太平洋のまんなかで

南の島ハワイの、のほほんな日々

スクリーン

2016-02-16 21:38:00 | 日記
日本人の同僚のMさんは、とても良い人だ。

ほがらかで、ほんわり・のんびりしていて、誰に対しても感じが良い。

彼女が怒ったところなど想像できない。

「あまり怒ることがないんだよねー」と本人も言っていたことがある。

好き嫌いがはっきりしていて、不平不満も言うし、

すぐに怒る私には、Mさんは羨ましい性格なのだ。



時々、お店にみえるお客様が、私をみつけて駆け寄ってきた。

「あなた久しぶりねー!なぜかあなたがいないときばかり来てしまうみたいで」

そして、Mさんについて、

「私、あの人大嫌いなの。いちいち意地悪なことばかり言うんだもの」

と言うのだ。

人違いだと思い、何度確認しても、それはMさんのことだった。

「とてもいい人ですよ?」

と私が言うと、

「じゃあきっと私と合わないのね」

と言った。



何年も彼女をみてきたけれど、断じて意地悪を言うような人ではない。

でも、そのお客様が嘘を言っているのでもないだろう。





人は、自分が持っているスクリーンを通してしか、ものごとを見ない。

誰かが言った言葉や態度を、どう受け取るかはその人次第だ。

同じ言葉や態度を、「傷ついた」と思う人もいれば、

「ばかにされた」と思う人もいる一方で、まったく何も感じない人もいる。



何かの本に、興味深いたとえ話があった。

村を通りかかった男が、年老いた男性に尋ねた。

「この村に住もうと思うのですが、ここにはどんな人達が住んでいますか」

「おまえさんが今まで住んでいたところはどうだったかね」

「意地悪で人の中傷が好きな人ばかりでした」

「ここも同じじゃよ」

また別の男が、その年寄りに同じことを尋ねた。

「おまえさんが住んでいたところはどうだったかね」

「それはもう、親切で思いやりがある人ばかりでした」

「ここも同じじゃよ」





結局、人は自分が見たいものしか見ない。

このたとえ話は、職場の人間関係が嫌で転職しても、

またそこでも人間関係でつまづくのと同じだ。

自分が変わらない限り、つまり、自分の持っているスクリーンを取り替えない限り、

どこへいっても同じ景色を映し出すだけということだ。



今、自分がどんなスクリーンを持っているかは、

どんな人に囲まれているか、どんな現実が展開しているかを見ればわかる。

自分が外にみる景色が、そのまま自分の持っているものということになる。


人は変えられない。でも、自分は変えられる。

そして自分が変われば、現実は簡単に変わってゆく。

嫌な人が自分の世界から消えたり、自分が去ったり、

その人との間にあったわだかまりが溶けたりする。



そのお客様と私は、それほど話をする機会がなかったから

私には何も感じないだけだろう。



それが良いものであれ、そうでないものであれ、

人から受け取る言葉や態度から、自由になるのはなかなか難しいことには違いない。









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