ちょっとした時間に気軽に読むことのできるエッセイが好きだ。
長編小説を読む根気も登場人物の名前を覚える力も衰えたこともある。
この身延典子さんの頼山陽にピアス(南々社)は一つの話題が見開き2ページに収まっているところも読みやすい。言いにくいこともズバズバ言い切っている。
突然だが、田沼意次という人がいる。
こんな書き出しは、今度私も使ってみようかなと思ったりもする。
突然だが、おばさん女子大生になることにした。
突然だが、シカゴで暮らそうと考えている。
突然だが、Doblog止めようかと悩んでいる。
なんていう、突然だが書き出しシリーズはどうだろう?
もちろん、みんなウソだけれどね。
ところでこの本、血液型を講演の時間調整の話題にして、主催者側から差別発言だと指摘された、という話から始まっている。
広島県でのできごとだ。
頼山陽と彼をとりまく人たちを、ちまたにあふれる血液型分類に当てはめたら、講演終了とほとんど同時に、
「発言内容に問題がありました」とアナウンスされたのだそうだ。本人を目の前にして。その後、文書での抗議もあったとのこと。
たった4分類――ということは仲間は大勢いるわけで、たとえ血液型で負の部分をからかわれたとしても、そんないじめをはね返すことはできるんじゃないかなぁ。いじめ撃退の訓練になる。
この本で頼山陽…日本外史という、ほとんど「単語」でしか知らなかった人に骨格ができ、肉がつき、体温が感じられるようになった。本人は少年時代から言動に問題があり、遊蕩に走り、身重の妻を捨て、脱藩。あげく、座敷牢に入れられ廃嫡となる。それでも酒、女、借金とは縁が切れなかった、チョー親不孝息子だったらしい。
それでも「日本外史」は幕末の志士たちに大きな影響を与え、漢詩や書に長けた才能を発揮した。そして名前が今に残っている。
頼山陽が生活費を得るために豪商を訪れては揮毫するなど小旅行を繰り返したなどという下りを読むと、私が伊丹で見た「頼山陽の台柿」がグッと重みを増して思い出される。
さて、こんなblogを書き続けている私の血液型は何型と思われますか?
長編小説を読む根気も登場人物の名前を覚える力も衰えたこともある。
この身延典子さんの頼山陽にピアス(南々社)は一つの話題が見開き2ページに収まっているところも読みやすい。言いにくいこともズバズバ言い切っている。
突然だが、田沼意次という人がいる。
こんな書き出しは、今度私も使ってみようかなと思ったりもする。
突然だが、おばさん女子大生になることにした。
突然だが、シカゴで暮らそうと考えている。
突然だが、Doblog止めようかと悩んでいる。
なんていう、突然だが書き出しシリーズはどうだろう?
もちろん、みんなウソだけれどね。
ところでこの本、血液型を講演の時間調整の話題にして、主催者側から差別発言だと指摘された、という話から始まっている。
広島県でのできごとだ。
頼山陽と彼をとりまく人たちを、ちまたにあふれる血液型分類に当てはめたら、講演終了とほとんど同時に、
「発言内容に問題がありました」とアナウンスされたのだそうだ。本人を目の前にして。その後、文書での抗議もあったとのこと。
たった4分類――ということは仲間は大勢いるわけで、たとえ血液型で負の部分をからかわれたとしても、そんないじめをはね返すことはできるんじゃないかなぁ。いじめ撃退の訓練になる。
この本で頼山陽…日本外史という、ほとんど「単語」でしか知らなかった人に骨格ができ、肉がつき、体温が感じられるようになった。本人は少年時代から言動に問題があり、遊蕩に走り、身重の妻を捨て、脱藩。あげく、座敷牢に入れられ廃嫡となる。それでも酒、女、借金とは縁が切れなかった、チョー親不孝息子だったらしい。
それでも「日本外史」は幕末の志士たちに大きな影響を与え、漢詩や書に長けた才能を発揮した。そして名前が今に残っている。
頼山陽が生活費を得るために豪商を訪れては揮毫するなど小旅行を繰り返したなどという下りを読むと、私が伊丹で見た「頼山陽の台柿」がグッと重みを増して思い出される。
さて、こんなblogを書き続けている私の血液型は何型と思われますか?