夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

自律神経を整えたい時は、「耳たぶを軽く引っ張る」、79歳の私は学び、微笑み・・。

2024-08-16 14:29:17 | 喜寿の頃からの思い
先程、ヤフー・ジャパンより配信された記事を見ている中で、
『 自律神経を整えたいときは「耳たぶを軽く引っ張る」』、
と題された見出しを見たりした。

こうした中で、もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
歩くことが何より健康体の源(みなもと)と思い、
 

そうした疲労対策として「耳たぶストレッチ」を、
せたがや内科・神経内科クリニック院長の久手堅司先生から教えてもらいました。

※リンク先は外部サイトの場合があります



☆久手堅先生おすすめ!耳たぶストレッチのやり方

久手堅先生は前回、「首・肩こりは、自律神経の乱れを引き起こす大きな誘因である」と語りました。
体を温める防寒具や入浴のほか、おすすめなのが、耳まわりをほぐすこと。


耳をストレッチして柔らかくすることで、血流が良くなり、
肩のコリも、ゆるんでくるそう。

やり方はとても簡単です。


1. 耳たぶの少し上を、 水平方向に引っ張る

2. 5~10秒ぐらいしたら離す


これだけです。
数回繰り返しましょう。

<picture><source srcset="https://sports-pctr.c.yimg.jp/vrwP1cu9cY2YL4Fg3aXpJtHyHIQWv4q0Pd5fNOzmBc_N1FzH6Nw5O-6uyBxRWdFhlpASA6AEoKJCIRqGmDC8fOiZNC5ir3IwqS5RiP58dyI2HM6tHMnixne40bP1yxggkdkKiIzMKg5BwPDrRH3ohLHqNZl36f4flSKxZRWdpPHW214tCEFZArHorxBzeCTe" type="image/webp" /></picture>【MELOS】

耳を上下に動かすのも効果的です。・・ 》

注)記事の原文に、あえて改行など多くした。


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台風7号 発達しながら北上中、都心の郊外に住む私は、注視して・・。

2024-08-16 11:55:21 | 喜寿の頃からの思い

こうした中で、台風7号が日本列島の関東地方に北上する、
と昨日の朝、天気情報で学んできた・・。

我が家は築後45年のモルタル木造の二階建ての家屋であり、
この間、モルタルの吹き付けを2回ばかりしたり、
20年前の私の定年退職する前に、少しばかり雨戸などリフォームした程度で、
老朽化した家となっている。

このような実態であるので、強い風に襲来されると家の屋根が大丈夫かしら、
と危惧する時もある。



たまたま私たち夫婦は子供に恵まれず二人だけの家庭であり、
まもなく私は80歳、家内も75歳となる後期高齢者夫婦となっている。

いつの日にか老人ホームにお世話になるかも知れないので、
今の家のリフォームして万全をするより、
これからの老後の資金の確保が大切と思案してきたので、
老朽化した家でも、現状維持で・・と願ったりしている。

このような事情で、今回の台風7号を気象情報を、
テレビとかネットでときおり、視聴したりしている・・。

こうした中で、ヤフージャパンが配信されたて記事の中で、
『 台風7号 発達7号しながら北上中、
          活発な雨雲が関東に広がる 午後は沿岸部中心に暴風も 』、
と題された見出しを見たりし、記事を精読した・・。

無断であるが、記事を転載させて頂く。

《・・配信
tenki.jp


☆発達しながら北上 上陸しなくても警戒を


☆関東甲信 断続的に雨強まる 線状降水帯発生の可能性 沿岸部は暴風


☆台風の暴風 家の中で いるべき所は


☆予想される 雨・風・波

日本気象協会 本社 戸田 よしか ・・・》

注)記事の原文に、あえて改行など多くした。


《・・台風第7号接近に伴う「警戒レベル3高齢者等避難」を発令

市内の河川の氾濫や土砂災害の危険性が非常に高まったため、
市は、11時に市内全域における洪水浸水想定区域・土砂災害警戒区域を対象に、
「警戒レベル3高齢者等避難」を発令しました。

避難情報

避難情報注意書

 
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『終戦記念日』、都心の皇居に向かい、まもなく80歳になる私は、黙祷して・・。

2024-08-15 10:12:19 | 喜寿の頃からの思い

私は東京の調布市に住む年金生活のまもなく80歳の身であるが、
朝の7時過ぎ洗面した後、玄関の軒下に下り立ち、
襟を正して、都心の皇居に向かい、黙祷した・・。

私は1944年(昭和19年)9月下旬、今住んでいる近くにある実家で、

農家の三男坊として生を受けたりした。

そして翌年の1945年(昭和20年)8月15日に、
日本は連合国に降伏し、敗戦となった時、
一歳未満の乳児であったので、戦争を知らない世代のひとりである。




こうした中、沖縄戦が事実上終結した6月23日の『沖縄慰霊の日』には沖縄本島に向い、
対戦中のアメリカが、人類史上初めて広島市の市街に原子爆弾を投下された8月6日の『原爆の日』には広島市に、
その後まもない9日の長崎にも原子爆弾が投下された『原爆の日』には長崎市に向い、黙祷をしてきた。

そして本日の15日の敗戦なのに『終戦記念日』称しているこの日の朝、

都心の皇居に向かい黙祷した・・。

こうした根底には、かの大戦に於いて、余りにも多くの方たちが亡くなわれて、
尊い犠牲の上で、今日の日本の平和の礎(いしずえ)である、と思いながら、
戦争を知らない私でも深い心の傷として、今日に至っている。

このような思いから、私は国民のひとりの責務として、

ここ59年黙祷をして、尊い命のご冥福を祈っている。

そして私はいつも感じることは、若き10、20代の諸兄諸姉に対して、
少なくとも日本の過去には、こうした現実があった、と認識して欲しい、

固く願っているひとりである。
          


私は、皇居に向って黙祷をする真情は、 かの大戦の当時の国民風潮として、
『天皇陛下の御為と国の為に死ぬ事が日本人の美徳と教えられ、
戦死したら靖国神社に神として祀(まつ)られ、
崇(あが)められると信じて疑わない殆どの国民がいた・・』
と当時の時代の風潮の中で生き、亡くなわれた人々に哀悼の意を表しているに他ならない。

いずれにしても、戦争は多くの場合は外交の破綻から発生し、
最悪の場合は戦争となるが、勝戦国となる国民も、
敗戦国となる国民も、余りにも過酷で悲惨である。




私はここ18年ばかり、この15日に於いては、
都心の千代田区の千鳥ケ淵戦没者墓苑の碑に刻まれた両陛下の詠まれた歌に、思いを重ねたりしている。

   国のため いのちささげし
      人々の ことを思えば 胸せまりくる         
                       昭和天皇

   戦なき 世を歩みきて
      思ひ出づ かの難き日を 生きし人々
                       平成天皇

私はこの歌を深く拝読するたびに、思わず胸が熱くし、
その時代を少し学んできた歳月に思いを馳せ、まぎれない鎮魂曲のように感じている。
          

          

この昭和天皇の歌の思いは、
靖国神社から程近い所にある千鳥ケ淵戦没者墓苑は、
訪れる人も少なく、この季節は蝉時雨が響き渡る情景の中、 詠まれた伝えられている。

平成天皇の歌は、戦後60年の年の歌会始の儀で詠まれた、と報じられていた。

そして昭和天皇の御製の碑と向き合う形で、
2005年(平成17年)9月に平成天皇の御製の碑が完成した、
と確か読売新聞で読んだりし、私はつたない身ながら学び、思いを深めている・・。

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かの大戦、九十九里から米軍上陸計画、現地の91歳女性「最近までデマかと」、私は学び、震撼させられ・・。

2024-08-14 14:24:43 | 喜寿の頃からの思い
先程、【 読売新聞オンライン 】の『戦後79年特集へ』の中で、
『 九十九里から米軍上陸計画、現地の91歳女性「最近までデマかと」・・・
  本土決戦なら 戦後日本は東西分裂の可能性も 』と題された見出しを見たりした。

私は東京の調布市に住む79歳の年金生活の身であるが、
過ぎし1944年〈昭和19年)9月下旬、今住んでいる近くで農家の三男坊として生を受け、
翌年の1945年〈昭和20年)8月15日に日本は連合国に降伏し、敗戦となった時、
1歳未満の乳児であったので、戦争を知らない世代のひとりとなっている。

後年になると敗戦する数年前の状況に関して、祖父、父、母、叔母の同居する人たちから、
或いは親戚の叔父、叔母からも、この当時のことを教えて貰ったりしてきた・・。

         

