード会社の各社でも、
1998年(平成10年)に売上のピークで、これ以降今日まで下降している。

主因としては、経済の低迷化の中で、ネットの違法な音楽配信の蔓延化、そして社会全般の多趣味化であり、
やがて正規な音楽配信元でも、無料、或いは有料の音楽利用料金が普及してきたが、
著作権を有するアーティストに対しての対価は、余りにも廉(やす)過ぎる、と私は感じたりしている。

このような環境下では、肝要の音楽アーティストの多くは、
収入の激少化となり、生活もままならず、創作意欲がなくなってしまうのではないか、
或いは転職を余儀なくされてしまうのではないか、と憂いたりしてきた。

こうした中で、音楽業界、出版業界も堅実に利益を出して発展する為には、
世界の他分野の主力な巨大企業でも、徹底したマーケティングが実施されているので、
文化的な出版業界、音楽業界、一部の突出したことが現象がでている実態は、
私はやむえないことと思っている。

そして一部の突出したことが現象は、ネットの社会でも露呈しているが、現状である。

今回の又吉直樹さんの『火花』が若き人が買い求められたと知り、
これを機会に若き人の多くが小説を読み、本を買い求めて下されれば、と私は念願している。


☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、無上の喜びです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログへにほんブログ村
人気ブログランキングへ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

蝉(セミ)、鈴虫(スズムシ)、蟋蟀(コオロギ)、私の住む小庭では・・。

2015-08-14 14:24:12 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活の70歳の身であり、
雑木の多い小庭の中で、古びた一軒家で家内と共に生活している。

今年の熱さは異常高温で、35度以上の猛暑日が8日連続となっは8月7日で、
観測史上新記録となった後は、11日の猛暑日を除き、30数度の平年の夏になっている。

この間、平素の買物は私が我が家の専任者となり、家内から依頼された品を求めて、
駅前までの片道徒歩20分ぐらいのスーパー、専門店に歩いて往復するのが通常であったが、
やはり猛暑の中、熱中症で倒れて救急車で運ばれて、目覚めたら病院のベットの上だった事態は、
何かと単細胞の私でも困苦するので、路線バスに乗り、車内の冷気に甘えて往復したりしてきた。

この後の自宅から3キロ以内の散策も、近回りして歩くことが多くなっている。
          

こうした中で、我が家の小庭の手入れは、私の責務であるが、
何よりも暑さに苦手な私は、サボり果ててきた・・。

我が家の敷地は変形の為、家屋を建てる当時から玄関庭と主庭に別れているが、
樹木の枝葉は伸び放題、草も茂って純白のタマスダレの花、淡紅色の秋海棠(シュウカイドエ)の花も、
雑草の中で咲いているような状態となっている。

こうした状況の中で、一番喜ぶのは鈴虫(スズムシ)、蟋蟀(コオロギ)かしら、
と私は微苦笑を重ねたりしてきた・・。
          

昨今、小庭では朝に於いては鈴虫(スズムシ)が鳴いて、蝉(セミ)も負けじと盛んに鳴いて二部合唱となり、
日中の暑い中は、蝉(セミ)が独壇場のように、今鳴かなくていつ鳴くのよ、
といったように喧(やかま)しく鳴き響いてきた・・。

こうした中で、鈴虫(スズムシ)の鳴き声が聴こえないのは、
日中はお休みの睡眠時間の最中で、夕暮れの6時過ぎに目覚めるのかしら、と私は解釈したりしてきた。

そして夕暮れの6時過ぎになると、蝉(セミ)は鳴き声が途絶える・・。
私は暑さの日中に蝉(セミ)は盛んに鳴いていたので、
きっと鳴き疲れてお休みの睡眠時間になったと思ったりしてきた。

鈴虫(スズムシ)は夜行型、蝉(セミ)は日中型、と少しボケた私でも理解は出来るが、
我が家の蟋蟀(コオロギ)は、何故かしら耳をすませないと聴きもらす・・。

夜のひととき、鈴虫(スズムシ)の盛大な合唱の中、
定年退職後に何かと気弱になった主(あるじ)の私の気持ちを察してか、
蟋蟀(コオロギ)だけは、少し遠慮しながら鳴いているのである。

そして私は愛(いと)おしく、少し哀れな蟋蟀(コオロギ)であるが、
やがて初秋になれば、蝉(セミ)は消え果てるので、ライバルは鈴虫(スズムシ)となる。

しかしながら鈴虫(スズムシ)も夏の間、盛大に鳴いてきたので、
疲れ果てて、少しはおとなしくなるかしら、と私は秘かに願ったりしてきた。
                    
    
このように思いながら過ごしてきたが、 本日の早朝、玄関の軒下に下り立つと、
微風が吹く中で、心も身もゆだねると心地よく、初秋の気配を感じ、
鈴虫(スズムシ)の合唱を聴きながら、と実感を深めたりした。
          

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、無上の喜びです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログへにほんブログ村
人気ブログランキングへ


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

俳優・宝田明さんのご一家、敗戦後の満州より苦難の帰還に、涙を浮かべて・・。

2015-08-13 12:29:02 | ささやかな古稀からの思い
私は1944年〈昭和19年)9月に東京郊外で農家の三男坊として生を受け、
翌年の1945年〈昭和20年)8月15日に敗戦となった。

そして敗戦時は一歳未満の乳児であったので、戦争を知らない世代に属するが、
戦争の過酷で悲惨な状況は、戦地に行かされた親戚の叔父さん、近所の小父さん、
或いは近現代史、随筆、映画などで学んだりしてきた。

今年は戦後70年に伴い、新聞、総合月刊誌などで特集記事が掲載されたり、
テレビの番組でも、数多く放送されている。

私が購読している読売新聞の朝刊に於いても、『戦後70年』の連載記事が掲載され、
私は襟を正して読み、多々教示されている。

昨日の12日は、海外の地で敗戦に遭遇した人々を掲載されていた。
転記させて頂くと、
《・・敗戦時、海外には軍人・軍属、民間人を合わせ約660万人の日本人がいた(厚生省「援護50年史」)。
最も多かったのが満州で、約155万人。
満州を占領したソ連は在満の日本資産を持ち去るばかりで、邦人保護に目を向けなかった。

頼みの綱の関東軍も満鉄も1945年9月末までに消滅し、残された日本人は寄る辺を失う。・・》
          

私は二十歳の頃に、藤原ていさんの『流れる星は生きている』を読み、
1943年に新京の気象台に赴任する夫(後年、作家の新田次郎=本名・藤原寛人)と共に満州に渡り、
やがて敗戦後の1945年、夫を一時残して、子供を連れ満州より引き揚げ苦難を学んだりした。

ここ10年は、ご子息の数学者でエッセイストの藤原正彦さんの随筆で、
この時の悲惨な状況を教示されたりしてきた。

或いは作家の五木寛之さんは、敗戦時に平壌にいて、ソ連軍進駐の混乱の中では母死去し、
やがて父と共に幼い弟、妹を連れて38度線を越えて開城に脱出し、1947年に福岡県に引き揚げる状況を
ときたま随筆で公表されたのを、ここ30数年読んだりしてきた・・。
          

昨日の『戦後70年』は、俳優・宝田明さんが敗戦時は満州の地で、
日本の地に引き揚げるまでの過酷な実態が掲載されていた。
やがて、記事を読み終わった時、私は涙があふれていたことに気付いた・・。

無断であるが記事を要約させて頂く。

《・・12歳で満州(現中国東北部)から引き揚げるまで、日本の地を踏んだことがありませんでした。
父は、朝鮮総督府の海軍武官だった祖父の勧めで、鉄道技師として朝鮮総督府鉄道に入り、私も朝鮮で生まれました。

2歳の時、父が南満州鉄道勤務になり、満州に移りました。
小2から終戦まで暮らしたのはハルビンです。

1945年8月9日夜、轟音ごうおんで家族全員が跳び起きました。
敵の飛行機が旋回し、ハルビン駅近くに火柱が立っていました。
そして15日。玉音放送で敗戦を知り、五臓六腑をえぐりとられたように、全身から力が抜けました。

日本の軍隊は武装解除し、無政府状態の街にソ連軍が侵攻してきたのです。
ソ連兵は略奪、暴行、陵辱の限りを尽くし、日本人は子ヤギのように脅おびえていました。

生きるために何でもやりました。
靴磨きやたばこ売り。ソ連兵から黒パンの切れ端をもらうためです。

そのうち強制使役の命令が下りました。
父と中学生の三兄と私の3人が毎日交代で、ハルビン駅のそばから貨物列車まで石炭を運びました。
列車には関東軍の兵隊さんたちが次々に乗せられ、北へ向かいました。
シベリア抑留のために働いたのかと思うと、辛つらいです。
                    

出征した兄が乗っているかもしれないと、私はホームを歩き回りました。
その時です。見回りのソ連兵に撃たれたのです。

転げるようにして家に戻りました。右腹が熱くて仕方がありません。血だらけでした。
1日我慢したら、はれて悪化するばかり。元軍医という人に来てもらい「緊急手術」です。

麻酔も手術道具もありません。
裁ちばさみの刃を焼いて消毒し、傷口を切り開きました。
出てきたのは、使用が禁止されているはずのダムダム弾。
鉛がつぶれて体内に広がる恐ろしい銃弾でした。
糸も針もないので傷口はそのままでした。

46年11月、日本への引き揚げが決まりました。
最も気がかりだったのは、三兄が強制使役に行ったまま、半年以上戻って来なかったことです。

やむなく両親と弟と私の4人で出発することになりました。
父の生家がある新潟の住所を紙に書いてホームの鉄骨に貼り、「必ず来い」と呼びかけ文を付けました。

引き揚げ船が出るのは、南満州の葫蘆ころ島。
ハルビンから列車に乗り、野を越え山を越えて、2か月半かかりました。
食べ物もなく、赤ん坊を死なせるよりはと、途中で中国人に託す人もいました。
弟は6歳でしたが、よく頑張って付いてきたと思います。

博多港から列車を乗り継いで、新潟に着いた時はぼろぼろでした。
          

生活のため、母は魚の行商を始めたのですが、
47年冬のある日の午後、母の手伝いをしていると、
軍隊の外套がいとうをまとい、顔に傷のある男の人が通り、役場の場所を聞かれました。

1時間ほどで戻って来て、何度もこっちを振り返るのです。
それが、ハルビン以来、行方不明だった三兄だったとわかった時はもう……抱き合って、涙、涙でした。

兄はソ連軍の兵舎で飯炊きをさせられ、やっと解放されて社宅に戻ったら誰もいない。
一人で南へ南へと歩き、密航船に乗るためお金を稼ぎ、九州上陸後は日本海沿いに歩いてたどり着いたというのです。
15歳の少年にはあまりに過酷な体験。

