島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

東海道16.

2025-01-15 | 京都へ、京都から

 日ノ岡峠を越えて下り坂の途中の道端に、旧舗石車石が飾ってありました。

 東海道に限らず江戸時代の街道は、車(荷車)の往来が禁止されていたんですが(徳川幕府は大量輸送を嫌ったようで、川にも橋をかけませんでしたし、荷車などで大量兵器や兵員が輸送されるのを嫌がったようです)、都に近い京都~大津間は例外で許可されていたようです。

江戸時代後期には、東海道京都~大津間の峠道には、牛車が通るための車道(クルマミチ)として、花崗岩を敷き詰めた道が造られましたが、初めから溝が彫られていたわけではなく、長年の通行で自然に溝が出来たようです。

輪形石と言われていましたが、昭和になってから車石(クルマイシ)と呼ぶようになったそうです。

 1車線しかない歩車分離道であったので、午前は京都から、午後は大津からの一方通行の車道だったようです。ちなみに馬は歩道を行きます。

 時々使ってる自転車駐車場に下りる坂の写真ですが、自転車を押して通るだけなのですが、こんな風にタイヤが当たる部分は擦り切れてきています。

花崗岩が荷車の重みですり減るのは、むべなるかなですね。

 三条通から旧東海道に別れる手前の広場に、荷車らしき模型が飾られていました。

こんな車を、人が押したり牛に引かせたりして運んでいたので、雨の後などのぬかるみの坂道を通る牛は、たまったもので無かったでしょうね。

車石を敷き詰めたのは、すごい技でしたね、地道から高速道路を走る以上に早くなったと思います。

 これが車石、しかしこれを京都~大津間約10㎞に敷き詰めるのもなかなか大事業ですし、部分的にへこんだりずれたりして、維持管理もしなければならなかったと思います。

現代に生まれて良かったですよ。


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5 コメント

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Unknown (花水木)
2025-01-15 12:17:29
今の時代に生まれて、つくづく良かったと、思います。
光る君への大河ドラマ、雅ではあるけど、ズルズルと着物引きずり、トイレやお風呂は勿論、簾だけの間仕切りで冬等どうしていたのかと。

ばあさまが若い頃、仕事へ行く時、靴ではなくて、下駄。
両足、斜めに減ったと、言ってました。今、歩くと片道50分、それを毎日。
頑固な体に、なる訳ですね。
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花水木さんへ (島の医者になって)
2025-01-15 15:38:57
 今では簡単な病気でも、ちょっと前までは死んでいたのですからね。
今でよかったと思いますが、もう少し先はもっと良いのでしょうか?
長生きしたいとは思いませんが、もう少しだけも未来を見てみたい気がします。
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Unknown (島の医者になって)
2025-01-15 17:40:59
> 島の医者になって さんへ
> 花水木さんへ... への返信

もうちょっと先、実は不安です。
私達は、右肩上がりの良い時を経験出来ましたが、子や孫の生きる地球は、どうなっているかと。
私が憂いても仕方ないけど、心配性は治りません。
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花水木さんへ2. (島の医者になって)
2025-01-15 18:42:00
 戦争などを体験してきた我々の親世代は、たぶん子供の我々は良い生活をするだろうと、未来に希望を抱いていたはずですが、今の私達は年をとったせいもあるのか、子供や孫たちに幸せな未来が待っているとはなかなか思えませんね。
人類というか地球の限界が近づいているのでしょうか?
1000年ほど前に末法思想が拡がったのに、今も生きてる人類なので、たぶんなんとかしてくれますかね。
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Unknown (Toitenlabee)
2025-01-15 18:44:26
へー!荷車の模型!
知らないことばかり…。

関係ないけど、踏切が人身事故などで開かないとき、駅の地下道を原付を押して通ろうとしたら、重くて全く上がれない!男の人が手伝ってくれてなんとかなりましたが。昔の人も、牛や馬も、木や石を運ぶの大変だったでしょうね。
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