この当時、住んでいた北の方面には軍事戦闘機を製造する中島飛行機の工場があり、
西の方面には軍事物資を生産する軍需工場とされた東京重機が数キロ先にあった為、
ときおり近くに爆弾が落ち、空襲警報のたびに、
宅地から少し離れた生家の崖の雑木林にある防空壕に避難した、と話しを聞いたりした。

祖父と父か中心となって、程ほどの広さの田畑を耕し、
小作人の人々の手も、お借りたりしていた時代でもあった。

そして空襲警報が発令されると、何をおいてもとりあえず防空壕に避難したので、
慌しい恐怖の時代でもあった。

少しばかり遠方にあった軍事物資を製造する場所、軍用機を生産している場所を目標に、
米軍の爆撃機が幾たびか飛来し、爆弾を大量に落としたのであるが、
ときには付近の田畑、雑木林に落下した、 と後年に親戚の叔父さんに私は教えて貰ったりした。

そして250キロの爆弾と言われても私は定かでないので、
更に教えを乞うと、今で言うと大きなプロパンガスぐらいょ、と叔父さんは私に教えてくけたりした。

やがて私は大きなプロパンガスのような爆弾が、空から大量に降ってくる状況を想像すると、
身も心も身震いをしたのは、高校生の頃であった。

そして後年に、1944年(昭和19年)11月24日、アメリカ軍は、
大型長距離爆撃機の『B29』がマリアナ諸島を飛びだった111機が東京に初空襲し、
目標は中島飛行機の工場だった、と学んだりした。

        

その後、幾たびか東京の都心にも空襲し遭い、決定的な東京の大惨事は、
1945年(昭和20年)3月10日、『B29』が320機以上が、
1600~2200メートルの超低高度で、夜間に焼夷弾攻撃という新戦術が、
本格的に導入された初めての空襲であった。

その目的は、市民の生活の場である木造家屋が多数密集する下町の市街地を、
そこに散在する町工場もろとも焼き払うことにあった。

結果として、大きくの街は焼かれ、焼け焦げた遺体の山となり、死者・行方不明者は10万人だった、
と記載されたいた。



私の生家は、戦時中の頃は、玄関の中は農家の特徴である広い土間となり、
その一角の壁面に、各自の綿入れの布地の防空頭巾をつるしていた。

そして空襲警報が発令されると、祖父、父、母、叔母の人々に導かれて、
私が生まれてまもない頃の時は、長兄は5歳、次兄は2歳であったので、
防空頭巾をかぶしてもらい、手をひかれながら、防空壕に避難された・・。

私は乳児であり、おしめの取れない時期であったので、
母たちは何かと大変だっただろう、と思い返したりしている。

後年になると、叔母たちが話されたので聞いたりすると、
この当時は、防空壕の内部の土の上に藁(わら)を敷いた上に、莚(むしろ)か茣蓙(ござ)に座り、
家族全員で互いの安否を確認した上で過ごした、と教えられたりした。

        

私が小学3年生の頃になると、図画の授業で先生に我ら学童は引率されて、
学校の近辺の丘陵の雑木林に行った時、
コンクリートできた高射砲の台の跡が数多く見受けられた。

もとより戦時中、アメリカ軍の飛行機の来襲に備えて、高射砲で向かい撃つ態勢で、
造られた形跡であった。
そして上空から見えにくいようにコールタールの黒色に塗られていた。

この頃までは、小学校の帰路に寄り道をすると、数多くの防空壕が見受けられたり、
生家の防空壕も小学の後年の頃までは遊んだりした。

生家の雑木林の崖の一角に、縦横1.8メートルぐらいの入り口に木戸があり、
少し入ってまもなくすると、横に掘られ横幅が広くなり、奥は8メートルぐらいと感じたりした。
わずかに湿度を感じたりしたが、広間のようにゆったりとしていた。

後年の成人になった私は、
防空壕は入り口からまもなく角度が横になったのは、万一の爆風を避けることであろう、
そして幾分広めの内部は、平素の農作物の保存場所に併用していた、
とおぼろげに思ったりした。

この私の生家の防空壕は、私が中学に入学してまもない時、
都道が新設されることとなり、跡形もなく付近の田畑、雑木林も含め、

住宅街に大きく変貌したのであった。

このように戦争を知らない私は、防空頭巾、防空壕、高射砲台の跡、
後年の後づけとして知ったりした程度である。

       

このようなことを思い馳せたりしていたが、
もとより防空頭巾は、アメリカ軍の爆撃機が飛来して空から爆弾を落としたり、焼夷弾で焼き尽くしたり、
軍事生産地、住宅街などに大打撃を与え、住民も殺傷する目的を防ぐ目的であるので、
地上にいる人たちは余りにも残酷で、戦争は悲惨である。

敗戦となった日本は、数多くの方は家族を亡くされ、住まいも焼かれ、財産も失くしたが、
国からの賠償もなく、国民ひとり独りが立ち上がり、敗戦後の日々を歩みだしたことに、
私はただ項垂(うなだ)れるばかりで、当時の人々に思いを馳せると、胸が熱くなる。


          

このような深情のある私は、今回の記事を真摯に学びたく、読んでしまった。

太平洋戦争末期、米軍は日本本土上陸を目指す「ダウンフォール作戦」を立案し、
その一環として、九十九里浜などから地上部隊を上陸させる計画を進めていた。

当時の様子について本紙に投書を寄せた千葉県旭市の斉藤あさ子さん(91)を訪ね、
平和への思いなどを聞いた。

女学生が貼り合わせた美濃和紙も使われた「風船爆弾」、岐阜の郷土史家が絵本に…「子供も大人も読めるように」
戦争体験を振り返る斉藤さん(7月3日、千葉県旭市で)
戦争体験を振り返る斉藤さん(7月3日、千葉県旭市で)


戦時中、旭町(現・旭市)の国民学校に通っていました。
九十九里浜は、東京を空襲する米軍機の通り道となっており、
落ち着かない日々を過ごしました。

米軍が、浜から上陸する作戦を立てていたとは、思いもよりませんでした。


米国および英国に対して戦を宣す――。
太平洋戦争開戦の放送を聞いたのは、9歳の時でした。

町中のラジオから軍艦マーチが流れ、
日本軍の連戦連勝を知らせる大本営の発表に大喜びをしていました。
校舎には、ご真影が掲げられ、私たちはその前を最敬礼して学校に通っていました。

潮目が変わったのは、1944年の夏です。
サイパン島やテニアン島など南の島が次々と玉砕し、戦況が悪化し始めました。
学校には、陸軍の部隊が駐屯し、私たちは近くのお寺で勉強するようになりました。

☆頻発する空襲

 

家族と写真に納まる斉藤さん(右から2人目)(1941年1月撮影、斉藤さん提供)
家族と写真に納まる斉藤さん(右から2人目)(1941年1月撮影、斉藤さん提供)


東京大空襲のあった45年3月10日の頃だったと思います。
未明に役所のサイレンが鳴り、一家で学校の防空 ごう に逃げ込みました。

空を眺めると、校庭にあった桜の木の枝に接触するほど、
低空で飛行機が飛んできました。

目をこらすと、胴体に黒々とした星のマークが見えました。米軍機でした。

爆音が響き、空からはチラチラと花火のように 、焼夷しょうい 弾が降ってきました。
夜明けに近くの田んぼに行くと、焼夷弾が、ずぼずぼと突き刺さっていました。
町中に落ちていたら、一面焼け野原になっていたことでしょう。

それから空襲が、頻発するようになりました。
郵便局員だった姉2人は、真夜中でも職場に向かって、建物を守りに行きました。

郵便局は、電話交換業務を担う大事な施設でした。
父を早く亡くした私の家には男手はなく、
母は、負けじと竹やりとバケツを持って、集会所に出向いていきました。

当時12歳の私は、飼っていた猫を抱いて、防空壕で、みんなの帰りを待っていました。
いつかは神風が吹いて、日本が勝つ。そう固く信じていました。


☆牛車で避難

 

斉藤さんの自宅近くの学校に駐屯していた旧日本兵(1945年、斉藤さん提供)
斉藤さんの自宅近くの学校に駐屯していた旧日本兵(1945年、斉藤さん提供)