自分は家族に見捨てられたという思いが消えず、しばらくして家を出ました。

私が東宝に入って、グラビアに出るようになると、「よかったな。足しにしろ」と、300円を送ってきました。
本当は心の温かい三兄でした。63歳で亡くなったのが悲し過ぎます。
次兄は復員しましたが、長兄は戦死しました。

無辜(むこ)の民をも引きずり込んで、一生を狂わせてしまう。
それが戦争なのです。・・》
          

私は三兄が満州のハルピンに取り残こされて、《・・ソ連軍の兵舎で飯炊きをさせられ、
やっと解放されて社宅に戻ったら誰もいない。
そして15歳の三兄は、動乱のハルピン、やがて朝鮮半島、独りで南へ南へと歩き、
困窮しながら密航船に乗るためお金を稼ぎ、
九州上陸後は日本海沿いに歩いて、念願の新潟にたどり着いた・・》

こうした状況を思い馳せたりしていると、私は涙があふれたのである。

かくも戦争は余りにも、悲惨で過酷である。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、無上の喜びです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログへにほんブログ村
人気ブログランキングへ

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本がギリシャのように破綻しない理由を学び、小心者の私は安堵し、やがて・・。

2015-08-12 12:16:20 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の70歳の身であるが、
昨夜のひととき、週に2回ぐらい愛読しているネットのサイトを見たりしていた。

ビジネス総合情報誌として名高い『プレジデント』の基幹サイトで、
私は年金生活の中で、健康、医療、介護など多々学んできました・・。

そして今回は、注視したのは、
【日本がギリシャのように破綻しない理由】であり、
何かと経済にも疎(うと)い私は、 遅ればせながら学ぼうと思い、クリックして読んだりした。

やがて読み終わった後、ギリシャの破綻した経済の理由も解り、
何よりも日本の国家財政、国債、消費税などを多々教示させられた。

この記事の原文は、『PRESIDENT 』の2015年8月17日号に掲載された記事のひとつで、
『PRESIDENT 』の基幹サイトに2015年8月11日に配信され、
イェール大学名誉教授・内閣官房参与の浜田宏一さんが、
義務教育を終えた中学卒以上方であったなら、誰でも解りやすく解説して下さった寄稿文である。

このように私は、日本の経済には少子高齢化の中で、この先に不安を秘めてきた小心者の私は、
今回の記事を読み終わった後、安堵したりした・・。
無断であるが転載させて頂く。
          
         
《・・現在、ギリシャが事実上の債務不履行に陥っている。
ユーロ圏にとどまるためには、多大な困難を乗り越えなければならない。

これに伴い、「政府の債務は日本のほうがギリシャより大きい。
日本の財政は大丈夫なのか」という声が上がっている。

日本では20年以上にわたって政府の歳入より歳出が多い状態が続いている。
日銀の資金循環統計によれば、地方公共団体を含めた日本の一般政府の負債合計は2015年3月末で1206兆円、
名目GDP(国内総生産)490兆円の246%に達した。
IMF(国際通貨基金)推定によるギリシャの対GDP比176%より大きい。

政府がこうした自転車操業を行っている状況はもちろん、望ましいことではない。
しかし、日本の政府債務の対GDP比がギリシャに比べて大きいとしても、そこだけを捉えて
「このままいけば、日本もギリシャと同じように債務不履行に陥り、経済がめちゃくちゃになる」
と考えるのは大間違いである。

日本政府はかつても今も、「近い将来に資金繰りがつかなくなって債務返済が滞る」という状況にはない。
世間の注目が集まっているいい機会なので、この点について述べたい。
          

ある人がお金持ちか貧乏かを考えるなら、その人がいくら借金をしているかだけでなく、
いくら資産を持っているかも見なくては判断できない。
当然、国家・政府も同じはずなのだが、財政危機を唱える人々はなぜかそこに言及しない。

日本の一般政府は、債務返済のために現金化できる資産を売り払ってきたギリシャ政府と異なり、
15年3月末でまだ574兆円に達する金融資産を保有している。

それを負債総額から差し引くと、残った分はGDP比で130%弱となる。

よい状態とはいえないが、一般政府の純債務残高が14年末で312億ユーロ、
GDP比で174%となるギリシャよりはましといえる。

日本では金融資産のほか、政府が保有する土地や官庁の建物など実物資産も相当な額に上る。

しかも日本は官民を合わせて見たとき、世界で最も多くの対外資産を持つ純債権国である。
日本の対外純資産は14年末時点で366兆円と、24年連続で世界一である。
          

このため、ギリシャ問題のような経済危機が起きると、
世界の投資資金が円に集まり、円高が発生する。

つまり、日本政府が発行している日本の円は、ECB(欧州中央銀行)が発行するユーロより、
米国政府が発行する国債より信用があるということだ。
対外純債務がGDPを大きく超えているギリシャとは、この点がまったく異なる。

日本では政府の税収を担保する家計の金融資産も、15年3月末で1700兆円以上と莫大だ。

財務省は「政府債務というツケを次代に残すな」というが、
家計の保有資産もいずれ将来世代に移転されることになる。
日本人ほど将来世代のことを考えている国民はいない。
          

日本政府の債務は、円建てで発行されている。
このため返済を求められれば、日銀でお金を刷ることにより、すぐに返すことができる。

同じことはギリシャにはできない。
ギリシャの通貨はユーロで、借金もユーロ建てである。
ユーロはECBが発行しており、ギリシャ政府はECBにお願いしてお金を貸してもらわなければ、
政府の債務を返済できない。

そのためには、ドイツなど他のユーロ加盟国を説得しなければならない。
そこも日本とは決定的に違うところだ。
          

もちろん、日銀で刷ればよいといっても、あまりお金を刷りすぎればインフレになってしまうが、
今の日本はインフレではなくデフレなので、そこを心配する必要はない。

そもそも、市場が日本国債が返済不能となることを心配しているのであれば、
高い金利を約束しない限り、誰も日本国債を買ってくれないはずである。

ところが、日本国債の発行金利は、15年7月初めの10年国債で、年率0.5%前後であり、
15%近いギリシャ国債とは比較にならない。
同時点の米国10年債、イギリス10年債はどちらも2%台である。
それだけ日本国債は、マーケットで返済の確実性を信頼されている。
          

エコノミストの中には、「今でこそマーケットは平穏だが、
いつ財政の不均衡のために金利が高騰するかわからない」という人もいる。

本当にそう思うなら、国債を空売りすればいいだろう。
国債金利の高騰とは国債価格の暴落だ。空売りしておけば大儲けできる。

国債価格が暴落すると脅かそうとするオオカミ少年的エコノミストは、
みな口だけの評論家であって、自分で自分のいうことを信じてリスクを取っていない(そうでない人がいたら教えてほしい)。

実際にリスクを取って市場で日本国債を売買しているプロのトレーダーたちは、
どこの国の国債よりも日本国債を信用している。だから日本国債の金利は世界一低いのである。
          

もう一つ、ギリシャと日本で決定的に違う点がある。

日本では安倍政権の登場により、アベノミクスの第一の矢、
黒田東彦総裁率いる日本銀行による積極的な金融緩和によって、日本経済を活気づかせることに成功した。
これは円という単独通貨ゆえに、自らの意思で金融緩和を実行できたからだ。

ギリシャには同じことはできない。
ギリシャの金融政策はECBによって決められ、ECBはユーロ全体の景気や雇用状態を見ながら金融政策を決定しており、
ギリシャの個別の事情に合わせてはくれない。

ギリシャ国民の生産性を考えれば、本来は中央銀行がもっと緩和的な金融政策を実施し、
通貨価値を下げることで国としての競争力を高める必要がある。
現状の為替レートでは、ギリシャは輸出入のバランスが取れず、経常赤字を続けることになる。
          

米コネティカット州の私の自宅近くにある朝飯屋の女主人はギリシャ出身だ。
「ギリシャの主要産業は観光業です。
ドイツの都合のいいように決められる割高のユーロでは、
円安で外国人ブームの日本とは反対に旅行客が逃げてしまいます」という。

日本の消費税に近い付加価値税を上げたりすれば、かえってギリシャの財政が悪化する可能性があることは、
日本の消費税引き上げの経験からも明らかであろう。

ドイツとギリシャでは生産性が違うため、
同じ通貨を使い同じ為替レートで競争したら、必ずドイツが勝つことになる。

もしそうなったとき、お互いの財政が共通なら、
儲けているドイツが利益の一部を税金で回収してギリシャに回すことで、両国の生活水準の格差を抑えることができる。

しかし現実にはユーロ経済圏では、通貨は共通でも各国の財政は別なので、
ギリシャがドイツから所得を移転してもらうのは無理。債務の減免くらいにとどまる。

ドイツの言い分は、幕下の力士に幕内の力士がユーロという土俵を変えずに、
すぐさま体質を改善して対等の相撲を取れと命じているようなものだ。
財政の構造改革も必要だが、ルールそのものを大きく変えなければ十分ではない。

この先、何らかの改革によりギリシャの生産性が急上昇すれば別だが、
そうでもない限り、このままユーロ圏に留まったとしても、ギリシャの苦悩は繰り返されるであろう。
          

米経済学者ポール・クルーグマンは、ギリシャの国民投票の直前に米NYタイムズ紙上で、
「ギリシャ国民はEUの求める緊縮財政に『NO』というべきだ」と述べていた(15年6月29日付)。

英フィナンシャルタイムズ紙のマーティン・ウルフも、
「ユーロに残れば、ギリシャの体験した苦難は繰り返される。
離脱すれば目先で調整の苦しみがあり、将来も未知の試練が待っている。
しかし、紺ぺきのエーゲ海に飛び込むつもりでギリシャ経済を再生したらどうか」と述べた(同30日付)。

私も同意見である。
ユーロはヨーロッパ統一という政治的スローガンを満たし、加盟国に利益をもたらすはずだったが、
ギリシャは違った。

ユーロから離脱し、独自通貨に戻して自身の中央銀行が通貨を発行するようになれば、
景気を回復させることができる。
そもそも、最初からユーロに加盟などすべきではなかった。
             

財政赤字一般の議論にもどろう。
確かに、財政が悪化すると急な財政出動が必要になった場合に対応できないし、
予算の多くが金利の支払いに消え、本来の支出に回せる額が減ってしまうという理屈は正しい。

しかし実際は、11年に東日本大震災が発生し、政府は総額25兆円もの多額の復興予算を計上したが、
その調達に大きな問題は出なかった。

国債の利払いについては、15年度予算で10.1兆円と、歳出全体の10%強に収まっており、
アメリカ、イギリス、ドイツなど、世界の主要国のいずれよりも低い。
             

政府が過大な債務をチャラにしようとしてインフレを起こすのが、最も大きな心配である。
悪性のインフレが発生すると、国民全部が課税される結果になる。
しかし今の日本は長年、デフレに悩まされているので、その心配は少ない。

