秋真っ盛りの頃に、栗と芋のパフェと言うことで食べましたが、下の方はスポンジケーキとコーンフレークが詰まってるパフェで、ちょっと残念。
そして皆様にもちょっと残念な月輪陵です。
第113代東山天皇(1675~1709)(在位1687~1709)と典侍(ナイシノスケ)櫛笥賀子(クシゲヨシコ)(1675~1710)との間には、5皇子1皇女が産まれていますが、上3人の皇子は早世、4番目の皇子で東山天皇としては第5皇子にあたる長宮(マスノミヤ)は、生後すぐから皇位継承者として扱われていました。
泉涌寺内にある月輪陵(ツキノワノミササギ)の正門です。
そして長宮は1707年儲君治定(チョクンジジョウ)にて親王宣下、慶仁親王(ヤスヒトシンノウ)となり、1708年には立太子して、1709年に父東山天皇が譲位し9歳で即位、第114代中御門天皇(ナカミカド)(1702~1737)(在位1709~1737)となりました。
月輪陵正門右側の写真の門扉をそっと開いて、民墓へお参りする人のふりをして陵の右横に廻ります。
譲位して院政を敷こうとした父東山上皇は、半年後にあっけなく痘瘡で亡くなり、母賀子も2週後には亡くなったので、祖父になる霊元上皇(1654~1732)が院政を敷いています。
たくさんの石塔が並び、どれが誰のか判りませんが、これが月輪陵の内部です。
中御門天皇の27年の在位期間中は、徳川幕府は6代将軍家宣(イエノブ)から8代将軍吉宗の在職期間であり、朝幕関係は非常に良好でであり、徳川幕府ブレーンの新井白石の勧めによって、東山上皇の第8皇子で中御門天皇の同母弟である直仁親王(ナオヒト)が、新たな親王家閑院宮(カンインノミヤ)を創設、後日これが皇位がつながる結果を産んでいます。
中御門天皇は朝廷の儀式の復旧にも関心を示し、「公事部類(クジブルイ)」などの撰著も残して37歳で没し、月輪陵に葬られました。
制札8番目に中御門天皇月輪陵とあります。
栗と芋のパフエ、なんだか胸焼けしそうです。
下の方のスポンジケーキとコーンフレークは腹に来ますが、上の方の芋や栗はすっきりと収まりましたよ。
歯ぐきに、ささりそうなもの、嫌いなんです。
皿うどんも苦手です。
コメントは歯ぐきではなく心に刺さるものを、そのままお願いします。