原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

左都子の「自然科学概論」 小講座 Ⅸ

2021年07月30日 | 学問・研究
 (冒頭写真は、原左都子2度目の大学にて受講したA先生による「自然科学概論」講義ノートより転載したもの。)



 今回の自然科学概論は「ラテン中世の科学」がテーマですが、時代が中世へと移りゆきます。

          
 ラテン語圏の世界は、学術的には暗い状況にあった。
 ラテン語に翻訳された資料や書物が無かった。

 “十二世紀ルネサンス”と呼ばれた頃に、様々な方面で大きな変化が表れた。
 水車の利用等による農業技術改革がおこり、修道院を中心に働くことが重視され、生産力が拡大した。
 これにより、人々の自由時間が増大し、都市が発達して、大学がうまれた。

 大学 University はギルド名が置き換えられたものであり、自主的に発展していった組織である。 自主権を認めてもらうための闘争があった後、存在が認められた。 特殊なギルトといえよう。

 シルヴェステル2世(オーソヤックのゲルベルトウス《ジルベール》945~1003)はイスラムにあこがれカタルニア地方へ出かけて行き、古代及びアラビア科学の継承をした。
 コンポートウス文書は天文学の知識を集大成したものだが、レベルは低かったようだ。
          
 12世紀に入ってから、本格的翻訳活動が自然発生的になされ、学術活動が活発になった。

 バズのアデラート(1116~1187)は、アル・フワリズミーの天文学の翻訳をした。 また、アラビア数字をヨーロッパへ紹介した。

 クレモナのジェラルド(1114~1187)は、プトレマイオスの“アルマゲスト”の翻訳をした。(1175)
 ところが、実はそれ以前にシチリア島で翻訳されていたようだ。(1160)
 シチリアはイスラムの統制下にあったが、ノルマントの征服によりラテン世界へ統合された。

 アリストテレスはラテン語に翻訳され次々と紹介された。 
 プラトンは、『ティマイオス』『メノン』のみ紹介された。 プラトンの場合、数学は自然研究の位置づけだったが、アリストテレスは数学は自然研究として認めていない、との違いによる扱いの差のようだ。

 ガリレオは、ものが動くことイコール落体の運動、というように数学的規則性により現象の整理をした。
 着眼点を全く変えた。

          
 数学的科学も紹介された。 エウクレイデス「原論」、プトレマイオス「アルマゲスト」、アルキメデスの著作の一部。

 光学(現在の幾何光学)も紹介された。
 
 これらは、アリストテレスの科学にうまく収まらなかった。
 アリストテレスの科学が純粋な科学であるのに対し、上記の科学は中間科学scientia media  との低い位置づけとして捉えられた。

 何故、アリストテレスのみ紹介されたのか。
 それは、スペインが窓口となったためである。
 “アリストテレス主義” のスペインの哲学者 アヴェロエスはCommentatorであるが、高い評価を得ていた。

 その一方で、反アリストテレス運動も13世紀に表面化した。
 ヨーロッパの世界観と調和しない。
 キリスト教的世界観に対し、重要項目に於いてアリストテレスは異なる主張をしていた。 
 ● 形相 エイドス(イデア)は質量と一緒になって実体になる。
 ● エピステーメー : 正しく必然的な原理に基づき論証をする。

          
 アリストテレスは、空虚は存在しえない。 背景に物理学があり、論証可能であることが重要、とするのに対し。
 キリスト教は、神が望みさえすれば作り出すことができるとしていた。

 アリストテレスは、多世界説を否定する。
 キリスト教は、可能性として多世界もあり得たが、神の望みによりひとつになった、とする。

 参考だが、イタリアの哲学者 ジョルダノ・ブルーノは世界説を説いたが、異端扱いされ処刑された。
 アナキスは、量より質、完全性、統一的な世界が完全として、多世界説を否定した。

 反アリストテレス運動が起こり、アリストテレス崇拝者はキリスト教徒として認められなかった。


 

 最後に、原左都子のひとりごとだが。

 どっと疲れたなあ。😵 
 このシリーズの執筆は、実際“重労働”です。😫 
 それでも哲学者 A先生の大ファンだった私は、まだまだ頑張りますよ!!