峰野裕二郎ブログ

私の在り方を問う

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法の限界

2007年05月26日 | 保護司
改正少年法が成立 12歳でも少年院、警察に調査権限(朝日新聞) - goo ニュース

去年6月、奈良県の医師宅から出火、全焼した家屋からその医師の妻と幼い子供2人の遺体が発見され、後にその医師の息子で16歳になる高校1年生の長男が放火を認め逮捕されるという、なんとも痛ましい事件が起きたのは記憶に新しいところです。

今朝、たまたまテレビで、その少年自らが記したという供述調書の写しの一部を目にしました。そこには、少年の父親の彼に対する執拗【しつよう】なまでの陰湿な暴力が日常、繰り返し行われていたことが、こと細かく記されてありました。
かわいそうに少年は、父親に追い詰められた挙句【あげく】、父親をやらなければ、自分がやられると思うに至り、腕力ではかなわないからと家に火をつけることを思いついたのでした。
逮捕された直後、少年は父親に対し「暴力が許せなかった」と供述しているといいます。

今回の改正少年法は、強制調査権を与えるなど警察の権限拡大と厳罰化を目的としたものです。しかし、これで少年による不幸な「親殺し」が減少したり、なくなるというのでしょうか。法の限界というものを感じざるを得ません。

今回の新たな規定の中に、保護司として関係ある事項が1つ入りました。
「保護観察中の少年が遵守【じゅん】事項を守らず、警告にも従わず、それが重大な場合、家庭裁判所が少年院送致などの処分を決定する」というものです。

近年、学校において、子供たちが教員の言うことをそうやすやすとは聞かなくなりました。これと同様なことが保護観察の現場でも生じています。
かつては(今でもそうですが)、保護監察官が保護司を「先生、先生」と奉【たてまつ】ることで、保護観察の対象者を敬【うやま】わせ、保護司に従わせようとする目論見【もくろみ】があったように思われます。同時に、保護司を得意にさせる意味もあるのでしょう。
古きよき時代は、学校における「先生」同様、それは、暴走しかねないような、あるいはやんちゃな少年の歯止めには、一応なっていたように思います。
しかし、昨今【さっこん】の子供たちは、脅【おど】しや、すかしにたやすく乗ったおおらかだった時代の子供たちとは明らかに異なっています。

だが、だからといって、現代の子供たちが、どんな大人の言うことにも耳を貸さないのかといえば、それはそうではありません。魂【たましい】の触れ合うほどの瞬間を感じることのできる保護観察だってあり得るのです。また、そのことそのものが保護観察の意義だと私は考えています。そうでなければ、一度、人間性を喪失【そうしつ】したひとりの人間の更生などあるはずもありません。

かねてより保護司の中から、対象者が約束の日にちに来てくれない。何か強制力を持たせてほしいという声があがっていました。しかし、法的な根拠がないと少年の心を動かせないとすれば、それは保護司としての資質が問われてしかるべきです。

力でどれほど封じ込めようとしても、人の気持ちを変えることなどできません。むしろ、抑圧されることで負のエネルギーが増大し、暴発を誘引することを恐れなければなりません。それは、前述した少年の供述からでも明らかです。自爆テロのように、人は追い詰められれば、自らの命を賭【と】してまでも攻撃的になるものです。

子供たちが、ますます鬱屈【うっくつ】せざるをえなくなっていく状況を憂慮【ゆうりょ】します。
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