原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

エゴなエコ

2008年09月10日 | 時事論評
 地球温暖化問題への関心の高まりと共に、世の中が“エコブーム”である。

 この“エコブーム”であるが、私に言わせてもらうとどうも胡散臭さが否めない。“似非(えせ)エコ”とでも表現すればよいのであろうか、事態の深刻性の本質を真に理解した上で、我らが地球が破滅へと陥る事と把握してエコ活動に励んでいる人は世の中に一握りしか存在しないように私の目には映るのだ。

 そうしたところ、折りしも朝日新聞8月31日朝刊「耕論」のページにおいて“どうみるエコブーム”と題して各界の有識者のオピニオンが掲載された。
 このうち、東大名誉教授の養老孟司氏とコラムニストの中野翠氏のオピニオンが私の見解とほぼ一致していて我が意を得たりの思いであるため、以下に紹介することにしよう。

 特に私論と一致している部分を抜き出し、要約する。

 まずは、養老孟司氏の見解「国民に道徳を押しつけるな」から。
 エコがブームになっている最近の状況を見て気になるのは、官僚や政治家が国民に対し「もっと省エネを」「環境のために我慢を」などと道徳を強調している点だ。政府の温暖化会議の委員であった時、委員自らが削減に協力をとのことで、ハイブリッド車に乗り換え、屋根に太陽光発電装置を付けることを勧められたが、なぜそこまで企業に奉仕しなければならないのか。そもそも買換えを勧めることが環境に優しいのか。  温暖化の責任を消費者にかぶせる風潮も問題だ。オイルショックの時に人々はつつましく生き、省エネの社会に変わるチャンスだったのに、その後石油が安くなると国全体が経済成長と便利な暮らしを目指しエネルギー消費が増えてしまった。それなのに今になって「国民の努力が足りない」と言い出してエコキャンペーンに必死になるのは責任逃れに他ならない。リーダーたちは消費抑制という自分達にとって楽な手法に逃げ込み、国民に自己規制させるという道徳を押し付けている。これが今のエコブームである。

 次に、中野翠氏の見解「はやりに流されず、迷いたい」を要約しよう。
 エコブームは基本的にはよいことだが、その一方でイヤな感じも抱く。いやらしい言い方であるが特に芸能人や文化人の中に「エコ自慢」がドッと出てきた。海外セレブやファッション界も旗振りし、国民がエコのオシャレ感に目をくらまされて一歩引いて考えることをできなくしている。エコの実効性についての議論や検証が深まらないままのブームは危険だ。地球環境をいじくり回して経済的な豊かさを達成した国々が、先行きの不安と後ろめたさに駆られてエコを叫び出したという側面もある。「豊かさ」「便利さ」を至上価値として突っ走ってきた国が、それらを犠牲にしてまでエコを実現しようとする覚悟が私たちにあるのか。


 さて私論に入ろう。

 昨年の出来事だったと思うが、某ブランド企業が買い物用の「エコバック」を数量限定販売したところ、これに購買者が殺到し整理券販売となり即刻売り切れになったことがある。あの騒動には、どうして世の中こうも軽薄者ばかりかと私は呆れ果てたものだ。(購入した方、軽薄者呼ばわりしてごめんなさい。) 購入した人種は、これをエコ活動だと本気で考えての行動であろうか。 まさに中野氏のおっしゃる通りファッション界が旗振りしたオシャレ感、すなわち商業主義に乗せられ流されているだけであることに気付かないのか…。新しい商品を開発して売り出すためには、養老氏のおっしゃるように新たなエネルギーが消費されることに少しでも思いを馳せないのか…。
 政府が発案した「クールビズ」にしてもそうだ。これを目当てに衣料業界がクールビズ商品開発に乗り出し販売し始めた。
 エコブームの行く先々に商業主義がついて回る。もしかして政府と衣料業界との癒着か、利権がらみか、と勘ぐりたくなる。

 養老氏のおっしゃるように、この国はオイルショック時に省エネ型社会に変わるチャンスがあった。それなのに、その後「豊かさ」「便利さ」を至上価値として突っ走りエネルギーを消費し続けた挙句の果てに国民に省エネ道徳を押し付けてくる。
 道徳を押し付けられた“同調圧力”の強い国民は、深い考えもないまま単純に商業主義の“ブーム”に乗せられ流される。


 まさに今の“エコブーム”は、エコを指導する官僚や政治家側も、エコ道徳を押し付けられた国民側も、地球環境保護に関する深い思慮もないままに“エゴなエコ”活動にさまよっているとしか私の目には映らない…。
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