もちろん、永遠に歳出が歳入を上回る状態は望ましくない。
いずれは消費税率を上げるなどして、財政を均衡させなくてはならないが、問題はそのタイミングにある。

この場合、景気を好転させ、日本経済を成長軌道に乗せてから税金を取るアベノミクスの立場と、
EUがギリシャに押し付けているように、経済の状態とは関係なくまず税率を上げようとする立場の2つがある。
どちらが正しいのだろうか。
             

財務省は14年4月の消費税増税以前、
「増税が実現すれば日本の財政への信認が高まり、国債発行金利も下がってくる」といっていたが、
実際には上がってしまった。

市場は「消費税率アップで景気が悪化すること」を重視したからだ。
「消費税を上げても景気に大きな影響はない」などという強弁が嘘であることも、国民にわかってしまった。

実際には消費税増税を機に景気が一気に冷え込み、14年は実質マイナス成長に転落してしまったからである。

まさか財務省が、税収を下げてでも自らの権限拡大のために、税率を上げようとしているとは思いたくないが。

消費税は今のところ、17年4月に10%に税率を上げることになっている。
これを実施するときには、金融緩和の援軍も必要であろう。

消費増税で一番苦しむのは低賃金、低所得、低年金生活者だ。
生活必需品の税の免除とか、マイナンバー制を活用して生活困窮者に戻し税を支払うなどの所得分配上の配慮が
必須であると考える。・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。

私はハイリターン・ハイリスクの投資信託、株式などは怖くて、元本保証の国債を程ほどに所有している小心者であり、
ある経済評論家などは国債も大幅に下落する時も考えられる、と読んだりした時、
国債が紙くずになる時は、日本が消滅する時と思ったりしてきた。

或いは消費税に関しては、昨年の8%になった時は、国家財政が悪化し、社会保障費も増大しているので、
実施前から賛意をしてきた。

しかしながら昨年の4月から6月まで4半期の経済概要の実態を知った時、
やはり日本では、《・・景気を好転させ、日本経済を成長軌道に乗せてから税金を取る・・》のが、
望ましい、と変更をしたりしてきた。

今回の浜田宏一さんの寄稿文、年金生活の齢ばかり重ねた私でも、多々ご教示されました、
と感謝している。


☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、無上の喜びです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログへにほんブログ村
人気ブログランキングへ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

阿川さんは敗亡した祖国日本の葬式をたった一人でやってきた、と改めて教示させられ、同感を深めて・・。

2015-08-11 15:38:00 | ささやかな古稀からの思い
私の住む東京の調布市の片隅の住む70歳の身であるが、
午前中のひととき、いつものように家内から依頼された平素の買物を終えて、
帰宅した後、独りで自宅の近くに流れている野川の両岸にある遊歩道を散策しょうと歩き出した。

陽射しは燦々と照らし、ときおり曇り空に変貌をする中、
夏用のストレッチパンズの長ズボン、半袖のスポーツシャツ、
そしてウォーキング・シューズとなり、夏用の帽子を深めにかぶり、颯爽と歩いたりした。

こうした中で、紳士用の小物入れのA4サイズのショルダー式バックを斜め掛けをし、
バックから扇子〈せんす〉を取り出して、扇〈あお〉ぎながら歩いたりした。
          

この後、遊歩道に隣接した公園に立ち寄り、蝉しぐれの中を歩いたりした。
          

やがてベンチに座り、ハンドタオルで汗をぬぐったり、扇子〈せんす〉で顔、首筋を扇〈あお〉いだりした・・

まもなく今朝、読売新聞の文化面で読んだ記事を思い浮かべたりした・・。

昭和史に関し人物論・史論に突出されている半藤一利(はんどう・かずとし)さんが、
『阿川弘之さんを悼む』と題して、記者に談話形式で、記載されていた。

無断ながら記事の前半の一部を転記させて頂く。

《・・戦後すぐ、若かった頃、阿川さんの『年年歳歳』、『八月の六日』などを読み、
しみじみ「国破れて山河あり」の思いに打たれた。

1965年、海軍提督3部作の最初の『山本五十六』を出された頃は、
小説で軍人を書いたことに対して強い批判があったが、
その後、『米内光政』、『井上成美』を書き継がれた。

そして、『軍艦長門の生涯』をはじめ海軍の歴史をつづり、
徹底的に戦い、敗れた海軍のなかに一部あった良質な部分--
世界的な視野、国を愛する心など、日本人の誇るべき「精神の故郷」を描きだした。

空(むな)しく青春を散らした戦友への鎮魂の歌を一人で奏で続けてきた。
阿川さんは敗亡した祖国日本の葬式をたった一人でやってきたのである。
(略)・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
          
               
私は過ぎし5日に、阿川弘之さんが亡くなったことを知り、失意しながら、
昨日、このサイトで『作家の阿川弘之氏の逝去、慈父のように敬愛してきた私は、ご冥福をお祈りし・・。』と題して、
遅ればせながら追悼文ような投稿文を認(したた)めた。

私は半藤一利さんに関しては、1930年生まれで、
1945年3月の東京大空襲では逃げまどい中川を漂流し、死にかける体験をされた、
と氏の随筆で読んだりした。

そして東京大学文学部国文科卒業後、1953年に文藝春秋新社に入社し、
やがて『文藝春秋』編集長をされたりし、その後は専務取締役まで歴任された。

この間、その後も数多く昭和に関しての編集、監修をされたり、
『決定版 日本のいちばん長い日』( 1995年)、
『昭和史 1926-1945』、『昭和史 戦後篇 1945-1989』を確か2009年に語り下ろしで上梓され、
昭和史に関して総合月刊誌などで対談・座談も含め、私は愛読してきた。

このような私は、阿川弘之さんの追悼文、或いは伝記は、
半藤一利さんが最適任者だ、と思い馳せたりしてきた。

今回、半藤一利さんが『阿川弘之さんを悼む』と題した記事を読み、
特に《・・阿川さんは敗亡した祖国日本の葬式をたった一人でやってきた。・・》
と改めて教示させられ、同感を深めたりした。
          

私は、阿川弘之さんの作品に関しては、『年年歳歳』( 1950年 )、『春の城』(1953年)、
『雲の墓標』(1954年)、そして『舷燈』(1966年)は、
若き日の50年前後前、文学青年の真似事をしていた時期、瞬時に圧倒的に感銘させられ、熱愛した作品であり、
この後は平熱ながら今日まで購読を重ねて、慈父ように敬愛してきた愛読者ひとりである。


☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、無上の喜びです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログへにほんブログ村
人気ブログランキングへ


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

作家の阿川弘之氏の逝去、慈父のように敬愛してきた私は、ご冥福をお祈りし・・。

2015-08-10 11:12:24 | ささやかな古稀からの思い
私は年金生活の70歳の男性の身であるが、
過ぎし日の5日の朝、いつもように読売新聞の読んでいたら、
作家の阿川弘之氏の逝去を知り、とうとうお亡くなりなされた、と知った。

そして記事を精読した後、ネットで各新聞社が配信された記事を読んだりしたが、
私としては産経新聞が、短いニュース記事で的確に綴られている、と思ったした・・。
          

《・・作家の阿川弘之氏が死去 文化勲章受章者、正論執筆メンバー
小説「雲の墓標」や評伝「山本五十六」など数々の戦争文学で知られる作家で、
文化勲章受章者の阿川弘之(あがわ・ひろゆき)氏が3日、老衰のため死去した。94歳。
葬儀・告別式は近親者で行う。後日、しのぶ会を開く。

大正9年、広島市生まれ。
昭和17年、東大国文科を卒業後、海軍予備学生に。海軍中尉として中国に渡った。
21年に復員し、尊敬する作家の志賀直哉を紹介され、文筆の道に。
27年、戦時下の日々を自伝風に書いた長編「春の城」で読売文学賞を受賞。

同時期にデビューした吉行淳之介さんらとともに「第三の新人」と称された。
以後、「雲の墓標」「暗い波濤(はとう)」「軍艦長門の生涯」といったリアリティーあふれる戦争小説を発表し続け、
作家としての地位を固めた。

「米内光政」など海軍軍人を題材にした重厚な評伝を著す一方、紀行文や私小説的な短編小説も多数発表。
35年に産経児童出版文化賞を受けた「なかよし特急」など、児童書も手がけた。

他の主な作品に「井上成美」「志賀直哉」がある。
平成11年、文化勲章受章。日本芸術院会員。
本紙「正論」執筆メンバーとしても活躍した。
法学者の阿川尚之さんは長男、エッセイストの阿川佐和子さんは長女。

産経新聞 8月5日(水)20時9分配信・・》
          

この後の評伝も、私が読んだ中で、産経新聞が優れている、と感じ深めたりした。

《・・自身の海軍体験をもとに数々の戦争文学を生み出してきた作家の阿川弘之さんが94歳で亡くなった。
「小説の神様」と呼ばれた志賀直哉に師事し、平明で引き締まった名文の書き手として知られた。

青春時代を過ごした海軍と、戦死した同世代に対する思いは深かった。
戦没者は無駄死にだ、とする戦後の風潮に強く反発。

「自分の知る本当のことを書き残しておきたい」との思いを抱いたことが、
出世作の自伝的小説「春の城」をはじめ、戦争を題材にした作品執筆の原動力となった。

代表作の一つ「雲の墓標」は、特攻隊員となった海軍学徒兵の、生と死の間で揺れ動く心情をつぶさに描き、
文学性豊かな新しい戦争小説の世界を開拓した。

太平洋戦争時の3人の海軍大将を描いた評伝「山本五十六」「米内(よない)光政」「井上成美」の提督3部作は、
伝記文学の傑作として評価が高い。
ともに日独伊三国同盟や日米開戦に反対するなど、
時代の熱狂に流されない合理的思考を備えた愛国者だった3人に対する深い共感は、
そのまま阿川さんの姿勢にも重なる。

戦中の軍国主義と同じく戦後の左派的風潮も嫌い、産経新聞「正論」欄で長く健筆を振るった。
政治を論じても悲憤慷慨(ひふんこうがい)調にはならず、常に心の余裕を忘れない。
「私は右翼も左翼も嫌い」と語り、中庸のバランス感覚と、海軍仕込みの英国流ユーモアを愛した。

親しい友人だった作家仲間の遠藤周作さんや北杜夫さんらとの交遊を描いたユーモラスなエッセーも多い。
乗り物好きでも有名で、各国の鉄道を訪ね歩いた紀行文「南蛮阿房列車」や、
年老いた蒸気機関車が主人公の絵本「きかんしゃ やえもん」を生んだ無類の鉄道マニアでもあった。

満90歳を機に筆をおき、数年前に入院した都内の病院では読書三昧の日々を送っていた。
長女の佐和子さんの活躍ぶりには常々、眼を細めていたという。

産経新聞 8月5日(水)22時53分配信・・》
             

私は東京オリンピックが開催された1964年(昭和39)年の秋、
大学を中退して、映画青年の真似事をした後、養成所の講師の知人のアドバイスに寄り、
文學青年の真似事をしたりした。

