そもそも私には息子がいなければ、優秀な子どもに恵まれてもいないのだが…
(いえいえ、目の中に入れても痛くない最愛の娘はいますよ~。)
表題の、東大医学部卒優秀な息子氏から「バツイチ・病気持ち女と駆け落ちする」と実際言われてしまった母親は。
「そんな事をするのならば、母の私は自殺する!」と応えたらしい。
いや、その母親の気持ちは痛い程分かる気がする。 子を産み育てた母親としての人生に於いて、それ以上の無念・失望は無い事だろう。
この話は実話である。 昨日、ネット情報より発見した。
しかも10歳も年上のバツイチ病気持ち女と駆け落ちしたのは、国立がんセンター名誉総長氏である。
その総長であられる垣添忠生氏が執筆して発刊した「妻を看取る日」と題する著書の紹介文を、以下に引用しよう。
駆け落ちまでした恋女房と40年、やっとのんびりできると思った定年間近。 リンゴの種ほどの影が妻を襲う。 がんは猛烈な勢いで命を奪っていった。 がんの専門医でありながら最愛の人を救えなかった無力感と喪失感- 著者は酒に溺れ、うつ状態に陥り、ついには自死まで考えるようになる。 その絶望の淵から医師はいかにして立ち直ったのか、心の軌跡を赤裸々に綴った慟哭と再生の体験記。
(以上、ネット情報より垣添氏発刊の著書の紹介文を引用したもの。)
次に、垣添氏に関するネット情報の一部を引用しよう。
「卒業したあと医師免許を取るまでの2年間ほど、今はもうない東京都杉並区の病院でアルバイトをしていました。妻の昭子とはそこで出会ったんです」
当時の医学生には、医師国家試験受験資格を得る前に実地訓練を積むことが義務づけられていた。 大学病院や総合病院で1年以上、インターンとして安い給料で働くことが欠かせなかったのだ。
東大医学部出身であれば、東大附属病院でインターン研修をするのが通例だ。 ところが当時は学園紛争の真っただ中。 医学部でも卒業試験や研修のボイコットが相次いでいた。こうした理由で、医学部の仲間5人とともに、先の病院で週1回のアルバイト勤務をしていたのだ。
「昭子はリウマチという診断をされての入院だったかな。後になってSLE(全身性エリテマトーデス)という難病だとわかったんですけどね。
私は週1回、病院に来る若手医師のひとりとして、外来の診察を手伝ったり、回診を手伝ったり。 昭子との初めての出会いは回診の時だったかな。
(以上、ネット情報よりごく一部を引用したもの。)
引き続き原左都子の記憶に頼り、垣添氏の物語を(多少デフォルメしながら)続ける事としよう。
昭子さんはとても聡明かつ気丈な人物で、病気を抱えているにも関わらずいつも明るく垣添氏に接し、二人の会話が大いに弾んだ。 女性経験が希薄(皆無??)の垣添氏がそんな昭子さんに惹かれるのには時間はかからなかった。
昭子さんはバツイチ、しかも当時既に40代に届きそうな年齢だった。 さらには上記のごとく病気(難病)持ち。 それにもかかわらず垣添氏は自分の伴侶はこの女性しかいない!と確信し、すぐさま昭子さんにプロポーズをした。
そして両親に自分達の結婚を認めて欲しいと迫ったところ……
垣添氏の母上から 「そんな事は絶対に許しません。それを実行するならば私は自殺します!」との命がけの大反対を食らうはめとなった。 やむを得ず垣添氏は昭子さんを伴って“駆け落ち”を実行し、一人暮らしの昭子さんの部屋で貧乏暮らしを始めた。
ここで一旦、私見に入ろう。
