今回の記事は、前回の「We can graduate!」の続編のような形になるのだが、事情を抱えて生まれてきた子どもを持つ親の苦労は、日頃のケアや教育においてのみではない。
子どもが持つ“事情”に対する周囲からの誤解や無理解に苦しめられる日々なのである。
一般人からの誤解、無理解に関してはある程度やむを得ないものと、元より諦め半分である。これに対し、子どもをその道のプロとしての立場からケアし自立へと導くべく専門職である教育関係者や医学関係者等からの誤解、無理解は保護者にとって耐え難いものがある。
今回の記事においては、その種の専門家からの度重なる誤解、無理解を耐え忍んだ我が子育ての歴史の一部について振り返ることにする。
子どもの小学校入学前に我が家が「就学相談」に臨んだことについては前記事でも公開したが、この「就学相談」における教育委員会の担当者の発言内容を取り上げてみよう。
前回の記事において既述した通り、我が子の場合、6歳時点までの家庭におけるケアが功を奏したのか、表向き(あくまでも表向きであるが)は事情を抱えていることに気付かれない程度にまで成長を遂げてくれていた。
だが残念なことに、生まれ持っての“事情”とは本人がどれ程努力をしても完全に克服できるという性質のものではない。その辺の事情を、親としてはあらかじめできるだけ正確に教育委員会を通して今後お世話になる学校へ伝えておくべきだと考えたことが主たる理由で、入学前に「就学相談」に臨んだとも言える。
医学関係の職業経験があり元教育者でもある私は、生後6年間の子どもの生育状況に関する医学的教育学的な科学的データと共に、6年間で私自身が培ってきた子どもの持つ事情に関しての専門的、学術的なバックグラウンドについて担当者に分かり易く説明しつつ、我が子の生育暦に関する私見を伝えようとした。
ところが、定年を目前にしている教員経験もある女性の担当者は、私の話にはまったく耳をかさず、持参した子どもに関するデータ等の資料を見ようともしない。
そしてその担当者は持論を述べ始めた。
「障害児は障害児なんですよ。これは誰が見てもわかります。あなたの子どもさんは“普通の子”です。お母さんが勘違いしているだけで、この子には障害なんてありませよ。むしろ今時こんな“いい子”は珍しいくらいで、この子は十分に普通学級でやっていけます。」
(親の私だって我が子は“いい子”だと思っている。出産時のトラブルさえなければ、もしかしたらこの子は非の打ち所がない程の“お利口さん”だったかもしれないとも思う。だた、それを思うと無念さが募るだけだ。現実を見つめて生きなければ親の役割は果たせないのに…)
そして、担当者はこう続ける。
「あなたの子どもさんは障害児ではないから言いますけど、今時の母親はなまじっか“学”があるばかりに、その“学”をひけらかして屁理屈を並べる事に一生懸命になっている。障害児とは『存在自体が迷惑』なんですよ。そんな障害児を自分が産んでおきながら偉そうにしていないで、社会に対して頭を下げるべきだ。障害のある我が子の人権を学校に尊重して欲しいのであれば、母親としてまずやるべきことは、入学する学校に頭を下げることだ。PTAの親御さん達に対して、“我が子が入学することで皆さんの子どもさんの足を引っ張って申し訳ない”と頭を下げるべきだ。」
あなたに言われなくとも、そうしてきている。 特に幼少の頃程周囲に迷惑がかかるので、母の私はどこへ行っても頭を下げる毎日だった。幼稚園でも公共の場のどこでも「申し訳ございません。」の連続だった。家では人の何倍もの手間暇かけて育て、外では頭を下げてばかりの過酷なほどにストレスフルな日々だった。
そんな過酷さの中にあっても、親とは子どもの成長を願いたい生き物なのだ。それ故に、愛情はもちろんのこと、今の時代は科学的専門的な理解は欠かせない。めくら滅法ケアをするよりも、専門的バックグラウンドに基づいてケアを行っていく方が高い効果が早く得られ、子どもの早期の自立に繋がるのだ。
だからそこ、公開したくもないプライバシーをあえて公開して「就学相談」に臨んでいるのに、教育委員会がこれ程の野蛮とも言える低レベル状態では話にならないどころか、傷を深められただけの面談に終わった。
「障害児は存在自体が迷惑だ。」
そう言い切った担当者を擁する教育委員会が管轄する小学校に入学させる事は、我が子を谷に突き落とすよりも残酷なことのように思えた。4月の入学までの短期間で、小学校入学を取り止める手段を本気で模索したものである。
こうやって打ちひしがれた思いで、義務教育であるためやむを得ず公立小学校へ入学させた我が子であるが、スタート時点の1、2年生時の担任の先生に恵まれ正しい理解が得られたこともあり、我が子はさらに成長を遂げていくことになる。
そして何よりも我が子の場合、生来の素直さ忍耐強さと共に、サリバン先生(私のことであるが)の厳しい教育の成果もあるのか、公共心や年齢相応の倫理観を備えた礼儀正しい子どもに育ってくれている。
