他者とどういう人間関係を築いていきたいか? それは誰しも、関係を築く相手によって大きく異なることであろう。
今回の記事では久しぶりに、私が以前よりファンである 明川哲也氏 が回答を担当されている朝日新聞夕刊“悩みのレッスン”4月26日(月)の相談を取り上げることにしよう。
まず、29歳会社員女性よりの「素の自分がわからない」と題する相談内容を以下に要約して紹介しよう。
素の自分というものがわからない。 私は他人と一緒にいると気が休まらない。よくこの人とは自然体でいられる等の話を聞くし私自身も他人からそう言われることもあるが、私には他人に対して自然体でいられるという感覚がない。 人と過ごすと気を張りすぎて疲れ耐えられず、一人でいる時間がないと気持ちがふさぎ込んでしまう。 小さい頃からソツなく人と距離を保ってきているので誰かに気を許すなんてあり得ない。 そもそも私には何かが欠けているのだろうか。
原左都子がファンである明川哲也氏の回答は後回しにさせていただいて、まず私論から述べさせていただこう。
この相談者とまったく同様の感覚を抱くことは、この女性よりはるか長年生きてきている私にも今尚大いにある。 いや、むしろ人間としての他者に対する礼儀や配慮を考慮した場合、この女性の対応はさしあたって常識的と言えるのではないかと私は捉える。
相手と知り合った状況にもよるが、さほどの時間的経過もないのにいきなり自を丸出しにして“自然体”で接して来ようとする人に対しては、この私など“世間知らずで失礼な奴だなあ”との思いを抱き、むしろその相手の良識の程や(失礼ながら)脳ミソの中身を疑い、少し敬遠させてもらいたく感じるものである。
そういう意味では、この相談者は至って良識的な人物でスマートな人付き合いをしているとも評価できる。
ただし、人間関係とは自分が関係を深めたいと欲したりそう意図する相手に対しては、その顕在意識の有無にかかわらず相手と関係を深める方向性が自らの内面に存在しない限り、いつまで経っても進展は望めないであろう。
もしもこの相談女性が、その種の相手に対しても関係を深める方向性が見出せずにいつまでも気を張っているのだとしたら、確かに早急に改善を要するようにも思われる。
それはこの相談者が元来の“人間嫌い”だからであるのか?? どうやら人間関係のぎこちなさを自ら分析して悩んでいるこの相談を読む限り、決してそうではなさそうだ。
あるいは、今までの人生において関係を深めたいと思える人物に巡り会えずにいるのか? そうだとすると問題が深刻なようにも感じる。
ここで私事を述べるが、一般的な人間関係においてこの相談女性同様のぎこちない感覚をよく抱く私であるけれども、我がプライベート世界においては自を露出して至って自然体で過ごせる相手が若かりし頃よりいつも周囲に存在するのだ。それが我が人生の一番の醍醐味でもある。 表面的に繕わねばならない相手との付き合いももちろん世を渡っていく上で必要不可欠ではあるが、人間とは自然体で過ごせる相手が存在してその相手と時間を共有できるからこそ充実するものである。
この相談女性はもしかしたら人に対する警戒感や拒否感が強く、今までの人生において“自を露出”できる機会が得られないのかもしれない。
そうであったとしてもそれは決してこの相談女性に全面的に非があるのではなく、実体のない人との付き合いを強要されるネット社会の横行等を背景とした、現在の殺伐とした人間関係の希薄化現象が顕著な世に生かされている要因も多大であるのかもしれない。
今回の相談の回答者であられる明川哲也氏は、原左都子による上記私論とはまったく異なる、人間存在の普遍性を鑑みたグローバルな観点から回答を述べられている。
「ボクもそう、恐れず胸開いて」 と題する明川氏の回答を以下に要約して紹介し、この記事を締めくくることとしよう。
ボクにも素の自分があるのかどうかわからない。 十年ほど前ボクは芸名を捨てて今の筆名にして仕事が減った。でもボクが消えた訳ではない。でも職業が自分なのかというとそれも怪しい。いろんな事をして生きているのでとりあえず創作家と名のっているが、別にカツ丼評論家でも構わない。 ただひとつ言えるのは、ボクらは何らかの関係性においてしか存在し得ないということだと思う。あなたが相談してくれたからボクは今頭をひねっている。ひょっとしたらボクは常に流動していく他者、他存在との関係があるからこそ言葉を発することができ、それを自分だと思い込んでいるだけなのかもしれない。 だとすれば、始まりには自己という型があるのではなく、それが分かるのは旅の終盤に差し掛かる頃なのかもしれない。それは鬱蒼たる森として。 ならば恐れずに胸を開き、人や風景や犬や文字とつながり合うことだと思う。
私が明川哲也氏のファンになったのは、氏が芸名を捨てて“明川哲也”となられ(ご本人曰く)“仕事が減った”以降のことである。 その後の明川氏に共鳴させていただく私も(恐れ多くも)偶然に同様の思いを描く人生を歩んでいると自負するのである。
朝日新聞“悩みのレッスン”の相談者は、もしかしたらもっと具体的で実効性のある回答を欲していたのかもしれない。 だが、少しでも明川氏の今回の回答の根源を辿ってみたいと思えたならば、きっとこの相談者にもいつの日か人間関係の醍醐味を感じられる明るい未来が訪れるのかもしれないと、原左都子は信じるのだ。
