私が住んでいる地方自治体で、この9月1日より“子どもの下校時の見守り放送”とでも名付ければよいのか、そういう趣旨の「防災放送」が始まった。
毎日14時30分になると、大音量で“ピンポンポンポ~ン♪ (子どもの声で)間もなく私たちが下校する時間となります。地域の皆さん、下校時の見守りをお願いします。(以上を2度繰り返し)ピンポンピンポ~ン♪”と防災スピーカーががなり立てる訳である。
9月1日にこの「防災放送」が突如として流された時には、私は“防災の日”だからか? と一瞬考えたのであるが、その放送の内容から私は嫌な予感がした。嫌な予感とは当たるもので、これが毎日なのである。
趣旨は理解できなくはないが、これは明らかに“騒音公害”としか言いようがない。 何に集中していても中断せざるを得ないし、昼寝をしていてもたたき起こされる。
決して、学童の登下校時の安全管理を疎かにしようと主張する訳ではない。それどころか、私は本ブログのバックナンバーにおいて学校内外における子どもの“危機管理”の充実に関して再三訴えてきている。(教育・学校カテゴリーバックナンバー「学校における危機管理」「正しい携帯電話の持たせ方」「安易についていかない教育が肝要」等を参照下さい。)
再度、子どもの危機管理に関して私論を展開させていただくが、学校外(登下校時も含めて)の子どもの安全管理は親(保護者)が主体となって責任を持って行なうべきである。
このような私論を述べると、仕事があるから、忙しいから出来ない…、という類の反論が保護者からよく来る。
親がいつもいつも子どもについて歩け、と私は言っている訳ではない。まず取り組むべきは、普段の子どもに対する安全教育である。交通安全、不審者対策、等緊急時の身の守り方、親(保護者)への連絡の仕方等を再三再四子どもに伝えることが肝要である。その前提として生命の尊さの教育も肝要であるし、何よりも親子の絆、信頼関係がその根底にあるべきなのは言うまでもない。
学校の通学路に関して言うと、たまに親子で実際に歩いてみるとよい。私個人の経験であるが、子どもの転校後の小学校が指定してきた通学路に危険性があるのだ。信号のない道を横切る必要があるし、人通りも少なく、しかもずい分と遠回りの道程なのである。なぜあえて遠回りをさせてまで、危険な道を通学路として指定しているのか不可解に思った私は学校へ訴えた。そして、信号もあり人通りも多く安全で最短距離である道を代替案として提示した。運良く話のわかる校長で、基本的には学校指定の通学路を使用するのが原則ではある(有事の際の障害保障の問題が絡むとのことである。)が、私が提示した通学路代替案の安全性を認めた校長は例外的に許可して下さった。我が子はその安全な道を卒業まで通った。
登下校に関しては「集団登校」の安全性の是非の問題もある。我が子の場合は、小学校に関して転校前は集団登校であり、転校後は個別登校であった。
私は個人的には「集団登校」反対派である。“みんなで行けば怖くない”的な他力本願思想を元々好まないのが第一の理由であるし、上記のごとく、子どもの安全管理は各家庭で個別に責任を持って行なわれるべき事柄であると考えるためである。
実際問題、登下校中の「集団登校」にたまに出会うと、子ども達がじゃれあったりふざけあったり走ったりする姿を良く見かけ、安全確認が疎かになっている風景によく出くわす。安全確認は子ども一人ひとりが自分で責任をもって確実に行なうような教育が小さい頃からなされるべきである。
近年多いのが集団登校中の子どもの列に車が飛び込む事故である。犠牲者を多数出さないためにも個別登校の方がより合理的でもあろう。
もちろん、「集団登校」における地域差的な背景は大きいものがあろうことは把握している。
さて、話を冒頭の自治体による“子どもの下校時の安全見守り放送”に戻そう。
これは明らかに行き過ぎとしか思えない。あの防災放送は、「区民の皆さん、こんなに子どもの安全管理に取り組んでいますよ~」と言いたげな自治体のパフォーマンスにしか私には聞こえない。
政府も自治体も地域、地域とうるさいが、現在は特に都会においては地域がコミュニティとしてまったく機能していない時代である。隣に誰が住んでいるのかも知らないのが実情である。そんな空虚化した“地域”に子どもの安全の責任をなすりつけるのは政府、自治体の責任逃れでしかない。
来る日も来る日も騒音公害を区中に撒き散らして、人々の集中力を削ぎ、昼寝の幼児や老人をたたき起こし、労働生産性を低下させるのではなく、真の子どもの危機管理にもっと本気で真剣に取り組んではいかがか。
