(写真は、昨日11月2日に娘と共に訪れた群馬県みどり市 富弘美術館 にて撮影したもの。 左が原左都子、右が娘。 館内外庭デッキより美術館のすりガラスに映った母娘を私自身が撮影したため、元々フェードがかかっています。 紅葉が綺麗でした!)
今回のエッセイは「旅行記」カテゴリーに分類したものの、その実は「原左都子エッセイ集」2014.3.1バックナンバー 「航空機座席の運不運どうにかならないものか?!」の“バス編”の形となろうか。
どういう訳か私は旅行に於いて利用する交通手段の“座席運”が悪い。
と言うよりも、座席に関する自分の“こだわり”が強過ぎると表現し直すべきか?
そこで、そもそも私にとっての「旅行」の意味合いとは何なのか? に関して分析し直してみよう。
私の場合、おそらく旅行に出る回数が多い人種に分類出来るであろうと分析する。 ただしそれを自分の「趣味」と位置付けるべきかどうかに関しては疑問符がもたげる。 と言うのも私の場合、旅に出るきっかけが“純粋に旅を楽しみたいとの理由ではない”場合が多いからだ。
若い時代から振り返ると、19歳の時に国内過疎地より一人旅で米国カリフォルニア大学バークレー校のサマーエクステンションに参加した。(40年程前の時代背景に於いては珍しい事象だった。) これなどまさに旅行目的ではなく短期留学目的だったのだが、UCバークレーの寮に寝泊まりして4週間の滞在中、旅行と言える行動をしたのは週末を含めた6日間程で後は英語留学課題に専念したと言える。
もちろんその間に現地の人達との触れ合いを楽しんだとの意味で立派な「旅行」だったかもしれないが、私の感覚では、この経験は現在の日本人が一般的に言うところの「旅行趣味」とは程遠いのではないかと位置付ける。
その後時を経て我が実姉が米国男性と国際結婚し米国へ渡った後にも、4度程比較的長期間米国ハワイ州及びカリフォルニア州を訪れている。
これとて決して「旅行趣味」に端を発していた訳ではない。 ただ単に姉が(私も含めて)日本の家族の訪問を切望するが故にそれに従って渡米したまでの事だ。 もちろん滞在中に姉の家族や知人と共に旅行もしたが、私にとっての米国姉宅への訪問の意義とは、周辺に生きる現地の人々との国境を超える人間同士の触れ合いにあったことは歴然だ。 その願望を独身時代の私は自分が納得できるレベルで果たせたとも言える。 (参考のため、米国滞在時にかかわる我が国際恋愛経験に関してバックナンバーにて綴っていますのでよろしければご参照下さい。 表題は「彼の名はジョニー」です。)
更に時を経て婚姻後子供を設け、私は50代半ばに至った。 その頃、実に有り難い事には娘に対する母親としての「サリバン先生」ノルマが少し軽減し始めるのと並行して、娘がずっとお世話になっている美術家先生の国際賞受賞や国際アートフェア参加の目的でお誘いを頂き、海外へ旅立てるきっかけを何度か得たのだ。
当該美術家先生のお陰で我が50歳半ば以降に訪れたインド、、ソウル、ブエノスアイレス…。 そのすべてが私にとっては現地の人々と触れ合えるとの意味合いで実に素晴らしい海外経験だった。(特にインドは強烈な印象がある。出来れば今一度娘と個人旅行でも企てて再訪問したいものだ。)
原左都子が「集団嫌い」である事を読者の皆様は既にご存知と心得る。
そんな私が旅に出る場合、国内外共になるべく「集団」を回避した旅行を選択するのは当然だ。
上記のごとく他者より招待される旅行以外に於いても、出来る限り「フリーツアー」(航空券とホテルセット)等のプランをネット上で検索して実行している。
そのような場合でも運悪くホテルや観光地で団体客と居合わせる事態は否めないのが実情であろう。 ただそれが国外観光客の場合は、自分の語学力の無さが幸いして周囲の人々が喋っている言語が理解出来ず単なる雑音として済まされラッキーとの事態こそが、海外旅行の醍醐味とも言えよう。
前置きが長過ぎたが、今回綴りたかった我がエッセイとは、たとえ国内“格安バスツアー”に参加したとて、参加者皆が主体的に周囲の皆さんに出来得る限りの配慮をしませんか、との提案である。
昨日私が乗り合わせたバスの道中、自分達は“旅のつわもの”で今回参加した某旅行会社のお得意様よ! と座席に座っている時間中、大きな声で広告されていた我が後部座席の御婦人方お二人に物申したい。
貴方達の大声は少なくとも半径周囲5メートルくらいに響き渡っていたと私は認識している。 密室バス内とは特に渋滞による低速運転時には、貴女達が想像しているよりもはるかに大声で反響音を掻き広げているはずだ!
最後に原左都子の私論に入ろう。
国内外を万遍なく旅して“旅のつわもの”を自称していた後部座席のご婦人二人が今後もこのような庶民バスツアーに参加したい場合、お隣とのおしゃべりをひたすら続ける以前の問題として、ご自身達が如何なる目的でバスツアーに参加しているのかをひとまず客観視して欲しいものだ。
その目的がもしも日頃のストレス発散のために、とにもかくにも“ある事ない事”喋り倒したいのならば、何も旅行バスの座席ではなく、ご自宅なりご近所の井戸端なりで事を済ませるべきである。
旅の恥とは決して“かき捨て”でないはずだ。
特に“旅慣れた人”程それを率先して実行するべきなのに、大手を振って“自分は旅のつわもの”を周囲へ大声で吹聴し続けるのではなく、様々な人達が様々な思いで旅行に出かけている現実にまずは思いを馳せ、静かに車窓でも眺めて過ごそうではないか。
今回のエッセイは「旅行記」カテゴリーに分類したものの、その実は「原左都子エッセイ集」2014.3.1バックナンバー 「航空機座席の運不運どうにかならないものか?!」の“バス編”の形となろうか。
どういう訳か私は旅行に於いて利用する交通手段の“座席運”が悪い。
と言うよりも、座席に関する自分の“こだわり”が強過ぎると表現し直すべきか?
