3月上旬に朝日新聞「声」欄において、老人介護における介護者の言葉遣いに関する投書とそれに対する反論投書が掲載された。
早速、この2つの投書内容を以下に紹介する。
まずは、3月3日(火)「声」欄の高校生による投書「老人介護の際 敬語を使って」から紹介しよう。
「うんうん、こぼさないで食べてね。」老人介護施設で中年の介護士が入居者にこう話しかけている場面をテレビで見た。まるで赤ちゃんに対するようで、何十年も年上の人になぜ敬語を使わないのか強く疑問を抱いた。その老人は認知症で介護する方も大変そうなのだが、認知症になる以前に長い人生があり、社会のために働き家族を養い、年を重ねてきたはずだ。そんな人生の先輩に敬意と感謝の念をもって接することは、介護以前の問題として大切ではないだろうか。
これに対する反論投書、3月8日(日)「声」欄の元介護士女性による「介護の言葉は気持ちが第一」を次に紹介しよう。
認知症の表れ方は人それぞれで、本当に子どもの頃に返ったような方もいる。そのような場合、介護士が母親になったり友達のように話しかけることもあるが、その方が利用者は安心してくれる。まして方言のある地方においては、丁寧な言葉遣いでは聴き取りづらかったり理解しにくかったりする。何の気持ちも思いも込めていない言葉は利用者には届かない。施設が利用者にとって第二の家庭と思ってもらえることを願ってやまない。
上記の「声」欄の2通の投書においては、声をかける相手のお年寄りが「認知症」であるという特殊事情が背景にあるため、多少議論が面倒となるものと私論は捉える。 それを承知した上で、私論は基本的には上の高校生の意見に軍配をあげたい。
反論を提示した元介護士の意見ももっともではある。この元介護士も述べているが「何の気持ちも思いも込めていない言葉は相手に届かない」、その通りである。
ところが残念ながら、この元介護士の主張するところの、「敬体表現」イコール「何の気持ちも思いも込めていない」という図式は決して成り立たない。気持ちや思いがこもった言葉は、その表現が「敬体」であれ「常体」であれ必ずや相手に通じるものであろう。
これを前提として、さらに考察していこう。
投書の高校生がテレビ映像を見て違和感を抱いたのは、その「常体表現」に認知症老人に対する一種の“蔑み”のニュアンスを感じたためであろう。
私も日常的に、そういった場面によく出くわす。自分の見知らぬ年配者に対して、意味もなく「常体表現」を使用する大人は社会に多く存在するようである。その背景には「年寄りとは、既に労働生産性の観点で何の役にも立たない社会のお荷物であり、自分よりも格下の部類の人間である。」とする潜在的思想が見え見えであるように響いて、私も嫌悪感を抱く場面がよくある。
こういった“年寄り排除思想”がまかり通っているかのごとくの現代社会の実態を念頭においた場合、相手がたとえ認知症という特殊事情を抱えていようがいまいが、良識のある人間としてはとりあえず「敬体表現」を用いて、人生の先輩であるお年寄りを敬うのが無難ではないのだろうか。
もちろん、人間関係が築かれて両者の関係が親密になって「常体表現」を使用することに関する暗黙の了解が二者間において得られた後は、「常体表現」で十分であろう。その場合、端で見ている人間にとっても違和感を抱かないものではなかろうか。
上記朝日新聞「声」欄において反論した元介護士が、以上の社会の現状も十分に承知で、「認知症」という症状の実態もわきまえた上で、相手によって「常体」「敬体」を使い分けているのであれば何ら問題はないであろう。
私自身も、面識のない人から突然「常体表現」で接してこられるという場面をよく経験している。
今よりも多少若かりし頃の話であるが、街中を歩いていて突然「彼女~、いい化粧品があるから、ちょっと話聞いてくれない~~?」とセールスしてくる若い男性。 これなんぞ女性の皆さんはよくご経験であろうが、(きっと実年齢よりも相当若く見てもらってうれしいと思う女心を狙ってるぞ。)なんて、見え見えのセールスだよね。 (もちろん、年の功でセールスの話なんか聞かないよ~)
学校等の保護者(特に母親)関係においても「常体表現」が横行している模様だ。
独身期間が長く社会人としての生活が長かった私は、面識のない人との初対面の会話は「敬体表現」が基本と心得ていたため、これには当初大いに違和感を抱いたものである。 幼稚園や習い事や学校へ行くと、突然見知らぬ保護者が“タメ口”で私に近づいてくるのだ。
「あのさ~、あれがあれじゃん、どうのこうの…」 あの異質な世界には度肝を抜かれた思いだった。おそらく皆さん、学校の同級生や会社の同期生との付き合いのノリなのであろうと把握した私はすぐにそれに合わせたのだが、違和感はずっと隠し切れないでいた。 もちろん、母親同士とて仲良しになると「常体表現」になるのは自然の成り行きなのだが…。(子どもを中学校以降“私立”に入れてからは、どういう訳か、母親同士の間でも言葉遣いの常識が通用するようになり、自然体で保護者と会話ができるようになって胸を撫で下ろしている現在である…)
この私も、年老いて痴呆症になったら「おばあちゃん、こぼさないで食べてね!」と介護士からたしなめられるのであろうか???
私にとって“老後”とはさほど遠くはない未来であるが、日本の美学でもある「敬体表現」と「常体表現」の言葉の使い分けの文化を堪能できるような、毅然とした貴婦人でいつまでもありたいものである。
(元々無理か?!)
