「人間の尊厳」、と口で言うのは簡単な事だが……
認知症者の介護保証人を務め日々悪戦苦闘ている立場にして、それを経験しない人種よりその言葉を無責任に投げかけられる事実は、正直言って腹立たしい。
いえいえ、“寛大な心”をモットーにストレスを内面に秘め、義母の人格を最大限尊重しつつ日々対応していますよ。
義母介護関係話題のエッセイが続くが。
実は先日義母の耳鼻科付き添いをして施設へ連れて戻った後に、事件が発生したのだ。
ちょうど義母の部屋にて、ケアマネージャー氏と今後の補聴器の扱いに関して話し合っていた時の事だった。
義母が、「今日耳鼻科に持って行った補聴器の電池を耳鼻科に置いて来た。」と訴える。
(それを言うならば、せめて「私の不注意で忘れて来た」と表現するべきだろう、と内心イライラしつつ、 いつも物を無くすと直ぐに“盗られた”との被害妄想癖がある義母の習性を重々把握している私は、母に言った。
「いいえ、今日お義母さんは電池を耳鼻科には持って行っていませんでしたよ。」
(実際、私は耳鼻科到着後義母の所持品を確認したが、何故か?過去の補聴器を持参しているのみで、電池は見た記憶が無かった。 補聴器室を出る際にも必ずや義母の所持品を再確認するが、電池がテーブルの上に置かれている光景の記憶はない。)
耳が聞こえにくい事もあろうが、私の話を完全無視した義母が血相を変えつつ、
「また耳鼻科に電池を盗られた。直ぐに電話をかけて文句を言う!」と言い終わる間もなく、電話を掛けてしまった。
そして更に血相を変え声を荒げつつ、「あのねえ。今日そちらに私の電池を置いて来たんですよ。補聴器室の机の上にありますから、返してくれませんか?!」と喧嘩口調だ。
それに応じて電話口に出た人物が補聴器室内を探してくれた様子で、「今探しましたが、電池はありませんでした。」
義母応えて、「そんな訳ないでしょ! 私の電池ですから返して下さい!」
ここで耳鼻科側の要望でやっと私が電話口に出る事が叶い、「申し訳ありません。 本日義母は耳鼻科へ電池を持って行かなかったと私は認識しております。 何分認知症故に物事の判断が付きにくいところがありますので、どうかお許し下さい。」等々と平謝りして電話を切った。
幸い義母は私と耳鼻科との電話のやり取りが聞こえなかった様子だが。 その後も、「何ですって? 電池が見つからないのですって!? 私の電池なのに困るわねえ。」を繰り返す。(一番困るのは混乱しているアンタだろ!、と内心怒り心頭の私だが…)
そこで助っ人になって下さったのが、ケアマネ氏だ。
「補聴器の電池は施設にも予備を保管してありますから、その電池を使用しましょう!」と義母をなだめて下さる。 そして早速事務室から義母の補聴器に合う電池を持参下さった。
「これで、大丈夫ですよ!」とケアマネ氏。
それに応えて義母曰く、「あら、電池があったのね。それは良かったわ。」 と機嫌を取り戻す義母に対し、「気持ちはスッキリしましたか?」」とケアマネ氏。
「はい。」と義母がニコニコと返すものの…
私の思いは複雑だ。
ただ、認知症状と耳の聞こえの悪さを併せ持つ義母相手に、これ以上議論を繰り返すのは不可能だろう。
その種のモヤモヤとした不信感が義母の内面心理の被害妄想を更に煽るのだろうが、これで一件落着に持ち込む事こそが認知症者対応として正解であろう、とケアマネ氏に内心拍手の私だ。
しかもだ。
現在義母が一番信頼し依存しているのが保証人であるこの私であり、それ以外誰一人として義母が頼れる人がいない現状だ。(参考だが、義母は我が亭主の事ももちろん信頼はしているが、この方面では“役に立たない”人材との事実を義母が認識出来ている、との裏事情がある。)
それを承知している私がこの件でとことん義母とやり合ったものならば、今後義母の心がますます荒廃し心の拠り所とする身内が皆無となるのが目に見える。 それにも配慮し、我が心理面でもこの件は一件落着とした。
この日のケアマネ氏との二者面談内で、興味深い話題があった。
それは、「自分が認知症ではないかと恐れている人程、認知症にならない傾向にある。」との内容だ。
言い換えるならば、「その種の認識がある人程、主体的に認知症予防に留意しつつしっかりと生きている。」、とのことだろう。
その通りだ。
義母などその対極に存在している高齢者であろうと、義母に会う都度感じさせられる。
いつも私に会う都度義母が訴える口癖があるのだが。 「あのねえ。 このケアマンションは“頭の変な人”はいないと聞いていたのだけど、私以外は“頭が変な人”ばかりなのよ。 これじゃ、まともに付き合えないしホントに困るわ…」
これに如何に返答するべきか、いつも困惑させられる。 「お義母さんこそが一番“頭が変”ですよ!」と喉まで出かかるのを何とか抑えるので精一杯だ。 そして、(これを冗談ではなく本気で言っているのか??!)かと、不思議な感覚にも囚われる。
そんな私は、いつも考える。
この「認知症者問題」、介護保証人や介護施設が当該認知症者の人権を尊厳している“ふり”をして(言い換えるならば)表向き認知症者にヘラヘラ対応をして、それで済む話なのかと。
実際問題、世の中には認知症者にして車の運転をし、死亡事故を起こした高齢者もいる。
この事例の場合は、認知症者本人が刑罰を受けた事だろう…
片や義母のように被害妄想があって、常に「お金を盗られた」「電池を盗られた」と他者を疑ってかかり騒ぎ立てるのも、犯罪の一種として取り締まるとの一件落着手段がありそうな気もしてくる。
認知症者の「尊厳」ねえ。
確かに認知症者の場合、本人に悪意が無くしてその症状が出現しているのだろうから責任を問うのは困難としても。
せめて若き頃より各々が主体的に生きる事を習慣付け、国民皆がその予防に励む事により、将来的に認知症を回避出来、他者に迷惑を掛けずに済むようにも考察するのだが。
その「認知症予防手段」を国家を挙げて(と言えば大袈裟かもしれないが)、せめて学校教育現場にて指導可能ならば、将来に於ける認知症者の“量産”を防げる気もするが。 現政権下では到底無理難題だろうねえ。
とにかく、この国の市民達よ。
将来「認知症」になりたい人はいない事であろう。 違うか??
そうであるとするならば、今からでも遅くないからその自助努力を成そうではないか!
認知症者の介護保証人を務め日々悪戦苦闘ている立場にして、それを経験しない人種よりその言葉を無責任に投げかけられる事実は、正直言って腹立たしい。
いえいえ、“寛大な心”をモットーにストレスを内面に秘め、義母の人格を最大限尊重しつつ日々対応していますよ。
義母介護関係話題のエッセイが続くが。
実は先日義母の耳鼻科付き添いをして施設へ連れて戻った後に、事件が発生したのだ。
ちょうど義母の部屋にて、ケアマネージャー氏と今後の補聴器の扱いに関して話し合っていた時の事だった。
義母が、「今日耳鼻科に持って行った補聴器の電池を耳鼻科に置いて来た。」と訴える。
(それを言うならば、せめて「私の不注意で忘れて来た」と表現するべきだろう、と内心イライラしつつ、 いつも物を無くすと直ぐに“盗られた”との被害妄想癖がある義母の習性を重々把握している私は、母に言った。
「いいえ、今日お義母さんは電池を耳鼻科には持って行っていませんでしたよ。」
(実際、私は耳鼻科到着後義母の所持品を確認したが、何故か?過去の補聴器を持参しているのみで、電池は見た記憶が無かった。 補聴器室を出る際にも必ずや義母の所持品を再確認するが、電池がテーブルの上に置かれている光景の記憶はない。)
耳が聞こえにくい事もあろうが、私の話を完全無視した義母が血相を変えつつ、
「また耳鼻科に電池を盗られた。直ぐに電話をかけて文句を言う!」と言い終わる間もなく、電話を掛けてしまった。
そして更に血相を変え声を荒げつつ、「あのねえ。今日そちらに私の電池を置いて来たんですよ。補聴器室の机の上にありますから、返してくれませんか?!」と喧嘩口調だ。
それに応じて電話口に出た人物が補聴器室内を探してくれた様子で、「今探しましたが、電池はありませんでした。」
義母応えて、「そんな訳ないでしょ! 私の電池ですから返して下さい!」
ここで耳鼻科側の要望でやっと私が電話口に出る事が叶い、「申し訳ありません。 本日義母は耳鼻科へ電池を持って行かなかったと私は認識しております。 何分認知症故に物事の判断が付きにくいところがありますので、どうかお許し下さい。」等々と平謝りして電話を切った。
幸い義母は私と耳鼻科との電話のやり取りが聞こえなかった様子だが。 その後も、「何ですって? 電池が見つからないのですって!? 私の電池なのに困るわねえ。」を繰り返す。(一番困るのは混乱しているアンタだろ!、と内心怒り心頭の私だが…)
そこで助っ人になって下さったのが、ケアマネ氏だ。
「補聴器の電池は施設にも予備を保管してありますから、その電池を使用しましょう!」と義母をなだめて下さる。 そして早速事務室から義母の補聴器に合う電池を持参下さった。
「これで、大丈夫ですよ!」とケアマネ氏。
それに応えて義母曰く、「あら、電池があったのね。それは良かったわ。」 と機嫌を取り戻す義母に対し、「気持ちはスッキリしましたか?」」とケアマネ氏。
「はい。」と義母がニコニコと返すものの…
私の思いは複雑だ。
ただ、認知症状と耳の聞こえの悪さを併せ持つ義母相手に、これ以上議論を繰り返すのは不可能だろう。
その種のモヤモヤとした不信感が義母の内面心理の被害妄想を更に煽るのだろうが、これで一件落着に持ち込む事こそが認知症者対応として正解であろう、とケアマネ氏に内心拍手の私だ。
しかもだ。
現在義母が一番信頼し依存しているのが保証人であるこの私であり、それ以外誰一人として義母が頼れる人がいない現状だ。(参考だが、義母は我が亭主の事ももちろん信頼はしているが、この方面では“役に立たない”人材との事実を義母が認識出来ている、との裏事情がある。)
それを承知している私がこの件でとことん義母とやり合ったものならば、今後義母の心がますます荒廃し心の拠り所とする身内が皆無となるのが目に見える。 それにも配慮し、我が心理面でもこの件は一件落着とした。
この日のケアマネ氏との二者面談内で、興味深い話題があった。
それは、「自分が認知症ではないかと恐れている人程、認知症にならない傾向にある。」との内容だ。
言い換えるならば、「その種の認識がある人程、主体的に認知症予防に留意しつつしっかりと生きている。」、とのことだろう。
その通りだ。
義母などその対極に存在している高齢者であろうと、義母に会う都度感じさせられる。
いつも私に会う都度義母が訴える口癖があるのだが。 「あのねえ。 このケアマンションは“頭の変な人”はいないと聞いていたのだけど、私以外は“頭が変な人”ばかりなのよ。 これじゃ、まともに付き合えないしホントに困るわ…」
これに如何に返答するべきか、いつも困惑させられる。 「お義母さんこそが一番“頭が変”ですよ!」と喉まで出かかるのを何とか抑えるので精一杯だ。 そして、(これを冗談ではなく本気で言っているのか??!)かと、不思議な感覚にも囚われる。
そんな私は、いつも考える。
この「認知症者問題」、介護保証人や介護施設が当該認知症者の人権を尊厳している“ふり”をして(言い換えるならば)表向き認知症者にヘラヘラ対応をして、それで済む話なのかと。
実際問題、世の中には認知症者にして車の運転をし、死亡事故を起こした高齢者もいる。
この事例の場合は、認知症者本人が刑罰を受けた事だろう…
片や義母のように被害妄想があって、常に「お金を盗られた」「電池を盗られた」と他者を疑ってかかり騒ぎ立てるのも、犯罪の一種として取り締まるとの一件落着手段がありそうな気もしてくる。
認知症者の「尊厳」ねえ。
確かに認知症者の場合、本人に悪意が無くしてその症状が出現しているのだろうから責任を問うのは困難としても。
せめて若き頃より各々が主体的に生きる事を習慣付け、国民皆がその予防に励む事により、将来的に認知症を回避出来、他者に迷惑を掛けずに済むようにも考察するのだが。
その「認知症予防手段」を国家を挙げて(と言えば大袈裟かもしれないが)、せめて学校教育現場にて指導可能ならば、将来に於ける認知症者の“量産”を防げる気もするが。 現政権下では到底無理難題だろうねえ。
とにかく、この国の市民達よ。
将来「認知症」になりたい人はいない事であろう。 違うか??
そうであるとするならば、今からでも遅くないからその自助努力を成そうではないか!