旅の途中

にいがた単身赴任時代に綴り始めた旅の備忘録。街道を歩いたり、酒肴をもとめてローカル線に乗ったり、時には単車に跨って。

甲州道中紀行4 小仏宿~小原宿・与瀬宿~吉野宿~関野宿~上野原宿

2015-11-28 | 甲州道中紀行

10:00 「小仏宿」
 高尾駅北口のバス乗り場は山登りの老若男女で溢れかえっていた。
小仏行きの京王バスは増便の2台体制であったが乗り残しを出して出発した。
登山ブームを実感するも、目を楽しませてくれるはずの“山ガール”はこの車中に少ない。
甲州街道を歩く第4日目行程は、小仏宿の外れ、小仏バス停からスタートする。

 

 都道を1kmほど上っていくと目の前に車止めが現れる。この先は峠越えの土道になる。
20名程の壮年グループの装備に比べて私の格好を恥ずかしく感じながら、追い越していく。

10:40 「小仏峠」
 九十九折の急坂「小仏峠東坂」を登って20分余りで標高548mの小仏峠に達する。
僧行基が一寺を建てて小さな仏像を安置したことが地名の由来だそうだ。
南北に延びる尾根は東京と神奈川の都県境となっている。

 

 都県境の尾根を北に向かうと陣場山。
南へ向かうと小仏城山を経て高尾山に向かう。甲州街道は登山者と分かれて西へと下る。
分岐点の「高尾山道標」は寛政7年(1795年)に建立されたものだ。

「小仏峠西坂」は落ち葉を踏みしめて行く道だ。
途中の狭い平坦地には「中峠茶屋」が在った。現在は東京電力の鉄塔が建っている。

11:30 「小原一里塚」
 舗装路に出て1kmほど進めるとJR中央本線を長久保架道橋で潜る。
江戸日本橋から十五里目の小原一里塚は、中央自動車道の敷設工事で失くなってしまった。

 

 甲州街道は底沢橋で、高尾山を南に迂回してきたR20と合流する。
っと今きた道に“山峡のいで湯 美女谷温泉”と、なんともそそる案内板。
浄瑠璃や歌舞伎に登場する「照手姫」の出身地で、その美貌が地名の由来になったと言う。

11:40~12:00 「小原宿」
 小原宿は次の与瀬宿と合宿。
問屋業務は東から来る荷物を与瀬を通過して吉野宿に継立てる“片継ぎ”であった。
ちなみに西からの荷物は与瀬宿が小原を通過して小仏宿まで継立てた。
小原宿には東海道と合わせても神奈川県下で唯一残る本陣跡として清水家が在る。

 

 清水家本陣は無料公開されている。
囲炉裏のある勝手、大名専用の畳敷きの厠、そして上段の間を拝見した。
中山道で見てきた本陣と比べると小規模で貧弱に感じられる。
もっとも利用した信州の高島藩・高遠藩・飯田藩はいずれも小藩である。
これが適正規模だったのだろう。

 

小原宿はこの清水家本陣の他に、脇本陣1、問屋1、旅籠7軒の規模であった。

小原から与瀬の間1.7kmの大半はR20を離れて古道を歩くことができる。
相模湖駅のあたりが与瀬宿の集落ということになる。

12:30 「与瀬宿」
 与瀬宿はすでにレポートした通り小原宿との合宿で、本陣1、問屋1、旅籠6軒の規模。
名物であった鮎を、歌川広重は値段は高いが不味いと評したそうだ。

与瀬から吉野の間も古道を歩くことができる。
相模湖へ流れ込む沢のひとつは、こんな丸太橋「貝沢橋」を渡る。
その先はちょっと不安にさせるような薮道を行く。

12:50 「与瀬一里塚」
 薮道を抜けて視界が広がったあたりが与瀬一里塚跡、江戸日本橋から十六番目になる。
眼下の相模湖が美しい。
もっとも相模ダムが無かった街道当時は深い谷間の景色だったことだろう。

