旅の途中

にいがた単身赴任時代に綴り始めた旅の備忘録。街道を歩いたり、酒肴をもとめてローカル線に乗ったり、時には単車に跨って。

東海道紀行1 日本橋~品川宿~川崎宿

2018-02-18 | 東海道紀行


Navi1 日本橋 →<国道15号>→ 八ツ山橋交差点 8.0km

08:40「日本橋」
 1年ぶりに日本橋にやってきた。云わずと知れた五街道の起点である。
現在も主要国道の基準点であり、橋の中央部には日本国道路元票が埋め込まれている。 
冬晴れの朝、日本橋を発つ。五街道最後となる東海道の旅、京都三条大橋をめざす。 

 

08:55「京橋」
京橋の架橋は日本橋と同年。京橋川は埋め立てられ、その上に首都高速を見上げる。
高速下には擬宝珠を残し、反対側(西側)には江戸歌舞伎発祥之碑が建っている。 

 

まだ静かな銀座を通過。
その地名は、慶長十七年(1612年)に設置された銀貨幣鋳造役所に因んでいる。 

東新橋1丁目でJR線のガードを潜ると左手に日比谷神社。虫歯虫封じに霊験があるそうだ。 

09:25「大門」
新橋から続くオフィスビル群の谷間を抜けると大門、少々増上寺方面へ寄り道する。
増上寺三解脱門、東京タワー、東京無線タクシーの「朱」が重なった風景が楽しい。 

09:35「金杉一里塚」
芝浦運河へと続く古川を金杉橋で渡る。最初の一里塚は跡形もなくその位置は不明だ。 

10:30「高輪大木戸」
高輪大木戸は江戸府内外の境になる。享保九年(1724年)に築造されたものだ。
治安維持のため夜は木戸が閉じられたと云う。ここを出ると江戸とはお別れになる。
往時は茶屋が軒を連ね、旅人と送迎の人々で賑わったそうだ。   


Navi2 八ツ山橋交差点(斜め左) → (旧東海道) → 鈴ヶ森交差点 4.1km

10:25「八ツ山一里塚」
八ツ山橋交差点を斜め左に折れ、京浜急行の踏切を渡ると品川宿に入っていく。
日本橋から二つ目の一里塚はこの辺りになるが、やはり跡形もなくその位置は不明だ。 

 

ひと筋東に入ると品川浦舟だまり、釣船や屋形船が浮かぶ。近くには鯨の供養塚がある。
この辺りの大妓楼では高杉晋作らが度々謀議をこらした。最近ではシンゴジラが上陸している。

品川宿 : 本陣1、脇本陣2、旅籠93、問屋場貫目改所1軒 

 

10:40~11:15「品川宿」
八ツ山口から目黒川までが徒歩新宿・北品川宿、その先鮫洲公園辺りまでが南品川宿だ。
3つの宿場からなる品川宿は、桜の御殿山、紅葉の海晏寺など名所がある行楽地でもあった。
加えて吉原と双璧をなすほど遊女を置く旅籠が多く、ずいぶん賑わったらしい。
本陣は北品川宿に所在し、跡地は聖跡公園となっている。 

北品川宿と南品川宿を分かつ目黒川。畔には「かっぱ祭り」で有名な荏原神社が鎮座する。
訪れたこの日は境内2本の "寒緋桜" が見頃を迎えていた。ピンクが鮮やかだ。

 

初日の街道メシはお気に入りの宝喜家で。復活した品川縣ビールで喉を潤す。
明治初期、品川に日本で最初のビール工場が建てられ生産されたものだ。 
"鴨なんばん" で身体を暖めたら、品川宿を後にする。 

 

12:00「鈴ヶ森刑場跡」
立会川に架かる浜川橋を "泪橋" と呼ぶ。鈴ヶ森で処刑される罪人と縁者が分かれた橋だ。
旧東海道はその罪人が運ばれた鈴ヶ森刑場跡まで来ると、国道15号線に上書きされる。 


Navi3 鈴ヶ森交差点(斜め右) → (国道15号) → 六郷橋南詰 7.0km  


Navi3-2 大森海岸交番(斜め左)  美原通りを1.0km 大森警察署前交差点でR15に戻る 

12:30「大森一里塚」
京急平和島駅辺りで旧道を歩くことができる。旧道はミハラ通り商店街と称している。 
江戸期の大森海岸は海苔養殖が盛んであった。養殖が終了した今でも流通の中心地だ。
軒を並べる海苔問屋のシャッターには東海道の風景が描かれていて楽しい。
日本橋から三つ目の大森一里塚はこの辺りのはずだが、やはりその位置は不明だ。  

13:35「六郷一里塚」
日本橋から四つ目の一里塚は六郷神社の辺り、しかしながら位置は特定されていない。
六郷神社は、前九年の役に勝利した源頼家・義家が石清水八幡を分霊を勧請したものだ。 

 

13:50「六郷の渡し」
六郷橋で多摩川を渡ると神奈川県、東海道は川崎宿に入っていく。
多摩川には慶長五年(1600年)に、長さ200mの大橋が家康によって架けられた。
が、元禄元年(1688年)に洪水で流されると、その後再建はされず船渡しとなった。 


Navi4 六郷橋南詰ガード(右折) → (旧東海道) → 生麦一丁目交差点 6.8km

川崎宿 : 本陣2、脇本陣0、旅籠72、問屋場1軒

14:00「川崎宿」
六郷橋を渡りきると、直ぐに車道を潜って右折する。案内板があるので迷うことはない。
川崎宿には本陣が2軒、田中本陣は江戸よりに位置するので「下の本陣」と呼ばれた。
川崎宿が賑わったのは六郷橋が洪水で崩壊してから。渡船賃の収益で潤ったとそうだ。
渡し船の運営を川崎宿の請負にすべく幕府に働きかけたのが、本陣の田中休愚だと云う。 

 

川崎宿には旧い遺構は残ってないが、充実した案内板で往時を想像しながら歩ける。
東海道かわさき宿交流館には、宿場の模型や浮世絵が展示され訪ねてみると楽しい。
底冷えの日本橋を発って、高輪大木戸で江戸市中を後にし、品川宿を経て川崎宿へ。 
東海道紀行の第1日目は、20.0km、5時間10分の行程であった。