高校の卒業式において、生徒である子ども本人は履修単位や出席日数等の卒業条件を満たしているにもかかわらず、保護者が授業料未納であるばかりに卒業証書を生徒に授与しなかったり、一旦授与した卒業証書を生徒から回収するという事態が、この3月に全国で公立高校を中心に相次いでいる。
私立の場合、授業料未納の場合卒業が認定されないことについては学校の就学規則として文書にて明言されており、入学時点から口頭でもその旨についての説明が再三なされる。これに関する保護者側からの異議申し立ての余地が一切ない手立てがあらかじめ重々取られている。
にもかかわらず、私立においてもやはり保護者が授業料を滞納しているがために、卒業条件を満たしている生徒に対して卒業証書を授与するか否かの是非に関して難儀している学校は今年は特に多い様子である。
授業料未納の生徒に卒業証書を授与しなかったり、一旦手渡した卒業証書を後で回収したり等の学校の対応に対し、“行き過ぎ”であるとの批判が多く、学校側は“今後検討する”等の回答をしているとの報道である。
授業料滞納に関しては、18歳以下の子どもについては保護者に全責任があると考えるのが私論である。
その見解に立った上で、まず当初より「私立」進学を目指す場合から話を進めよう。
途中から授業料を支払えなくなる程度の家計力で、なぜ子どもを私立へ通わせようとするのかが、以前より私は疑問である。公立に比して私立の学費が割高なことは保護者ならば誰もが知る既存の事実である。
特に中学、中でも首都圏においては、数年前から私立進学がブームとなっている。6年生の4割以上が私立へ進学する公立小学校も少なくないとの報道も耳にする。私立の場合、中高一貫校が主流であるため、保護者は入学前に6年間の潜在的学費を確保しておくべきなのは当然の義務である。 私立の教育力に期待する保護者が多い実情なのだろうが、“右にならえ”的な他力本願ではなく、各家庭が各自の家計力と十分相談した上で子どもの進路を決定するべきであることは言うまでもない。特に中学の場合、私立、公立の選択は可能であるのだから、子どもの進学先決定において、保護者は総合判断力を持って臨むべきである。
3月12日(木)朝日新聞夕刊の記事に、私立高校へ推薦合格したにもかかわらず、父親の“派遣切り”により入学を断念した日系ブラジル4世の15歳の少年の話が掲載されていた。この少年一家は少年の中学卒業式が終わった後、祖国のブラジルに帰国するとのことである。
授業料が納められない以上、このような勇断もやむを得ないことであろう。
次に「公立」について考察してみよう。
公立の場合、中学は義務教育で無償であるため、話は「高校」に限定される。
高校の場合、「公立」受験に失敗して「私立」への進学を余儀なくされるというケースも少なくないため、話が多少複雑となる。
その場合も、やはり基本的には保護者が入学前に3年間の潜在的学費を確保しておくべきなのだが、そうではない家庭がやむを得ず「私立」に進学させる事例も多いのが現状であろう。この場合、確かに授業料の支払いが厳しい事は理解できなくもない。ただ、保護者はやはり子どもの授業料を支払うべきであり、どうしてもそれがかなわないと判断するならば、上記の朝日新聞記事のブラジル4世少年一家のような決断も、一つの選択肢として視野に入れるしか手立てはないのではなかろうか。
現在の公立高校の授業料は、先程ネットで調べたところ年間約12万円程であるらしい。入学時に必要な諸経費は当然ながら支払わないと入学許可されないため、最低限その費用を準備できる家庭の子どもが公立高校へ入学しているのであろう。
ところがやはり入学後、授業料を支払えないがために中退をやむなくされたり、冒頭のごとく、授業料未納のために卒業証書を手渡せない事例が少なからず発生している現状である。
子どもの教育とは将来の社会発展に欠かせないものであるため、その教育費をめぐる話は容易ではない。親が支払えないから切り捨てる、と私論は短絡的に主張する訳では決してない。
ただはやり、現在おそらく進学率99%を超過していると思われる高校の教育費負担に関しては、保護者が最終責任を持つのが基本であると考える。例えば愛車を売り払ってでも、携帯電話を手放してでも、保護者は子どもの高校の授業料を最優先して支払うべきである。
昨年来の世界的経済危機で、この日本でも失業者が量産されている現在ではあるが、たとえ世界が破滅する程の危機が訪れようと、親とは子どもの成長を願い続ける生き物であると私は信じたい。
そのために子を持つ親に要求されることは、“危機予知力”“危機想像力”ではなかろうか。今、世が繁栄しているから浮かれて暮らすのではなく、(子どもを設ける事自体が自由選択であるこの現代社会において)子どもを持つ決断をした以上は、その可愛い我が子が無事に高校を卒業できる程度の資金力をいつの時代も備えるべく努力するのが、親のあるべき姿と私は考える。
苦しくなったら社会保障に頼れば何とかなるという国民の発想は、既に大きく破綻しているこの国の将来を滅亡に導くのみである。
