昨日複数の用件があって外出したのだが、その合間の“時間潰し”のために書店に立ち寄った。
数冊の本を立ち読みした中で、ある本の冒頭の一フレーズが(マイナスの意味合いで)印象に残っている。
本のタイトルくらい憶えておけばよかったのだが、似たような題名の本が氾濫している現在の出版事情の中、残念ながら憶えきれていない。
そのフレーズとは、「“話す”ことに比して“書く”ことを苦手とする人が多いが、原稿用紙10枚書くことを億劫がらない程度の力を身に付けることが出来たなら、ある程度の“書く”力を習得できたと言える…」云々…
確か、このような内容の冒頭文で、“書く”能力を指南しようとするような趣旨の本であった。
う~~ん、ちょっと待ってくれよ。
“書く”能力を指南しようとする趣旨の本において、冒頭から「原稿用紙10枚」の表現は避けて欲しいものである。この言葉を聞いただけでアレルギーを起こす人も多いのではなかろうか。
ご覧の通り、この私はほぼ隔日間隔で1本が約2000字(原稿用紙5枚)程度のエッセイを綴り続けている。これだけの文章をもう1年半以上に渡り書き続けている私ではあるが、“書く”能力に長けているという自覚はさほどない。
そんな私の「原左都子エッセイ集」続行の原動力は、バックナンバー「感情移入が記事の生命の源」において綴った通り、“感情移入”力である。すなわち、“このテーマでこのように書きたい!”と思える内面から湧き出てくる力が、キーボードを叩いて文章を綴るという行動に繋がっているのだ。 決して、最初から2000字(原稿用紙5枚)の文章を体裁よく仕上げたいと目論んで「作文」に取り組んでいる訳ではない。
数年前に、私は大学受験生の小論文添削の指導者として採用され、自宅でその仕事に携わったことがある。(育児の合間にチャレンジしたという、主婦としてはよくあるパターンの話です…)
ところが、この指導内容が徹底的にマニュアル化されているのだ。小論文を書かせる方法論にばかりこだわり、それを受験生に頭ごなしにマニュアルで教え込もうとする指導法である。 私は指導者として採用された当初より本部が提示したこの指導方法に疑念を抱いていた。おそらく、この指導マニュアルを企画立案した人物が“書く”ことの達成感を真に心得ていないのかとも推測した。 このような指導方法では受験生の文章を書く力が育たないばかりか、若者の将来に渡る“書く”楽しみを奪い、かえって文章を綴る能力を潰しかねないと考えた私は、本部にその旨の自己の考えを綴った「小論文」を提出してこの指導者の仕事を辞退した経験がある。
(報酬がアホらしいほど少なくて、ちょっとやってられなかったのも本音だけどね。)
私自身も、論文や小論文課題における「字数制限」は昔から苦手である。そして今のようにワープロもパソコンもなかった時代は、文章はすべて“原稿用紙”に手書きであったが、あの原稿用紙の“升目の縛り”に私は一種の嫌悪感を抱いていた。「字数制限」といい、あの「升目」といい、自分の自由な思考や発想を制限されるような拘束感があったためだ。
その対策として、私の場合はいつもとりあえずは“真っ白”な紙に、論文のテーマに関する自分の自由な思考や発想を字数にはまったく囚われずに書き殴って、内在する熱い思いのすべてを吐き出す作業をした。 次に、「字数制限」が厳格な場合はやむを得ないので、その字数の範囲内に再構成して1本の論文(小論文)として仕上げたものである。 私の場合、最初の“書き殴り”が大抵大幅に字数オーバーしてしまっているのだが、これを削り取る作業にいつも難儀する。“この論点ははずせない”“これを削除すると全体のバランスが取れない”等々でどうしても削り切れない場合が多いのだ。 そこで、「字数制限」が厳格でない場合は字数オーバーのまま提出したことも多い。
いずれにせよ、ワープロそしてパソコンで文書作成をするようになってからは、原稿用紙のあの嫌悪感を抱く“升目”も見なくて済めば、削除追加等の文章構成作業が至って容易であるため、文章を綴り仕上げる作業の負担がずい分と軽減されていることを実感しつつ、文書を綴る機会の多い私は先端技術の発展に感謝する日々である。
それにしても、文章力を身に付けるために「原稿用紙10枚」書く力が必要、といきなり言われて“書く”能力が啓発される人がいるのだろうか?
この本は書店の意外と目立つ場所にあったのだが、大変失礼ながら、この本は売れるのだろうか???