こうした中で、中央公論社から確か『日本の文学』と命名された80巻ぐらいであった
と思われる文学全集を読んだりした。

やがて講談社から出版された『われらの文学』と名づけられた文学全集を購読したりした。
この文学全集は、確か1965年(昭和40年)の頃から毎月一巻発刊され、全22巻であった。

そしてこの当時に最も勢いのある大江健三郎、江藤 淳の両氏による責任編集の基で刊行され、
この当時の老成家した作家を除外した斬新で新鮮なな全集であり、
選定された28名の作家の作品を私なりに精読していた。

そして、この全集の中で、第15巻として『阿川弘之、有吉佐和子』が、
1966年(昭和41年)7月に発刊された。
             

これ以前に、阿川弘之・著作は、確か新潮文庫であったと記憶しているが、
『春の城』(1953年)、『雲の墓標』(1954年)を二十歳過ぎの時に読んだりした。

特に『雲の墓標』は、阿川弘之氏が純文学月刊雑誌のひとつの『新潮』に、
1954年(昭和29年)に於いて、連載し発表された作品である、と学びながらも、
私はこの戦時中の時代の空気も描かれ、
鹿屋基地にある海軍海兵団の青少年の心情も深く表現されている作品に感銘を受けたひとりであった。

そして私は、《・・雲こそ吾が墓標、落暉よ碑銘をかざれ・・》の一節にも感銘させられて、
この小説は、私の人生観を揺さぶられたひとつの書物となっていた。

そして『われらの文学』に於いて、氏の未読だった作品を読んだりし、
氏の『文学的出発の頃』を読みながら、敗戦後の野間 宏さんなどの戦後派の作家の隆盛の中で、
清貧の生活の中で、氏の文学を確立されるまでの状況に圧倒的に感銘をさせられた。

やがて第三の新人と称される庄野潤三、遠藤周作、安岡章太郎、北 杜夫など各氏と共に、
氏の作品を読んだりしてきた。

そして漢詩のひとつ『年々歳々 花相似 年々歳々 人不同・・』、
中国の初唐時代の詩人である劉廷芝(りゅうていし)が遺(のこ)された詩であるが、
私は阿川弘之氏の作品から学んだひとつの詩である。

或いは上記に明記された以外の作品でも、『舷燈』(1966年)、『故園黄葉』(1999年)、
『葭の髄から』(2000年)、『春風落月』( 2002年)、『大人の見識』( 2007年)
『天皇さんの涙 葭の髄から・完』( 2011年)などが愛読したりした。


私は氏の数多く小説、随筆を乱読してきたが、特に日本人として思考、中庸の大切さ、礼節など深く教示させられ、
私は小学2年時に父に病死された為か、氏には慈父のように敬愛を重ねてきた。
             

この間、阿川弘之、阿川佐和子・共著の『蛙の子は蛙の子 ~父と娘の往復書簡~』(ちくま文庫)は、
ここ10数年、再三に私は愛読している本でもある。

父は1920年(大正9年)、娘は1953年(昭和28年)生まれの社会背景の中、
父から娘、娘から父への想いが真摯に綴られている。

父の阿川弘之氏は、戦後の文学風潮の中、小説家としての自己の文学の悩みなど発露され、
敗戦後から平成の8年までの、単なる家族関係でなく、
社会風潮も根底に秘められ、私なりに学ぶことが多いのである。
          
或いは阿川弘之氏の数多くの随筆の中で、ご家族の状況を描かれ、
この中のひとりとして長女・佐和子さんも記載されていた。

このように私は、阿川弘之氏の愛読者のひとりであったので、長年読んだりすると、
佐和子さんの学生時代、その後のご様子も解り、
何かしら私にとっては、親戚の娘の姪っ子が10代から育つ情態が手に取るように、
氏の随筆から佐和子さんの軌跡を解ったりした。
              

たまたま2011年の10月初旬に、阿川佐和子さんは、
確かNHKのテレビの朝の番組【生活ほっとモーニング「この人にトキメキっ!】に於いて出演されていた。

《・・大学を卒業後、人生に彷徨(さまよい)いながら、
テレビの副司会者として起用されたのは、父上の阿川弘之氏からの親の七光り・・
その後は筑紫哲也氏などの番組の副司会者として出演でき、親の七光り・・
ですから親の14光り、かしら ・・》

このような意味合いの言葉を発言されたりし、
私はこのお方の感性に、瞬時に魅了されたのである。

もとより阿川佐和子さんはが多くのエッセイ、小説を発表されているが、
初期の頃は父上の阿川弘之氏の文章の手ほどきを受けたりし、
その後も文章を綴ることの労苦を味わっていたのである。

この番組で、《・・父が母と子供4人を、筆1本で家族を養ったこと・・》
と感謝しながら発言された感覚に、
改めて私は阿川佐和子さんのこれまでの軌跡を思い重ね、
この方の言葉、笑顔、しぐさに私は魅了され増したりした・。
          

やがて2012月1月に、阿川佐和子さんは『聞く力 ~心をひらく35のヒント』(文春新書)を上梓され、
昨今の出版不況の中、100万部を超えるヒット作となった。

こうした中、総合月刊雑誌の『文藝春秋』(平成24年10月号)の定例コーナーの『日本の顔』に於いて、
阿川佐和子さんが取り上げられた・・。

そして阿川佐和子さんの日常生活が公開され、こうした中で父上の阿川弘之さんがご病気で、入院されて、
娘の佐和子さんがお見舞いに訪れる情景の写真があった。

私は阿川弘之さんが90歳を過ぎ、やはり心身ご健在だった人でも、
御歳を召された、と悲しんだりした。

そして阿川弘之さんは、異例な寄稿文を綴り、父親がこの先の娘に案じる深い思いに、
私は読み終わった後、涙を浮かべたりした・・。
          

《90歳を過ぎてから、小生、身体のあちこちに故障が生じ、都内の某病院に入院、現在は、療養中です。
人と話すとひどく疲れるのでお見舞ひはすべて拝辞、勝手ながら「面会謝絶」といふことにしてをります。
失礼の段、どうぞお許しください。

それと併せてもう一つ、娘佐和子の件。
至らぬ者が今回、この欄に登場と決まり、望外の栄誉なれども、
親の立場としてはやはり若干の憂慮を抱かざるを得ません。

読書の皆さん、旧知の編集者諸賢、彼女が今後、どのやうな歩み方をするか、
厳しく、かつ、あたたかく行く末を見守ってやつて頂きたい。
(虫がいいけれど)くれぐれもよろしくとお願ひする次第です。》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。


そして私は阿川弘之・著『鮨(すし)そのほか』(新潮社)に於いて、
2013年4月が発刊されて、発刊日に本屋で買い求めたりした。
             

そして私は阿川弘之さんのご著書を愛読して、50数年になり、
阿川佐和子さんのご著書は、姪っこに対する心情のような思いで、ここ17年ばかり読んだりしている。

今回、阿川弘之氏の逝去を知り、慈父ように敬愛してきた私は、ご冥福をお祈りした後、
氏の遺(の)された数多くの作品を再読し始めている・・。


☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、無上の喜びです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログへにほんブログ村
人気ブログランキングへ

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

定年後の男性、低所得よりも怖いのは“精神的な貧困”と学び、年金生活の私は微苦笑し・・。

2015-08-09 10:24:52 | ささやかな古稀からの思い
私は民間会社の中小業のサラリーマンを卒業した年金生活の70歳の男性の身であるが、
昨夜のひととき、パソコンを開き、私はトップページの【YAHOO! JAPAN】をぼんやりと見た。

そしてトップニュースの見出しが8つ表示されている中で、
【低所得よりも怖いのは“精神的な貧困”】を見て、どういうことなのょ、
とクリックしてしまった。

やがて記事を読み終わった後、定年後の男性の一部には“精神的な貧困”になるケースがある、
と知り、何かとプラス思考の年金生活11年生の私は、微苦笑させられたした・・。

この記事の原文は、『週刊SPA!』に掲載された記事のひとつであり、
社会学者の阿部真大・甲南大学准教授が回答を寄せられている内容であり、無断ながら転載させて頂く。
          

《・・「未婚化が進む日本では、高齢男性の“おひとりさま”世帯はより増えていきます。
経済的な貧困の解決は、政治の問題ですが、
“精神的な貧困”に陥らない方策を提示することが、社会学的な課題です」

そう語るのは社会学者の阿部真大氏。
精神的な貧困の代表である孤立化は、未婚化が進む現代人にも悩みの種だ。

「老人ホームの調査をする際、たむろしておしゃべりしている女性に対して、
男性は独りぽつねんとしている姿を目にします。

別に『男もおしゃべりのスキルを』と言っているわけではなく、
“独りでいても孤独を感じない”ということが重要です。
これは“他人志向型”
つまり他者からの評価を価値基準とする出世競争に邁進してきた人ほど陥りやすい。

精神的貧困を避けるためには、自分だけが楽しめる価値観を持った、“内部志向型”の人間を目指すべきです」
          
  
定年後、おもむろに趣味を持ち始めようとして挫折する高齢者は多い。
現役世代のうちに、仕事とは別の趣味や生きがい、人的ネットワークを持つことが大切なのだ。

「高齢化社会というとマイナス面ばかりが取りざたされますが、
見方を変えれば、“知恵を持ち、落ち着いて物事を見れる”人が多い社会ともいえます。

成熟した高齢者の知恵とは生きるための工夫や、人付き合いのスキルである“生活知”のこと。
コンテンツばかりが高齢化している今の消費社会では見えづらいですが、
老後は消費することが豊かさには直結しません。

そのために必要なインテリジェンスは、今からでもカネをかけずに身につけることができます」

カネがすべての価値観が、閉塞感を生み格差を感じる。
ボロを着てても心は錦の精神が重要だ。 <取材・文/スギナミ>

<3か条>
1 孤立しても孤独を感じない内部志向型の人間を目指す
2 現役世代のうちに仕事とは別の趣味、仲間を見つける
3 生活知を磨くことが尊敬される老人への第一歩・・》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。
             

私は中小業の民間会社に35年近く勤め、2004年〈平成16年〉の秋に定年退職となり、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたく、その直後から年金生活をしている・・。

そしてサラリーマンの現役時代に於いては、もとより我が家の収入の責務は私であるので私なりに奮闘し、
家内は結婚して3年を除き、専業主婦の身で、洗濯、掃除、料理、買い物などしたり、
親族の交際も含めて、我が家の専守防衛長官の責任を果たしてきた。

私が年金生活を始めて最初に配慮したことは、
家内の従来の専業主婦の日常のペース、ささやかな憩(いこ)いひとときなどの過ごし時を配慮して、
私は独りで外出して、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受し、
本屋、古本屋に寄ったりしている。
          
          
こうした中で家内は少なくても料理、洗濯、掃除などがあり、
私は現役のサラリーマン時代から、小庭の手入れをするぐらいであったので、
せめて退職後の年金生活に於いては、日常の買物ぐらいと思い立ち、私は自主的に買物の担当となったりした。