早速、この2つの投書内容を以下に紹介する。
まずは、3月3日(火)「声」欄の高校生による投書「老人介護の際 敬語を使って」から紹介しよう。
「うんうん、こぼさないで食べてね。」老人介護施設で中年の介護士が入居者にこう話しかけている場面をテレビで見た。まるで赤ちゃんに対するようで、何十年も年上の人になぜ敬語を使わないのか強く疑問を抱いた。その老人は認知症で介護する方も大変そうなのだが、認知症になる以前に長い人生があり、社会のために働き家族を養い、年を重ねてきたはずだ。そんな人生の先輩に敬意と感謝の念をもって接することは、介護以前の問題として大切ではないだろうか。
これに対する反論投書、3月8日(日)「声」欄の元介護士女性による「介護の言葉は気持ちが第一」を次に紹介しよう。
認知症の表れ方は人それぞれで、本当に子どもの頃に返ったような方もいる。そのような場合、介護士が母親になったり友達のように話しかけることもあるが、その方が利用者は安心してくれる。まして方言のある地方においては、丁寧な言葉遣いでは聴き取りづらかったり理解しにくかったりする。何の気持ちも思いも込めていない言葉は利用者には届かない。施設が利用者にとって第二の家庭と思ってもらえることを願ってやまない。
上記の「声」欄の2通の投書においては、声をかける相手のお年寄りが「認知症」であるという特殊事情が背景にあるため、多少議論が面倒となるものと私論は捉える。 それを承知した上で、私論は基本的には上の高校生の意見に軍配をあげたい。
反論を提示した元介護士の意見ももっともではある。この元介護士も述べているが「何の気持ちも思いも込めていない言葉は相手に届かない」、その通りである。
ところが残念ながら、この元介護士の主張するところの、「敬体表現」イコール「何の気持ちも思いも込めていない」という図式は決して成り立たない。気持ちや思いがこもった言葉は、その表現が「敬体」であれ「常体」であれ必ずや相手に通じるものであろう。
これを前提として、さらに考察していこう。
投書の高校生がテレビ映像を見て違和感を抱いたのは、その「常体表現」に認知症老人に対する一種の“蔑み”のニュアンスを感じたためであろう。
私も日常的に、そういった場面によく出くわす。自分の見知らぬ年配者に対して、意味もなく「常体表現」を使用する大人は社会に多く存在するようである。その背景には「年寄りとは、既に労働生産性の観点で何の役にも立たない社会のお荷物であり、自分よりも格下の部類の人間である。」とする潜在的思想が見え見えであるように響いて、私も嫌悪感を抱く場面がよくある。
こういった“年寄り排除思想”がまかり通っているかのごとくの現代社会の実態を念頭においた場合、相手がたとえ認知症という特殊事情を抱えていようがいまいが、良識のある人間としてはとりあえず「敬体表現」を用いて、人生の先輩であるお年寄りを敬うのが無難ではないのだろうか。
もちろん、人間関係が築かれて両者の関係が親密になって「常体表現」を使用することに関する暗黙の了解が二者間において得られた後は、「常体表現」で十分であろう。その場合、端で見ている人間にとっても違和感を抱かないものではなかろうか。
上記朝日新聞「声」欄において反論した元介護士が、以上の社会の現状も十分に承知で、「認知症」という症状の実態もわきまえた上で、相手によって「常体」「敬体」を使い分けているのであれば何ら問題はないであろう。
私自身も、面識のない人から突然「常体表現」で接してこられるという場面をよく経験している。
今よりも多少若かりし頃の話であるが、街中を歩いていて突然「彼女~、いい化粧品があるから、ちょっと話聞いてくれない~~?」とセールスしてくる若い男性。 これなんぞ女性の皆さんはよくご経験であろうが、(きっと実年齢よりも相当若く見てもらってうれしいと思う女心を狙ってるぞ。)なんて、見え見えのセールスだよね。 (もちろん、年の功でセールスの話なんか聞かないよ~)
学校等の保護者(特に母親)関係においても「常体表現」が横行している模様だ。
独身期間が長く社会人としての生活が長かった私は、面識のない人との初対面の会話は「敬体表現」が基本と心得ていたため、これには当初大いに違和感を抱いたものである。 幼稚園や習い事や学校へ行くと、突然見知らぬ保護者が“タメ口”で私に近づいてくるのだ。
「あのさ~、あれがあれじゃん、どうのこうの…」 あの異質な世界には度肝を抜かれた思いだった。おそらく皆さん、学校の同級生や会社の同期生との付き合いのノリなのであろうと把握した私はすぐにそれに合わせたのだが、違和感はずっと隠し切れないでいた。 もちろん、母親同士とて仲良しになると「常体表現」になるのは自然の成り行きなのだが…。(子どもを中学校以降“私立”に入れてからは、どういう訳か、母親同士の間でも言葉遣いの常識が通用するようになり、自然体で保護者と会話ができるようになって胸を撫で下ろしている現在である…)
この私も、年老いて痴呆症になったら「おばあちゃん、こぼさないで食べてね!」と介護士からたしなめられるのであろうか???
私にとって“老後”とはさほど遠くはない未来であるが、日本の美学でもある「敬体表現」と「常体表現」の言葉の使い分けの文化を堪能できるような、毅然とした貴婦人でいつまでもありたいものである。
(元々無理か?!)