どうやら昭子さんとはもともと良家のご出身のようで、名門女子大学を卒業し英語ペラペラの才女だったらしい。 私の推測に過ぎないが、そんな昭子さんの一度目の結婚当初は幸せだったのではあるまいか? ただいくら才女と言えども、難病の奥方を抱えるはめと相成ったのではそのご亭主もご家族も不幸に陥れられる結末とも想像出来よう。 これぞ、昭子さんの離婚の第一の理由だったように私は捉えるのだが… その後、難病を抱える昭子さんの一人暮らしが叶っているのも、昭子さんご実家の援助によるとも想像する。
とにもかくにも一家庭を底辺で支えて立つのは、奥方の働き力に終結するであろう。
この私の場合今のところ難病とは縁がなさそうだが、それでも私が病気をしたものならば一家が成り立たない、なる意気込みは常にある! それ故にたとえ熱が出ようが両腕骨折しようが、何も無かったごとくに振る舞い家族を支え続ける習慣が身についているのだ。
更には、難病を抱える昭子さんを何故垣添氏が愛したのかを身勝手に分析させて頂くならば。
実際、昭子さんは難病にも関わらず魅力的な女性だったのだろう。
パートナー間に於いて何が最重要項目かと言うならば。
それは相互関係を繋ぐ会話に他ならない、と私は今でも考えている。(それ故に不毛な長電話を嫌い続けているのよ!!) それは置いといても、だからこそ私も晩婚に際し敢えて「見合い結婚」を選択し、「プラトンのイデア論」や「量子力学的実在論」を一生に渡り語り合えそうな相手を厳選した。
えっ?? イケメン(美人)がいいって?? それって冗談ではなく“三日で飽きる”ものだよ。
いや、確かにそれに越したことは無いだろうが、必ずや事前に相手との会話の相性を確認するべきだろう。
特に東大医学部ご出身かつ国立がんセンター名誉総長であられる垣添氏の場合、結婚相手として選択したお相手が昭子さんだった事実とは、これぞ運命的な出会いであり必然的だったのではなかろうか?
元々バツイチしかも難病を抱えていた昭子さんのその後の人生に於いて愛を捧げ続けられ、しかも昭子さん他界後も一心に昭子さんを愛されている医師・垣添先生の生き様は実に素晴らしい!!
(いえいえ、目の中に入れても痛くない最愛の娘はいますよ~。)
表題の、東大医学部卒優秀な息子氏から「バツイチ・病気持ち女と駆け落ちする」と実際言われてしまった母親は。
「そんな事をするのならば、母の私は自殺する!」と応えたらしい。
いや、その母親の気持ちは痛い程分かる気がする。 子を産み育てた母親としての人生に於いて、それ以上の無念・失望は無い事だろう。
この話は実話である。 昨日、ネット情報より発見した。
しかも10歳も年上のバツイチ病気持ち女と駆け落ちしたのは、国立がんセンター名誉総長氏である。
その総長であられる垣添忠生氏が執筆して発刊した「妻を看取る日」と題する著書の紹介文を、以下に引用しよう。
駆け落ちまでした恋女房と40年、やっとのんびりできると思った定年間近。 リンゴの種ほどの影が妻を襲う。 がんは猛烈な勢いで命を奪っていった。 がんの専門医でありながら最愛の人を救えなかった無力感と喪失感- 著者は酒に溺れ、うつ状態に陥り、ついには自死まで考えるようになる。 その絶望の淵から医師はいかにして立ち直ったのか、心の軌跡を赤裸々に綴った慟哭と再生の体験記。
(以上、ネット情報より垣添氏発刊の著書の紹介文を引用したもの。)
次に、垣添氏に関するネット情報の一部を引用しよう。
「卒業したあと医師免許を取るまでの2年間ほど、今はもうない東京都杉並区の病院でアルバイトをしていました。妻の昭子とはそこで出会ったんです」
当時の医学生には、医師国家試験受験資格を得る前に実地訓練を積むことが義務づけられていた。 大学病院や総合病院で1年以上、インターンとして安い給料で働くことが欠かせなかったのだ。
