原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

学校は、地域住民の苦悩にも配慮するべき

2011年02月26日 | 教育・学校
 2月16日の朝日新聞「声」欄に、学校の現役教員の立場から以下のごとくの投書があった。

 早速、 「匿名の苦情電話、合点いかず」 と題する投書の内容を要約して紹介しよう。
 「歩道での歩き方をもっとしっかり指導して欲しい」 電話口から怒りの声が聞こえてくる。 確かに道いっぱいに広がって登校する生徒もおり、学校では一列で登校しようと呼びかけている。 しかしなかなか指導が徹底せず、1年に4、5回はこんな電話が鳴り響く。 決まって匿名で、名前を尋ねても「結構です」の一言が返ってくる。 そんな匿名の電話に私は合点がいかない。 子どもを大切にして皆で育てる社会が今、求められている。「子どもが悪いのは学校だけの責任ですか。あなたには責任がないのですか」と問いたい。「子どもの姿はあなたの姿ですよ」とも言いたい。 もし、地域、保護者、学校が一丸となって子どもを育てていこうとの気持ちになれば、電話の仕方も変わってくるはずだ。 その場で直接注意し、子どもを諭すことが大切ではないか。


 早速、原左都子の私論に入ろう。

 この投書を一読して、ある種の不快感を抱いた私である。
 投書者である教員には何かが欠落している。 あるいは自らの教員としての責務を棚に上げて地域住民に子どもの教育の責任転嫁をする思想の背景に、何らかの特権意識が見え隠れしているような後味の悪さすら残るのだ。

 地域住民からこのような電話がかかってくる事を、今の時代はむしろ学校は歓迎するべきではないのだろうか?  電話の主は一地域住民として子どもと係わっていこうとの感覚が少しでもあるからこそ、子どもの登校時の様子を学校に知らせてくれているのだと、善意に解釈できないのであろうか?
 “地域”などという言葉が形骸化している今の時代に、誰が学校になど好き好んで電話すると思っているのだろう??  通常は“一切無視”で済まされてもやむを得ない所属生徒の登校時の情報を、地域住民がわざわざ電話で知らせてくれることに学校は感謝こそするべきだ。
 であるにもかかわらず、この教員は地域住民からの苦情電話を悲しいかな“否定的”に捉えている様子が投書の節々から伺えてしまう。
 投書者は、「子どもが悪いのはあなたには責任がないのですか」と電話の主である地域住民に迫ったり、 加えて、地域、保護者が学校と一丸となって子どもを育てていこうとの気持ちになれば電話の仕方も変わってくるはず、とまで(身勝手に)議論を発展させているのは、教員として一体如何なる思想に基づいているのであろうか??? 

 今回の電話が匿名であったことをあくまでも責める投書内容であるところも、大いに気掛かりな原左都子である。  私論としては、この事例の場合「匿名」であろうと名を名乗ろうと、さほどの不都合はないとの感覚を抱くのだが……
 (「原左都子エッセイ集」バックナンバーに於いて“タイガーマスク現象”を取り上げているが、例えばの話、寄付行為においては実名を名乗って自らの寄付金の使い道を明示するべきであろう。)  一方、地域住民が学校へ電話する場合、懸案に関して今後学校が話し合いを持つ程に積極的に対応してくれる期待感があるならば住民も自ずと名を名乗るであろうが、それが叶わない諦め感が強いからこそ匿名で済ませている実態なのではなかろうか? 


 ここで、原左都子の私事に移ることにしよう。

 「原左都子エッセイ集」のバックナンバーでも既述しているが、我が家は娘が通った公立小学校からわずか徒歩2分の距離に位置している。 しかも、一戸建て住居が一面に広がる低層住宅地域に於いて数少ない高層集合マンションの上階部の一部屋に暮らしているため、小学校からの騒音が直接大音量で響いてくるのだ。 日々、学校のチャイムをはじめ各種放送や生徒が発する喧騒を聞きつつ生活していると言っても過言ではない。
 我が子が転校後一時お世話になった小学校でもあることだし、まさかその苦情を今後も学校に提言することもないのだが、その騒音たるや決して生易しいものではないのが実情の日々である。

 加えて、小学校に程近い場に我が集合住宅が位置しているせいか、学校の放課後には周辺住民の子ども達が我がマンションの共用施設に集結して遊び放題なのである!(都会は子どもが遊べる公園も少ないことだしね…)
 人間関係が希薄なこの都会に於いて、多少の“悪さ”をはたらく子ども達を叱り飛ばせるのは教員経験がある私しかいないと腹をくくり、原左都子は果敢にも近隣小学校の児童達を注意した事が何度かある。
 例えば、我が集合マンションのエレベーターを恰好の遊び場所としていた少年達に向かって 「エレベーターとは子どもの遊び道具ではなく、住人にとっては大切な移動手段である!」 事を説諭したことがある。 はたまた、集合郵便受けの下のわずかなスペースに陣取ってゲームマシンに励む少年達を発見した時には 「あなた達がここでゲームをしていたのでは、このマンションの住人は郵便物を取り出せないよね!」 と厳しく迫ったこともある。
 それ程果敢な原左都子にして、後々2、3日は少年達の親どもが 「他人が我が子に勝手な指導をしないで下さい!」 と我が家に攻撃してくるのではないかと本気で怯えたものだ。
 それ程に、今の時代は一般住民が他者に係わることとは危険を伴っていることも私は理解できているのだ。 だからこそ、学校(特に公教育現場)にはその種の“受け皿的役割”を果たして欲しい思いも強い原左都子なのである。


 現在我が娘が通う私立女子中高からも、保護者会において再三再四同様の通学時の生徒の態度の乱れに関する報告を校長をはじめとする先生方から聞く。 やはり、少なからず地域住民から苦情の電話があるそうなのだ。
 女子校に通う生徒など元々“かしましい”ことこの上ないであろうことは想像がついて余りあるし、加えて我が娘が通う通学路が なんと! 閑静な住宅街に位置しているのである。 我が子は静かな部類であるが、大勢の生徒達が及ぼす近隣住民の皆様への日々の迷惑度を想像しては、一保護者として心より申し訳ない思いである。


 今回朝日新聞へ投書を寄せた学校の教員の方に一言申し上げたい。
 そのような排他的発想でせっかく電話を掛けてきてくれた地域住民を攻めていたのでは、ますます “地域、保護者、学校が一丸となって子どもを育てる” とのあなたの理想が遠のくばかりではあるまいか?
 そのような窮屈な感覚で日々子どもに接している教員がいることに、私はむしろ危機感を抱いてしまうのだ。
 ここはもう少し寛大な心で、せっかくの地域住民の訴えに耳を傾けるキャパシティを学校の教員として持つべきなのではなかろうか?
                         
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