旅の途中

にいがた単身赴任時代に綴り始めた旅の備忘録。街道を歩いたり、酒肴をもとめてローカル線に乗ったり、時には単車に跨って。

日光道中・奥州道中紀行1 日本橋~千住宿~草加宿

2017-01-07 | 日光道中・奥州道中紀行

 冬晴れの日、三度の日本橋からの旅立ちは北をめざすことにする。
日光道中は東照宮まで二十一次の参詣の道、
奥州道中は白河までの二十七次、江戸と陸奥とを結ぶ人流物流の道だ。
宇都宮宿伝馬町追分までの十七次は両道中共通となっている。

 

10:20 「日本橋」
 ずいぶん出遅れとなった日本橋。街はすでに三越の福袋を手にした人たちで賑やかだ。
カメラを手にした訪日観光客が目立っている。道路元標を確認して中央通りを北へ進む。

Navi1. 日本橋 → <国道4号線> → 室町3丁目南交差点 0.4km

 

三越を過ぎた室町3丁目南交差点が中山道との追分、日光道中は右に折れて隅田川へ向かう。

Navi2. 室町3丁目南交差点(右折) → 浅草橋交差点 1.3km

 

昭和通りを地下道で渡ると左手に「寶田恵比寿神社」がある。
御神体の恵比寿神は運慶作、徳川家康から下賜されたもだと云われている。
馬喰町の呉服問屋街を抜けてひたすら直進すると浅草橋交差点南に至る。

Navi3. 浅草橋交差点(左折) → <国道6号線> → 言問橋西交差点 3.0km

 

10:50 「浅草見附」 
 浅草橋で神田川を渡る。右手隅田川との合流地点まで屋形船がびっしりと並んでいる。
神田川北詰の「浅草見附」は 江戸城の警護のために設けられた36箇所に見附の一つ。
浅草御門と呼ばれた枡形の門は、浅草観音参詣者や遠く奥州へ往来する人々を取り締まった。

 

Navi3-2. 駒形橋西詰交差点(斜め左) → 雷門交差点 300m

11:20 「雷門」
 街道は駒形橋西詰交差点から浅草観音の総門「雷門」を正面に見て進む。
この間に「浅草一里塚」があったはずなのだが、痕跡はおろか場所も特定されていない。
参道は初詣に訪れた人でいっぱい。この光景は街道時代から変わらないことだろう。

Navi3-3. 雷門交差点(右折) → 吾妻橋交差点 200m

 

Navi3-4. 吾妻橋交差点(斜め左)

Navi4. 言問橋西交差点(斜め左) → <都道464号> → 南千住交差点 2.5km

11:50 「待乳山聖天」
 標高10m、東京で一番低い山「待乳山」は隅田川から東の眺望を得るには絶好の高台だ。
待乳山聖天には大根をお供えする。二股の大根が交わる印しは夫婦和合を示している。
 街道は岡林信康が謳った「山谷ブルース」のドヤ街を抜けていく。
なるほど左右の路地には簡易宿所が並び、路上で焼酎を酌み交わすおじさん達を見かける。

     

12:10 「小塚原刑場跡」
  南千住駅南口に小塚原回向院がある。小塚原は鈴ヶ森、大和田と並ぶ江戸の刑場の一つ。
明治初頭に廃止されるまでに、磔、斬罪、獄門などの刑が執行された。
吉田松陰もここに眠っている。首切地蔵は寛保元年(1741年)に建立されたものだ。

12:20 「素盞雄(スサノオ)神社」
 言問橋西詰から北上した街道が国道4号線と合流する南千住交差点に「素盞雄神社」がある。
延暦十四年(795年)に創建された神社には素盞雄大神と飛鳥大神が祀られている。

Navi5. 南千住交差点(右折) → <国道4号> → 千住新橋北詰交差点 3.2km

 千住大橋で隅田川を渡る。
家康は江戸入府後直ちにここへ架橋を命じ、文禄三年(1594年)に初代の大橋が完成している。

「行く春や 鳥啼き魚の 目は泪」
元禄二年(1689年)、深川から舟に乗りここに上陸した芭蕉はここを矢立ての地とした。
この先日光道中・奥州道中は「奥の細道」を辿る旅でもある。

 

さて、初日の街道めしは足立市場内の「とくだ屋」で。寒いけれど生ビールを呷る。
定番の海鮮丼「とくだ屋丼」をいただく。新鮮な刺身の下にはネギトロの山が嬉しい。 

 

Navi5-2. 足立市場前交差点(斜め右) 名倉医院まで1.9km

12:50~13:20 「千住宿」
  足立市場前から荒川堤防に突き当たるまで2キロ弱の直線が旧街道。
天空劇場辺りが江戸方の入口で日本橋から2番目の「千住一里塚」があった。
北千住駅に向かう大通りと交差すると宿場町商店街(サンロード商店街)で一筋目が本陣跡。

 

千住宿は本陣1、脇本陣1、旅籠55軒。旧い遺構は少ないが宿場町風情を今に伝える旧家が2軒。
江戸中期から代々、絵馬や行灯、凧を描いてきた際物問屋「絵馬屋」の吉田家。
そして、紙問屋「松屋」の横山家が向かいあって残っている。

