『信長は「天守閣」ではなく「天主閣」と呼び、そこに住まい!』
『「天下布武」の後「本能寺の変」がなければ、後の信長の狙いは』
織田信長が居城とした城
- 織田信長がその生を受けた那古屋城 標高14ⅿ
- 織田信長が家康と同盟を結んだ事でも知られる清州城 標高4ⅿ
- わずか4年間の間、信長の居城だった小牧山城 標高86ⅿ
- 織田信長が天下取りの足がかりとした岐阜城 標高329ⅿ
- 天下人信長が築いた居城・安土城 標高199ⅿ
信長は誕生した平城と二回目に引き継いだ平城がたびたび水害に合い、それ以来ずっと山城だった。 最後に築城を考えていたと言われる東本願寺跡の大阪城も、標高31ⅿで、淀川に面していますが水害の心配はなかった。
安土山の全容、ほぼ中央の山頂付近に本丸、天主
ウキペデイア情報から引用
(西洋の星形要塞を彷彿させる)
安土城図(急峻さは強調されているが、これが安土城)
ウキペデイア情報から引用
天下布武
これは「織田信長が朱印に用いた印象の印文」です。 いわゆる織田信長が天下統一を意識して考えた印鑑のマークのようなものです。 「武」という言葉には「(矛を止める)争いや戦いを止める」という意味があります。 また、「武」には「七徳の武」の意が込められているといわれています。
七徳の武とは
1. 暴を禁じる
2. 戦をやめる
3. 大を保つ
4. 功を定める
5. 民を安んじる
6. 衆を和す
7. 財を豊かにする
というものです。
そのため、天下布武とは織田信長による「天下に七徳の武を布く」という思い、天下泰平の世界を築くという強い意志の表れだったのではないかと言われております。
さて、天下布武の信長は天主閣に住んだのでしょうか
史実によると、日本の城の天守閣が居住空間として使用された例は、じつはほとんどないようです。 天主は「権力の象徴」であり、「籠城戦の際に立てこもる最後の砦」としての向きが強く、そもそも居住用には作られていない。
余談です。 『中世ヨーロッパの城の中心的役割を担う建造物キープですが、日本の城の天守との類似性から「天守」と訳されます。 平時には城主の住まいとして機能していました。 形状は、初期はシンプルな四角形でしたが、時代が下るにつれ、円筒形型、四つ葉型、多角形型など多彩になっていきます。』
標題に戻ります。 日本にも、例外があります。 普通は住まない天守閣で、唯一日常生活を送っていたといわれるのが織田信長です。 さすがは第六天魔王(※信長の異名)だ。 常識にとらわれないというか、本丸御殿という立派で住みやすそうなお屋敷がほかにあるのに、あえて一番でっかい建物に住まおうという豪胆さ。他の諸大名とはやはり一味違います。 普通は居住しない天主閣を居住空間にしてしまう信長は、やはり革命的です。
この革命的な武将の究極的な狙いは何であったのでしょうか。 『信長公記』でもそれはわからないようです。 これは当時の宣教師の日記と手紙に期待したいです。
三好三人衆を京都から追い出した織田信長は足利義昭を将軍に仕立て上げると、自身を幕府体制の中心に据えて自ら京都の統治に乗り出しました。 ルイス・フロイスを始めとした宣教師達は自分達を追い出した三好三人衆がいなくなったことを知り、新たな統治者に布教許可をもらうために京都へ戻ります。
ルイス・フロイスは織田信長との謁見でヨーロッパや東南アジアの情報を提供すると共に、キリスト教の布教許可を求めました。 当時の織田信長は利権を追い求め武装までしている仏教の在り方に疑問を覚えていたのでしょう、ルイス・フロイスは織田家領内での布教許可を得て、ここでようやく布教活動を始めています
信長とフロイスの、二人はそれぞれ36歳と38歳の同世代、気もあったのでしょうか、それでも信長が日本国の天下布武の後の野望をルイス・フロイスと話したとは思えません、有名な人たらしの秀吉ではありませんので。 信長の野望については、春になったら国会図書館で、ご専門の先生方をお尋ねすることを楽しみにしています。
(記事投稿日;2023/01/24、#622)
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