そこで、そもそも私にとっての「旅行」の意味合いとは何なのか? に関して分析し直してみよう。
私の場合、おそらく旅行に出る回数が多い人種に分類出来るであろうと分析する。 ただしそれを自分の「趣味」と位置付けるべきかどうかに関しては疑問符がもたげる。 と言うのも私の場合、旅に出るきっかけが“純粋に旅を楽しみたいとの理由ではない”場合が多いからだ。
若い時代から振り返ると、19歳の時に国内過疎地より一人旅で米国カリフォルニア大学バークレー校のサマーエクステンションに参加した。(40年程前の時代背景に於いては珍しい事象だった。) これなどまさに旅行目的ではなく短期留学目的だったのだが、UCバークレーの寮に寝泊まりして4週間の滞在中、旅行と言える行動をしたのは週末を含めた6日間程で後は英語留学課題に専念したと言える。
もちろんその間に現地の人達との触れ合いを楽しんだとの意味で立派な「旅行」だったかもしれないが、私の感覚では、この経験は現在の日本人が一般的に言うところの「旅行趣味」とは程遠いのではないかと位置付ける。
その後時を経て我が実姉が米国男性と国際結婚し米国へ渡った後にも、4度程比較的長期間米国ハワイ州及びカリフォルニア州を訪れている。
これとて決して「旅行趣味」に端を発していた訳ではない。 ただ単に姉が(私も含めて)日本の家族の訪問を切望するが故にそれに従って渡米したまでの事だ。 もちろん滞在中に姉の家族や知人と共に旅行もしたが、私にとっての米国姉宅への訪問の意義とは、周辺に生きる現地の人々との国境を超える人間同士の触れ合いにあったことは歴然だ。 その願望を独身時代の私は自分が納得できるレベルで果たせたとも言える。 (参考のため、米国滞在時にかかわる我が国際恋愛経験に関してバックナンバーにて綴っていますのでよろしければご参照下さい。 表題は「彼の名はジョニー」です。)
更に時を経て婚姻後子供を設け、私は50代半ばに至った。 その頃、実に有り難い事には娘に対する母親としての「サリバン先生」ノルマが少し軽減し始めるのと並行して、娘がずっとお世話になっている美術家先生の国際賞受賞や国際アートフェア参加の目的でお誘いを頂き、海外へ旅立てるきっかけを何度か得たのだ。
当該美術家先生のお陰で我が50歳半ば以降に訪れたインド、、ソウル、ブエノスアイレス…。 そのすべてが私にとっては現地の人々と触れ合えるとの意味合いで実に素晴らしい海外経験だった。(特にインドは強烈な印象がある。出来れば今一度娘と個人旅行でも企てて再訪問したいものだ。)
原左都子が「集団嫌い」である事を読者の皆様は既にご存知と心得る。
そんな私が旅に出る場合、国内外共になるべく「集団」を回避した旅行を選択するのは当然だ。
上記のごとく他者より招待される旅行以外に於いても、出来る限り「フリーツアー」(航空券とホテルセット)等のプランをネット上で検索して実行している。
そのような場合でも運悪くホテルや観光地で団体客と居合わせる事態は否めないのが実情であろう。 ただそれが国外観光客の場合は、自分の語学力の無さが幸いして周囲の人々が喋っている言語が理解出来ず単なる雑音として済まされラッキーとの事態こそが、海外旅行の醍醐味とも言えよう。
前置きが長過ぎたが、今回綴りたかった我がエッセイとは、たとえ国内“格安バスツアー”に参加したとて、参加者皆が主体的に周囲の皆さんに出来得る限りの配慮をしませんか、との提案である。
昨日私が乗り合わせたバスの道中、自分達は“旅のつわもの”で今回参加した某旅行会社のお得意様よ! と座席に座っている時間中、大きな声で広告されていた我が後部座席の御婦人方お二人に物申したい。
貴方達の大声は少なくとも半径周囲5メートルくらいに響き渡っていたと私は認識している。 密室バス内とは特に渋滞による低速運転時には、貴女達が想像しているよりもはるかに大声で反響音を掻き広げているはずだ!
最後に原左都子の私論に入ろう。
国内外を万遍なく旅して“旅のつわもの”を自称していた後部座席のご婦人二人が今後もこのような庶民バスツアーに参加したい場合、お隣とのおしゃべりをひたすら続ける以前の問題として、ご自身達が如何なる目的でバスツアーに参加しているのかをひとまず客観視して欲しいものだ。
その目的がもしも日頃のストレス発散のために、とにもかくにも“ある事ない事”喋り倒したいのならば、何も旅行バスの座席ではなく、ご自宅なりご近所の井戸端なりで事を済ませるべきである。
旅の恥とは決して“かき捨て”でないはずだ。
特に“旅慣れた人”程それを率先して実行するべきなのに、大手を振って“自分は旅のつわもの”を周囲へ大声で吹聴し続けるのではなく、様々な人達が様々な思いで旅行に出かけている現実にまずは思いを馳せ、静かに車窓でも眺めて過ごそうではないか。