それでも小心者の私は、引け目を感じて、家内の茶坊主に専念し、
家内がコーヒーが飲みたい雰囲気を察して、私は日に5回ぐらいは淹れたりしている。

このように家事に関しては、恥ずかしながら殆どしてこなく、
ときおり庭の手入れは、現役時代から私の専任者となっているぐらいである。
                                  
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

平素の私たち夫婦の年金生活は、ご近所の方の奥様たちから、仲良し恋し、
と何と社交辞令を頂いている私たちでも、
いずれは片割れとなり『おひとりさま』となる・・。

そして残された方は落胆し寂寥感を深める中、強い趣味があれば、やがて失墜感は薄らいで、
命果てるまで生きがいのひとつとなると思い、お互いの趣味の時は大切にしている。
          
そして時折、小庭の手入れをしたり、友人と居酒屋など逢ったり、
家内との共通趣味の国内旅行をしたりしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、小説、近代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。
                       

昨日の午後3時過ぎ、小庭の樹木と樹木の間を20前後の蜻蛉(とんぼ)が舞っていた。

そして群れをなして悠然と舞っているが、ひとつの蜻蛉だけは群れから勝手に離れて、
自在に舞っているので、私に似ているのかしら、と私は思わず微苦笑したりした。

蜻蛉の群れは3分ぐらい舞った後、青い空に向かい、
そして独りぼっちの蜻蛉も群れに遅れながらも、何処に去って行った。
          

過ぎし2006年〈平成18年〉8月下旬、年金生活丸2年を迎えようとした時、
山口文憲(やまぐち・ふみのり)・著作の『団塊ひとりぼっち』(文春新書)を読んだりした。       

私は東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)の秋に、
大学を中退し、アルバイトとか契約社員をしながら映画・文学青年の真似事をし、やがて敗退し、
その後は民間のある会社に何とか中途入社できたのは、
1970年(昭和45年)4月で、満25歳の時だった。

この時代、定期採用で新入社した人達は、団塊の世代の人々であった。
そして私はやがて本社に配属されて、団塊の世代の人々と机を並べることが多く、
この業界の荒波の多い時代の苦楽を共にし、何かと友人には団塊の世代の人々が多かった、

やがて2007年(平成19年)の頃から、団塊の世代の多くは定年を迎えるに際し、
数多くの団塊の世代について出版されていた・・。

こうした中で、私は山口文憲・著作の『団塊ひとりぼっち』からは、多々教示され、
団塊世代の多くは、これからの時期も《ひとりぼっち》と学んだりした。

私は中途入社の身であったので、彼ら同期で何かと励まし合いながらも時代を過ごしてきたのを、
羨ましく感じたりしてきたので、遅ればせながら私は衝撃を受けたりした。

そして私は定年後の年金生活は、何かと『ひとり遊び』の読書、本屋に寄ったり、散策などが多いので、
彼ら団塊世代も《ひとりぼっち》かょ、と微苦笑したりし、今日に至っている。
                    

昨年の2014年7月中旬、ネットで偶然に
『“孤独力”を身に付け、より豊かな人生を歩む』と題された見出しを見て、
幼年期から何かと『独り遊び』が好きな私は、どういう内容かしら、と思いながら記事を精読してしまった。

この記事は、『週刊SPA! 』の青山由佳さんが取材されて、綴られた記事であり、
無断ながら転載させて頂く。

《・・独身、離婚、孤独死への不安。
漠然とした闇を一切感じさせず、「ぼっちライフ」を謳歌している中年たちがいる。
なぜ孤独でも楽しく過ごせるのか? 中年を迎えたときに、隣に誰もおらずとも寂寥感にとらわれずにすむ方法を模索した。

◆“孤独力”を身に付け、より豊かな人生を歩む

老後のためのライフラインづくりが必要な一方、
精神科医の水島広子氏は「他者に振り回されないためにも、孤独力が重要」と語る。

「孤独力とは、人の目を気にするのではなく、自分の置かれている環境に感謝したり楽しむということ。
『友達がいない』『食事をする相手がいない』と引き算の発想をするのではなく、
今できることに感謝するのです。

群れを好む人は、誰と時間を過ごすかよりも、『人と一緒にいる』ことだけで満足してしまいがち。
誰かいないと何もできないので、“自由度”も格段に低い。
上質な時間を過ごし人生をより豊かにするためにも、単独で動く習慣は大切です」
                    

また、他者の目を気にするのは、40代後半からのバブル世代に多く見られる傾向だという。

「バブル期は、ぼっちというだけで人間性が否定されるほど、みんな他人の目を気にしている時代でした。
でも今こそ、その価値観を捨て、本当に自分がやりたいこと、
共に過ごしたい人や環境などを他者に振り回されずに選択すべき。
孤独力こそ人間としての基本力に繋がるのです」

他人の評価で価値を決めず、自分で考え行動する。
孤独力は対人関係の質の向上にも繋がるのだ。・・》

このような記事であったが、何かと『独り遊び』が好きな私は、
そうですよねぇ、と微苦笑しながら、同意したことがあったりした。
                    

しかしながら私は、母の遺伝を素直に受けたらしく男の癖に、おしゃべりが好きで、
何かと家内と談笑したり、ご近所の奥様、ご主人など明るく微笑みながら談笑したりしている。

或いは、好奇心をなくしたらこの世は終わりだ、と信条している私は、
体力の衰えを感じている私でも、その時に応じて溌剌とふるまったりしている。

そして上記の《・・ボロを着てても、心は錦の精神が重要だ・・》は、
高齢者こそは清潔な身なりをしなければ・・と平素から家内から私は言われているので、
少しは身なりを整(とと)えて、颯爽と歩いているが私の実態となっている。


☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、無上の喜びです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログへにほんブログ村
人気ブログランキングへ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

年金生活の中、老ボーイの11年生の私が、購読してきた雑誌のあれこれは・・。

2015-08-08 14:38:29 | ささやかな古稀からの思い
私は民間会社の中小業に35年近く奮戦して、2004年(平成16年)の秋に定年退職となり、
多々の理由で年金生活を始め、早や11年生となっている。

私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住み、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

こうした中で、日常の殆どは私が年金生活の当初から、平素の買物を自主的に専任者となり、
独りで殆ど毎日のように家内から依頼された品を求めて、買物老ボーイとなっている。

こうした中、最寄のスーパーに買物に行ったり、
或いは駅前までの片道徒歩20分ぐらいのスーパー、専門店に行ったりしているが、
根がケチなせいか利便性のよい路線バスに乗るのことなく、歩いて往還している。

その後、独りで自宅から数キロ以内の遊歩道、小公園などをひたすら歩き廻ったりして、
季節の移ろいを享受している。

午後からの大半は、随筆、ノンフィクション、小説、近現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。
                    

私は遅ればせながら高校に入学してまもなく、突然に読書に目覚めて、
この時から小説、随筆、ノンフェクション、月刊雑誌などを乱読してきた。

読書に魅せられるのは、創作者より、文字から伝えられる伝達力、創造力が
それぞれ読む時の感受性、知性、想像力により多少の差異があるが、
綴られた文章はもとより、この行間から感じられる圧倒的な魔力から、
高校生の時からとりつかれたのであった・・。
                 
      
定年後の年金生活の中で、単行本、新書本、文庫本の書籍に於いては、
特に塩野七生、阿川弘之、佐野真一、藤原正彦、嵐山光三郎、曽野綾子、三浦朱門、
高峰秀子、松山善三、櫻井よしこ、徳岡孝夫、中西輝政の各氏の作品を中核に購読している・・。
          

雑誌の月刊総合雑誌としては、『文藝春秋』は45年近く購読している。

過ぎし1970年(昭和45年)4月にある会社に何とか中途入社出来た時、
それまで大学を退学して、映画・文学青年の真似事をし、やがて敗退して、
遅ればせながら社会人としての常識が欠落していたことに自覚させられた。

一般常識としての政治、外交、軍事、経済、社会などの出来事が余りにも無知であったので、
これ以来、毎月秘かに逢える心の友のひとりとなっている。

そして『中央公論』、『新潮45』は特集に魅せられた時は購読している。


過ぎし7月20日、本屋で『新潮45』(8月号、7月18日発売)を見かけて、
特集が《【戦後70年】漂流する日本》であったので、お勉強ね、と思いながら買い求めたりした。
             

そして佐伯啓思さんの『国防を忘れた「異形の民主主義」』、
細谷雄一さんの『「国際主義の欠落」という病理』などの寄稿文を読み、多々教示させられた。

こうした特集の中で、ケント・ギルバートさんの『日本人よ目を覚ませ!』は、
義務教育を卒業した人だったら、誰でも解りやすい《戦後70年》略史である、
と私は微苦笑させられたである。

私はケント・ギルバートさんには無知であったが、アメリカのカリフォルニア州で弁護士をされ、
親日家と思われるが、海外からの視線で日本の《戦後70年》を的確に優しく表現したのに、
驚き、よく御存じと感心させられた。


昨日の7日の朝、いつものように読売新聞を読んでいたら、
出版広告として、『文藝春秋』(9月号)と『中央公論』(9月号)が、
本日発売と表示されていた。

通常は10日発売の月刊総合雑誌であるが、
数多くの民間会社が夏季休暇は12日から始まると知ったりしてきたので、
少し早めたかしら、と思ったりした。

やがて『文藝春秋』は、恒例の芥川賞に於いて授賞作が掲載されてきたが、
今回は話題の又吉直樹さんの『火花』も掲載されているので、
出版業界は不況の中、又吉直樹さんの『火花』が単行本が爆発的に売れている中、
相乗効果で、今回の9月号は少し早めたかしら、と私は微苦笑したりした。


そして昨日の7日の午前中のひととき、駅ビルの本屋に立ち寄り、
『文藝春秋』(9月号)を見たりしたが、近くに厚い『文藝春秋』があり、
何かしら特別付録として、昭和2年9月『芥川龍之介追悼号』が付いていた。
             

私はこの特装版を手にした後、『中央公論』(9月号)を眺めたりした。
そして特集は、《 戦後七〇年日本を問い直す》と題されて、各著名人が対談されて、
瞬時に魅せられて買い求めた。

帰宅後、最優先に読んだのは、『中央公論』(9月号)であった。
山崎正和さんと福嶋亮大さんの対談『戦後復興を世界文明史の中で捉える』で、
多々教示されたりした。

そして五木寛之さんと古市憲寿さんの対談『世代間対立が生み出す「嫌老社会」』は、
読了後は切実な思いとなった。
             

私はこのサイトに於いて、確か5年前の頃に思案し、数年前も下記の通り明記してきた。

日本の社会保障制度の年金、医療、介護の基盤は、
高齢者が使う費用は、その時の現役世代が保険料や税で負担する財政方式(賦課方式)を取っているので、
働いて下さる現役世代の諸兄諸姉が、その時の高齢者を支えている現実がある。