ある日の夕方、近くの子どもたちと遊んでいたら、
兵隊さんから「浜から敵が上陸してくる。海から遠いところに逃げるように」と伝達がありました。

乾パンや金平糖などを詰め込んだ救急袋を背負って、
集合場所に行くと、牛車が待っていました。

見送りにきた姉たちは「今生の別れになる」と涙を流していました。
私は言葉も出ず、下を向いていました。

女学生が貼り合わせた美濃和紙も使われた「風船爆弾」、岐阜の郷土史家が絵本に…「子供も大人も読めるように」


牛車に乗り込み、いざ山の方へ動き出そうとした寸前、
兵隊さんが来て「上陸計画は中止になった」と告げました。
私はあっけにとられて、そのまま家に帰りました。

まもなく8月15日を迎えました。
近所のラジオ店で聞いた玉音放送は雑音がひどく、
何を言っているのか、分かりませんでした。

大人たちが「男はこれから奴隷だ。女は売られる」と動揺し、
戦争に負けたことを理解しました。

家では、夜になっても明かりをつけることはせず、
夕飯も食べずに暗闇で泣いていました。

戦後の食糧難は、農家だった母の実家に米や野菜を分けてもらって、しのぎました。
東京の人は大変だったと思います。
リュックに着物や帯などを入れて、畑にやってきてはお芋などと物々交換していました。


米軍の上陸作戦は、最近までデマだと思っていました。
もし戦争が長引き、千葉に上陸してきたら、
たくさんの人が命を落としていたに違いありません。

戦争は、偉い人が決めれば止められます。
世界で戦争が続いている今、指導者の勇気ある決断を強く願っています。(聞き手 鳥塚新)


☆九十九里浜から進軍計画…東京包囲「コロネット作戦」

 

防衛省の「戦史 叢書そうしょ 」などによると、
米軍は1945年11月に、九州南部に進攻して飛行場を制圧し、
翌46年3月には、関東方面に上陸する計画を立てていた。
東京に進軍し、日本に無条件降伏を迫る狙いがあった。

関東への上陸作戦は、「コロネット作戦」と呼ばれている。
千葉県の九十九里浜や神奈川県の相模湾から、同時に上陸して地上戦を展開し、
東京を包囲する構想だった。

現実味を帯びる本土決戦に備えて、大本営は九十九里浜などで、陣地構築を命じている。
ただ物資は十分ではなく、作業は進まなかったという。

東城村(現・東庄町)に駐屯していた元兵士は、
上陸した米軍に対し、銃先に剣をつけて突撃する命令が下されていたと証言している。

8月に戦争が終結し、作戦が決行されることはなかった。

ノンフィクション作家の保阪正康氏は著書で
「本土決戦が起きていれば、五百万人以上が戦死、戦病死していたのではないか」
と指摘し、戦後の日本統治は、東西に分裂していたとの見方を示している。・・ 》

注)記事の原文に、あえて改行など多くした。


千葉県の九十九里浜や神奈川県の相模湾から、同時に上陸して地上戦を展開し、
東京を包囲する構想・・初めて私は学び、震撼させられたりした。

その上、ノンフィクション作家の保阪正康氏は著書で
《・・「本土決戦が起きていれば、五百万人以上が戦死、戦病死していたのではないか」
と指摘し、戦後の日本統治は、東西に分裂していたとの見方を示している・・》
このようなことも学び、動顛したりした。



22歳の頃から、沖縄戦が事実上終結した6月23日の『沖縄慰霊の日』、
原爆という余りにも過酷で悲惨な8月6日の『広島被爆』、そして9日の『長崎被爆』、
まもなく15日の『終戦記念日』と称せられる『敗戦記念日』は、黙祷をして60年近く過ぎている・・。

こうした根底には、かの大戦で、余りにも多くの方たちが亡くなわれて、
尊い犠牲の上で、今日の日本の心の平和の礎(いしずえ)である、と思いながら、
戦争を知らない私でも深い心の傷として、今日に至っている。

このような思いから、私は国民のひとりの責務として、
こうした日は、人々に哀悼の意を表して、黙祷をし、尊い命の冥福を祈っている。 
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“墓じまい”増え、「永代供養」検討が約9割、79歳の私は学び、多々教示されて・・。 

2024-08-13 12:44:39 | 喜寿の頃からの思い

先程、ヤフー・ジャパンより配信された記事を見ている中で、
『  “墓じまい”増え・・・「永代供養」検討が約9割 樹木葬など  』、
と題された見出しを見たりした。

 

“墓じまい”増え…「永代供養」検討が約9割 樹木葬など(テレビ朝日系(ANN)) - Yahoo!ニュース

“墓じまい”増え…「永代供養」検討が約9割 樹木葬など(テレビ朝日系(ANN)) - Yahoo!ニュース

墓を受け継ぐ人がいないなどの理由で遺骨の管理や供養を寺院や霊園に任せる「永代供養」を検討している人が9割近くに上ることが分かりました。 仏壇・墓石販売大手の「は...

Yahoo!ニュース

 
 

墓を受け継ぐ人がいないなどの理由で、
遺骨の管理や供養を寺院や霊園に任せる「永代供養」を検討している人が、
9割近くに上ることが分かりました。  

仏壇・墓石販売大手の「はせがわ」が、墓について調査したところ、
樹木葬など永代供養型の購入を検討している人が、88.3%を占めました。  

この5年間で購入した墓の種類では、
墓石に遺骨を納める一般墓は49.0%で、永代供養型は49.7%でした。  

少子化を背景に、墓を継ぐ人がいない、子どもに負担を掛けたくないなどの理由で、
墓石を撤去する「墓じまい」が増えています。  

新たな納骨先として、管理する必要がない永代供養型のうち、
特に樹木葬のニーズが高まっているということです。

樹木葬を購入した木元昌子さん
「(一般墓とは)50万円ぐらい違う。
管理費とかないので、子どもに迷惑も掛からないから、良いかなと思った」

南林山普門院蓮花寺 飯田盛重住職
「子どもが親を思う時代から、親が子どもを思う時代になっている。
経済的にも、子どもに負担を掛けたくない、というような気持ちが
親に強くなってきた時代だと思う」  
テレビ朝日・・ 》

注)記事の原文に、あえて改行など多くした。


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和田秀樹・医師、老化を遅らせることができる7文字の口癖、79歳の私は学び、微笑み・・。

2024-08-12 15:12:03 | 喜寿の頃からの思い
先程、ときおり愛読している【 プレジデントオンライン 】を見ている中で、

いま日本には、100歳以上の人が約9万人います。
2050年には、日本の女性の平均寿命は、90年を超えるとも予測されています。

しかし、いまよりさらに若返りが進んで、寿命が延びていくわけではありません。
栄養状態の改善は、もうピークを迎えていますから、
ここまで進んできた若返りも頭打ちになるでしょう。

栄養状態の改善が老化を遅らせ、日本人の寿命の延びを牽引する時代は終わり、
これからは医学の進歩によって、「死なない」から「より長寿」になるのです。

つまり、人生100年時代とは、老いを迎えてから、
死ぬまでの時間が、長くなったということです。
この引き延ばされた高齢期をいかに元気に楽しく、そして自分らしく生きられるか――。

私は、「老い」を2つの時期に分けて考えることが、カギだと考えています。

ざっくり言えば、70代は「老いと闘う時期」。
そして、80代以降の「老いを受け入れる時期」です。

老いを受け入れるとは、老いるままにショボくれていくという意味ではありません。
衰えを素直に認めて、それぞれに対応しながら、上手に賢く生きようということです。



☆私も愛用する「日本製のオムツ」の凄み

たとえば、耳が遠くなっているのなら、素直に補聴器を受け入れる。
そうすることで、少しでも長く人との会話を楽しむことができます。
補聴器を拒否して会話から遠ざかっていると、あっという間にボケたようになってしまいます。

杖にしても、シルバーカーにしても、拒否して転倒骨折ということになると、
寝たきりに直結する可能性が高いし、歩くのが面倒になって外出しなくなると、
歩行困難になるだけでなく、脳の機能低下にもつながります。

高齢者がもっとも嫌がるものの一つに、オムツがありますが、
日本製は吸収力がすごくいいので、活動の幅が広がります。
実は、私も愛用者の一人です。

数年前に心不全と診断されて、利尿剤を飲む羽目になり、
トイレが近くなって困っていました。

そこで思い切って長距離ドライブのときには、
尿漏れパッド付きのパンツを使うようになったら、
運転中に、また出張先でトイレを探し回らなくても済むようになり、
安心してドライブできるようになりました。

素直に「文明の利器」を受け入れられるかどうかで、
高齢者のQOL(生活の質)は大きく変わると思います。



☆「この老いを生きているのだ」と考えられるか

どんなにあらがおうと、老いを受け入れざるをえない時期が、80代以降にやってきます。
個人差はあっても、遅かれ早かれ必ずやってくるのです。

そのときに、自分の老いをありのまま認めることができなければ、
その後の10〜20年を生きていくのは、ひどく辛いものになってしまうでしょう。

100歳近くになると、寝たきりで老衰死するケースが一般的になります。
だれもが高い確率で、穏やかな自然死を迎えることができるのです。

80代以降は、老いていく自然の成り行きを味わいながら、
事故や大病で命を落とすこともなく、天寿をまっとうしつつあるからこそ、
この老いを生きているのだ、と考えてもいいのではないでしょうか。


