『オランダ商館医博物学者ドイツ人のシーボルトは科学伝授 2』
『悲願の旅で日本探索、長崎の習俗を活写、待望の江戸幕府へ』
『川原慶賀は日本の動植物等を蒐集し始めたシーボルトの動植物の写生図を』
日本到着から約一年後、長崎出島から祖国ドイツの母と伯父あてに、『全体的に見れば、当地日本で満足しています。 というのは、この2年間で、医師として「これまでアジアの国でいかなる医師も受けたことのないほどの尊敬と名誉を日本人の間で博しております。 私の治療はとても名高く、医師としての幸運は当地において私を見捨てません。」』と手紙を書いています。
長崎でのシーボルトの研究対象は、医学、植物学、動物学といった自然科学のジャンルにとどまらず、日本の地理、歴史、民俗と幅広く関心を向けた。 ライデン国立民族博物館が所蔵するシ-ボルトコレクションには川原慶賀の『精霊流し』もその一つです。
川原慶賀の『精霊流し』
ウエブ情報から引用
シーボルトの関心は長崎にとどまらない。 その博物学的調査の最大の好機はと考えたのは、オランダ商館長に随行する江戸参府の旅でした。
このために、シーボルトは、1826年の出発に着任前から備えてきた。 日本各地の地理、言語、風俗習慣を調べ、宿泊する先々で渡す土産物や献上品、そして日用品も豪華で珍奇なものも用意した。 銀やガラスの豪華な器、家具、小型ピアノまでも。 これが行く先々で調査を成功させるための秘策。
この調査のために、規定の50人に、自分の門弟である医師や蘭学者を加えて。大きなチームを結成していた。 江戸参府の一行は、長崎を2月26日に出発、海路を行くが途上、陸路にも代えて、小倉→下関→大阪→京都→江戸到着は4月10日でした。
川原慶賀の『永代橋から江戸の港と町を望む』
ウエブ情報から引用
1928年末のシ-ボルト事件
『1828年9月、シーボルトが帰国する直前、所持品の中に国外に持ち出すことが禁じられていた日本地図などが見つかり、それを贈った幕府天文方・書物奉行の高橋景ほか十数名が処分され、景保は獄死した。シーボルトは1829年に国外追放の上、再渡航禁止の処分を受けた。 当時、この事件は間宮林蔵の密告によるものと信じられた。
樺太東岸の資料を求めていた景保にシーボルトが『世界周航記』などを贈り、その代わりに、景保が伊能忠敬の『大日本沿海輿地全図』の縮図をシーボルトに贈った。この縮図をシーボルトが国外に持ち出そうとした。』
1929年10月、国外追放の決定が下がり、12月30日、シ-ボルトは出島を出港した。
(記事投稿日:2022/10/12、#585)
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