 

高台の古道には石仏石塔群が現れる。まずは秋葉神社の下に、庚申塔、廿三夜塔、地蔵尊。
相模湖IC付近では馬頭観音を見ることができた。

13:20~13:50 「吉野宿」
 吉野宿の規模は、本陣1、脇本陣1、問屋1、旅籠3軒。
明治29年の大火で消失した本陣吉野家は五層楼閣の威容を誇ったと云う。
その様子は案内板のモノクロ写真で見て取れる。

 

本陣の向かい側には旅籠ふじや跡、藤野町郷土資料館となっていて見学ができる。
道端の庚申塔に見送られて吉野宿を後にする。
江戸日本橋から十七番目となる「関野一里塚」は場所が分からず通過してしまった。

 

今日の街道めしは、藤野駅前の「風里」で、“梅しそカツ定食” をいただく。
ボリュームあるものを食さないと、まだあと10kmは距離を稼ぎたい。

14:30 「関野宿」
 藤野駅前からは1kmほど古道を歩く。R20より一段下の河岸段丘を往くイメージだ。
狭い生活道路はやがて薮道となり、最後に中央本線の跨線橋を渡ったあたりが関野宿だ。
甲斐國との國境を控え重要視された関野宿は、本陣1、脇本陣1、問屋1、旅籠3軒の規模。
R20沿いに関野宿本陣跡の案内板のみが建っている。

 関野宿の外れに「追手風喜多郎」の碑がある。
寛政11年(1799年)にこの地で生まれた彼は、叔父の追って力士になり、大関まで上った。
娯楽が少ない時代のこと、地元出身の名力士はヒーローであったことだろう。

甲州街道は暫くR20を往ったあと、名倉入口交差点から古道に入る。
湖面に向かって勾配を下っていくのは気が進まない、後にまた上りが待っているからだ。
勾配を下りきると古いコンクリート造りの境沢橋、神奈川と山梨の県境になる。
街道当時は長さ五間の土橋で、相模の國から甲斐國へと渡ったという。

案の定ヘアピンカーブを含む急坂が待っていた。下った分だけ河岸段丘を這い上がる。
上りきると「諏訪関所跡」、実に嫌なところ(効果があるところ)に在る。
戦国時代に武田氏が設置した二十四関のひとつで、江戸時代に「境川口留番所」とされた。

 

15:10 「塚場一里塚」
 天正3年(1575年)創建の疱瘡神社の裏手に、塚場一里塚が片塚を残している。
残っていると言えるのか無残な姿ではある。
江戸日本橋から十八番目の塚場一里塚の塚木はモミの木だったそうだ。

15:30 「上野原宿」
 右手からR20が合流してくると上野原宿に入って行く。
左手には旧上野原村の鎮守「牛倉神社」が在る、この辺りが宿並みの中心地だろうか。

 

沿道には “酒まんじゅう” の店が目立つ。今でも12軒が営業しているそうだ。
地元で収穫した小麦粉とあずきを原料に上野原の清冽な気候風土で作る “酒まんじゅう”。
甲斐絹の市に集まった商人に愛され宣伝され広まったという。
高嶋屋酒饅頭店でひとつ頬張ってみた。味噌の甘味と酸味に麹の香りが心地よい。
地元の人は10個20個と買っていく、生活に根ざした食文化であることを感じる。

上野原宿は、本陣1、脇本陣1、問屋2、旅籠20軒の甲州街道にあってはかなり大きな規模。
若松屋脇本陣はホテルに形を変えて今も旅人が宿を取る。本陣跡には立派な門が残る。
 小仏宿から小仏峠を越えて神奈川県へ、合宿の小原宿・与瀬宿、相模湖を眺めて吉野宿。
関野宿を通り、山梨県に入って上野原宿まで18.8km、所要5時間30分の行程となった。
江戸日本橋からは75.0kmだ。