☆70代はヨボヨボ老人と元気ハツラツ老人の分かれ道

一方、70代は、まだまだ老いと闘える時期だと言えます。

長い老いの期間を健やかに過ごすためには、脳の機能をいかに80代以降も保つか、
同時に70代のときに持っている運動機能を、
いかに長持ちさせるかということが大切になってきます。

そのポイントとなるのが、70代の過ごし方です。

700代前半までであれば、認知症や要介護となっている人は、1割もいません。
ケガをしたり、大病を患ったりしていなければ、中高年の頃のように、たいていのことはできるはずです。

努力すれば、効果も得られますし、日々の積み重ねが、
80代のあり方を大きく左右するものとなっていきます。

人生終盤の活動期と言える70代を努力して過ごすことで、
身体も脳も若さを保つことができ、さらに要介護となる時期を遅らせることもできるのです。(略)



☆とにかく体や頭を使い続けているか

加齢とともに、身体能力や脳機能が低下してくるのは、間違いありませんが、
そのスピードや度合いは、人それぞれです。

同じ70代、80代でも、認知症が進んで、会話もままならない人がいる一方で、
これまでの仕事を続けられる人もいれば、
ノーベル賞をもらって素晴らしいスピーチができる人さえいます。

寝たきりになったり、日常の生活に介助が必要になったりする人もいれば、
水泳やゴルフなどスポーツを楽しめる人もいます。

個人差の原因は、体や頭を使い続けているか、どうかの違いです。
しかも、高齢になればなるほど、その差は広がります。(略)

骨折して入院し、本も新聞も読まず、1カ月も天井ばかり眺めて寝ていると、
理解力が急速に低下して、ボケたようになってしまうこともめずらしくない。

退院したものの筋肉が衰えて、その後まったく歩けなくなってしまう、
ということもよくある話です。


☆マイナス思考に陥りそうになったとき“つぶやくべき言葉”

頭や体を使わなかったときの機能低下は、高齢になるほど激しくなります。

寝込むようなことがなくても、コロナ自粛のように活動的でない生活が長く続くと、
足腰が、かなり弱って、認知症も悪化してしまう。

それほど高齢者にとって、脳機能、運動機能を維持するためには、
「使い続ける」ということが重要なのです。


逆に、体が動かないとき、体調がすぐれないときに
「もうだめだ」と落ち込むと、いよいよ体や脳の老化を速めます。

マイナス思考に陥りそうになったときは、「なんとかなるさ」とつぶやいてみるといいでしょう。
たったこれだけのことですが、脳内にドーパミンという「やる気ホルモン」が出ます。

脳は、思いのほか単純にできていて、
自分の言葉を信じる性質があるため、「なんとかしよう」と奮起して、意欲が高まるのです。
だまされたと思ってやってみてください。・・ 》

注)記事の原文に、あえて改行など多くした。


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高齢者の熱中症対策におすすめ品、節約アドバイザーの5厳選、私は学び、微笑み・・。

2024-08-11 14:16:22 | 喜寿の頃からの思い
先程、ときおり愛読している【 介護ポストセブン 】の『暮らし』欄を見ている中で、
『 高齢者の熱中症対策におすすめ
   「28度以下で凍るリング」ほかプチプラ冷感アイテム5選
       【節約アドバイザー厳選】
』、
と題された見出しを見たりした。

こうした中で、
こうした中で、もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
歩くことが何より健康体の源(みなもと)と思い、

熱中症予防のために、用意しておきたいおすすめの“ひんやりアイテム”を
節約&家事アドバイザーの矢野きくのさんが厳選。

ダイソーなど100円ショップで購入できる手軽なアイテムをご紹介。
シニア世代のかたはとくに、夏の気温もそれに対処する
ひんやりアイテムも情報をアップデートして備えておきましょう。

 

☆この記事を執筆した専門家

家事・節約アドバイザー・矢野きくのさん

☆熱中症対策におすすめひんやりアイテム5選

地球温暖化というフレーズを見聞きするようになってから、どれくらいになるでしょう。
それが今は徐々に気温が上がるという状況ではなく、毎年驚くほどに気候が変わっています。

今年は40度を超える地点が続出。
35度でも「今日は涼しい」と感じてしまうこともあるほどです。

そのような中で、やはり問題となるのは、熱中症。

とくにシニア世代は、エアコンが苦手というかたも多く、
また暑さへの感度も落ちているかたも多いので、
熱中症で病院に運ばれるケースが多いのが現実です。

そこで今回は、手軽に購入でき、熱中症対策に活用できるアイテムをご紹介したいと思います。
ダイソーなどの100円ショプやプチプライスショップで買えるひんやりグッズの中でも、
シニアのかたにおすすめしたいアイテムをピックアップしてみました。

【1】濡らして振るとひんやりする「冷感タオル」

冷感タオルとは、多くの100円ショップやプチプライスショップ、
最近ではホームセンターやスーパーでも売っている特殊素材でできたタオルです。
お値段は200円~1000円以下の品が多いでしょう。

タオルを水で濡らして絞り、広げてバサッ、バサッとタオルを大きく振ることで、
一気にタオルが冷たくなるという仕組み。

筆者が以前、地方のテレビ局でこのタオルを紹介した際に、
温度が分かるサーモカメラで計ってもらいましたが、
濡らして振ったあとのタオルは、青く温度が低い状態であることが確認できました。

ぬるくなってきてしまっても、水さえあれば復活できるので、
場所を選ばず使えるひんやりグッズと言ってもいいでしょう。


【2】首元を冷やす「冷感タオル」

前述の濡らして絞って振るタオルの首バージョンです。
タオルだと長すぎるとか、結ぶのが面倒という場合には、おすすめのアイテムです。

こちらは100円ショップのダイソーで税込み330円で購入しました。


首だけでなく、ヘアバンドにしたり、布を広げて頭にかぶったりする形でも使うことができます。

前述のタオルもこちらの首バージョンも、キンキンに冷えるというものではなく、
涼しいというレベルの冷え方なので、シニアのかたにも使いやすいのではないでしょうか。

【3】新素材28度以下で凍結する「ネックリング」

「ネックリング」は、ここ2年ほどで一気に広まった新素材のアイテムです。
こちらはダイソーで税込み550円で購入。
他店でも似たような価格で購入することができます。


従来は「凍る」と言えば0度という認識でしたが、
このアイテムは28度以下で凍結する、という特性を持っています。

もちろん冷凍室や冷蔵庫に入れたり、水に浸したりするだけでも、凍結します。
凍結するまでの時間は周りの温度が低いほうが早くなります。

冷凍室で凍結させた場合、つけた瞬間にかなり冷たいですが、
それ以後は、じんわり冷たいという感覚です。
こちらもシニアの方には、抵抗なく使ってもらえる温度帯ではないかと思います。

太い血管が通っている首筋を冷やすことで、
全身をめぐる血液が冷えやすくなることは、もう多くのかたに知られてきているかと思いますが、
本商品で首をじんわり冷やすことで、その効果も期待できるのではないでしょうか。

【4】気化熱でスッとする「ボディシート」

ウェットティッシュタイプのシートですが、
メントールが含まれているので、拭いたところから、かなり涼しくなるものもあります。
こちらも多くの100円ショップで、1パック税込み110円で買うことができます。

気化熱で涼しく感じるだけでなく、汗でベタベタになった肌もスッキリするので爽快です。


【5】衣類に吹きかけるとひんやりする「スプレー」

スプレータイプの冷感剤も多くの100円ショップで購入できます。
こちらはダイソーで税込み110円で購入したものです。

着ている衣類にスプレーして吹きかけると、ひんやりして快適。
衣類からス~ッとした冷たさを感じます。

冷感スプレー


商品にもよりますが、だいたい1時間前後は、ひんやり感が持続すると思います。
持ち歩いて、効果を感じなくなったら、またスプレーすると再びひんやりした感じが復活します。

***

夏の暑さもそれに対応するひんやりアイテムも、昭和の時代から様変わりしています。
新たに登場しているアイテムをアップデートして、熱中症対策をしてほしいと思います。

冷やし方は、人によって好みが分かれると思うので、
プチプラグッズなら気軽に試せるのでおすすめですよ。・・ 》

注)記事の原文に、あえて改行など多くした。


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熱中症になりやすい人の特徴、その対策のために必要な栄養素、私は学び、多々教示させられて・・。