今回の記事では久しぶりに、私が以前よりファンである 明川哲也氏 が回答を担当されている朝日新聞夕刊“悩みのレッスン”4月26日(月)の相談を取り上げることにしよう。
まず、29歳会社員女性よりの「素の自分がわからない」と題する相談内容を以下に要約して紹介しよう。
素の自分というものがわからない。 私は他人と一緒にいると気が休まらない。よくこの人とは自然体でいられる等の話を聞くし私自身も他人からそう言われることもあるが、私には他人に対して自然体でいられるという感覚がない。 人と過ごすと気を張りすぎて疲れ耐えられず、一人でいる時間がないと気持ちがふさぎ込んでしまう。 小さい頃からソツなく人と距離を保ってきているので誰かに気を許すなんてあり得ない。 そもそも私には何かが欠けているのだろうか。
原左都子がファンである明川哲也氏の回答は後回しにさせていただいて、まず私論から述べさせていただこう。
この相談者とまったく同様の感覚を抱くことは、この女性よりはるか長年生きてきている私にも今尚大いにある。 いや、むしろ人間としての他者に対する礼儀や配慮を考慮した場合、この女性の対応はさしあたって常識的と言えるのではないかと私は捉える。
相手と知り合った状況にもよるが、さほどの時間的経過もないのにいきなり自を丸出しにして“自然体”で接して来ようとする人に対しては、この私など“世間知らずで失礼な奴だなあ”との思いを抱き、むしろその相手の良識の程や(失礼ながら)脳ミソの中身を疑い、少し敬遠させてもらいたく感じるものである。
そういう意味では、この相談者は至って良識的な人物でスマートな人付き合いをしているとも評価できる。
ただし、人間関係とは自分が関係を深めたいと欲したりそう意図する相手に対しては、その顕在意識の有無にかかわらず相手と関係を深める方向性が自らの内面に存在しない限り、いつまで経っても進展は望めないであろう。
もしもこの相談女性が、その種の相手に対しても関係を深める方向性が見出せずにいつまでも気を張っているのだとしたら、確かに早急に改善を要するようにも思われる。
それはこの相談者が元来の“人間嫌い”だからであるのか?? どうやら人間関係のぎこちなさを自ら分析して悩んでいるこの相談を読む限り、決してそうではなさそうだ。
あるいは、今までの人生において関係を深めたいと思える人物に巡り会えずにいるのか? そうだとすると問題が深刻なようにも感じる。
ここで私事を述べるが、一般的な人間関係においてこの相談女性同様のぎこちない感覚をよく抱く私であるけれども、我がプライベート世界においては自を露出して至って自然体で過ごせる相手が若かりし頃よりいつも周囲に存在するのだ。それが我が人生の一番の醍醐味でもある。 表面的に繕わねばならない相手との付き合いももちろん世を渡っていく上で必要不可欠ではあるが、人間とは自然体で過ごせる相手が存在してその相手と時間を共有できるからこそ充実するものである。
この相談女性はもしかしたら人に対する警戒感や拒否感が強く、今までの人生において“自を露出”できる機会が得られないのかもしれない。
そうであったとしてもそれは決してこの相談女性に全面的に非があるのではなく、実体のない人との付き合いを強要されるネット社会の横行等を背景とした、現在の殺伐とした人間関係の希薄化現象が顕著な世に生かされている要因も多大であるのかもしれない。
今回の相談の回答者であられる明川哲也氏は、原左都子による上記私論とはまったく異なる、人間存在の普遍性を鑑みたグローバルな観点から回答を述べられている。
「ボクもそう、恐れず胸開いて」 と題する明川氏の回答を以下に要約して紹介し、この記事を締めくくることとしよう。
ボクにも素の自分があるのかどうかわからない。 十年ほど前ボクは芸名を捨てて今の筆名にして仕事が減った。でもボクが消えた訳ではない。でも職業が自分なのかというとそれも怪しい。いろんな事をして生きているのでとりあえず創作家と名のっているが、別にカツ丼評論家でも構わない。 ただひとつ言えるのは、ボクらは何らかの関係性においてしか存在し得ないということだと思う。あなたが相談してくれたからボクは今頭をひねっている。ひょっとしたらボクは常に流動していく他者、他存在との関係があるからこそ言葉を発することができ、それを自分だと思い込んでいるだけなのかもしれない。 だとすれば、始まりには自己という型があるのではなく、それが分かるのは旅の終盤に差し掛かる頃なのかもしれない。それは鬱蒼たる森として。 ならば恐れずに胸を開き、人や風景や犬や文字とつながり合うことだと思う。
私が明川哲也氏のファンになったのは、氏が芸名を捨てて“明川哲也”となられ(ご本人曰く)“仕事が減った”以降のことである。 その後の明川氏に共鳴させていただく私も(恐れ多くも)偶然に同様の思いを描く人生を歩んでいると自負するのである。
朝日新聞“悩みのレッスン”の相談者は、もしかしたらもっと具体的で実効性のある回答を欲していたのかもしれない。 だが、少しでも明川氏の今回の回答の根源を辿ってみたいと思えたならば、きっとこの相談者にもいつの日か人間関係の醍醐味を感じられる明るい未来が訪れるのかもしれないと、原左都子は信じるのだ。