原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

東大生も人の子

2012年11月08日 | 時事論評
 昨年のちょうど今の時期に、私は当エッセイ集に於いて 「『感じが悪く』て何が悪い??」 と題する記事を公開している。

 当時大学の公募制推薦入試に挑むこととなった我が娘の受験対策、特に「面接試験」に際して如何なる方策を練るべきか等を引き合いに出しつつ、“人は「感じが悪く」てはいけないのか?”に関する私論を展開したエッセイである。

 以下に上記エッセイの中から「面接試験」に関する部分のみを取り上げ、今一度要約して紹介させていただこう。

 入学試験や就職試験の面接に際して、受験者は初対面である面接官に「感じが悪い」印象を持たれるよりも「感じよく」接するに越した事はない。  そこで、口数が少なくややもすると“暗い人間”と誤解されがちな我が娘に対し、面接内容以前の問題として、姿勢を正してまっすぐ前を見て話すよう、娘「お抱え家庭教師」の私は指導したものである。
          (  中略   )
 “あの人は感じがいい”  あるいは  “感じの悪い奴だなあ”  ……
 これらは特に初対面の人間同士の関係においてよく発せられる言葉であるが、“自分自身が人に与える表向きの一見の評価”にしか過ぎない上記のような印象とは、その後人間関係が進展するにつれ直ぐに忘れ去られる性質のものではなかろうか。
 人の長き人生の目的とは、万人に対して「感じが良い」人になることではあり得ない。 加えて“一見した人の感じの良し悪し”とは、有意義で実効性ある人間関係に於いてさほど重要な事項ではないことは明白だ。
 (以上、「原左都子エッセイ集」バックナンバーのごく一部を修正して要約)


 今回のエッセイを綴ろうと志したきっかけは、ネット上で「東大生」の就職活動現状に関する情報を垣間見た事による。

 その情報によると、どうやら“天下”の東大生にして、現在就職内定を取れず四苦八苦している学生が少なくないとの事だ。
 早速当該ネット情報を (  )内に原左都子の私論を同時進行で交えつつ、以下に要約して紹介しよう。

 (原左都子の観点からは、あくまでも一アジアの日本社会において) 学歴社会のトップに君臨する東京大学。 「東大卒」という称号は、この学歴社会における最強の「プラチナチケット」だ。 (こんなに国内の政治経済状況が廃れている今でも東大内ではそんな神話が通用してるの??)  ところがこの切符を手にしていながら、就職活動で内定を取れず負け続けている東大生がいる。 (海千山千の私に言わせてもらうと特段不思議な現象ではないのだけど…)
 一体それはどんな学生なのだろうか。 この疑問を他ならぬ東大生自身の手で明らかにした著書がある。東大生でつくる東大就職研究所の「内定とれない東大生」(扶桑社新書)だ。 (私は読んでないけど、面白そうな書物だね!) この解明作業は、彼らにとって少なからぬ深刻さをはらんでいる。

 例えばある企業への就職活動でほぼ互角に競い、最終面接まで到達した二人がいたとする。その最終決定でも二人のどちらにするかを企業担当者が迷ったとき、最後はどうなるだろうか。 東大生の場合この段階で落ちた時に、その理由が「大学」であることは絶対にない。 (へえ~。東大現役学生が運営する就職研究所はそう判断するんだね。申し訳ないけど私の印象では、特にこの厳しい世界の現実に打ち勝っていかねばならない産業世界はもっと進化していて、特に優良企業程「大学」云々ではなく自らが欲する有能人材を採用すると思うのだけど…)
 それにもかかわらず、東大生が内定を取ることができないというのは、学歴ではない「もっと深刻な何か」によってその人間性が否定されているということになるだろう。   (人間性の否定との言及は何とも大袈裟だけど、東大生の中には結局競争が激しい産業界で“使い物にならない”人物と判断されている学生が多い現状なのじゃないの??)

 人生を勝ち続けてきた東大生 (一般人の原左都子としてはかなりびっくり発言と受け止めるけど、過去の東大生がほんとに人生勝者なの?? そうとは思えない東大卒著名人は数多いけどねえ。例えば政治家氏とか…) にとって、これほどの厳しい問題はない。では、それは何が原因なのだろうか。
 その答えを見つけることは、「企業が求める人材は何か」を探ることでもある。 (「就職活動」に限って言うとその命題は間違っていないけど、それを今更ながら東大生が分析するというのも時既に遅しだよね。 20年程前のバブル崩壊期に世間の学生が就職にあえいでいる時、東大生は特別扱いされていたのだろうか?? あるいは“リーマンショック”後直ぐにでもそれを解析すればよかったのに、その時もまだ東大生は厚遇されていたの???)  
  (以下略)


 最後に原左都子の私論で締めくくろう。 

 上記東大生グループ著書情報の通り、現在の東大生は以外や以外就職の内定を取るのに四苦八苦しているとの事である。
 日本国内の就職において「東大」ブランド (“プラチナチケット”と東大生自らが表現しているようだが、この言葉何だか聞く方が恥ずかしい思いもする…)が通用しなくなっているようだ。

 現実問題、就職活動において「東大卒」の肩書が有利となるのはエントリーシートまでとの事情は、東大学生の著書を読まずして理解可能だ。
 実際の就職試験(特に面接)に於いて、「やることがない」だの「自分がやりたいことがわからない」だの「大学院へ進学したいとも思っているし…」等々との言葉が口からポロポロ出る東大生が内定が取れるはずもない。
 
 それに遡って、実は原左都子は東大生が本当に「偏差値」が高いのかに関しても以前より疑問視している。 もちろん「塾」等受験業界の言うところの「偏差値」が高かったからこそ東大に合格できているのだろうが、その「偏差値」と実際の学力とは異質のものとも捉えている。 
 一生に渡って力強く生きていける能力の一要素として「学力」が欠かせない事は確かだが、東大生にその真の「学力」は元より、今後一生世間で渡っていける力があるのかどうかに関して、未知数と捉えるのが大人の常識であろう。


 そういった意味では、就職活動中の学生とは(「東大生」も含めて)まだまだ子どもであるし、今後社会で発揮する潜在能力の程は安易には判定不能であるはずだ。
 (東大生も含めて)何処の学生もピンキリというのが現実でもある。

 今回のテーマで私が訴えたいのは、その種未知数の「学生子ども」の皆さんの将来に渡る潜在力を見極めるべく、面接担当者の方こそが大人になってはどうかとの結論に達するのだが…

 未だ成熟過程にある人間がその能力を発揮する手前段階において“プラチナチケット”なる言葉を恥ずかしげもなくほざくからこそ、「東大生」とは概して社会全般に“感じが悪い”存在と受け止められ嫌われるのではなかろうか?
 それもまた受取側の歪みも含有した現象と感じる私だが、もしも東大生自らが今の時代背景において尚、自分は「特権階級」なる勘違い意識を醸し出しているとすれば、それは時代錯誤も甚だしいということであろう。
 
 それはともかく、上記私論のごとく「東大生」とて所詮人の子であり、まだまだ子どもであることを肝に命じつつ、既に大人であろう面接担当者側こそが、真に優れた人材を採用するべく自らの力量を磨かんと精進すれば、世も少しずつ変遷できるという事ではあるまいか。