東大医学部出身であれば、東大附属病院でインターン研修をするのが通例だ。 ところが当時は学園紛争の真っただ中。 医学部でも卒業試験や研修のボイコットが相次いでいた。こうした理由で、医学部の仲間5人とともに、先の病院で週1回のアルバイト勤務をしていたのだ。
「昭子はリウマチという診断をされての入院だったかな。後になってSLE(全身性エリテマトーデス)という難病だとわかったんですけどね。
私は週1回、病院に来る若手医師のひとりとして、外来の診察を手伝ったり、回診を手伝ったり。 昭子との初めての出会いは回診の時だったかな。
(以上、ネット情報よりごく一部を引用したもの。)
引き続き原左都子の記憶に頼り、垣添氏の物語を(多少デフォルメしながら)続ける事としよう。
昭子さんはとても聡明かつ気丈な人物で、病気を抱えているにも関わらずいつも明るく垣添氏に接し、二人の会話が大いに弾んだ。 女性経験が希薄(皆無??)の垣添氏がそんな昭子さんに惹かれるのには時間はかからなかった。
昭子さんはバツイチ、しかも当時既に40代に届きそうな年齢だった。 さらには上記のごとく病気(難病)持ち。 それにもかかわらず垣添氏は自分の伴侶はこの女性しかいない!と確信し、すぐさま昭子さんにプロポーズをした。
そして両親に自分達の結婚を認めて欲しいと迫ったところ……
垣添氏の母上から 「そんな事は絶対に許しません。それを実行するならば私は自殺します!」との命がけの大反対を食らうはめとなった。 やむを得ず垣添氏は昭子さんを伴って“駆け落ち”を実行し、一人暮らしの昭子さんの部屋で貧乏暮らしを始めた。
ここで一旦、私見に入ろう。
どうやら昭子さんとはもともと良家のご出身のようで、名門女子大学を卒業し英語ペラペラの才女だったらしい。 私の推測に過ぎないが、そんな昭子さんの一度目の結婚当初は幸せだったのではあるまいか? ただいくら才女と言えども、難病の奥方を抱えるはめと相成ったのではそのご亭主もご家族も不幸に陥れられる結末とも想像出来よう。 これぞ、昭子さんの離婚の第一の理由だったように私は捉えるのだが… その後、難病を抱える昭子さんの一人暮らしが叶っているのも、昭子さんご実家の援助によるとも想像する。
とにもかくにも一家庭を底辺で支えて立つのは、奥方の働き力に終結するであろう。
この私の場合今のところ難病とは縁がなさそうだが、それでも私が病気をしたものならば一家が成り立たない、なる意気込みは常にある! それ故にたとえ熱が出ようが両腕骨折しようが、何も無かったごとくに振る舞い家族を支え続ける習慣が身についているのだ。
更には、難病を抱える昭子さんを何故垣添氏が愛したのかを身勝手に分析させて頂くならば。
実際、昭子さんは難病にも関わらず魅力的な女性だったのだろう。
パートナー間に於いて何が最重要項目かと言うならば。
それは相互関係を繋ぐ会話に他ならない、と私は今でも考えている。(それ故に不毛な長電話を嫌い続けているのよ!!) それは置いといても、だからこそ私も晩婚に際し敢えて「見合い結婚」を選択し、「プラトンのイデア論」や「量子力学的実在論」を一生に渡り語り合えそうな相手を厳選した。
えっ?? イケメン(美人)がいいって?? それって冗談ではなく“三日で飽きる”ものだよ。
いや、確かにそれに越したことは無いだろうが、必ずや事前に相手との会話の相性を確認するべきだろう。
特に東大医学部ご出身かつ国立がんセンター名誉総長であられる垣添氏の場合、結婚相手として選択したお相手が昭子さんだった事実とは、これぞ運命的な出会いであり必然的だったのではなかろうか?
元々バツイチしかも難病を抱えていた昭子さんのその後の人生に於いて愛を捧げ続けられ、しかも昭子さん他界後も一心に昭子さんを愛されている医師・垣添先生の生き様は実に素晴らしい!!