2024-08-10 14:16:57 | 喜寿の頃からの思い
『 熱中症になりにくい人が「毎日食べているもの」とは?
    塩あめやスポーツ飲料より圧倒的に重要【管理栄養士が解説】 』、

と題された見出しを見たりした。

私は東京の調布市に住む年金生活の79歳の身であるが、
私より5歳若い家内と共に、古ぼけた戸建てに住み、ささやかに過ごしている。

本格的な夏の到来で、厳しい暑さが続いています。

管理栄養士の小山浩子さんによると、同じ環境にいても
「熱中症になりやすい人」と「なりにくい人」がいると言います。

熱中症になりやすい生活習慣とは。
ジャーナリストの笹井恵里子さんが聞きました。

(管理栄養士・料理家 小山浩子、構成/ジャーナリスト 笹井恵里子)



☆熱中症になりやすい人となりにくい人がいる

みなさんは熱中症にならないために、どんな対策をしているでしょうか。

私は管理栄養士で料理家の立場から、全国各地で講演をするのですが、
講演後に聴衆の方がよく話しかけにきてくださいます。

そして「毎日塩あめを10個なめています」、
「スポーツ飲料を飲んでいます」などと、
みなさんは、ご自身の熱中症対策を披露してくださるんですね(笑)。

しかしその対策には根拠がなく、自己流であることがほとんど。
そもそもなぜ熱中症になるのか、
そして熱中症を防ぐには、何がどれくらい必要なのか、多くの人が知らないのです。

ただただ夏は、汗をかくから「糖分」と「塩分」が足りないと思い込み、
過剰摂取している人が、少なくありません。

この記事では、熱中症になりやすい人の特徴から、
その対策のために必要な栄養素と量を数字でお伝えしたいと思います。

まず、なぜ熱中症になるのでしょうか。

夏は気温や室温、そして湿度が高くなります。
高温多湿の環境では、末梢血管を大きく広げて、血液をたくさん流したり、
発汗させたりして、体の表面から空気中に熱を放散させて、適正体温を保たなければなりません。

けれども皮膚に集まった血液の流れが滞り、体温調節機能がうまく働かなくなると、
めまいや頭痛、吐き気、体のだるさなどの健康障害が起きる、
つまり「熱中症」になってしまうのです。

ですが、同じ環境にいても「熱中症になりやすい人」と「なりにくい人」がいます。



☆熱中症になりやすいのは「子ども」「高齢者」「肥満の人」

熱中症になりやすい人を挙げましょう。

最もリスクが高いのは、「子ども」です。
子どもは大人に比べると体温調節機能が未熟なため、どうしても熱中症になりやすいのです。

次に「高齢者」。
実は熱中症の予防には、筋肉量を増やすことが重要なのですが、
年とともに筋肉量が減少していきますから、
一般的な高齢者は、熱中症発症リスクが高いといえるでしょう。

どうして筋肉量が重要かというと、
筋肉には、体内の“水分貯蔵庫”の役割があるからです。

気温が高いと汗をかき、一時的に脱水症状になって、
臓器に血液を送れなくなったり、体温調節機能が働かなくなったりします。
そのような非常時に、筋肉から水分を血液に送り込むことができるのですね。

そして「肥満の人」も、熱中症発症のリスクが高いです。
筋肉は、水分貯蔵庫と説明しましたが、脂肪は熱をこもりやすくする特性があるため、
肥満の人は体温を下げづらいのです。



☆熱中症になりやすい2つの生活習慣

また「熱中症になりやすい生活習慣」も、二つあります。

一つは、朝ごはんを食べない人。
朝ごはんを食べないことで、一日の栄養素が圧倒的に不足します。
昼や夜にまとめて食べればいいわけではありません。

光を浴びて朝食を取ることで、その日の体内時計がスタートし、
体温が上昇するリズムも整いやすくなるのです。

「体温が上がらなければ、熱中症にならなくていいじゃないか」
と思うかもしれませんが、それも違います。

体内時計がしっかり働くことで、体温調整機能を含め、
体は外部の環境に応じて、体内をうまく変化させることができるのです。

もう一つ、「甘いものをたくさん食べている人」も注意が必要。
疲労回復の栄養素、ビタミンB1は甘いもの(糖質)の代謝にも必要で、
さらに夏は、汗からも排出されます。

ですから甘いものが大好きで、ビタミンB1が欠乏すると疲れやすく、
エネルギー代謝もうまくいかなくなって、熱中症のリスクが上がってしまうのです。

以上の“リスクが高い人”を踏まえた上で、
それでは熱中症を予防するために、何をどれくらい取ればいいのかという話に移りましょう。



☆「夏は塩分不足になる」というが普通の食事で不足することはない

夏は、汗で水溶性ビタミン(ビタミンB群、ビタミンC)とともに、
水溶性ミネラル(ナトリウム、カリウム、カルシウム)が排出されやすく、
中でもナトリウムとカリウムが、体温調節機能に重要な役割を果たしています。

よく耳にするナトリウムは、細胞の浸透圧(細胞の内外の水分や成分の濃度を調整する機能)を
一定に保っています。

食塩の主成分なので、塩分として摂取したものがカウントされます。
“夏は塩分が足りなくなる”という報道ばかりがされるため、
塩あめや梅干しを頻繁に口にしているかもしれませんが、
「一日に必要なナトリウム(塩)の量」をご存じでしょうか。

命をつなぐための一日に必要なナトリウム量は、なんと600mg。
食塩に換算すると、たったの1.5gなのです。
みそ汁1杯で約2g、しょうゆ小さじ1杯で1gですから、
普通の食事で、不足することはまずありません。

日本人の一日の食塩摂取量は平均10gで、
すべての年齢層で過剰摂取といわれているくらいなのです。

ですから、ナトリウムは、よほど暑い環境で、
いつも以上に大量に汗をかいたという状況でなければ、基本的に足りています。



☆不足しがちなカリウムの補給におすすめはバナナ

一方でナトリウムとともに細胞内の浸透圧を維持している「カリウム」は、
足りていない傾向にあります。

カリウムは、細胞の内側に多く含まれていますが、
夏に汗などで体外に排出されてしまうと、細胞内が脱水状態を引き起こし、
夏バテに陥りやすいのです。

カリウムは、筋肉でエネルギーが作られるのを助けているので、
不足すると筋肉の収縮がスムーズにできず、夜中に足がつることも・・・。

「日本人の食事摂取基準(2020年版)」では、
生活習慣病の予防を目的とした成人1人、一日当たりのカリウム摂取の目標量を男性3000mg以上、
女性2600mg以上としています。
これがどれくらいの量かというと、キュウリ1本(100g)で200mgの量しかとれません。

以前、私が栄養指導をしていると、
「毎日朝のサラダでキュウリを1本食べているから大丈夫です」と言いきった方がいましたが、
それでは目標量の10分の1にもならないのです。

今の時期ならキウイ、トマト、スイカには、
汗で失われるカリウムや水溶性ビタミンが豊富なので、積極的に摂取するといいですね。

私のおすすめはバナナ。
バナナ1本で500mg近くのカリウムが含まれ、脳と筋肉のエネルギー源である糖分も含まれています。



☆熱中症対策には「朝ごはん」が何より大切

そして、体温調節に欠かせない栄養素がもう一つあります。マグネシウムです。
骨の構成成分であるだけでなく、神経の機能やエネルギー代謝に関わり、
体温や血圧を調節するといった働きがありますが、
カリウムと同様に日本人は不足傾向にあります。

性別・年代ごとに推奨される量が異なりますが、およそ一日300mgを目安にするといいでしょう。

マグネシウムは、大豆製品に多く含まれていて、
納豆なら1パックで50mg、木綿豆腐なら1丁で約200mgも取れます。
玄米ごはんでもいいですよ。

こうしてみてみると熱中症対策として、
市販の塩あめやスポーツ飲料などで、わざわざナトリウムや糖分を補給しなくても、
3食の食事で間に合うということがわかりますね。

特に寝ている間にナトリウムだけでなく、
カリウム、マグネシウム、糖質も消費されているので、「朝ごはん」が何より大切なのです。

(小山浩子:管理栄養士・料理家)・・》

注)記事の原文に、あえて改行など多くした。


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長崎に向かい、黙祷した後、やがて『長崎の鐘』に思い重ねて・・。

2024-08-09 13:10:23 | 喜寿の頃からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の79歳の身であり、
今朝、洗面した後、玄関の軒下に下り立ち、
西の空の長崎に向かい黙祷したのは、朝の7時過ぎであった・・。

