さて、今回は久しぶりに、私がファンであり尊敬申し上げている創作家の明川哲也氏にご登場いただこう。
朝日新聞9月19日(金)夕刊こころのページ「悩みのレッスン」において、17歳の予備校生男性からの相談に対し、創作家の明川氏が“高い空からの視点ももって”と題して回答されていた。
相談者の相談内容を簡単にまとめてみよう。
秋葉原事件の犯人のように、自分もイライラが蓄積されていつかは「爆発」するのではないかと不安だ。現に親に乱暴な言葉でイライラをぶつける自分がいてそんな自分が嫌で、そうなると他人を見ても嫌な部分しか見えなくなる。こんな気持ちでいるのは僕だけなのか、皆がどう思っているのか知りたい。こんな気持ちを明かしたらけげんな目で見られるだけなのか。
これに対する明川氏の回答“高い空からの視点をもって”を以下に要約する。
ぼくがカラスの子だったら、嵐の夜は本当に怖いだろう。ひどく揺れる梢の巣で、いつ終わるとも知れぬ暴風に身を震わせる。あるいは終わらないかもしれないと思い、この世を恨むだろう。でもぼくは人間の子であるから、幸いにもそれが果てることを知っている。そう長い間悩むことではないことを知っている。
人間の心は世界と同じ広さだ。その世界のすべてを見て歩くのがぼくらの人生で、心の旅なのだと思う。イラつく日々が続くこともあれば、飢餓感に襲われる日々もある。それも風景のひとつで、気長に旅を続けているとまた違った風景へと繋がっていくはずだ。砂漠と海、嵐と凪、ぼくらの心の正体は一色ではない。善でも悪でもない。矛盾でもない。ただ世界と同じ要素がそこにあるだけだ。一つの場所だけを心だと思わず、高い空からの視点ももって世界を旅して下さい。
私論に入ろう。
心を病む人々が激増している世の中である。
そんな中、今の私には頭さえボケない限り、おそらく今後一生心を病まない自信が少しだけある。それは決して私が感情の乏しい人間だからでも、心臓に毛が生えているからでもない。むしろどちらかと言えば感情の起伏が激しく、繊細なハートの持ち主である(??)と自己分析している。
それなのになぜ心を病まない自信があるのかというと、明川氏がおっしゃる“高い空からの視点”が持てるからである。すなわち、ある程度の長さ大きさの時間的空間的スパンにおける自己の存在を客観視できる能力が既に備わっているからである。何らかの事情でたとえ今どん底に陥っているとしても、風景は常に移り行くことを経験則で学んできているのだ。
それは決して昨日今日の短時間で学べたということではない。長い年月をかけて様々な経験をひとつひとつ積み重ねる事により、視点が徐々に高くなって行ったのである。
それが証拠に私も若かりし頃にこの予備校生のような心理状態を経験している。私の場合は“イライラ”を自分自身の内面に向けてしまい、自分の体を攻撃した。
今で言う“過食症”的症状を経験している。(当時はまだそういう言葉がない時代だった。)一度にパンを一斤食べてみたり、ポテトチップスを一気に3袋位食べたりして無意識のうちに自分の体を痛めつけることにより“イライラ”を解消した時期があった。毎日毎日それを繰り返していた。やはり17歳頃の大学受験のストレスが溜まっていた時期の話である。幸い受験の終了と共に症状は自然に消え去って行ったが。
その後心がフリーになり、明川氏のおっしゃる人生という私にとっての世界の旅が本格的に始まる。
この相談者の予備校生も既に自身を十分に客観視できているし、また周囲に対する配慮の心も伺える。何も心配はないどころか、おそらく予備校生という“半端”な時期を過ぎ去れば、自分らしい人生の旅が待ち構えていることであろう。
人生における経験値が高い程、自らを見渡す視点も高くなるものだ。
人生の旅人達よ、良い旅を。
朝日新聞9月19日(金)夕刊こころのページ「悩みのレッスン」において、17歳の予備校生男性からの相談に対し、創作家の明川氏が“高い空からの視点ももって”と題して回答されていた。
相談者の相談内容を簡単にまとめてみよう。
秋葉原事件の犯人のように、自分もイライラが蓄積されていつかは「爆発」するのではないかと不安だ。現に親に乱暴な言葉でイライラをぶつける自分がいてそんな自分が嫌で、そうなると他人を見ても嫌な部分しか見えなくなる。こんな気持ちでいるのは僕だけなのか、皆がどう思っているのか知りたい。こんな気持ちを明かしたらけげんな目で見られるだけなのか。
これに対する明川氏の回答“高い空からの視点をもって”を以下に要約する。
ぼくがカラスの子だったら、嵐の夜は本当に怖いだろう。ひどく揺れる梢の巣で、いつ終わるとも知れぬ暴風に身を震わせる。あるいは終わらないかもしれないと思い、この世を恨むだろう。でもぼくは人間の子であるから、幸いにもそれが果てることを知っている。そう長い間悩むことではないことを知っている。
人間の心は世界と同じ広さだ。その世界のすべてを見て歩くのがぼくらの人生で、心の旅なのだと思う。イラつく日々が続くこともあれば、飢餓感に襲われる日々もある。それも風景のひとつで、気長に旅を続けているとまた違った風景へと繋がっていくはずだ。砂漠と海、嵐と凪、ぼくらの心の正体は一色ではない。善でも悪でもない。矛盾でもない。ただ世界と同じ要素がそこにあるだけだ。一つの場所だけを心だと思わず、高い空からの視点ももって世界を旅して下さい。
私論に入ろう。
心を病む人々が激増している世の中である。
そんな中、今の私には頭さえボケない限り、おそらく今後一生心を病まない自信が少しだけある。それは決して私が感情の乏しい人間だからでも、心臓に毛が生えているからでもない。むしろどちらかと言えば感情の起伏が激しく、繊細なハートの持ち主である(??)と自己分析している。
それなのになぜ心を病まない自信があるのかというと、明川氏がおっしゃる“高い空からの視点”が持てるからである。すなわち、ある程度の長さ大きさの時間的空間的スパンにおける自己の存在を客観視できる能力が既に備わっているからである。何らかの事情でたとえ今どん底に陥っているとしても、風景は常に移り行くことを経験則で学んできているのだ。
それは決して昨日今日の短時間で学べたということではない。長い年月をかけて様々な経験をひとつひとつ積み重ねる事により、視点が徐々に高くなって行ったのである。
それが証拠に私も若かりし頃にこの予備校生のような心理状態を経験している。私の場合は“イライラ”を自分自身の内面に向けてしまい、自分の体を攻撃した。
今で言う“過食症”的症状を経験している。(当時はまだそういう言葉がない時代だった。)一度にパンを一斤食べてみたり、ポテトチップスを一気に3袋位食べたりして無意識のうちに自分の体を痛めつけることにより“イライラ”を解消した時期があった。毎日毎日それを繰り返していた。やはり17歳頃の大学受験のストレスが溜まっていた時期の話である。幸い受験の終了と共に症状は自然に消え去って行ったが。
その後心がフリーになり、明川氏のおっしゃる人生という私にとっての世界の旅が本格的に始まる。
この相談者の予備校生も既に自身を十分に客観視できているし、また周囲に対する配慮の心も伺える。何も心配はないどころか、おそらく予備校生という“半端”な時期を過ぎ去れば、自分らしい人生の旅が待ち構えていることであろう。
人生における経験値が高い程、自らを見渡す視点も高くなるものだ。
人生の旅人達よ、良い旅を。