数冊の本を立ち読みした中で、ある本の冒頭の一フレーズが(マイナスの意味合いで)印象に残っている。
本のタイトルくらい憶えておけばよかったのだが、似たような題名の本が氾濫している現在の出版事情の中、残念ながら憶えきれていない。
そのフレーズとは、「“話す”ことに比して“書く”ことを苦手とする人が多いが、原稿用紙10枚書くことを億劫がらない程度の力を身に付けることが出来たなら、ある程度の“書く”力を習得できたと言える…」云々…
確か、このような内容の冒頭文で、“書く”能力を指南しようとするような趣旨の本であった。
う~~ん、ちょっと待ってくれよ。
“書く”能力を指南しようとする趣旨の本において、冒頭から「原稿用紙10枚」の表現は避けて欲しいものである。この言葉を聞いただけでアレルギーを起こす人も多いのではなかろうか。
ご覧の通り、この私はほぼ隔日間隔で1本が約2000字(原稿用紙5枚)程度のエッセイを綴り続けている。これだけの文章をもう1年半以上に渡り書き続けている私ではあるが、“書く”能力に長けているという自覚はさほどない。
そんな私の「原左都子エッセイ集」続行の原動力は、バックナンバー「感情移入が記事の生命の源」において綴った通り、“感情移入”力である。すなわち、“このテーマでこのように書きたい!”と思える内面から湧き出てくる力が、キーボードを叩いて文章を綴るという行動に繋がっているのだ。 決して、最初から2000字(原稿用紙5枚)の文章を体裁よく仕上げたいと目論んで「作文」に取り組んでいる訳ではない。
数年前に、私は大学受験生の小論文添削の指導者として採用され、自宅でその仕事に携わったことがある。(育児の合間にチャレンジしたという、主婦としてはよくあるパターンの話です…)
ところが、この指導内容が徹底的にマニュアル化されているのだ。小論文を書かせる方法論にばかりこだわり、それを受験生に頭ごなしにマニュアルで教え込もうとする指導法である。 私は指導者として採用された当初より本部が提示したこの指導方法に疑念を抱いていた。おそらく、この指導マニュアルを企画立案した人物が“書く”ことの達成感を真に心得ていないのかとも推測した。 このような指導方法では受験生の文章を書く力が育たないばかりか、若者の将来に渡る“書く”楽しみを奪い、かえって文章を綴る能力を潰しかねないと考えた私は、本部にその旨の自己の考えを綴った「小論文」を提出してこの指導者の仕事を辞退した経験がある。
(報酬がアホらしいほど少なくて、ちょっとやってられなかったのも本音だけどね。)
私自身も、論文や小論文課題における「字数制限」は昔から苦手である。そして今のようにワープロもパソコンもなかった時代は、文章はすべて“原稿用紙”に手書きであったが、あの原稿用紙の“升目の縛り”に私は一種の嫌悪感を抱いていた。「字数制限」といい、あの「升目」といい、自分の自由な思考や発想を制限されるような拘束感があったためだ。
その対策として、私の場合はいつもとりあえずは“真っ白”な紙に、論文のテーマに関する自分の自由な思考や発想を字数にはまったく囚われずに書き殴って、内在する熱い思いのすべてを吐き出す作業をした。 次に、「字数制限」が厳格な場合はやむを得ないので、その字数の範囲内に再構成して1本の論文(小論文)として仕上げたものである。 私の場合、最初の“書き殴り”が大抵大幅に字数オーバーしてしまっているのだが、これを削り取る作業にいつも難儀する。“この論点ははずせない”“これを削除すると全体のバランスが取れない”等々でどうしても削り切れない場合が多いのだ。 そこで、「字数制限」が厳格でない場合は字数オーバーのまま提出したことも多い。
いずれにせよ、ワープロそしてパソコンで文書作成をするようになってからは、原稿用紙のあの嫌悪感を抱く“升目”も見なくて済めば、削除追加等の文章構成作業が至って容易であるため、文章を綴り仕上げる作業の負担がずい分と軽減されていることを実感しつつ、文書を綴る機会の多い私は先端技術の発展に感謝する日々である。
それにしても、文章力を身に付けるために「原稿用紙10枚」書く力が必要、といきなり言われて“書く”能力が啓発される人がいるのだろうか?
この本は書店の意外と目立つ場所にあったのだが、大変失礼ながら、この本は売れるのだろうか???