毎日14時30分になると、大音量で“ピンポンポンポ~ン♪ (子どもの声で)間もなく私たちが下校する時間となります。地域の皆さん、下校時の見守りをお願いします。(以上を2度繰り返し)ピンポンピンポ~ン♪”と防災スピーカーががなり立てる訳である。
9月1日にこの「防災放送」が突如として流された時には、私は“防災の日”だからか? と一瞬考えたのであるが、その放送の内容から私は嫌な予感がした。嫌な予感とは当たるもので、これが毎日なのである。
趣旨は理解できなくはないが、これは明らかに“騒音公害”としか言いようがない。 何に集中していても中断せざるを得ないし、昼寝をしていてもたたき起こされる。
決して、学童の登下校時の安全管理を疎かにしようと主張する訳ではない。それどころか、私は本ブログのバックナンバーにおいて学校内外における子どもの“危機管理”の充実に関して再三訴えてきている。(教育・学校カテゴリーバックナンバー「学校における危機管理」「正しい携帯電話の持たせ方」「安易についていかない教育が肝要」等を参照下さい。)
再度、子どもの危機管理に関して私論を展開させていただくが、学校外(登下校時も含めて)の子どもの安全管理は親(保護者)が主体となって責任を持って行なうべきである。
このような私論を述べると、仕事があるから、忙しいから出来ない…、という類の反論が保護者からよく来る。
親がいつもいつも子どもについて歩け、と私は言っている訳ではない。まず取り組むべきは、普段の子どもに対する安全教育である。交通安全、不審者対策、等緊急時の身の守り方、親(保護者)への連絡の仕方等を再三再四子どもに伝えることが肝要である。その前提として生命の尊さの教育も肝要であるし、何よりも親子の絆、信頼関係がその根底にあるべきなのは言うまでもない。
学校の通学路に関して言うと、たまに親子で実際に歩いてみるとよい。私個人の経験であるが、子どもの転校後の小学校が指定してきた通学路に危険性があるのだ。信号のない道を横切る必要があるし、人通りも少なく、しかもずい分と遠回りの道程なのである。なぜあえて遠回りをさせてまで、危険な道を通学路として指定しているのか不可解に思った私は学校へ訴えた。そして、信号もあり人通りも多く安全で最短距離である道を代替案として提示した。運良く話のわかる校長で、基本的には学校指定の通学路を使用するのが原則ではある(有事の際の障害保障の問題が絡むとのことである。)が、私が提示した通学路代替案の安全性を認めた校長は例外的に許可して下さった。我が子はその安全な道を卒業まで通った。
登下校に関しては「集団登校」の安全性の是非の問題もある。我が子の場合は、小学校に関して転校前は集団登校であり、転校後は個別登校であった。
私は個人的には「集団登校」反対派である。“みんなで行けば怖くない”的な他力本願思想を元々好まないのが第一の理由であるし、上記のごとく、子どもの安全管理は各家庭で個別に責任を持って行なわれるべき事柄であると考えるためである。
実際問題、登下校中の「集団登校」にたまに出会うと、子ども達がじゃれあったりふざけあったり走ったりする姿を良く見かけ、安全確認が疎かになっている風景によく出くわす。安全確認は子ども一人ひとりが自分で責任をもって確実に行なうような教育が小さい頃からなされるべきである。
近年多いのが集団登校中の子どもの列に車が飛び込む事故である。犠牲者を多数出さないためにも個別登校の方がより合理的でもあろう。
もちろん、「集団登校」における地域差的な背景は大きいものがあろうことは把握している。
さて、話を冒頭の自治体による“子どもの下校時の安全見守り放送”に戻そう。
これは明らかに行き過ぎとしか思えない。あの防災放送は、「区民の皆さん、こんなに子どもの安全管理に取り組んでいますよ~」と言いたげな自治体のパフォーマンスにしか私には聞こえない。
政府も自治体も地域、地域とうるさいが、現在は特に都会においては地域がコミュニティとしてまったく機能していない時代である。隣に誰が住んでいるのかも知らないのが実情である。そんな空虚化した“地域”に子どもの安全の責任をなすりつけるのは政府、自治体の責任逃れでしかない。
来る日も来る日も騒音公害を区中に撒き散らして、人々の集中力を削ぎ、昼寝の幼児や老人をたたき起こし、労働生産性を低下させるのではなく、真の子どもの危機管理にもっと本気で真剣に取り組んではいかがか。