近頃の国政の社会保障改革における(単なる票取りの)安易過ぎる政策の短絡さに、基本的には弱者保護観点に立つこの私ですら歯がゆさが隠し切れないでいる。
私立の場合、授業料未納の場合卒業が認定されないことについては学校の就学規則として文書にて明言されており、入学時点から口頭でもその旨についての説明が再三なされる。これに関する保護者側からの異議申し立ての余地が一切ない手立てがあらかじめ重々取られている。
にもかかわらず、私立においてもやはり保護者が授業料を滞納しているがために、卒業条件を満たしている生徒に対して卒業証書を授与するか否かの是非に関して難儀している学校は今年は特に多い様子である。
授業料未納の生徒に卒業証書を授与しなかったり、一旦手渡した卒業証書を後で回収したり等の学校の対応に対し、“行き過ぎ”であるとの批判が多く、学校側は“今後検討する”等の回答をしているとの報道である。
授業料滞納に関しては、18歳以下の子どもについては保護者に全責任があると考えるのが私論である。
その見解に立った上で、まず当初より「私立」進学を目指す場合から話を進めよう。
途中から授業料を支払えなくなる程度の家計力で、なぜ子どもを私立へ通わせようとするのかが、以前より私は疑問である。公立に比して私立の学費が割高なことは保護者ならば誰もが知る既存の事実である。
特に中学、中でも首都圏においては、数年前から私立進学がブームとなっている。6年生の4割以上が私立へ進学する公立小学校も少なくないとの報道も耳にする。私立の場合、中高一貫校が主流であるため、保護者は入学前に6年間の潜在的学費を確保しておくべきなのは当然の義務である。 私立の教育力に期待する保護者が多い実情なのだろうが、“右にならえ”的な他力本願ではなく、各家庭が各自の家計力と十分相談した上で子どもの進路を決定するべきであることは言うまでもない。特に中学の場合、私立、公立の選択は可能であるのだから、子どもの進学先決定において、保護者は総合判断力を持って臨むべきである。
3月12日(木)朝日新聞夕刊の記事に、私立高校へ推薦合格したにもかかわらず、父親の“派遣切り”により入学を断念した日系ブラジル4世の15歳の少年の話が掲載されていた。この少年一家は少年の中学卒業式が終わった後、祖国のブラジルに帰国するとのことである。
授業料が納められない以上、このような勇断もやむを得ないことであろう。
次に「公立」について考察してみよう。
公立の場合、中学は義務教育で無償であるため、話は「高校」に限定される。
高校の場合、「公立」受験に失敗して「私立」への進学を余儀なくされるというケースも少なくないため、話が多少複雑となる。
その場合も、やはり基本的には保護者が入学前に3年間の潜在的学費を確保しておくべきなのだが、そうではない家庭がやむを得ず「私立」に進学させる事例も多いのが現状であろう。この場合、確かに授業料の支払いが厳しい事は理解できなくもない。ただ、保護者はやはり子どもの授業料を支払うべきであり、どうしてもそれがかなわないと判断するならば、上記の朝日新聞記事のブラジル4世少年一家のような決断も、一つの選択肢として視野に入れるしか手立てはないのではなかろうか。
現在の公立高校の授業料は、先程ネットで調べたところ年間約12万円程であるらしい。入学時に必要な諸経費は当然ながら支払わないと入学許可されないため、最低限その費用を準備できる家庭の子どもが公立高校へ入学しているのであろう。
ところがやはり入学後、授業料を支払えないがために中退をやむなくされたり、冒頭のごとく、授業料未納のために卒業証書を手渡せない事例が少なからず発生している現状である。
子どもの教育とは将来の社会発展に欠かせないものであるため、その教育費をめぐる話は容易ではない。親が支払えないから切り捨てる、と私論は短絡的に主張する訳では決してない。
ただはやり、現在おそらく進学率99%を超過していると思われる高校の教育費負担に関しては、保護者が最終責任を持つのが基本であると考える。例えば愛車を売り払ってでも、携帯電話を手放してでも、保護者は子どもの高校の授業料を最優先して支払うべきである。
昨年来の世界的経済危機で、この日本でも失業者が量産されている現在ではあるが、たとえ世界が破滅する程の危機が訪れようと、親とは子どもの成長を願い続ける生き物であると私は信じたい。
そのために子を持つ親に要求されることは、“危機予知力”“危機想像力”ではなかろうか。今、世が繁栄しているから浮かれて暮らすのではなく、(子どもを設ける事自体が自由選択であるこの現代社会において)子どもを持つ決断をした以上は、その可愛い我が子が無事に高校を卒業できる程度の資金力をいつの時代も備えるべく努力するのが、親のあるべき姿と私は考える。
苦しくなったら社会保障に頼れば何とかなるという国民の発想は、既に大きく破綻しているこの国の将来を滅亡に導くのみである。
近頃の国政の社会保障改革における(単なる票取りの)安易過ぎる政策の短絡さに、基本的には弱者保護観点に立つこの私ですら歯がゆさが隠し切れないでいる。