江戸期に「骨接ぎ所」として名を成した名倉医院には立派な長屋門が残っている。
医院の前が下妻街道との追分で、日光街道は左手に折れ、直進するのが下妻街道だ。
追分は宿場の日光方の入口でもある。

Navi5-3. 名倉医院(斜め左) 千住新橋南詰でR4に戻る

 

千住宿から先の街道は荒川放水路によって分断されているので千住新橋を渡る。
橋中央部に日本橋から9kmのポスト、ここまで2時間50分、ずいぶんなスローペースだ。
千住新橋を渡ると荒川の土手を北上、千住新橋ランプ下の川田橋交差点で旧街道に繋がる。 

Navi6. 千住新橋北詰(左折) → <荒川土手> → 川田橋交差点 400m

Navi7. 川田橋交差点(右折) → <都道103号> → 保木間水神宮 5.1km

 

 川田交差点からは5kmを超えて退屈な一本道が続く。
街道当時も沼地を埋め立てた中を行くのだから、旅人にも退屈な行程だったろうと思う。
梅田に明王院への道標「石不動尊」、梅島駅手前のY字路に「旧日光街道道標」がある。

 

島根に入って「將軍家御成橋御成道松並木跡碑」、続いて日本武尊を祀った「鷲神社」がある。
『日光道中分間延絵図』によると神社の少し北に「六月一里塚」があるのだが痕跡はない。

Navi8. 保木間水神宮(左折) → <都道49号~県道49号> → (越谷市)瓦曽根ロータリー交差点 9.3km

 

都道49号に入ると間もなく毛長川を渡ると左右に煎餅屋が目につくようになる。
稲作が盛んなこの地では、蒸した米を潰し丸めて干し、塩を塗して焼いて食べていた。
宿場の発展とともに塩味の煎餅が旅人向けの商品として売り出され、各地に広まった。
その後、野田で生産された醤油で味付けをしたものが、現在の草加煎餅の原型と云われる。
草加市内には煎餅の製造所や販売所が60軒を超えている。

     

15:15 「火あぶり地蔵尊」
 千住宿から奉公に来ていた働き者の娘が、放火の咎で火あぶりの刑に処せられた。
此の娘を哀れんで建てられたものだと云われる瀬崎の「火あぶり地蔵尊」だ。
地蔵尊近くには日本橋から4番目の「吉町一里塚」があったが、これもまた痕跡がない。

Navi8-2. 吉町2・5丁目高砂1丁目Y字路(斜め左) 旧道を1.4km

 

15:25 「草加宿」
 草加宿の江戸方の入口は市役所から、敷地の端に地蔵堂が鎮座する。
その先の藤城家は国登録有形文化財、内蔵・外蔵は街道時代の重厚な土蔵造りを残している。 

 

草加宿の規模は本陣1、脇本陣1、旅籠67軒。
清水本陣跡地の案内板によると、会津藩の松平氏、仙台藩の伊達氏、盛岡藩の南部氏、
米沢藩の上杉氏が休泊した記録がある。
その先の東福寺は、草加宿の祖・大川図書が創建した寺、慶長十一年(1606年)の創建。
正に街道の盛衰を見つめてきたことになる。

 

宿場の日光方の入口の久野家(大津屋)は、安政二年(1855年)の江戸大震災に耐えた。
ずいぶんと旧い平入切妻造り瓦葺きの町屋建築だ。
芭蕉の門人・河合曾良の像が、先を歩く芭蕉に呼び掛けているかのように立っている。

 

Navi8-3. 神明町交差点(左折) 草加松原を蒲生大橋まで 2.3km

 

神明交差点で県道49号と合流すると直ぐに「札場河岸」だ。
綾瀬川は江戸中期から運河として利用され多くの船が行きかっていた。
河岸には望楼が建ち、松尾芭蕉は呼び掛ける曾良に応えるように江戸方を振り返る。

15:50 「草加松原」
  札場河岸からは綾瀬川沿いに約1.5km続く松並木を往く。
松の植樹時期は定かではないが、天和年間(1681~1684年)の綾瀬川開削時と云われている。
千本松原は、夏の日差しを遮り、冬の北風を防ぎ、旅人には快適な道程だったと想像される。

Navi8-4. 蒲生大橋東詰(左折) 蒲生本町交差点で県道49号に戻る 1.0km

16:15 「蒲生一里塚」
 街道が蒲生大橋で綾瀬川を渡ると日本橋から4番目の「蒲生一里塚」が在る。
教育委員会の案内板には東側の一基が現存とされているが塚には見えない。
塚木であるとされるムクエノキの古木が立っている。
何れにせよ、埼玉県内の日光街道筋に唯一現存する一里塚だそうだ。

16:50 「新越谷駅入口」
 蒲生本町交差点で県道49号(旧国道4号)に戻る。
16:40過ぎ、茜を残して冬の弱い陽が没した。情けないが日没サスペンデッドだ。
第1日目、日本橋を発って初詣で賑わう浅草観音を経て千住宿、芭蕉の足跡を辿って草加宿。
草加松原を抜けて越谷宿の手前、新越谷駅入口交差点迄、所要時間6時間の行程となった。

日本橋~千住宿~草加宿~越谷宿(新越谷駅入口交差点) 23.7km