(冒頭写真は、原左都子2度目の大学にて受講したA先生による「自然科学概論」講義ノートより転載したもの。)
今回の自然科学概論は「ラテン中世の科学」がテーマですが、時代が中世へと移りゆきます。
ラテン語圏の世界は、学術的には暗い状況にあった。
ラテン語に翻訳された資料や書物が無かった。
“十二世紀ルネサンス”と呼ばれた頃に、様々な方面で大きな変化が表れた。
水車の利用等による農業技術改革がおこり、修道院を中心に働くことが重視され、生産力が拡大した。
これにより、人々の自由時間が増大し、都市が発達して、大学がうまれた。
大学 University はギルド名が置き換えられたものであり、自主的に発展していった組織である。 自主権を認めてもらうための闘争があった後、存在が認められた。 特殊なギルトといえよう。
シルヴェステル2世(オーソヤックのゲルベルトウス《ジルベール》945~1003)はイスラムにあこがれカタルニア地方へ出かけて行き、古代及びアラビア科学の継承をした。
コンポートウス文書は天文学の知識を集大成したものだが、レベルは低かったようだ。
12世紀に入ってから、本格的翻訳活動が自然発生的になされ、学術活動が活発になった。
バズのアデラート(1116~1187)は、アル・フワリズミーの天文学の翻訳をした。 また、アラビア数字をヨーロッパへ紹介した。
クレモナのジェラルド(1114~1187)は、プトレマイオスの“アルマゲスト”の翻訳をした。(1175)
ところが、実はそれ以前にシチリア島で翻訳されていたようだ。(1160)
シチリアはイスラムの統制下にあったが、ノルマントの征服によりラテン世界へ統合された。
アリストテレスはラテン語に翻訳され次々と紹介された。
プラトンは、『ティマイオス』『メノン』のみ紹介された。 プラトンの場合、数学は自然研究の位置づけだったが、アリストテレスは数学は自然研究として認めていない、との違いによる扱いの差のようだ。
ガリレオは、ものが動くことイコール落体の運動、というように数学的規則性により現象の整理をした。
着眼点を全く変えた。
数学的科学も紹介された。 エウクレイデス「原論」、プトレマイオス「アルマゲスト」、アルキメデスの著作の一部。
光学(現在の幾何光学)も紹介された。
これらは、アリストテレスの科学にうまく収まらなかった。
アリストテレスの科学が純粋な科学であるのに対し、上記の科学は中間科学scientia media との低い位置づけとして捉えられた。
何故、アリストテレスのみ紹介されたのか。
それは、スペインが窓口となったためである。
“アリストテレス主義” のスペインの哲学者 アヴェロエスはCommentatorであるが、高い評価を得ていた。
その一方で、反アリストテレス運動も13世紀に表面化した。
ヨーロッパの世界観と調和しない。
キリスト教的世界観に対し、重要項目に於いてアリストテレスは異なる主張をしていた。
● 形相 エイドス(イデア)は質量と一緒になって実体になる。
● エピステーメー : 正しく必然的な原理に基づき論証をする。
アリストテレスは、空虚は存在しえない。 背景に物理学があり、論証可能であることが重要、とするのに対し。
キリスト教は、神が望みさえすれば作り出すことができるとしていた。
アリストテレスは、多世界説を否定する。
キリスト教は、可能性として多世界もあり得たが、神の望みによりひとつになった、とする。
参考だが、イタリアの哲学者 ジョルダノ・ブルーノは世界説を説いたが、異端扱いされ処刑された。
アナキスは、量より質、完全性、統一的な世界が完全として、多世界説を否定した。
反アリストテレス運動が起こり、アリストテレス崇拝者はキリスト教徒として認められなかった。
最後に、原左都子のひとりごとだが。
どっと疲れたなあ。😵
このシリーズの執筆は、実際“重労働”です。😫
それでも哲学者 A先生の大ファンだった私は、まだまだ頑張りますよ!!