原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

売られたケンカ、受けて立ちます!!

2014年11月13日 | 人間関係
 原左都子は短気だ。 
 それはおそらく生まれ持ってのDNAに由来する我が性分であろうが、私は物心ついた頃より“理性”でカバー出来るキャパを備えているため、その性質が表面に出る事は少なかったかもしれない。

 むしろ、子供の頃ほどその理性に自分自身が翻弄される機会が多かったように記憶している。 周囲の子供達が痴話ゲンカ(女子の場合、殴り合いバトルをすることは稀だ)を始めた場合など、なるべく見ないふりして第三者を演じ、ケンカの関係者とならないように身を守ったものだ。

 この習性は、高校卒業頃まで続いてしまっただろうか… 
 故に私は周囲より、冷静で客観的な子供との評価をもらっていたように記憶している。 片やそんな私の“策略”を見抜いていた友人などは、さぞや“陰湿な奴”との印象を抱いた事であろう。


 実は私自身が、“計算高い”とも表現可能な上記の我が気質を内面で嫌い続けていた。
 人間もっと勇気を持って素直に行動する事こそが、真の人生開花のきっかけかもしれない、などと思い始めたのは遅ればせながら成人して以降の事かもしれない。

 その事例として一つ思い出すのは、大学卒業研究に於いて共同研究者を務めてくれた学友と、とてつもなく激しいケンカバトルを繰り広げた事態だ。 
 研究課題に対する基本理念に於いて、その学友と認識が真っ向から対立していた。 二人で話合いを持っているうちに言い争いが激しくなり、ついに研究室内で大声で両者ががなり立てる程のバトルとなってしまった!   結果としては私側が自分の過ちを詫びるとの実に情けない状態だったのだが、この喧嘩バトルのお陰で当該学友との結束力が強まり、信頼関係が増した事を思い出す。 
 その教訓として、ネチネチと内心で恨みつらみを抱いていないで、内面感情に任せ自らの苦悩や不信感を相手に爆発させる事も、人間にとって重要と気付いた出来事だった。

 その後就職した後にも、企業内での様々なバトルに直面してきている。
 ある先輩曰く、「たとえ一社員とて冷静に対応してばかりいては限界が訪れる。 ある時には感情を表に出し、組織管理者側に牙をむいてでも訴えねばならない使命が底辺労働者にはある!」  この先輩の言葉こそが未だ若き私の五感に響いたものだ。
 その後、私はそれを実行して来たとも言えよう。 まさに社会人として自立した後には真に我が“怒り”を実力に転嫁しながら、私は民間企業で上司の立場をも経験しつつ生き延びて来ることが叶ったと振り返る。

 その後の我が人生は、むしろこちらから喧嘩を売る側に回る立場が多いとも表現出来よう。
 ただしそれは「意見書提出」等、書面にての冷静沈着な“喧嘩を売る行為”に過ぎないのだが…


 そんな私につい最近、いい年をして売られたケンカを受けて立たねばならない事態が発生した。

 それは私が20歳代前半期より40年に渡り愛読している新聞社(早い話が「朝日新聞」だが)の地元販売店(ASA)に、私側からとある“要望”をメールで投稿した事に遡る。
 実に取るに足りない内容であるためこの場での詳細の記述は控えたいのだが、我が拙たる要望に対し、ASAよりの回答とは「それは不能」との事だった。  私側とても「不能」ならばそれで結構、との文面を末尾に添えていた。 にもかかわらず、私がメールにて送信した内容が朝日新聞末端組織に位置する販売店ASAにとって、たかが一顧客(私の事だが)からの訴えが如何に“腹立たしかった”か!に関して切々と訴え返す返答だったのだ。

 産業界に於ける巨大企業と末端下請け中小企業との“力関係”の宿命など、私としては十二分に理解済みだ。
 それを承知の上で、末端販売店に於いても末端顧客に対してほんの少しだけ努力をすれば、今後の販売力が多少なりとも上向くのではないかとの“親切心”も伴う提案の意味もあった。

 それ故に私は大人げない事は十分承知の上で今回ASAから文面にて“売られたケンカ”を、電話をかけ直すとの手段で受けて立つ行為に出た。
 そうしたところ、電話に出た担当者氏が私が買って出た“ケンカ”に対し、私より更なる闘志を燃やしている人物だったのだ!  これには一瞬驚かされ多少怯んだものの、結果としてはその闘志が幸いし、電話にてとことん話し合えた(ケンカしまくれた)と私側は受け取っている。


 最後に、原左都子の私論で締めくくろう。

 上記朝日新聞ASA事例の場合、電話に出た相手が顧客である私に闘志を燃やして“ケンカ”を売って出てくれたことが幸いした。 もしもこの場面に於いて、ただひたすら「申し訳ございません」などと上っ面のみうそぶかれても、問題の解決が一切叶わなかったであろう。

 不必要な暴力的喧嘩バトルはもちろん回避するべきだが、人間関係に於いて、適宜に自らの感情をケンカという形でそのまま表面に出す行為が有効であるような気もするのだ。
 今の時代背景に於いては人間関係の希薄化が進み過ぎ、表面のみしつらっている事態こそを懸念する。

 主張したい事を双方が訴えられる意味でのケンカならば、私は今後共いつでも受けて立ちたい思いだ。