原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

偏っているから面白い

2009年03月10日 | その他オピニオン
 報道によると、内閣総理大臣として就任して以来国民からの支持率低迷に苦しみ続け、近頃その支持率をさらに下げ込んでいる某国首相は、新聞を 「あんまり読まない」 (本人談) らしい。
 
 その理由とは、本人曰く 「しばしば偏る」 からであるとのことだ。 
 もう少し詳しく記述すると、「署名記事は読むが、署名の無い記事は自分に関することはだいたい違うので読まない」というのが本人の言い分である。

 これに対し、当然ながら国民からの反発がある。
 例えば朝日新聞3月4日(水)朝刊「声」欄には、会社員男性による以下のような批判意見が掲載されていた。
 「新聞を読まずして首相は国民の気持ちを何で知るのだろう。テレビや雑誌、ネットなどで情報が足りると感じているとしたら、そもそも政治家失格だ。首相は定額給付金や中川前財務・金融相に対する世論の反発なども、実感がつかめていないのではないか。新聞報道は、政治家に指針ともなる貴重な情報を提供しているはずだ。我々国民の生活を守る立場にありながら、“あんまり読まない”では満足な政治などできるはずがない…。」
 以上が、朝日新聞「声」欄の批判意見である。


 私に言わせていただくと、あの某国首相は何とも“天然質”で正直な方と申せばよいのか、国会答弁等を聞いていても“地で行っている”印象を受けたり、持たされた原稿を丸読みしているのが見え見えだったりと、一国の首相らしからぬ幼稚な言動は大方の指摘通りである。
 どうせ中身がないのならば、一見もっともらしい答弁をして表面だけ威厳を保とうとしたり品格があるように演出しようとする政治家より、あの方のように“地を丸出し”のタイプの方が人間としては可愛げがあって受け入れられるような気が私はしなくもない。(ただし、それはあくまでも一般人であればの話であり、政治家としては政治力の如何が問われるのは当然ではあるのだが…)

 今回の「新聞を読むか?」の問いに対しても、「あんまり読まない」の回答は一国の首相としていくら何でもお粗末である。 嘘も方便で、「一応目を通す」程度に答えて場を濁しておくべきであっただろうに…


 ところで本来、新聞に限らず報道とは「偏り」のある性質のものであると私は認識している。「偏り」とまでは言わずとも、同一事象を扱っても対象の事象を取り上げる角度や切り込み方や表現方法のわずかな違いからも、読み手に訴える趣旨が大いに異なってくるかにみえるのはやむを得ない結果なのではなかろうか。 それは、情報の発信側とて意思や思考において多様性のある人間集団であり、報道とはそのような人間の成せる業であるため、発信内容に「偏り」が生じてしまうのは自然な成り行きであるようにも、普段私は捉えている。
 情報の受け手側は、世に氾濫している各種マスメディア報道の中から自分の思考や好みに応じて情報提供先を選び、情報を入手しているのが現状であろう。

 私事になるが、私が朝日新聞を好んで購読していることは「原左都子エッセイ集」を長い期間ご愛読いただいている方々は十分にご存知のことであろう。
 朝日新聞に関しては、思想に「偏り」があるとの世論が存在することを私も昔から認識している。そういった“偏り”世論を承知の上で、私は朝日新聞を長年愛読してきている。
 私の朝日新聞愛読生活において、その記事内容にいつもいつも同調している訳では決して“ない”。 元より反骨精神旺盛な私は、「とんでもない内容だ!」「何を馬鹿なことを書いているんだ!」と怒りをあらわにすることも日々多いのが現状である。
 これが面白いのだ。
 読み手を熱くしてくれるこのようなエネルギーこそが報道には不可欠ではないかと私は考える。この反発エネルギーを元に「原左都子エッセイ集」でその反論記事を綴ったりもしている訳である。
 (朝日新聞を長年読んでいて気付いてるのだが、読者の“反発エネルギー”を期待してあえて煽っているかのごとくの記事を目にすることもあるが、あれは一種の“やらせ”に近く、その意図が見え見えで白けることも大いにあることを書き添えておこう。)


 話が飛躍するが、「偏り」とは人間の個性でもある。これがあるからこそ、人間関係を構築していく事が人として生きていく上での醍醐味となるのではなかろうか。 人間関係における「偏り」を埋めようとして人は議論を重ねながら徐々に接近し、そして理解し合えるのだと私は思いつつ、日頃人とお付き合いさせていただいている。
 
 それはともかく某国の首相さん、やっぱり新聞は一応読みましょうかね? 
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