原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

学問の府大学に要求される“問いを学ぶ”力の育成

2015年06月14日 | 教育・学校
 私は本「原左都子エッセイ集」開設後間もない時期に、「『問い』を学ぶ」 なる表題のエッセイを綴り公開している。

 冒頭から 2008.6.5 公開 当該エッセイの一部を引用して以下に紹介しよう。

 学問とは何か?  それは、その字の通り“「問い」を学ぶ”業である。
 朝日新聞5月30日(金)朝日新聞夕刊「こころ」のページの相談コーナー「悩みのレッスン」にこの“学問”が取り上げられた。 その相談内容を要約しよう。
 この春浪人生になったが、大学受験に落ちたショックから新たな気持ちで勉強できない自分がいる。周囲も行くから大学に行くことを当たり前だと思い目指してきたが、今は大学に行きたいという強い意志が薄れ、自分がなぜ大学に行きたかったのかわからない。 自分がこだわっていた学問って何なのか?少しの興味で学部を選択していいのか?大学へ入る意義など何かヒントが欲しい。
 この相談に対する哲学者、永井均氏の回答。   ときどき、高校までの勉強は嫌いだったが大学の勉強は好きだという人がいる。(逆もいるが。)両者には根本的な違いがあるからだ。  高校までの勉強は、現在までのところ知られている学問の成果を理解して記憶することが中心である。歴史を例にとると、史実とされている内容を記憶し定説となっている因果関係を理解することが学習の中心となる。その史実のバックグラウンドや、なぜ教科書にその史実が取り上げられているのか、また過去にそういう出来事があったからといってそれが何だというのか…、といった最も肝心のところが素通りされている。
 大学に入って初めて、答えではなく「問い」を学ぶことができる。 同時に、いま学者達の意見が一致していない最先端の論争状況を知ることができる。その二つはつながっている。 それは面白いのみならず、そのような観点に立ったとき初めて人間とは何であり、何のために生きているのかの問いと、学問の営みとのつながりが理解できる。  大学には行ってみた方がいいと思う。  以上が、永井氏の回答の要約である。
 学問に励む意義については、「原左都子エッセイ集」バックナンバーでも何度か取り上げてきている。
 高校までの学習とはその分野の如何にかかわらず既存の事実の理解、記憶作業に過ぎない。言わば受身の学習でありそれ故につまらなさも伴っているため、嫌いな人が多いのではなかろうか。 もちろん、その既存の事実に興味を持って学習に励み知識を積み重ねていくことは人間にとっての成長につながるし、こういう作業が得意な人々も存在するであろう。
 片や大学での学問とは、まさに「問い」を学ぶ業である。  ただ、残念ながら学問のこの本来の意味さえ知らずして大学を卒業していく学生も多いのかもしれない。なぜならば、学問に取り組む前提として高校までの学習による知識が欠かせないのにそれが元々満たされていなかったり、大学側に学問を伝授していく教育力がなかったりする現状故である。
 永井氏が述べられている通り、学問とは面白いだけではない。学問に勤しむことにより、人間とは何であり、何のために生きているのかという人間本来の「問い」にも直面できる。 どのような分野の学問であれそれに触れることにより、必ずや人間は更に人間らしく生きられるような実感もある。
 決して大学だけが学問を修める場であるとは言わないが、せっかく一度大学での学問を志したのならば、大学や教官による当たり外れは覚悟の上で、是非行くことを私もお勧めしたい。
 (以上、「原左都子エッセイ集」バックナンバーより一部を引用。)


 原左都子の私事に入ろう。

 実は私は昨日(6月13日)、娘が通う大学を訪問した。
 現在卒業年度である4年生にまで順調に進学している娘の大学に、一体何の用があったのかに関して説明しよう。
 当該大学では(おそらく全国的にも珍しい試みとして)、一部の学部学科の「卒業研究」を一般公開として発表会の形で実施している。 昨日はその中間発表日に当たった。 (最終発表日は今年12月の実施予定。)
 我が娘が、その対象学科に所属している。
 学問好きな私がこの発表会を見学しない訳もない。 一体如何なる「卒業研究」を一般公開として学生に実施させるのか?  もしも学問経験者がこの会合を見学したとして(この大学、一体何を学生にやらせてるんだ?? こんな稚拙なものを見せたいがために一般公開したなら、今後の学生募集にマイナスにならないか??)なる感想を訪問者に抱かせたならば、今後の大学運営にとって大いなるマイナス材料ともなりかねない。

 実はそんな不安感の下に、一保護者である私は昨日娘の大学を訪れた。
 何と言っても生まれながらに若干の事情を抱えている娘が、私(及び亭主)が卒業(修了)した大学(大学院)より偏差値上位の大学へなど進学出来るすべもない。
 それでも、我がサリバン先生としての任務を最大限果たした後の、「公募制推薦」にての当該大学合格だった。 その後も娘なりに日々真面目に大学へ通い、学業に励んでいる事実は母として当然十分に把握していた。


 さて、大学が実施した「卒業研究中間発表」訪問結果の我が感想を語ろう。

 この大学に娘を入学させて正解だった。

 いえいえ、もちろん我が娘が「卒業研究」としてのテーマを選択したきっかけが、サリバン母の影響を大いに受けている事実は事前に把握していた。
 そして予想通り我が娘の「卒研」の進め具合が、まさに母である我が過去の大学卒論や大学院修士論文に酷似していることを、今回の中間発表で改めて認識した。 (一例を挙げると、如何なる発表であれ最後に参考文献を列挙するべき事など、中学校の自由研究時代より教育してきた。 親馬鹿視点ながらそれが中間発表時点で出来ていたのは我が娘を含め少数派だったかもしれない。)

 それにしても、娘が通っている大学学科の「卒業研究中間発表」内容が、私が予想していたよりもずっと充実していたのだ!
 娘が通学している大学とは首都圏に位置する女子単科大学なのだが、親として娘をこの大学へ入学させる以前より、個々の学生への個別対応力が徹底しているとの噂を見聞していた。
 我が家では元医学関係者であり元教育者でもある母の私の娘へのサリバン力が強靭であるため、もしかしたら大学側の学生個々への対応力が出過ぎた場合、娘が混乱を来たし返ってマイナスになる事態を懸念しなくもなかった。

 ところがさすが学問の府であるべき大学現場に於いては、そのような一保護者の懸念は払拭された。
 原左都子自身が高齢者域に入ろうとしてる現在、学生個々の多様性が尊重されつつ、娘を含め学生皆がそれぞれに「問いを学ぼう」との意欲と観点から卒研に取り組んでいる姿を垣間見させて頂けた事に、今一度感謝申し上げたい思いだ。

 12月に開催される「卒業研究最終発表会」に、更に期待したいものである。