過日の6日の広島に向って西の空の彼方に黙祷したが、
同じような深い思いで、手を合わせたりしていた・・。

私は1944年〈昭和19年)9月に、今住んでいる近くで農家の三男坊として生を受け、
翌年の1945年〈昭和20年)8月15日に敗戦となった。

そして敗戦時は私は一歳未満の乳児であったので、戦争を知らない世代に属するが、
8月6日の午前8時15分に、
対戦中のアメリカが人類史上初めて広島市の市街に原子爆弾を投下され、
少なくとも15万人の人が即死し、数多くの方が被ばくされたことは学んできた。
          
このことは戦勝国となったアメリカの歴史をどのように描いても、

厳然たる事実である。

そして沖縄戦が事実上終結した6月23日の『沖縄慰霊の日』、
原爆という余りにも過酷で悲惨な8月6日の『広島被爆』、9日の『長崎被爆』、
そして15日の『終戦記念日』と称せられる『敗戦記念日』は、黙祷をして57
年目となっている・・。

こうした根底には、かの大戦で、余りにも多くの方たちが亡くなわれて、
尊い犠牲の上で、今日の日本の心の平和の礎(いしずえ)である、と思いながら、
戦争を知らない私でも深い心の傷として、今日に至っている。

このような思いから、私は国民のひとりの責務として、
こうした日は、人々に哀悼の意を表して、黙祷をし、尊い命の冥福を祈っている。

            
            
       
私は地元の小学校に入学した1951年(昭和26年)4月の当時は、
祖父、父が中心となって、小作人だった人たちの手助けを借りて、程ほど広い田畑を耕し、
そして祖父が所有していた田んぼの中で、小さな川が流れ、湧き水もあり、
竹林、雑木林が母屋の周辺にあった。

そして母屋の宅地のはずれに土蔵、納戸小屋が二つばかりあり、
この当時の北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の地域の旧家は、

このような情景が、多かった・・。

私は長兄、次兄に続いて生まれた三男坊であり、
農家の跡取りは長兄であるが、この当時も幼児に病死することもあるが、
万一の場合は次兄がいたので万全となり、今度は女の子と祖父、父などは期待していたらしい。

私の後に生まれた妹の2人を溺愛していた状況を私はなりに感じ取り、
私は何かしら期待されていないように、幼年心に勝手に感じながら、
いじけた可愛げのない屈折した幼年期を過ごした。

そして幾たびか悪戯(いたずら)をしたりするたびに、
私は父から叱咤され、土蔵に叩き込まれ閉じ込まれたりした。


或いは夕食のさなか、妹と同じようなスプーンである匙(さじ)をくれ、

と私は言ったりすると、父から母屋から放りだされ、
私は泣きながら母屋の暗い周囲を廻ったりした。

やがて母が裏木戸を開けてくれて、私は母屋に入れた。

                     

この当時の母は、農家の嫁の立場であったので、多忙をきわめていた・・。
もとより田畑を手伝い、食事、洗濯、掃除、育児の責務があり、
昨今の共稼ぎの若き夫婦で幼児を育てられる方たちより、遥かに過酷だった。

食事を作る時は、竈(かまど)に枝葉、薪(まき)を燃やして、ご飯を炊いていたし、
洗濯も盥(たらい)に井戸水を入れて、洗濯用の石鹸を付けて、

洗濯板でゴシゴシと洗い清めていた。

掃除は、各部屋の埃(ほこり)をはたきで落とした後、

部屋専用のそれぞれの箒(ほうき)で、畳や板の間を掃(は)き清めていた。
そして風呂も、井戸水から運び入れて、

やがて薪(まき)を燃やして、沸(わ)かしていた。

このように当時の多くの主婦は、

ガス、洗濯機、掃除機、冷蔵庫、瞬間湯沸かし器などはなく、
労苦の多い時代であった。

そして電話、テレビもない時代であった。

こうした中、1950年(昭和25年)の頃に、生家のラジオから『長崎の鐘』の歌がよく流れてきた・・。 

私は5歳の幼児であったが、何かしら物悲しく感じたりした。 

そして、♪こよなく晴れた 青空を

     悲しと思う せつなさよ
     うねりの波の 人の世に
     はかなく生きる 野の花よ
     なぐさめ はげまし 長崎の・・

ここまで聴いていると、いじけた幼児の私でも涙があふれてきた・・。

          

          

確か翌年の夏だったと思われるが、近くの寺院の境内で、映画が上映された。 

この当時は、学校の校庭とかで、スクリーンを張って、ときたま映画が上映されていた。 
娯楽の乏しかった時代、ご近所の方達が集まって、

このような催しが行われた時代でもあった。 

私は母に連れられて、近くの寺院の境内で上映されたのは、
映画の『長崎の鐘』(松竹、昭和25年、監督・大庭秀雄)であった。

この映画は、生れて初めて観た作品であり、
やがて小学4年生の頃から、独りで映画館に通う映画少年となったりした。


この後、映画の脚本家になりたくて大学を中退し、

アルバイトをしながら映画青年の真似事をしたので、
私は忘れない作品となっている。 

この時の私が何よりも嬉しかったのは、

兄妹のいる中で、たった母と2人だけ外出したことは、
私の記憶では初めてことであった・・。

やがて帰路、母の手を握りながら、生家に向かう中、満天の星空が圧倒的に綺麗だった、
このような情景が、今でも心の片隅に残っている。 

無念ながら映画のストリーは忘れてしまったけれど、

こうした母恋きの心情を秘めた思い出も重なり、
私は幾つになっても、亡き藤山一郎さんの歌声を聴くと、
私は涙ぐむ時が多い・・。

         
          

私は後年になると、『長崎の鐘』の歌は、
作詞はサトウハチロー氏、作曲は古関祐而(こせき・ゆうじ)氏と知ったりした。
 
しかしながら肝心な『長崎の鐘』という原作を書かれた永井隆(ながい・たかし)氏は、
恥ずかしながら無知であった。 

その後、私は永井隆(ながい・たかし)氏の名を知ったのは、
遅ればながら高校二年の時で、1962年(昭和37年)であった。

 
そして、この御方の人生経路を少しばかり初めて知り、涙で曇ったりした。 

こうした中、『永井隆博士の生涯』などを学び、少なからず衝撃を受けたのは、
長崎医大物理療法科の部長の時を含め、
この当時は劣悪なレントゲン機器の状況となった中で、数多く撮った結果、
当人の永井隆自身がラジウムの放射線で白血病となり、
昭和20年6月に余命3年と診断された、ということであった。

そして永井隆氏は、妻に告げるのであるが、
この時の心情を思うと、私は思わず涙を流したのである・・。


やがて過ぎし2008年(平成18年)2月中旬に
初めて長崎の『原爆資料館』、『長崎市 永井隆記念館』に訪れ、

館内の展示品を拝見したりした・・。

この後の原爆投下後の状況、そして無念ながら亡くなるまでの軌跡に、
改めて感銘を受け、慟哭し、涙があふれた・・。

私は、ときおり今でも永井隆(ながい・たかし)氏の遺(のこ)された『長崎の鐘』、
『この子を残して』などを、読み改めたり、
この御方の稀な言動に、圧倒的に感銘させられている・・。

せめて私は平和を祈念する時、原点として『長崎の鐘』の歌を、
ときおり心の中で唄ったり、或いはかぼそい声で唄ったりすることもある・・。
             
     

そして私は永井隆(ながい・たかし)・著作の『長崎の鐘』は、
随筆の分野に於いて、近代文学史上の突出した優れた作品と評価している。

もとよりこの作品は、1946年(昭和21年)8月には書き上げられていたが、
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の検閲により、すぐには出版の許可が下りなかった・・。


やがてGHQ側から、

日本軍によるマニラ大虐殺の記録集である『マニラの悲劇』との合本とすることを条件に、
1949年1月に日比谷出版社から出版されたことは、周知の通りである。

そして当時は紙不足の中でも、当時としては空前のベストセラーとなり、
同書をモチーフとした歌謡曲はヒットしたり、或いは松竹により映画化され、
版を重ねることになった、
と伝えられている。

         

        
『長崎の鐘』の歌の作詞は、サトウ・ハチロー氏であるが、
氏は作詞を依頼された当初は辞退された、と私は何かの本で読んだりした。

私は後年になって、サトウ・ハチロー氏の弟さんが、

広島の原爆の犠牲者となっていた、と学び、
こうした氏の思いから、当初は辞退された、と私は推測したりした。

それにしてもサトウ・ハチロー氏の優れた詩心は、
単に長崎だけではなく、戦災を受けた全ての受難者に対する鎮魂歌である上、
打ちひしがれた人々のために再起を願った格調高い詞であり、
ここ70数年、数多くの方に感動させ、感銘もさせる詞である。

このような『長崎の鐘』に関して、齢ばかり重ねた私でも、原作、歌、そして映画・・
ささやかながら想いを
秘めたりしている。
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東京都心で「日傘男子」が急増中、都心の郊外に住む79歳の私は学び、微笑み・・。

2024-08-08 16:25:58 | 喜寿の頃からの思い

 


こうした中で、もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
歩くことが何より健康体の源(みなもと)と思い、
私の夏模様の容姿は、制服のようになった半袖のスポーツシャツ、或いはアロハシャツ、
長ズボン、そして夏の帽子を深くかぶり、サングラスを掛け、ウォーキング・シューズで足元を固め、
そして紳士バックを園児のように斜め掛けにして、颯爽と歩いたりしてきた。

 しかしながら陽射しが燦燦と照らす青空の中、歩いたりすると汗ばみ、
ハンドタオルで顔をふいたりし、ときおり扇子を取りだして扇(あお)いだりしているが、
汗がひたたり落り、微苦笑したりしてきた。
 
やむなくハンドタオルで顔などを拭いながら、できる限り樹の下にある歩道を歩いているが、
炎天下の道もあるので、高齢者の私でも、人生は気合いだ、と自身を叱咤激励をしたり、
或いは冬の寒さを思い浮かべて、 足早に歩いているのが実情である。

こうしたことを年金生活を始めた当初よりしているが、
ここ3年前より、日傘を買い求めて、人通りの少ない処を歩く時だけは、
差していて、幾分涼しげに、歩いたりしている・・。

このように過ごしている私は、先程、ヤフージャパンより配信された記事の中で、
『 東京都心で「日傘男子」が急増中 
     直撃ルポでわかった「帽子じゃダメな理由」と「女性からの評判」』、
と題された記事が掲載されていた。

齢を重ねても好奇心だけは旺盛な私は、記事を読んでしまった・・。

無断であるが、記事の大半を転載させて頂く。

《・・配信

AERA dot.

 

注)記事の原文に、あえて改行など多くした。


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暦の上では『立秋』を迎え、改めて『立秋』の時節、私は学び・・。

2024-08-07 14:38:46 | 喜寿の頃からの思い

 

今朝、ぼんやりとカレンダーを眺めると、
『立秋』、と明記されていたので、私は微苦笑してしまった・・。


こうした中で、もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
歩くことが何より健康体の源(みなもと)と思い、

 

二十四節気「立秋」とは?2024年はいつ?意味や過ごし方を解説 [暮らしの歳時記] All About

二十四節気「立秋」とは?2024年はいつ?意味や過ごし方を解説 [暮らしの歳時記] All About

二十四節気のひとつ「立秋」とはどんな日? 2024年はいつ? 暮らしに役立つ立秋について、意味や今年の期間、食べ物の風習はあるのかや過ごし方について分かりやすく説明し...

All About(オールアバウト)

 

《・・暦の上では立秋から秋に入るため、
「今日は(今日から)立秋。暦のうえでは秋となりました」、
「立秋を迎え秋となりましたが・・・」などのフレーズがよく使われます。

立秋から残暑に・・・挨拶などでは残暑を用いる

立秋以降、暑中見舞いは「残暑見舞い」にかわります

暑中見舞いは、立秋以降「残暑見舞い」にかわります

秋が立つと書くように、暦の上では秋に入り、
少しずつ涼しくなって、秋の気配が漂いだします。

とはいえ、まだかなり暑い日が続くため、立秋以降の暑さを「残暑」といいます。
ちょっとした挨拶も「暑さが厳しいですね」ではなく、
「残暑が厳しいですね」にすると季節感が出ます。「

暑中見舞い」は、立秋以降「残暑見舞い」にかわるのでご注意ください。


なお二十四節気では、立秋の前が最も暑い頃という意味の「大暑」で、
立秋の次は、暑さが峠を超えて、朝晩に初秋を感じる頃という意味の「処暑」となります。


立秋の初侯・次侯・末侯

立秋の初侯・次侯・末侯 ヒグラシの声

ヒグラシの声に季節の移ろいを感じる人も多いでしょう


気象や体感的には、夏真っ盛りの時期ですが、
立秋を迎えると、いつまでもこの暑さが続くわけではなく、
秋に向かっていくんだという感じになります。



■初侯:涼風至(すずかぜいたる) 8月7日頃
    涼しい風が吹き始める頃。
    まだ暑い時期だからこそ、ふとした瞬間に涼風を感じることができます。


■次侯:寒蝉鳴(ひぐらしなく) 8月12日頃
    ヒグラシが鳴き始める頃。
    夕暮れ時に響くヒグラシの鳴き声が一服の清涼剤になります。


■末侯:蒙霧升降(ふかききりまとう) 8月17日頃
    深い霧がまつわりつくように立ち込める頃。
    朝夕のひんやりとした空気に秋の足音を感じます。

 

立秋の過ごし方と食べ物

立秋 食べ物……残暑を乗り切るために暑気払いを

立秋は食べ物の風習はありませんが、
残暑を乗り切るために、暑気払いをするのもいいですね

立秋を迎えても厳しい残暑が続きますが、立秋を通じて秋の気配が感じられます。
自分のアンテナを磨いて、季節の変化を感じるきっかけにしてみてはいかがでしょうか。


なお、立秋は行事や風習ではないため、特に行事食はありませんが、
季節の移り変わりを知るためのものですから、旬のものを食べるのは理にかなっています。
また、残暑を乗り切るために暑気払いをする方法もあります。
・・ 》

注)記事の原文に、あえて改行など多くした。


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広島に向かって、80歳になる無力な私は、哀悼の意を表して、ただ黙祷を重ねて・・。

2024-08-06 12:55:42 | 喜寿の頃からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の9月の誕生日を迎えると満80歳の身であるが、
洗面した後、玄関庭に下り立ち、襟を正して黙祷したのは朝の7時過ぎであった。

私は1944年(昭和19年)9月に都心の郊外で農家の三男坊として生を受け、
翌年の1945年(昭和20年)8月15日に、かの大戦は敗戦となった。

そして敗戦時は一歳未満の乳児であったので、戦争を知らない世代に属するが、
8月6日のこの日の午前8時15分に、
対戦中のアメリカが、人類史上初めて広島市の市街に原子爆弾を投下され、
少なくとも15万人の人が即死し、数多くの方が被ばくされたことは学んできた。
          
このことは戦勝国となったアメリカの歴史をどのように描いても、厳然たる事実である。
                    
本日は、79回目の原爆忌を迎える。
広島市の平和記念公園に於いて、平和記念式典(原爆死没者慰霊式・平和祈念式)が営まれ、
被爆者や遺族らが犠牲者の冥福を祈り、
核兵器廃絶への思いを新たにされる。

           

私は沖縄戦が事実上終結した6月23日の『沖縄慰霊の日』、
原爆という余りにも過酷で悲惨な8月6日の『広島被爆』、9日の『長崎被爆』、
そして15日の『終戦記念日』と称せられる『敗戦記念日』は、黙祷をして57年となっている・・。

そして、かの大戦で余りにも多くの方たちが亡くなわれて、
尊い犠牲の上で、今日の日本の心の平和の礎(いしずえ)である、と思いながら、
戦争を知らない私でも深い心の傷として、今日に至っている。

このような思いから、私は国民のひとりの責務として、
この日は広島の空に向い、人々に哀悼の意を表して、黙祷をし、尊い命の冥福を祈っている。

          
          
第2次世界大戦中、アメリカのルーズベルト大統領はドイツに原爆開発で先んじられることを恐れ、
やがて1942年8月に軍部主導によりマンハッタン計画発足させた。

そしてルーズベルト大統領が死去後、選出されたトルーマン大統領は原爆開発のマンハッタン計画の実態を知らされ、
動顛したが、やがて日本を降伏させる『ポッタム宣言』をイギリスのチャーチル首相、ソ連のスターリン首相と
協議する中、1945年7月16日 ニューメキシコ州アラモゴードで原爆実験に成功を知った。

そしてアメリカは、大戦後の状況を圧倒的な優位を確保する為に、特にソ連を意識して、
核兵器の威力を誇示させて、8月6日に 広島に原子爆弾投下、9日に長崎に原子爆弾投下した、
このような思いを私は深めている・・。

この後は周知の通り、戦後は東西冷戦体制の中で、核開発競争は激化し、
アメリカに続き、ソ連、イギリス、フランス、中国の各国が原爆実験に成功させて、
核兵器は世界へ拡散する時代に邁進した。

