第88代後嵯峨天皇(1220~1272)(在位1242~1246)の第4皇子で、母は兄第89代後深草天皇と同じく大宮院姞子(キツシ)(1225~1292)の恒仁親王(ツネヒトシンノウ)は、10歳にして後深草天皇の皇太子になりました。
2020年秋、新型コロナの第2波と第3波の間で外国人観光客はいませんが、嵐山天龍寺はそれなりに観光客でにぎわっていました
そしてそのまま恒仁親王は、父後嵯峨の意向で譲位させられた兄後深草に替わって、第90代亀山天皇(カメヤマ)(1249~1305)(在位1259~1274)として即位し、1268年にはまたまた父後嵯峨の命により、亀山天皇の皇子世仁親王(ヨヒト)が皇太子に付きました。
皇后には後深草天皇妃洞院愔子(インシ)の異母姉洞院佶子(トウインキツシ)(1245~1272)を迎え、その間には後の第91代後宇多天皇になる世仁親王が産まれています。
他には中宮に西園寺嬉子(キシ)、女御に近衛位子(イシ)など、15人以上の妃に皇子だけでも20人以上もうけています。
この時代の流れか、この頃の平安宮の内部もかなり乱れていたようです。
父後嵯峨天皇の嵯峨南陵と亀山天皇の亀山陵(カメヤマノミササギ)(右京区嵯峨天竜寺芒ノ馬場町)は隣り合わせです
1272年に治天の君だった後嵯峨が後継者を決めずに亡くなったので、委ねられた鎌倉幕府も困って母大宮院姞子に相談したところ、兄後深草より父母に愛されていた弟亀山天皇を次の治天の君にと指名しましたので、亀山天皇は息子世仁親王を第91代後宇多天皇にして譲位しました。
天龍寺内でもあり、亀山陵は寺院形式で方形堂です
院政を開始した亀山上皇は、イニナヨ蒙古・イニヤイ蒙古と憶えた1274年(文永の役)・1281年(弘安の役)の二度の蒙古襲来時には、率先して伊勢神宮への祈願を務めました。
墓参以外立ち入り禁止の札がかかっていたので、ビクビクしながら参拝してる最中に沢山の宮内庁職員が入ってきたので、怒られるかとも思いましたが、私が「隣の墓は何ですか?」と尋ねると、笑顔で「ミンボです」と答えてくれました。
ミンボ?は民墓で皇族ではなく我々一般人の墓のことだそうです
1287年息子後宇多天皇の退位の時には、鎌倉幕府は亀山上皇が異心を抱いてると言うことから、皇位を再び持明院統の第92代伏見天皇に移しました。
これに依って、亀山上皇は失意のうちに出家し、離宮を禅寺として南禅寺を創建しています。
亀山天皇分骨所は、皇后佶子と息子後宇多の蓮華峰寺陵にもありました
また亀山の火葬塚は、亀山陵のある天竜寺の裏山の父後嵯峨天皇火葬塚と同じところでした。
返事
花水木さん:私が見たら私だと判る写真です。
入ってみたら、女の人が経営してるだろうなあと判る、
有機栽薄?リがメインの店の野菜ピザでした。
Toitenlabeeさん:歌って踊れる外科医も、
今やはっきり写ってない方が素敵な老人になり下がりました。