太平洋のまんなかで

南の島ハワイの、のほほんな日々

まるごと

2014-10-01 08:34:02 | 日記
まるごと好き、っていうのは、なかなか難しいものだと思う。



りんごは好きだけど、芯の部分は好きじゃない。

バナナは好きだけど、皮は食べたくない。

りんごの芯は当然のように切り取って食べるし、

バナナの皮も当然のように剥いて食べる。

そこに何の感情もない。

芯があるのがりんごだし、皮があるのがバナナなんだから。

ということを知っている。



しかしこれが人間となると、そうはいかない。

その人間に芯があることを知っていて、それに対していろんな感情がついてくる。



その夜、何かが違っていた。

空気が丸くないというか、ぎすぎすした雰囲気が漂っていて、

それに気づきながら、なんとか表面だけでも平和にいこうと努めてみたものの、

やっぱり夫と喧嘩になった。



人には、ココを押すとこうなる、とか、ココを押されるとこうなる

というボタンみたいなものがあって、その日は互いにそのボタンを押し合った。

日本語が通じたら、あんなふうにもこんなふうにも言えるのに、それが言えないもどかしさが私にはあり、

たまりかねて日本語でまくしたてると、夫はなんとなーーく何を言っているのかわかるようで、

さらに気を悪くする。

何年か前までは、日本語でまくしたてる兵法が有効だったのに、もうその姑息な手が使えなくなったか。



二人だけというのは、気楽なようで、いざというとき逃げ場がない。



前の結婚時代にも痛感したことだけれど、

険悪な雰囲気になったとき、人じゃなくても、せめて犬か猫でもいたなら、

「あんな言い方して、バカだねぇー」とかなんとか、ワンクッションおくことができる。

何があっても、「あなたとわたし」だけだから、どこかでガスを抜いておかないと

互いの一挙手一投足(この字で合ってる?)が気になって仕方がない。



私がまだ独身の頃、異業種交流会で出会った女性がいた。

当時40代半ばぐらいだっただろうか。アパレルの仕事をしていたこともあっていつも華やかで、彼女自身も美しい人だった。

お子さんがおらず、一緒に仕事をしていたご主人と仲がよかったから、

まわりの同世代の女性達から「いいわねぇー、ご主人がおやさしいから」と

妬みと羨望がピリッと含まれた塊を薄ーーいジョークの皮で包んだ言葉を浴びていた。

なぜか彼女は私をかわいがってくれ、自宅にも何度か遊びに行った。

あるとき彼女が言ったのだ。



「喧嘩するときはいつも同じ場所でつまづくの。それは結婚した頃から変わらない。

ここでつまづく、というのがわかっていて、でもそれをどうしようもないの。

人って変われるようで、変われないものもいっぱい持っているものなのねえ」




折りに触れ、彼女の言葉を思い出し、そうなのかなあ、と思う。

自分の何が、相手にとってつまづく場所なのかは、本人だってよく知っている。

お互いに、その出っ張りを許さない相手に怒るけれども、

結果はどうあれ、そこを平らにしたいと願い続けている、そして相手の出っ張りを

できれば許したいと思っている、その一点で、二人は繋がっていられるようにも思う。





平和なときには、相手の、私が嫌いな部分も含めて好きだと思う。

その嫌いな部分が表におもいきり出ているとき、どうしてこんな部分まで私が引き受けなくてはならないのかと

腹立たしさで一杯になる。

それはただの、りんごの芯なのに、ただのバナナの皮なのに、

見過ごすことができない。

芯や皮にむかって、「なんで食べられないものがくっついてるわけ??」と

因縁をつけて怒っているようなものである。



いつの日か、芯や皮のように何の感情もなく、それを受け入れ、見過ごすことができるようになるんだろうか。











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