そして年金も現役世代が払う保険料で
高齢者に年金を支給する「世代間扶養」の仕組みを取っているので、
団塊の世代が65歳を過ぎた現在、社会保障を長らく支えてきた団塊の世代が、
「支えられる世代」となって、若い世代に重い負担を強いることになってしまった現状である。

そして周知の通り、失われた20年での中、政治は混迷、経済は低迷、そして社会も劣化し、
ここ10年は特に、たえず短期に成果を問われる勤務となり、
たとえ大企業の正社員であっても、常時リストラ時代と称せられ、安住できない時代となってきた・・。

こうした過酷の中で働いて下さる現役世代の諸兄諸姉の人たちは、
このように熾烈な状況の中で奮戦している。
          
  
そして過酷な現実として、年金、医療、介護なとで、毎年一兆円が増加している。

こうした状況が放置すれば、現役世代の諸兄諸姉からすれば、高齢者は過重負担する人たち、
と思いながら険悪し、粗末にする風潮も予測できるので、
私は働いて下さる諸兄諸姉に、ときおり感謝を重ねたりしている。


このように私は、《・・現役世代の諸兄諸姉からすれば、高齢者は過重負担する人たち、
と思いながら険悪し、粗末にする風潮も予測できる・・》記載してきた。

そして今回の五木寛之さんの発言は、《・・世代間対立が生み出し、やがて増し「嫌老社会」の到来・・》
このような意味合いを深く洞察されていた。


この後、少し分厚い『文藝春秋』(9月号、特装版)を開き、
もとより月刊総合雑誌は、旬があるので、読書の最優先として読みふけっている。
          

尚、私は何かと単細胞で見つめ、短絡的な思考を諌(いさ)める為、
ひとつの難題、たとえば集団的自衛権などは、多面から思考する必要があるので、
新聞、テレビの特集番組、そして月刊総合雑誌などで、複眼の視線を習得するのが、本心である。


☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、無上の喜びです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログへにほんブログ村
人気ブログランキングへ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

猛暑8日も続く中、やむなく雨乞い代わりに、八代亜紀さんの『雨の慕情』の歌を唄い・・。

2015-08-07 12:50:02 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活の70歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
家内は独り住まいの家内の母宅に、昨日の6日より3泊4日予定で行っている。

家内の母が、膝から腰にかけて痛みが増し、少し遠方の大学病院で改めて検査を受ける為に、
家内は不安げな家内の母に付き添う為に、家内の母宅に駐在している。

今朝、地元の天気情報をテレビで視聴していたら、
本日も35度以上の猛暑日となりますので、8日連続の猛暑日になり、
観測史上記録更新中です、
と老ボーイの私は、このように聴こえた。
            

やがて私は『おひとりさま』になっているが、いつもように午前中に買物しょう、
と出かけた。

平素は駅前までの片道徒歩20分ぐらいのスーパー、専門店に歩いて往還しているが、
やはり猛暑の中、熱中症で倒れて救急車で運ばれて、目覚めたら病院のベットの上だった事態は、
『おひとりさま』の身として困苦するので、路線バスに乗り、車内の冷気に甘えて往復することにした。

やがて駅前の駅ビルにある本屋、商店街にあるスーパー1店、ドラッグストアーだけ寄り、
早廻りしながら帰宅した。
          

そして居間の網戸と簾(すだれ)越しに外気を取り入れながら、
エアコンの冷気を最大出力したり、洗面所で顔を洗った後、衣服を着替えたりした。

やがて20分後、ガラス戸を閉めて、完全冷房ょ、と呟(つぶや)いたりした。

まもなく小庭を眺めると陽射しは燦々とする中、雑草が生え放題で、狭いながら草原のようで、
苦笑したりした。

私は何よりも暑さ苦手な身であり、小庭の手入れも放置してきたが、
それにしても8日連続の猛暑日は、異常だょ、天上の気候の神々はご機嫌が悪いかしら
と空を見上げたりした。

そして私の住む地域は、長らく雨から遠ざかっている日々が続き、
雑木、草花も何となく覇気がないので、私と同様に早くも夏バテなのかしら、と苦笑したりしてきた。
      
やがて古来の人たちは雨を待ちわびる時に、雨乞いの行事をしていたことを思いだし、
小庭のテラスの樹の下に行き、何かと単細胞の私は、ひとつの歌をかぼそい声で唄いだしたりした・・。

♪心の中が忘れた あのひとも 膝の重さを 覚えてる

と1980年(昭和55年)からラジオ、テレビで盛んに流れていた阿久悠(あく・ゆう)さんが作詞され、
八代亜紀(やしろ・あき)さんが唄われた『雨の慕情』の歌であった。

♪雨雨ふれふれ もっとふれ 私のいいひと つれて来い
と私はかぼそい声で唄ったりした。
          

しかしながら陽射しは相変わらず燦々とし、雨乞いの効果は及ばない中、
やがて主(あるじ)の私が音痴なのせいか、 或いは祈願不足のせいか、
と思ったりした。

まもなくして思い当たるとすれば、私はこの歌のように、
♪膝の重さを 覚えてる・・、選曲ミスだったことに気付いたりした。

私は結婚前の独身時代に於いて、確か8人の女性と交遊をしてきたが、失恋の方が多かった。
そして確固たる情愛、そして性愛を深めた良いひとに、めぐり逢えなかったことを気付き、
つたない私としては、雨乞うの歌には相応(ふさわ)しくない、と大いに反省をさせられたりした。

そして陽射しは燦々と照りつける小庭を見て、苦笑しながら、
いつの日に降るのょ、と空を見上げたりした。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、無上の喜びです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログへにほんブログ村
人気ブログランキングへ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

広島被爆の日、核の不条理な主要国の現実の中、無力な私は黙祷を重ね・・。

2015-08-06 10:55:29 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の70歳の身であるが、
洗面した後、玄関庭に下り立ち、襟を正して黙祷したのは朝の6時過ぎであった。

私は1944年〈昭和19年)9月に東京郊外で農家の三男坊として生を受け、
翌年の1945年〈昭和20年)8月15日に敗戦となった。

そして敗戦時は一歳未満の乳児であったので、戦争を知らない世代に属するが、
8月6日のこの日の午前8時15分に、
対戦中のアメリカが人類史上初めて広島市の市街に原子爆弾を投下され、
少なくとも15万人の人が即死し、数多くの方が被ばくされたことは学んできた。
          
このことは戦勝国となったアメリカの歴史をどのように描いても、厳然たる事実である。
          
本日は、70回目の原爆の日を迎えた。

そして恒例となっている広島市中区の平和記念公園では、
午前8時から市主催の「原爆死没者慰霊式・平和祈念式」(平和記念式典)が営まれ、
被爆者や遺族、安倍首相らが参列し、犠牲者に祈りをささげることとなったテレビ中継番組を視聴し、
午前8時15分に私は黙祷を重ねたりした。
          

私は沖縄戦が事実上終結した6月23日の『沖縄慰霊の日』、
原爆という余りにも過酷で悲惨な8月6日の『広島被爆』、9日の『長崎被爆』、
そして15日の『終戦記念日』と称せられる『敗戦記念日』は、黙祷をして48年は過ぎている・・。

そして、かの大戦で余りにも多くの方たちが亡くなわれて、
尊い犠牲の上で、今日の日本の心の平和の礎(いしずえ)である、と思いながら、
戦争を知らない私でも深い心の傷として、今日に至っている。

このような思いから、私は国民のひとりの責務として、
この日は広島の空に向い、人々に哀悼の意を表して、黙祷をし、尊い命の冥福を祈っている。
                    
第2次世界大戦中、アメリカのルーズベルト大統領はドイツに原爆開発で先んじられることを恐れ、
やがて1942年8月に軍部主導によりマンハッタン計画発足させた。

そしてルーズベルト大統領が死去後、トルーマン大統領は原爆開発のマンハッタン計画の実態を知らされ、
動顛したが、やがて日本を降伏させる『ポッタム宣言』をイギリスのチャーチル首相、ソ連のスターリン首相と
協議する中、1945年7月16日 ニューメキシコ州アラモゴードで原爆実験に成功を知った。

そしてアメリカは、大戦後の状況を圧倒的な優位を確保する為に、特にソ連を意識して、
核兵器の威力を誇示させて、8月6日に 広島に原子爆弾投下、9日に長崎に原子爆弾投下した、
と私は思いを深めている。

この後は周知の通り、戦後は東西冷戦体制の中で、核開発競争は激化し、
アメリカに続き、ソ連、イギリス、フランス、中国の各国が原爆実験に成功させて、
核兵器は世界へ拡散する時代が到来した。

こうした核兵器開発競争は、もとより地球を破壊し人類を滅亡させるにはあり余るほど、
核兵器の製造・蓄積、そして核実験による地球環境の破壊、
更に核実験場周辺に多数の被曝者を生み出してしまった。

やがて1998年5月、インド、パキスタンが相ついで核実験を行ったことにより、
世界は核兵器保有国がさらに増えていくこともあり得る危険な局面を迎えている。

このように世界の主要国は、核の威力を背景とした軍事力と経済力などで、したたかな外交が実施され、
それぞれの国は、国益を配慮した政治が行われている現実がある。

そして核兵器廃絶と多く方から念願されても、不条理な世界となっている・・。
             

私は1962年(昭和37年)10月、高校3年の時に『キューバ危機』が発生した。
もとよりキューバを舞台に、1962年10月14日から14日間に、
アメリカとソ連の威信下で、核戦争寸前まで達した危機的な状況であった。

こうした中で、アメリカのケネディ大統領は、10月22日午後7時の全米テレビ演説で、
国民にキューバにミサイルが持ち込まれた事実を発表し、ソ連を非難した。

やがて27日昼頃、キューバ上空を偵察飛行していたアメリカ空軍のロッキードU-2偵察機が、
ソ連軍の地対空ミサイルで撃墜された。

私は夜のニュースで知り、これて世界は終わってしまうだろう、と思いながら、
布団にもぐり込み、ふるえて眠ったりした。

後年、私はこの日にアメリカ海軍は海上封鎖線上で、ソ連のフォックストロット型潜水艦に対し、
その艦が核兵器(核魚雷)を搭載しているかどうかも知らずに、爆雷を海中に投下した。

攻撃を受けた潜水艦では核魚雷の発射が決定されそうだったが、
潜水艦隊参謀の強い反対によって核戦争は回避された。
この日は「暗黒の土曜日」と呼ばれ、誰もが第三次世界大戦の勃発を覚悟した、と学んだ。

そしてこの時、核戦争が発生していたら、1億人のアメリカ人、1億人以上のソ連人、数百万人のヨーロッパ人が、
亡くなったと伝えられている。
          

このようなことを私は学び、戦後は主要国が連合して激突する大戦なく、
核の恐怖の下で、長き平和を享受している。
そして核抑止力によって均衡されている不条理の怜悧な世界となっている。

