原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

っていうかー、ぶっちゃけマジでチョーめっちゃじゃん!

2013年07月04日 | 時事論評
 (写真は、朝日新聞6月29日付別刷「be」記事 RANKING 「どうにも気になる口癖」より転載)


 本日7月4日、来る7月21日が投票日となる参議院選挙が公示された。
 昼のテレビニュース報道によると、各党党首を筆頭に立候補者達が早速街頭演説合戦を開始したようだ。

 さすがに党首ともなると演説慣れしているのか、(演説の中身の議論はさておき)癖の無い程よい音量と口調かつ聞く側に分かり易い明瞭な表現を用いている。
 ところがこれが立候補者当人の場合、声ばかりデカく力づくに何かをがなり立てているのみで聞く側としては喧嘩でも売られている気分だ。 「あんた、単にうるさいだけだよ! 静かにしてくれ!!」と喧嘩を売り返すしかない。


 参院選はとりあえず隅において、今回のエッセイテーマは人(特に若い世代の?)の口癖である。
 原左都子にも「口癖」はあるっていうかー、ぶっちゃけマジでチョーめっちゃ、自分の「口癖」を反省させられる記事を公開してくれたじゃん、朝日新聞さん。
 っていうかー。
 「原左都子エッセイ集」を自分自身で読み直してみても、ここだけの話、ある意味普通に~ 左都子の「口癖」オンパレードの現状にちょーマジで辟易とさせられる思い、みたいな~。

 (普段使い慣れない?「俗語」を展開しまして大変失礼申し上げました。


 さて、早速冒頭写真の朝日新聞記事を取り上げよう。

 今回の RANKING 記事は上記写真の通り、(おそらく)若い世代を中心として俗世間で頻繁に会話に用いられる「口癖」をテーマとして分析した内容である。
 以下、原左都子の私論と RANKING 記事に見解を述べておられる“有識者”氏のご意見とを交錯させつつ、エッセイを展開しよう。

 写真の1位の文言が画面に収まっておらず恐縮なのだが、「っていうかー」 である。
 これ、原左都子自身も聞かされて身の毛がよだつ程に“チョー”不快な表現だ。
 写真の解説絵図が不鮮明で見づらいため、ここで反復すると、女性二人がカフェで会話をしている風景だ。 「っていうかー。うちの犬がさー」との右の女性の話しかけに対し、左の女性は携帯を片手に持ちつつ他人事のごとく「っていうかー。もう帰ろう」
 そもそもまるで会話が成り立っていない。 今時の人間関係希薄化社会現象を象徴するべく会話内容である。
 ここで朝日新聞内の“有識者”であられる大学教授氏の解説を紹介すると、これは「『垣根表現』であり、相手と境界を作ることで距離を取る『ぼかし』の表現です」との事だ。
 それは違うぜ、教授先生! と反論を翻したいのは原左都子のみではなく、朝日新聞に意見を寄せた読者の多くもこれを「否定表現」と断定している。 おそらく、大学教授見識者先生は「っていうかー」との俗語の存在はご存知だろうが、対等な立場で発せられた経験が無いのであろう。(私もないが。)
 まあそれにしても若き世代の皆さん、相手との会話懇談を続行したくないのであれば、「っていうかー」なる気持ち悪い言葉を発していないで、単刀直入にその意思を相手に明言しようではないか。
 
 次に取り上げたいのは、3位の「~みたいな」であるが、これに関しては朝日新聞解説絵図が何とも可愛いのだ。
 男性曰く「付き合いたいかな~ みたいなー」 女性が応えて曰く「うれしいかも~ みたいなー」
 原左都子の私論だが、この種の場面で「~みたいな」が活用されるならば、激励したい。 確かに「~みたいな」のニュアンスとしては、中途半端さが醸し出されているのは事実だ。 そうだとして、自分の(肯定的)感情を相手に伝えるのがはばかられるような場面に際して、この俗語は有効活用可能と判断する。
 “有識者”がおっしゃる通り、口癖俗語も肯定的場面で発せられるならば、「ぼかし表現」とも表現可能であろう。
 ただ気をつけるべきは、「~みたいな」を否定的な場面は元より、普通の人間関係の場で決して引用しない事が鉄則であろう。 発した人物のレベルの程とその後の責任が問われる事間違いないよ。

 4位の「超(チョー)」に関しては、実は原左都子も日頃多発している。
 と言うのも、これが流行言葉とのニュアンスをまさに「超」えていると認識している故である。 「超」とは英語で言うと「SUPER」(要するに「すばらしい」「最高級の」)の意味あいがあると捉えているからだ。 まさか「超カワイーー!」などとは決してホザかないのだが、親しい間柄の会話で「超すばらしい!」などとついつい言ってしまう場面もある。(これも顰蹙だろうか?)
 これに対し「めっちゃ」は明らかに嫌いだ。 おそらく「超」と同様の意味合いであろうが、語源が『メチャクチャ」である事を理解できるが故に、私は今後共に一切発語したいとは思わない。

 理論派の原左都子が今後人との対話場面に於いて気をつけなければならないのは、10位に位置している「要するに」や、11位の「逆に言うと」、はたまた15位の「ある意味」、さらには18位の「いやっ」等々であろう。
 「逆に言うと」や「いやっ」と同類の、20位にランクインしている「でも(でもでも)」も要注意だ。 「原左都子エッセイ集」内で多発しているのがこの「でも」バーション発展系の「ただ」「ただし」「あるいは」「一方」「他方」「別の角度から見れば」… 例を挙げればきりがないのだが…
 話を聞かされる側としては、「逆にいうと」と人の話を中断しておきながら、少しも逆ではなく何のオリジナリティも無い会話をダラダラ続けられるような場合、(結局自分が上位だと言いたいだけなのね…)とウンザリするしかない。

 今回の朝日新聞記事の、上記“有識者”大学教授が最後に述べている結論文章を紹介しよう。 「日本人は不完全文で話すのが常識。一人で全部を話さず、相手とやりとりしながら一つの文章を作る、つまり仲間内の私的会話なのです。そのために『口癖』とは潤滑油の役割を果している」
 原左都子の反論だが、上記有識者氏の発言とは半世紀程前の日本人の人との関わりについて述べた時代錯誤のコメントではなかろうか。
 今時の社会の人間関係や若者文化をどれ程理解しての“有識者”氏の発言であろう!? 上記「口癖」一覧は、私的会話内で何らの潤滑油的役割を果し得ていないと私は結論付ける。 


 最後に原左都子の私論でまとめよう。

 若者が発する俗語「口癖」の数々に直接触れる経験は日頃ほとんど無い私だが、これらの言葉を新聞紙上で見せられるだけで不快感を抱かされる。 俗語流行り言葉のすべてに、今現在若者達が仲良くするべく対面相手への「否定的」感情を嗅ぎ取ってしまう故である。

 若者達よ、ここは正しい日本語会話を今一度学び直そうではないか。
 
 人間関係が希薄化した現社会においても、人との関わりとは何らかの形で多少なりとも自分の成長に繋がるものだ。
 否定的な流行り言葉を発して、せっかく仲良くなった相手との関係を短期間で終焉させるよりも、正しい日本語を通じて人との関わりを繋ぎ直したいものである。