そういった子ども本人のプラスの持ち味が幸いして、我が子は今後も将来の自立に向けてさらなる成長を遂げ続けてくれることであろう。
子どもが持つ“事情”に対する周囲からの誤解や無理解に苦しめられる日々なのである。
一般人からの誤解、無理解に関してはある程度やむを得ないものと、元より諦め半分である。これに対し、子どもをその道のプロとしての立場からケアし自立へと導くべく専門職である教育関係者や医学関係者等からの誤解、無理解は保護者にとって耐え難いものがある。
今回の記事においては、その種の専門家からの度重なる誤解、無理解を耐え忍んだ我が子育ての歴史の一部について振り返ることにする。
子どもの小学校入学前に我が家が「就学相談」に臨んだことについては前記事でも公開したが、この「就学相談」における教育委員会の担当者の発言内容を取り上げてみよう。
前回の記事において既述した通り、我が子の場合、6歳時点までの家庭におけるケアが功を奏したのか、表向き(あくまでも表向きであるが)は事情を抱えていることに気付かれない程度にまで成長を遂げてくれていた。
だが残念なことに、生まれ持っての“事情”とは本人がどれ程努力をしても完全に克服できるという性質のものではない。その辺の事情を、親としてはあらかじめできるだけ正確に教育委員会を通して今後お世話になる学校へ伝えておくべきだと考えたことが主たる理由で、入学前に「就学相談」に臨んだとも言える。
医学関係の職業経験があり元教育者でもある私は、生後6年間の子どもの生育状況に関する医学的教育学的な科学的データと共に、6年間で私自身が培ってきた子どもの持つ事情に関しての専門的、学術的なバックグラウンドについて担当者に分かり易く説明しつつ、我が子の生育暦に関する私見を伝えようとした。
ところが、定年を目前にしている教員経験もある女性の担当者は、私の話にはまったく耳をかさず、持参した子どもに関するデータ等の資料を見ようともしない。
そしてその担当者は持論を述べ始めた。
「障害児は障害児なんですよ。これは誰が見てもわかります。あなたの子どもさんは“普通の子”です。お母さんが勘違いしているだけで、この子には障害なんてありませよ。むしろ今時こんな“いい子”は珍しいくらいで、この子は十分に普通学級でやっていけます。」
(親の私だって我が子は“いい子”だと思っている。出産時のトラブルさえなければ、もしかしたらこの子は非の打ち所がない程の“お利口さん”だったかもしれないとも思う。だた、それを思うと無念さが募るだけだ。現実を見つめて生きなければ親の役割は果たせないのに…)
そして、担当者はこう続ける。
「あなたの子どもさんは障害児ではないから言いますけど、今時の母親はなまじっか“学”があるばかりに、その“学”をひけらかして屁理屈を並べる事に一生懸命になっている。障害児とは『存在自体が迷惑』なんですよ。そんな障害児を自分が産んでおきながら偉そうにしていないで、社会に対して頭を下げるべきだ。障害のある我が子の人権を学校に尊重して欲しいのであれば、母親としてまずやるべきことは、入学する学校に頭を下げることだ。PTAの親御さん達に対して、“我が子が入学することで皆さんの子どもさんの足を引っ張って申し訳ない”と頭を下げるべきだ。」
あなたに言われなくとも、そうしてきている。 特に幼少の頃程周囲に迷惑がかかるので、母の私はどこへ行っても頭を下げる毎日だった。幼稚園でも公共の場のどこでも「申し訳ございません。」の連続だった。家では人の何倍もの手間暇かけて育て、外では頭を下げてばかりの過酷なほどにストレスフルな日々だった。
そんな過酷さの中にあっても、親とは子どもの成長を願いたい生き物なのだ。それ故に、愛情はもちろんのこと、今の時代は科学的専門的な理解は欠かせない。めくら滅法ケアをするよりも、専門的バックグラウンドに基づいてケアを行っていく方が高い効果が早く得られ、子どもの早期の自立に繋がるのだ。
だからそこ、公開したくもないプライバシーをあえて公開して「就学相談」に臨んでいるのに、教育委員会がこれ程の野蛮とも言える低レベル状態では話にならないどころか、傷を深められただけの面談に終わった。
「障害児は存在自体が迷惑だ。」
そう言い切った担当者を擁する教育委員会が管轄する小学校に入学させる事は、我が子を谷に突き落とすよりも残酷なことのように思えた。4月の入学までの短期間で、小学校入学を取り止める手段を本気で模索したものである。
こうやって打ちひしがれた思いで、義務教育であるためやむを得ず公立小学校へ入学させた我が子であるが、スタート時点の1、2年生時の担任の先生に恵まれ正しい理解が得られたこともあり、我が子はさらに成長を遂げていくことになる。
そして何よりも我が子の場合、生来の素直さ忍耐強さと共に、サリバン先生(私のことであるが)の厳しい教育の成果もあるのか、公共心や年齢相応の倫理観を備えた礼儀正しい子どもに育ってくれている。
そういった子ども本人のプラスの持ち味が幸いして、我が子は今後も将来の自立に向けてさらなる成長を遂げ続けてくれることであろう。