もとより核兵器を所有する主要国は、核の兵器の甚大な被害をもたらすことは互いに認識しているので、
アメリカが広島、長崎に投下した以後、使用されていない。

核は必要悪のように世界の中で、主要国の人々は生き、
そして無力な私は、ただこの『広島被爆』には、黙祷を重ねるばかりである。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、無上の喜びです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログへにほんブログ村
人気ブログランキングへ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東京の片隅に住む私、6日連続猛暑日が続く中、観測史上初めてと知り・・。

2015-08-05 14:28:38 | ささやかな古稀からの思い
私は東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活の70歳の身であるが、
今朝、地元の天気情報をテレビで視聴していたら、
本日も35度以上の猛暑日となりますので、熱中症に注意しましょう、
と報じていた。

この後、ここ6日連続の猛暑日になりますのは、観測史上初めてです、
と若き女性キャスターが報じていた。

そして私は、観測史上、と教えられても理解できなく、
ネットで調べたら、日本で観測が開始されたのは1875年(明治8年)6月と知り、
私の祖父が生まれる以前であり、微苦笑したりした。

しかしながら何かと暑さ苦手な私は、ときおり空を見上げたりして、
天上の気候の神々は、どうして6日連続の猛暑日のような采配をするょ、
ご機嫌が悪いかしら・・と感じたりした。
          

昨夕、読売新聞の夕刊を読んでいたら、
《熱中症搬送 1万1672人 全国 週間最多、死者は25人
  「猛暑日」都心初の5連続》
と一面のトップ記事として、大きく見出しされていた。

記事の大半を転記させて頂くと、
《・・総務省消防庁は4日、7月27日~8月2日の1週間に、
全国で今年最多となる1万1672人が熱中症で救急搬送され、25人が死亡したと発表した。

死者は今年の集計を開始した4月27日からの累計で55人となった。
1週間の搬送者数としては、2013年7月8日~14日の1万1427人を上回り、
統計を取り始めた2008年以降で最多。

東京都心は4日、観測開始以来、最長となる5日連続の猛暑日となった。

都道府県別の搬送者数は、東京都の1095人が最多で、
愛知県989人、埼玉県805人と続く。搬送者数は昨年同時期(5712人)の2倍に上り、
65歳以上が48・7%を占めた。

(略)4月27日からの累計の搬送者数は3万5428人に上り、
うち高齢者は49・1%の1万7401人。

猛暑日が続く東京都内では8月2日夜、練馬区などでお年寄りが屋内でエアコンを使わないまま過ごし、
熱中症で死亡したという。

夜間の最低気温が25度を下回らない「熱帯夜」も続いており、就寝中に熱中症にかかることもある。
東京消防庁は「エアコンなどを効果的に使って、
室内に熱気をためないように心がけてほしい」と呼び掛けている。・・》
          

このような記事を読み終わった後、働いて下さる諸兄諸姉は、
短期に成果が問われる責務で、猛暑の中、何かと大変ですね、と深く思ったりしている。

しかしセカンドライフを過ごされる高齢者は、自由時間が多い中、
猛暑に対して自己保身を大切にして欲しい、と思ったりした。
          

私は70歳の身であり、家内は65歳であり、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に築後37年を迎えた古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

そして私たち夫婦はお互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。
          
私は定年後は多々の理由で年金生活を始め、当初より平素の買物は自主的に専任者となり、
独りで殆ど毎日のように家内から依頼された品を求めて、
買物老ボーイとなっている。

こうした中、最寄のスーパーに買物に行ったり、
或いは駅前までの片道徒歩20分ぐらいのスーパー、専門店に行ったりしているが、
根がケチなせいか利便性のよい路線バスに乗るのことなく、歩いて往還している。

その後、独りで自宅から数キロ以内の遊歩道、小公園などをひたすら歩き廻ったりして、
季節の移ろいを享受している。

このような午前中を私は過ごしたりしてきたが、30数度以上の暑い時は、
買物とか散策の途中で、熱中症で倒れて救急車にお世話になり、病院で入院することは困るので、
駅前までの買物の時は歩いていくことは断念して、
路線バスに乗り、車内の冷気に甘えて、殆ど往復している。

そして駅前の駅ビルにある本屋、商店街にあるスーパー3店、ドラッグストアー、
ホームセンターなどを運動を兼ねて、買い求めたりしている。
          

我が家は熱い時節の夏の陣の態勢は、洋間であったら雨戸、網戸、ガラス戸があるが、
この季節はカーテンを外して簾〈すだれ〉とし、
和室も同様に、雨戸、網戸、障子となっているが、簾〈すだれ〉を掛けたりしている。

そして居間を中心に、和室、洋室、玄関、洗面所、トイレの窓際まで、
簾〈すだれ〉を付けている。
          
            玄関の内部の窓辺、簾〈すだれ〉の上に、黒地の布をして、陽射しの熱さを防いでいる。

そして朝涼(あさすず)が残る9時が過ぎる頃まで、
網戸と簾〈すだれ〉にして、風を通したりした後は、エアコンの冷気を享受している。

やがて秋のお彼岸の残暑の頃まで、このような態勢が、恒例のようになっている。


☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、無上の喜びです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログへにほんブログ村
人気ブログランキングへ


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私がブログを愛読している方たち、生きた教科書と思い深めて、感謝・・。

2015-08-04 14:14:07 | ささやかな古稀からの思い
私は民間会社の中小業に35年近く奮戦して、2004年(平成16年)の秋に定年退職となり、
多々の理由で年金生活を始めた。

そしてネットの世界は殆ど無知な癖に、この当時にIBMなどからホームページ作成素材のソフトを買い求めて、
漠然としながら『ホームページ』を立ち上げて、
自身の日々の思い、そして過ぎ去った時代の思いのことなどを出来うる限り随筆風の散文を綴り、
公開しょうと思案したりしていた。

しかしながらホームページの開設までの技量に乏しく、無名の私が開設・運営した所で果たして、
と躊躇していた時に、
偶然に本屋の店頭で一冊の本にめぐり逢え、私は初めて『ブログ』の世界を知った・・。
             
           
ブログの世界は、多くは匿名制度であり、ある程度の良識を根底に於けば、
それぞれのお方が自由に私生活の出来事から、政治、外交、軍事、経済などの分野まで表現でき、
日本でも2002年(平成14年)の頃から急速に普及し、
誰でも発信できる人類史上初めての時代が到来している。

この少し前の時代は、それぞれの専門知識のある有識者が、
雑誌、新聞などに寄稿文を掲載することができる時代で、
私のように無名で素人の身は、新聞・雑誌などの読者コーナーで、記事を投書できる範囲であり、
もとより掲載の判断は、編集部の意向で決められていた。

こうした結果として、私は自在に私の生活のことから、政治、社会などに専門知識がない私でも、
私なりの思いを発露でき、何よりブログはホームページより手軽に開設、運営できると感じ、
ブログに加入しょうと決意した。
          
        
そして2004年(平成16年)11月12日にある大手のブログサービスに加入した後、
2つばかりのブログサービスに彷徨(さまよ)った後、
この【gooブログ】に翌年の2005年(平成17年)1月19日に加入した。

しかしながら、この後に他のブログサービスに加入して熱中して、2度ばかり【gooブログ】を中断したが、
2008年(平成20年)の5月以来は継続し、今日に至っている。    
       
このような軌跡で、ブログの世界を知って丸10年が過ぎて、早や11年生に進級した。
結果としては、パソコンの故障、国内旅行などしない限り、日に少なくとも一通は投稿してきた。
                                      
こうした私の根底には、私の幼少時代から年金生活している現在までの生きてきた心の軌跡を発露して、
自己表現のひとつとして、心の証(あかし)の残したいからであった。

そして年金生活を過ごしている今、日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを
心の発露の表現手段として、ブログの投稿文を綴ったりしている。
          
        
たまたま今朝、私の【gooブログ】に於いて、『訪問者数(IP)は1、111,739』と表示され、
訪問者数(IP)は111万が超えたのか、と微苦笑したりした・・。

もとより人気のあるブログは、ウサギのように素早く短期に達成され、通過されているが、
つたない半生を歩んできた私は、カメのようにゆっくりと達成できた為、苦笑したりした。
          


私は自身の投稿文も大切であるが、ここ10年数多くの方の投稿文を読ませて頂いたりした。

そして日記として綴られている場合は、
その人なりの思いをその方ご自身の言葉で、淡々と綴られているのに、
圧倒的に感動を覚(おぼ)えたりしてきた。

そして日々の日常生活の過ごした方、或いは人生の思いを学び、
こうしたお考えで、この人生を過ごされているのか、と教示されることが多く、
お住まいの地域、これまで綴られた人生の軌跡に思い重ねさせて頂きながら、
何よりも生きた人生の教科書、と確信を深めたりしている。

こうして読ませて頂きながら、私は秘かに励ましを感じたり、微笑んだりして、
確かな人生の底知れぬ苦楽の深淵を感じながら、年金生活を過ごしたりしている。

或いはその地域の情景の四季折々の移ろいを背景とし、
デジカメの数葉を掲載され、絵葉書のような観光地の解説でなく、
その方ご自身の言葉で綴られるのに感動させられたりしている。

そして言霊を信愛し、何よりも投稿文で吐露(とろ)しなければ、
この人生を生きて行くことはできない、
このような圧倒的に心の深淵まで描写できる方もいる。
                                                                  

こうして過ごしてきた間、私の投稿文にコメントを頂いたり、
或いはあるお方の投稿文を読ませて頂き、瞬時に圧倒的に魅せられて、そのお方にコメントをしたりしている。

しかしながら数多くのサイトに関しては、一部のお方とのコメント上で交流を除き、
隠れキリシタンのように秘かに私は、愛読者のひとりとなっている。

こうした理由の一つとして、私は気楽にコメントを書くことはできない身で、
コメントを書き込んで下さった方のプロフィールはもとより、
最近のその方の心情まで配慮して返信するタイプのひとりである。

こうした事情により時間が要するので、日常生活の肝要の読書、散策の時間まで影響し、
原則としてコメントの交信は取りやめて、お互いに投稿文を読んで頂ければ、と変貌した時代もあったりした。

ここ5年前の頃からは、来訪しコメントを残して下さった方には、原則として返信を認(したた)めている。
或いは数多くの方の投稿文を読ませて頂き、感極まって私は、そのお方にコメントをしたりしている。
          