こうした核兵器開発競争は、もとより地球を破壊し人類を滅亡させるにはあり余るほど、
核兵器の製造・備蓄、そして核実験による地球環境の破壊、
更に核実験場周辺に多数の被曝者を生み出してしまった。

やがて1998年5月、インド、パキスタンが相ついで核実験を行ったことにより、
世界は核兵器保有国がさらに増えていくこともあり得る危険な局面を迎えている。

このように世界の主要国は、核の威力を背景とした軍事力と経済力などで、
したたかな外交が実施され、
それぞれの国は、国益を配慮した政治が行われている現実がある。

そして核兵器廃絶と多く方から念願されても、不条理な世界となっている・・。

このように高齢者の無力な私は、ただ8月6日の朝には、
西の空の果てに有る広島市に向かって、哀悼の意を表して、ただ黙祷を重ねてきたりした・・。


                       


過ぎし私が高校一年生の時、私は下校の時に、映画館に寄り、
ひとつの作品を鑑賞して、震撼させらながら、やがて帰宅したりした。

この作品は、アメリカとソ連の冷戦下の中で製作された、
核戦争後の放射能汚染の恐怖を淡々と描いたシュート原作で、
スタンリー・クレイマー監督の『渚にて』(1960年)であった。

《・・ 1964年、某日、オーストラリアのメルボルン港に、
一隻のアメリカの原子力潜水艦が入港する。
艦長以下、全乗組員は、異常で緊張に青ざめていた。

なぜならば数カ月前に勃発した第三次世界大戦で、原子爆弾が発射され、
今や地球上はこの南半球の一部を除いて、強烈なる放射能に襲われて、
全ての生物、人間はもちろんあらゆる生き物が死滅してしまったからだ。

その南半球のオーストラリアにも刻々と死の灰が近づきつつあり、
この街も驚くべき風景を現出していた。

石油も石炭も電気も、全てのエネルギーが使えなくなったメルボルンの市民たちは、
自転車と馬車で交通するしかない。

この港で死を待つか、すでに完全に死滅したと信じられる祖国アメリカに帰投するか、
艦長は乗組員の意見を受け入れて、断乎出港する。(略)

原子力潜水艦は、黙々とサンフランシスコに向かう。
その頃に艦長は、或る異常に気づく。

すでに無人の国と化した筈のアメリカから、
意味不明の無電が発信されてくるのを傍受したからだ。(略)

そしてついにサンフランシスコ港に到着、
予想した通り、街には人っこ一人いない。全てが原始に無に帰している。

しかし、その謎の音は、まだ続いているのである。
まったく意味の取れぬその発信音を逆探知して、
乗務員は或る工場に入ってゆく。

もちろんそこには人間の姿はない。
そして室内に入る。

窓が明け放たれ、微風が吹き込んでいる。
不気味なまでに静かな風景だ。

発信音の根拠は、ついに発見された。
それは風に揺れている窓際の無電器である。
そして打電していたのは、カーテンだった。

そのカーテンに風が当たるたびに、そこに半ば倒れかけていたコカ・コーラの空き瓶が、
無電器のキイを心なくも叩いていたのだ。

無人の北半球から唯一つ不気味な電信を送り続けていたものは、
なんとコカ・コーラ一本の空瓶だった。 (略)・・

          猪俣勝人・著作『世界映画名作全史 戦後編』・・》



このような核の恐怖を描いた映画、文学の作品も、数多く公開されてきたが、
あたかも無視するように現実は動いている・・。

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老いを加速させる『やりがちな』7ヶ条、79歳の私は学び、微苦笑して・・。

2024-08-05 14:53:34 | 喜寿の頃からの思い

 

こうした中で、もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
歩くことが何より健康体の源(みなもと)と思い、

☆「命の回数券」テロメア

そもそも「老化」とはどのような現象なのか。

今年92歳を迎えてなお現役の、女子栄養大学副学長・香川靖雄氏が解説する。

「細胞内の遺伝を担う染色体の両端についている、
紐のような構造『テロメア』が、老化と深く関わっています。

細胞分裂のたびに短くなっていき、ある程度までテロメアが短くなると、細胞分裂が止まる。
こうして分裂しなくなった細胞が、老化細胞となります。
老化細胞ばかりになれば、寿命が尽きますから、テロメアは『命の回数券』と呼ばれているんです」

長寿の人が持つテロメアは長い。
それをなるべく短縮しないことが、老化を遅らせるカギだ。

 

たとえば、喫煙や高血圧、肥満などで、細胞が慢性炎症を起こしている場合、
それを修復しようと分裂を繰り返すことで、テロメアが短くなる。

このテロメアの短縮を遅らせる効果があるのが、ビタミンの葉酸だ、と香川氏は強調する。

「葉酸は、テロメアを含むDNAの合成や修復に不可欠なものですが、
日本人の6割は、葉酸が欠乏しやすい遺伝子を持っている。
そこで葉酸の含まれる食品を積極的に摂取することが重要です」

たとえば、ブロッコリーやほうれん草などの緑黄色野菜が挙げられるが、
気軽に摂取できる緑茶も良い。

ただし、注意点があると香川氏は語る。
「葉酸は、光に当たると徐々に分解されるので、
ペットボトルに入ったお茶では、ほとんど摂取できません。

また、サプリで大量摂取すると、健康被害につながることが報告されています。
私がお勧めするのは、ネットでも販売されている、穀類に葉酸を加えた葉酸米を食べることです」



☆糖はできるだけ避ける

慢性炎症以外にテロメアの短縮を促すのは、「酸化」と「糖化」である。

ビタミンCやビタミンEなどを含む抗酸化作用のある食べ物が
老化のスピードを抑えるのはよく聞く話だが、
過剰な糖質により、たんぱく質を劣化させる「AGEs」がつくられてしまう「糖化」にも気を付けたい。


みぞぐちクリニック院長の溝口徹氏が語る。

「体内にあるたんぱく質に、糖がくっつき、
その機能が落ちることが『糖化』であり、老化のスピードを速めます。

果物に含まれる果糖は、他の糖類と比べ糖化させやすく、過剰摂取はお勧めできません。
菓子パンや清涼飲料水などに含まれる果糖ブドウ糖液糖は、
できるだけ避けることが大事です」

そう語る溝口氏は、夏に食べたい『そうめん』に含まれるグルテンも、
肥満や疲れに関係し、老化を進めることがわかってきたと警鐘を鳴らす。

『そうめん』や『うどん』、『パン』よりも
『十割そば』や『納豆』、『豆腐』を食べると良い。



後編記事「サンダルよりスニーカーを履いたほうが寿命は延びます」
老化スピードを遅らせるために、今すぐできる「生活習慣」
へ続く


こうした記事の後に、総体的に一覧した
【表】老いを加速させる「やりがちなこと」掲載され私は読んだりした。

 
 
 
  

「週刊現代」2024年8月3日号より・・ 》

注)記事の原文に、あえて改行など多くした。


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熱い陽射しの中を散策すれば、79歳の私は、幸運にもめぐり逢えて・・。

2024-08-04 15:33:30 | 喜寿の頃からの思い

 

こうした中で、もとより健康でなければ、自身の日頃のささやかな願いも叶わないので、
歩くことが何より健康体の源(みなもと)と思い、

百歳まで歩ける人の習慣 | 伊賀瀬 道也著 | 書籍 | PHP研究所

百歳まで歩ける人の習慣 | 伊賀瀬 道也著 | 書籍 | PHP研究所

脚力と血管力を鍛えておけば、一生歩くことができる。家でもできるエクササイズや、ニコニコ歩きなど楽しいウォーキング事例を紹介。

PHP研究所 / PHP INTERFACE

 

 

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【パリ五輪】日本選手に和食提供 本領発揮へいつもの食、私は学び、微笑を重ねて・・。

2024-08-03 13:55:14 | 喜寿の頃からの思い

私は東京の調布市に住む年金生活の79歳の身であるが、
過ぎし7月26日より、フランスのパリで、オリンピック競技大会が実施され、
何かしら3週間余りの大会期間中、32競技が行われる、
とテレビの放送で学んだりしてきた・・。



こうした中で、特に日本人の選手が活躍する状況を
私はテレビを視聴しながら観戦したりしている・・。

このように私は、ときおりオリンピックをテレビで視聴しているが、
今回、日本で代表に選ばれたオリンピック選手に、
《・・和食提供 本領発揮へ・・いつもの食・・》、
好奇心に負けて、記事を読んでしまった。

無断ながら記事を転載させて頂く。

《・・配信

日本農業新聞

日本農業新聞 ・・》

注)記事の原文に、あえて改行など多くした。


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