まるごと好き、っていうのは、なかなか難しいものだと思う。
りんごは好きだけど、芯の部分は好きじゃない。
バナナは好きだけど、皮は食べたくない。
りんごの芯は当然のように切り取って食べるし、
バナナの皮も当然のように剥いて食べる。
そこに何の感情もない。
芯があるのがりんごだし、皮があるのがバナナなんだから。
ということを知っている。
しかしこれが人間となると、そうはいかない。
その人間に芯があることを知っていて、それに対していろんな感情がついてくる。
その夜、何かが違っていた。
空気が丸くないというか、ぎすぎすした雰囲気が漂っていて、
それに気づきながら、なんとか表面だけでも平和にいこうと努めてみたものの、
やっぱり夫と喧嘩になった。
人には、ココを押すとこうなる、とか、ココを押されるとこうなる
というボタンみたいなものがあって、その日は互いにそのボタンを押し合った。
日本語が通じたら、あんなふうにもこんなふうにも言えるのに、それが言えないもどかしさが私にはあり、
たまりかねて日本語でまくしたてると、夫はなんとなーーく何を言っているのかわかるようで、
さらに気を悪くする。
何年か前までは、日本語でまくしたてる兵法が有効だったのに、もうその姑息な手が使えなくなったか。
二人だけというのは、気楽なようで、いざというとき逃げ場がない。
前の結婚時代にも痛感したことだけれど、
険悪な雰囲気になったとき、人じゃなくても、せめて犬か猫でもいたなら、
「あんな言い方して、バカだねぇー」とかなんとか、ワンクッションおくことができる。
何があっても、「あなたとわたし」だけだから、どこかでガスを抜いておかないと
互いの一挙手一投足(この字で合ってる?)が気になって仕方がない。
私がまだ独身の頃、異業種交流会で出会った女性がいた。
当時40代半ばぐらいだっただろうか。アパレルの仕事をしていたこともあっていつも華やかで、彼女自身も美しい人だった。
お子さんがおらず、一緒に仕事をしていたご主人と仲がよかったから、
まわりの同世代の女性達から「いいわねぇー、ご主人がおやさしいから」と
妬みと羨望がピリッと含まれた塊を薄ーーいジョークの皮で包んだ言葉を浴びていた。
なぜか彼女は私をかわいがってくれ、自宅にも何度か遊びに行った。
あるとき彼女が言ったのだ。
「喧嘩するときはいつも同じ場所でつまづくの。それは結婚した頃から変わらない。
ここでつまづく、というのがわかっていて、でもそれをどうしようもないの。
人って変われるようで、変われないものもいっぱい持っているものなのねえ」
折りに触れ、彼女の言葉を思い出し、そうなのかなあ、と思う。
自分の何が、相手にとってつまづく場所なのかは、本人だってよく知っている。
お互いに、その出っ張りを許さない相手に怒るけれども、
結果はどうあれ、そこを平らにしたいと願い続けている、そして相手の出っ張りを
できれば許したいと思っている、その一点で、二人は繋がっていられるようにも思う。
平和なときには、相手の、私が嫌いな部分も含めて好きだと思う。
その嫌いな部分が表におもいきり出ているとき、どうしてこんな部分まで私が引き受けなくてはならないのかと
腹立たしさで一杯になる。
それはただの、りんごの芯なのに、ただのバナナの皮なのに、
見過ごすことができない。
芯や皮にむかって、「なんで食べられないものがくっついてるわけ??」と
因縁をつけて怒っているようなものである。
いつの日か、芯や皮のように何の感情もなく、それを受け入れ、見過ごすことができるようになるんだろうか。
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りんごは好きだけど、芯の部分は好きじゃない。
バナナは好きだけど、皮は食べたくない。
りんごの芯は当然のように切り取って食べるし、
バナナの皮も当然のように剥いて食べる。
そこに何の感情もない。
芯があるのがりんごだし、皮があるのがバナナなんだから。
ということを知っている。
しかしこれが人間となると、そうはいかない。
その人間に芯があることを知っていて、それに対していろんな感情がついてくる。
その夜、何かが違っていた。
空気が丸くないというか、ぎすぎすした雰囲気が漂っていて、
それに気づきながら、なんとか表面だけでも平和にいこうと努めてみたものの、
やっぱり夫と喧嘩になった。
人には、ココを押すとこうなる、とか、ココを押されるとこうなる
というボタンみたいなものがあって、その日は互いにそのボタンを押し合った。
日本語が通じたら、あんなふうにもこんなふうにも言えるのに、それが言えないもどかしさが私にはあり、
たまりかねて日本語でまくしたてると、夫はなんとなーーく何を言っているのかわかるようで、
さらに気を悪くする。
何年か前までは、日本語でまくしたてる兵法が有効だったのに、もうその姑息な手が使えなくなったか。
二人だけというのは、気楽なようで、いざというとき逃げ場がない。
前の結婚時代にも痛感したことだけれど、
険悪な雰囲気になったとき、人じゃなくても、せめて犬か猫でもいたなら、
「あんな言い方して、バカだねぇー」とかなんとか、ワンクッションおくことができる。
何があっても、「あなたとわたし」だけだから、どこかでガスを抜いておかないと
互いの一挙手一投足(この字で合ってる?)が気になって仕方がない。
私がまだ独身の頃、異業種交流会で出会った女性がいた。
当時40代半ばぐらいだっただろうか。アパレルの仕事をしていたこともあっていつも華やかで、彼女自身も美しい人だった。
お子さんがおらず、一緒に仕事をしていたご主人と仲がよかったから、
まわりの同世代の女性達から「いいわねぇー、ご主人がおやさしいから」と
妬みと羨望がピリッと含まれた塊を薄ーーいジョークの皮で包んだ言葉を浴びていた。
なぜか彼女は私をかわいがってくれ、自宅にも何度か遊びに行った。
あるとき彼女が言ったのだ。
「喧嘩するときはいつも同じ場所でつまづくの。それは結婚した頃から変わらない。
ここでつまづく、というのがわかっていて、でもそれをどうしようもないの。
人って変われるようで、変われないものもいっぱい持っているものなのねえ」
折りに触れ、彼女の言葉を思い出し、そうなのかなあ、と思う。
自分の何が、相手にとってつまづく場所なのかは、本人だってよく知っている。
お互いに、その出っ張りを許さない相手に怒るけれども、
結果はどうあれ、そこを平らにしたいと願い続けている、そして相手の出っ張りを
できれば許したいと思っている、その一点で、二人は繋がっていられるようにも思う。
平和なときには、相手の、私が嫌いな部分も含めて好きだと思う。
その嫌いな部分が表におもいきり出ているとき、どうしてこんな部分まで私が引き受けなくてはならないのかと
腹立たしさで一杯になる。
それはただの、りんごの芯なのに、ただのバナナの皮なのに、
見過ごすことができない。
芯や皮にむかって、「なんで食べられないものがくっついてるわけ??」と
因縁をつけて怒っているようなものである。
いつの日か、芯や皮のように何の感情もなく、それを受け入れ、見過ごすことができるようになるんだろうか。
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