原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

大学新入試「長文記述」課題コンピュータ採点は絶対無理!

2015年06月15日 | 教育・学校
 昨日(6月14日)付朝日新聞一面トップ記事のタイトルを一見して、日々拙い「原左都子エッセイ集」を綴り公開する事に喜びを感じ、達成感を得ている私は仰天した! 

 誰がこんな馬鹿げた事を思いついたのか?? 
 どうせ頭でっかちで、ろくでもない長文記述しか記せないが文法力や漢字が正確に書ける小手先能力には長けていて、もしもコンピュータ採点ならば自分も高得点をゲットできるかも~~。
 とでも勘違いせずして、こんな大それた“たわごと”検討案を神経ピリピリの大学受験生やその家族の皆さんに公開できる訳もない。


 冒頭から、「原左都子エッセイ集」2009.3.3 バックナンバー 「字数制限の重圧」 なるエッセイの一部を以下に要約して紹介しよう。
 用件があって外出した合間の“時間潰し”のために書店に立ち寄った。  数冊の本を立ち読みした中で、ある本の冒頭の一フレーズが(マイナスの意味合いで)印象に残った。
 そのフレーズとは、「“話す”ことに比して“書く”ことを苦手とする人が多いが、原稿用紙10枚書くことを億劫がらない程度の力を身に付けることが出来たなら、ある程度の“書く”力を習得できたと言える…」云々…  確か、このような内容の冒頭文で、“書く”能力を指南しようとするような趣旨の本であった。
 う~~ん、ちょっと待ってくれよ。  “書く”能力を指南しようとする趣旨の本において、冒頭から「原稿用紙10枚」の表現は避けて欲しいものだ。この言葉を聞いただけでアレルギーを起こす人も多いのではなかろうか。
 ご覧の通り、この私はほぼ隔日間隔で1本が約3000字(原稿用紙7枚)程度のエッセイを綴り続けている。 これだけの文章をもう(2015年6月現在に至っては既に8年)に渡り書き続けている私ではあるが、“書く”能力に長けているという自覚はさほどない。  そんな私の「原左都子エッセイ集」続行の原動力は“感情移入”力である。 すなわち、“このテーマでこのように書きたい!”と思える内面から湧き出てくる力が、キーボードを叩いて文章を綴るという行動に繋がっているのだ。 決して、最初から3000字の文章を体裁よく仕上げたいと目論んで「作文」に取り組んでいる訳ではない。
 数年前に私は大学受験生の小論文添削の指導者として採用され、自宅でその仕事に携わったことがある。 ところがこの指導内容が徹底的にマニュアル化されているのだ。 小論文を書かせる方法論にばかりこだわり、それを受験生に頭ごなしにマニュアルで教え込もうとする指導法である。 私は指導者として採用された当初より本部が提示したこの指導方法に疑念を抱いていた。 このような指導方法では受験生の文章を書く力が育たないばかりか、若者の将来に渡る“書く楽しみ”を奪い、かえって文章を綴る能力を潰しかねないと考えた私は、本部にその旨の自己のポリシーを綴った「小論文」を提出し、この指導者の仕事を辞退した経験がある。 
 私自身も、論文や小論文課題における「字数制限」は昔から苦手だ。 原稿用紙のあの「升目」が自分の自由な思考や発想を制限されるような拘束感があったためだ。  その対策として、私の場合はいつもとりあえずは“真っ白”な紙に、論文のテーマに対する自分の自由な思考や発想を字数にはまったく囚われずに書き殴って、自己に内在する熱い思いのすべてを吐き出す作業をした。 次に「字数制限」が厳格な場合はやむを得ず、その字数の範囲内に再構成して1本の論文(小論文)として仕上げたものである。 いずれにせよ、ワープロそしてパソコンで文書作成をする時代に入ってからは、原稿用紙のあの嫌悪感を抱く“升目”も見なくて済めば、削除追加等の文章構成作業が至って容易であるため、文章を仕上げる作業の負担がずい分と軽減されていることを実感しつつ、文書を綴る機会の多い私は先端技術の発展に感謝する日々である。
 それにしても、文章力を身に付けるために「原稿用紙10枚」書く力が必要、といきなり言われて“書く”能力が啓発される人がいるのだろうか?   この本は書店の意外と目立つ場所にあったのだが、大変失礼ながら、この本は売れるのだろうか???
 (以上、「原左都子エッセイ集」バックナンバーより要約引用。)

  
 それにしても何故この世はこうも次世代に生きる若者達相手に、文章を書く事に関してマイナーな思想に陥るのか!? 
 もしも原左都子に対して今後文章を綴る事に同様の手段で“禁止令”が施されたならば、私には(長身スリム体型)なる外見的長所しか残らないよ~~。(冗談ですが…。)  とでも叫びたくなる程の、今回の文科省による“劣悪な”大学入試センター試験記述問題採点の見直し案である。

 エッセイの終盤になったが、朝日新聞2015年6月14日一面トップ 「大学新入試24年度から長文記述 採点にコンピュータも」と題する記事を以下に要約して紹介しよう。
 大学センター試験に代わって2020年度より始まる新テストで、文科省が記述試験問題についてコンピュータによる採点支援を検討していることが分かった。 新テストでは表現力を問う長文の記述試験を24年度から充実させる方針。 その採点時間を短縮するため人手を補うのが狙いだ。
 そのため、文科省ではコンピュータで記述の解答を採点できる仕組み作りを検討中だ。文科省によれば、例えば正解に必要な単語の有無をコンピュータが判断し、その単語が無ければ後で採点する人に示すなどを想定している。
 朝日新聞の当該記事の最後に「公正な採点カギ」と題する解説文が掲載されている。
 現在のセンター試験は選択式設問のみで、特に表現力の把握が不能だった。 コンピュータ採点システムに頼る場合にも受験者の「考える力」を公平・公正に採点出来る事が大切だ。 
 (以上、朝日新聞6月14日トップ記事より一部を要約引用。)


 最後に原左都子の私論だが、何だかせせら笑いたい気分にまで陥ってしまった。

 一体どうしたの??
 今後日本国家にとって有能な人材を育てるための一通過関門に過ぎない、たかが18,9歳の“大学生の選抜”に関して文科省が何を血迷っているのだろう!??
 あくまでも私論だが、今まで通りセンター試験マークシートコンピュータ採点で高得点を取れる若者を偏差値順に上位大学から割り振って入学させれば済む話だろう。

 その後4年間の大学生活を全うさせる中で論文・小論文課題を十二分に施し、論文制作力に長けているはずの(?)大学教官氏達が学生の「考える力(問いを学ぶ力)」を育成すればよい。 その暁に就職活動する若者を対象として、各職場が個別に欲する人材を自分らの使命として公正に厳選してこそ、この世の経済社会は上手く機能するのではあるまいか??

 もちろん世界標準で考察した場合、日本の大学ランクがさほど高くない事を文科省が懸念している事実には同情しよう。 が、下村大臣も大学入試長文採点をコンピュータに依存しようなどとの突拍子もなく歪んだ認識の下に自身の身の安泰を願っている場合ではないことを、同時に警告しておこう。

 もっと真なるグロ-バル観点から、大学改革を庶民に提示しては如何なのか!?!