或いはそれぞれのお方よりコメントを頂き、
私は思いかけずに喜んだり、私の投稿文をこのように解釈されたのかしら微苦笑したりし、
返信を認(したた)めたりしている。

こうした中で望外の喜びとして、ブログサイトを開設していない数名の方より、
幾たびかコメントを頂き、もとより私は本心を発露して、返信を認(したた)めてきたりした。

そしてブログの投稿文を10年半ばかりしている中、ブログ上で出逢い、
やがてコメント上で心の交流を盛んに重ねても、ふとしたことで疎遠になり、別れとなる場合もある。
          

私がブログを初めてまもない2004年〈平成16年〉の12月の時、
ブログ形式に準じた【簡単gooホームページ】に加入している中、
確か一カ月後に、九州の北部にお住まいの60歳前後と思われる奥方と投稿文に於いてコメントをお互いにし、
その後、2年ぐらい高校生の交換日記のように、この当時も私は日々投稿文を綴っていたせいもあり、
殆ど毎日コメント欄で心の交流を重ねた。

こうした中で、この奥方が一枚の写真を添付し、散策する時何かと魅せられている小花のひとつです、
と投稿文に掲載されていた。

私は恥ずかしながら無知であったので、ネットで検索したら、
『オオイヌノフグリ(大犬の陰嚢)』と明記されていたので、植物学者は文学性の感性が余りにも欠落している、
と思い苦笑した。

そして『瑠璃唐草』、『天人唐草』、『星の瞳』とも名づけられていたので、
この奥方に、『星の瞳』に瞬時魅せられました、と私はコメントしたりした。
           
           ☆2008年3月、私が近くに流れている野川の川べりで、偶然に『星の瞳』にめぐり逢い撮った一葉☆
   

こうした淡き心の交流を2年半していたが、ご主人様がご病気となり、入退院をされる中、
奥方の投稿文も途絶え、やがて私たちの交流も途絶えがちとなり、
まもなく加入している小さなある簡易なブログサイト自体が閉鎖となり、そして交流も終えてしまった。

このような私にとっては、貴重な思いを秘めているので、
『星の瞳』を通して、この奥方は、私の年金生活を始めて不安な心情の中、心おだやかに過ごせたので、
女神のような人と私は思っている・・。

そして、その後に私は春先に散策したりする時、『星の瞳』を見かけたりすると、
あの奥方はどのように過ごされているのかしら、と思ったりし早や6年半が過ぎている。
          

これまで私の人生のリアルの世界でも、たとえば現役サラリーマン時代に於いても、
盛んに交流していた友に於いて、人事異動で地方に転勤となったりして、
やがて疎遠となったりしてきた。

年金生活をしている中でも、私たち夫婦は国内旅行が共通の趣味であるので、
ときには観光ホテルなどに滞在プランで共にしたメンバーの人たち、
或いは団体周遊観光で旅路を共にした人たち、
こうした旅先で知り得た人たちと、宿泊している館内の食事処、大浴場、ロビー、
或いは私たち夫婦が街中を散策している時に、お逢いしたりし、お互いに談笑したりした。

          
もとより旅先で知り得た人たちは、それぞれ生を受けた環境も違い、
その後に育った状況、学歴、その後の社会人として職業、結婚生活・・、
やがてシニア世代となり、それぞれの生活をしていて、誰ひとり同じ人生航路を歩んできた人はいないのである。

その上、人それぞれ思考、信条、性格、趣味なども違うし、この広い世界で同じ人はいないが、
私たち夫婦は旅路で交流して、人生のひとときを共にし、
旅の終わりに近づくと、私たち夫婦は『また、いつ日にか旅先で、お逢いしたいですねぇ』
とそれぞれのご夫妻に愛惜の挨拶をしたりすることもある。

しかしながら、その後にお逢いしたことは殆どないのが実情であった。
                                                  

過ぎゆく人生は、出逢いと別れを幾たびか体験すると古来から伝えられているが、
ネットのブログで、私が投稿文、コメント上で交流してきた方たちも、
歓び悲しみを共にしてきたので、同じかしら、と思い深めたりしている。
   

そして現代の私は、私がブックマークに掲げた人を中核に、
毎日のように数多くの方の投稿文を読ませて頂きながら、
日々の日常生活の過ごした方、或いは人生の思いを学んだりしている・・。

そしてこうしたお考えで、この人生を過ごされているのか、とご教示されることが圧倒的に多く、
確かな人生の教科書と思い、多々ご教示を受けている。

そしてこうした中で、感きわまってコメントをしたりする時もある。

このように私は、多くのお方がブログのコメントを活用しているのは、
それぞれのお方の秘めたる心の発露の交流かしら、と感じたりしている。

このように私は、ブログの投稿文を重ねて11年生となっている。
          

そして感じ深めていることは、この広い空の下で、未知のそれぞれのお方に投稿文、
或いはコメント上で、めぐり逢えたこと、
私にとっては心の宝物、と感謝したりしている。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、無上の喜びです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログへにほんブログ村
人気ブログランキングへ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

猛暑の中、老ボーイの70歳の私でも、家内のボディガード兼お供として、微苦笑して・・。

2015-08-03 15:59:29 | ささやかな古稀からの思い
私の住む東京の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅の地域は、
ここ4日連続の猛暑日を迎えて、何かと暑さに苦手な私は、戸惑っている。

そして空を見上げたりして、天上の気候の神々は、どうしてこのような采配をするょ、
と何かと熱中症に恐れている私は呟いたのは、朝食後のひとときであった。
          


昨夜、夕食を頂いた後、やがて茶坊主の私は家内用のコーヒーを淹れて、
居間の食卓テーブルの片隅に置いた。

『明日、駅前の歯医者さんに行く日ですから・・』
と家内は私に微笑みながら言ったりした。

『XXちゃんさぁ・・解っていますょ・・確か予約は11時と記憶していますょ』
と私は笑いながら応(おう)じたりした。
 

家内は幾たびか歯の治療を自宅周辺の歯科医院に受けたりしてきたが、
私は妹から、9年前の頃に小田急線の『喜多見』駅前の歯科医院が良いみたい、と聞いたりしたので、
これ以来、私の歯の老化を含めて、この『喜多見』駅前の歯科医院で私たち夫婦は、治療を受けたりしてきた・・。

そして利便性のある路線バスを利用すれば、我が家より10分前後で到着するが、
最短距離として野川の遊歩道を歩けば、20分前後を歩けば到着するし、
何よりもこの遊歩道の片側は、細長い小公園が帯のように続き、四季折々の情景が見られるので、
私たち夫婦はこのコースを愛用してきた。

難点といえば平日などは、人影も少ない時があるので、
家内が出かける時は、私がボディガード、お供として、共に歩いたりしてきた。
             
                     
10時過ぎに私たちは早めに自宅を出て、まもなく野川の遊歩道を歩き、『喜多見』駅前を目指して歩いたりした。
       
家内は白いブラウスとスカートで、おしゃれなウォーキング・シューズを履き、日傘を差して歩いたりした。

一歩遅れた私は、夏用のストレッチパンズの長ズボン、半袖のスポーツシャツ、
そしてウォーキング・シューズとなり、夏用の帽子を深めにかぶり、颯爽と歩いたりした。

こうした中で、紳士用の小物入れのA4サイズのショルダー式バックを斜め掛けをし、
バックから扇子〈せんす〉を取り出して、扇〈あお〉ぎながら歩いたりした。

陽射しは燦々と照らす遊歩道を歩けば、まもなく私は汗が流れて、
少し高価な半袖のスポーツシャツは汗まみれとなり、苦笑したりした・・。
          

この後も遊歩道を歩けば、道端に植えている向日葵(ひまわり)の花も、
猛暑と水不足の為か、元気なくうなだれて折り、
『可哀想に・・』
と家内は呟くように私に言ったりした・・。

私の住む地域は、真夏の今の時節は、30度ぐらいの熱さが続く中、数日ぐらい猛暑と処される35度もあるが、
ここ連続して猛暑日が続くは、私が記憶する限り初めてである。
          

『今年の夏は異常に暑いからねぇ・・向日葵(ひまわり)だってねぇ・・』
と私は家内に言ったりした。


       
私は2004年(平成16年)の秋、ある民間会社に35年近く勤めて定年退職後、
多々の理由で年金生活を始め、早や11年目となり70歳の身であり、
家内は私より5歳若く65歳となっている。

私たち夫婦は38年寝食を共にしてきた結婚生活の中で、幾重かの人生の荒波を乗り越えてきたが、
ここ10年の年金生活は安楽の日々を過ごしてきた。

こうした中で私たち夫婦の年金生活を、ご近所の方の奥様たちが見かけて、
あなたたちはお若いわ、と社交辞令のお世辞を頂くこともある。
          
私たち夫婦は、子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
長き結婚生活の中に於いて、最大の誤算となっている。

私は何かと母の遺伝を受けたらしく男の癖におしゃべりなので、
家内と結婚前に交際していた時から、
私は家内に対して、XXちゃん付けで呼んだりしている。

そして私たち夫婦は語り合うことが多く、旅先の宿泊の食事処で、会話のないご夫婦を見かけると、
私は幾たびか驚いたりしてきた。

そして世の中の多く人たちから、人生の3大支出は教育資金、住宅資金、老後資金と言われたりしているが、
たまたま我が家は子供の「教育資金」は不要となったので、
定年した直後から年金生活を開始できたことも事実である。
       
もとより子供がいれば、圧倒的に育てる喜びもあるし、子供の笑顔に何よりも癒(いや)されるし、
ときには苦渋することもあると、知人たちから教えられてきたが、
無念ながらこうしたことの体験は、私たち夫婦は欠落している。
          
そして果たしていつの日まで、情愛さえも子供にも頼ることができない私たち夫婦は、
ささやかな日々が続くのだろうか、と私はよぎることもある。
          
                 
やがて私たち夫婦は駅前で別れて、私は駅前のスーパーに寄ったりした。
そして冷凍商品のコーナーを見て回りながら、汗まみれの身体の熱気を冷気の中で、冷やした後、
洗面所で顔を洗い、身支度を直した後、私は駅前の片隅にあるコーヒーショップの『ドトール』に行った。

そして私はアイスコーヒーを飲みながら、持参した新書本を読み、家内を待機した。

まもなく家内と合流した後、『帰りはバスで帰ろうょ』と私は家内に提案して、
やがて私たち夫婦は、路線バスに乗車して、車内の冷気に享受した。

私は30数度以上の熱さの時は、やはり熱中症で救急車にお世話になることは避けたく、
熱い中を遊歩道を歩いて帰宅することは断念して、私たち夫婦は路線バスに甘えたであった。
こうしたことは老ボーイの私でも、高齢者夫婦の保身と思ったりしている。

やがて我が家の近くにあるバス停のひとつ前に下車して、最寄のスーパーに寄り、
私たち夫婦は買物した後、私は両手にレジ袋を提げて、家内のお供のように歩いて、帰宅した。
          

そして外気を取り入れながら、エアコンの冷気を作動させて、
やがて30分後に居間の気温は、28度のいつものような体制となったりした。

そして『暑い夏は、やはり我が家が一番だよねぇ・・』
と私は家内に言ったりした。

☆下記のマーク(バナー)、ポチッと押して下されば、無上の喜びです♪
にほんブログ村 シニア日記ブログへにほんブログ村
人気ブログランキングへ

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする