原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

義理チョコ30個を一気に配ったバレンタインデーの思い出

2019年02月14日 | 雑記
 私の場合もしかしたら、バレンタインデーに“本気チョコ”を本気で配った経験は皆無かもしれない。

 それに比し、職場で“義理チョコ”を配った記憶は未だに蘇る。
 中でも特に記憶が鮮明なのは、今は亡き東京駅丸の内口ド真ん前の旧丸ビルに勤務していた時代に、職場男性全員分の30個を超えるチョコを“一気爆配り”した経験だ。


 この話、私に取っては実に印象深く、毎年バレンタインデーを迎えると必ずや思い出す出来事である。
 そのためこの出来事をエッセイとして綴るのは今回で3、4度目であり、ご記憶ある読者の皆様もいらっしゃるかもしれない。

 この“チョコ爆配り”経験から約30年の年月が経過している事もあり、本日、過去に私が旧丸ビルで何の仕事をしていたのかに関する話題も「公表」することにしよう。
 私はこの旧丸ビルに4年間勤務していたため、その当時に旧丸ビル近辺に勤務していた特に男性の方々とお会いしていて、もしかしたら私の事をご存知かもしれない。


 それでは、2008.01.12公開の「丸の内でのお仕事」と題するバックナンバーを以下に要約して再掲載させていただこう。
 
 東京駅丸の内口駅前のビジネス街のビル群の中で最も駅近なのは丸ビルである。
 この丸ビル、2002年に建替えられた後はビジネスビルとしてのみではなく、後に建替えられた隣の新丸ビルと共に、今や東京駅前最大のグルメ・観光スポットとしてその名を轟かせている。
 建替えられて新しくなった丸ビルではなく、建替えのために壊されてしまった歴史的建造物時代の旧丸ビルに私は4年間勤めたことがある。 普通、女性が丸の内に勤務と言うとOLをイメージするであろうが、私の場合丸ビルでOLをしていた訳ではない。(私の職歴は多岐に渡るが、OL経験は一切ない。) 旧丸ビルの存在は有名であろうが、その最上階にバーラウンジが存在していた事実に関しては、当時その近辺に勤務していたビジネスマンしかご存知ない事であろう。 そのラウンジで私は、夜(とは言っても18時半~20時半までの早い時間帯の2時間のみ)ラウンジコンパニオンのアルバイトを2度めの大学時代の4年間続けたのである。
 私は30歳を過ぎて再び学生になり修士取得までの6年間学業に励んだことについては、当ブログのバックナンバー「パーコン」で既に述べている。 繰り返すが、私は30歳を過ぎた頃、自らの意思でそれまで勤務した医学関係の民間企業を退職し学生になった。 大学院修了までの6年間独り身で学業に励んだ訳であるが、自力で生計を立てつつ学業に没頭するためには、手っ取り早く稼げる仕事を選択するのが一番の方策だった。 民間企業勤務中に単独で購入した分譲マンションの住宅ローンもまだほとんど未返済であった。 大学の夏春長期休暇期間には医学関係派遣専門社員として集中的に稼ぎ、普段の土日はパーコンやワープロのデモンストレーター等単発の仕事で収入を得、土日夜には家庭教師をし、そして平日夜には当該旧丸ビルのラウンジでラウンジコンパニオンをしていたという訳である。
 パーコン(パーティコンパニオン)同様、当時は既にラウンジコンパニオンのアルバイトは私立女子大生の間ではそう珍しいことでもなかった。 しかし、国公立の女子学生のアルバイトコンパニオンはやはりまだ希少な存在だった。 したたかな私はその隙間を狙ったのも事実である。
 そして、この丸ビルの最上階のラウンジは客層が丸ビル及び周辺ビルに勤務する会社帰りのサラリーマンの常連固定客ばかりである。(三菱ブループ企業のエリートサラリーマンがほとんどだった。) 当時はまだ個人情報をオープンにすることにより自己アピールをすることが一般的な時代で、客からのよくある質問が「アルバイトでしょ、どこの大学?」が多発する。 国公立の学生であることを告げると一目置いてくれるというのか、とにかく客の受けがプラスなのだ。 断っておくが、ラウンジコンパニオンは着席はしない。あくまで立って歩きながら水割りを作ったり等々のサービス提供なのだが、客と二言三言程度の会話はする。 「もし良かったら連絡して。」などと言って、名刺を手渡される事は日常茶飯事である。 また、閉店時間が早く仕事の終了時間も20時30分と早い時間帯も功を奏して、「下で待ってるから。」と言って私の仕事終了を待って飲みに連れて行ってくれる客もいたりした。(常連客ばかりだから安心。もちろん相手は選ぶよ。) とにかく時給はいいし3倍美味しい仕事だった記憶がある。 人脈作りにはもってこいの仕事で、この仕事のお陰でよき相談相手や飲み友達に恵まれたものだ。 この仕事を辞めた後も長年(真面目な方面で)お世話になった方々も何人かいる。
 などと書くと不謹慎極まりない!とお怒りの方もいらっしゃるであろうが、その仕事内容は至って厳しい。 とにかく客商売は忍耐力が勝負だ。 当ブログのバックナンバー記事「パーコン」でも既述しているが、コンパニオンの仕事には、“華”“気品”そして“おもてなしの心”が要求される。 どんなに疲れていようが顔を塗りたくり、颯爽と姿勢を正し笑顔でいなくてはいけない。 片や客はお酒も入っているし、対応に苦慮した経験も数多い。それでも、お客様は神様である。失礼は許されない。
 私にとってこの客商売経験(パーコン、その他も含めて)は自己の人格形成に大いに役立ち、人間の幅が更に広がったと自負している。 故に、こうやってあえてブログで公開しているのだ。
 私は、このラウンジコンパニオンを大学4年の3月末日まで経験した直後に大学卒業後大学院へ進学し、後に高校教員として某公立高校へ赴任した。 生徒指導上、この客商売経験が大いなるプラスに作用したことは言うまでもない。 
 今後の教員研修の中に客商売を盛り込み、教員の生徒・保護者対応力を鍛え直した方が良いのではないかと私は真剣に考えているほどだ。
 様々な職業経験をすることにより、人間は自分自身の幅や人生経験の幅を広げていくことが可能だ。
それを短期間であるとはいえ自分自身の人生で実証してきた私が訴えたいのだが、どうか世間の皆さん、少なくともご自身の狭い見識で職業差別をすることはもう終わりにしませんか。
 (以上、「原左都子エッセイ集」バックナンバーより要約引用したもの。)


 バックナンバーの引用が長過ぎて、肝心の「バレンタインに義理チョコを配った思い出」に関し記載するのが億劫になってしまった。

 それを要約するならば、義理チョコを配った1か月後の3月14日に。
 何と、想像をはるかに超える絢爛豪華なホワイトデーのお返しが30数個届いたとの結末だった。
 まさに“海老で鯛を釣った”事件であった。

 本エッセイの最後に、そのお返しの“絢爛豪華ぶり”のみを披露するならば。
 ブランド小物の数々、オルゴールに日記帳…  番外編として、4枚の便箋にしたためられた手紙、薔薇の花束にデートのオファー……

 私にとっては色々な意味合いで一生忘れもしない、丸の内旧丸ビルにてのラウンジコンパニオン経験譚だ。
 我が大学院進学後は、この丸ビル仲間とは(一部を除き)交流が無いまま年月が経過しているが…

 それにしても如何なる人生経験とて、自身のその後の生き様に於いて“血となり肉となる”ことには間違いない!