たかがブログ、されどブログ……
この書き出しで開設した本ブログも11ヶ月目に入り、記事本数は160本を超えている。
ブログとはこのようにネット上で公開されるHPである。すなわち“公開性”をその使命として背負っている。 我がブログもこの“公開性”を常に意識しつつ綴っている。
では、ブログにおける公開性とは何であるのか。
それは、社会性であり、公共性であると考える。 不特定多数の人々が閲覧、訪問する可能性のあるブログは、たとえその内容が個人的日記、記録であれ、ある程度の社会性、公共性を伴っているべきであると私は常々考えている。
たまに、自分が綴りたいから綴っているだけで人が読むことは想定していない、とおっしゃるブロガーもいるようだが、そういう趣旨の純粋な日記である場合、自分のパソコンの文書作成のページにでも綴れば済みそうなものだ。が、あえてブログという形式を選択しているのは、潜在的に“公開”を意識しているものと受け取れる。その場合、やはりある程度の社会性、公共性を意識するべきかと私は考える。
ただ、ブログは“報道”ではない。あくまでも個人的な趣味の範囲の読み物(書き物)である。“報道”と“単なる読み物”との違いは、社会性、公共性の強さ、すなわち負っている社会的責任の差にあると捉えらることができる。
“報道”をその業務内容とし営業収益をあげているマスメディアに報道内容の誤りがあっては決して許されない。消費者に正確な情報を提供し続ける使命をマスメディアは常に担っている。
一方、ブログはどうか?
ブログとは一般市民が営利目的ではなく、たかだか個人の趣味で綴る単なる読み物である。(アフィリエイト目的のブログも多いが、それはブログとしては分野がまったく異質である。) 単なる読み物であれども、ブログの公開性を鑑みると個人の責任において情報の正確さに配慮がなされるべきではある。が、個人が持てる能力の範囲内での正確さの確保には限界もあれば、ブログに完全無欠の正確性を要求する読者も少数であろう。
私のブログの趣旨は種々の社会問題に対する自己のオピニオンの公開にある。そして、公開したオピニオンに対して読者の皆さんからコメントを頂戴し、コメント欄で記事のテーマ毎に読者の方々と共に更なる議論を展開していくという形式を取らせていただいている。
このように当ブログでは自己のオピニオンをエッセイという形で綴っている訳であるが、元を正せば、エッセイとはノンフィクション分野の読み物というのがその定義である。さらにノンフィクションとは虚構を交えずに事実のみを伝えるのが本来のあるべき姿なのだが、私のブログにおいては、あえて事実(特に人物像に関して)の一部をデフォルメして自己の主張を強調する等の操作を意識的に行なう事が間々ある。この操作は、記事のストーリー性の確保や読み物としての面白さ等、記事のバージョンアップを狙う目的で意図的に行なう場合もある。
このような当ブログの意識的、意図的操作に関して、読者の方々よりご意見を頂戴することがしばしばある。事実を歪曲して伝えているのではないか、オピニオンが極端である、等々の…。 その場合、自己のブログの方針を説明申し上げ、ご理解を頂戴している。
実は、この種の意見をいただく事は、当エッセイの著者である私としてはうれしい一面でもある。なぜならば、この種のご意見の根底には当ブログを単なる読み物を超えた一種“報道”的な存在として捉えて下さったり、ある意味で“普遍性”を見出して下さっているようなニュアンスが感じられるからである。(私の単なる勘違いか? そうだよね……。 失礼致しました…)
またある時は知り合いの読者の方から、記事の中で批判の対象として登場している人物は自分ではないか、とのご質問や苦情を頂戴することもある。
これに関しては、まったく“No.”である。当ブログの趣旨は社会問題等に関するオピニオンの公開であり、個人攻撃については一切その範疇としていないからである。オピニオンを述べるにあたり、事例として個人の話を持ち出すことはあるが、この個人とて上記の通り一部をデフォルメしている。モデルとなる人物が実際に存在する場合が多々あるのは事実だが、記事のオピニオン展開上取り扱い易いように相当アレンジさせていただいたり、その人物の一面のみをピックアップさせていただいている。
という訳で、私のブログの場合、実在する人物の全人格的存在がオピニオンの対象となることはあり得ない。人は皆魅力的な存在であり、例えば私のブログでオピニオンの対象として登場していただいた人物が、現実生活上では実は好意を持たせていただいていたり、尊敬させていただいている人物であったりもする。
この現実とブログ上でのミスマッチ現象は、ノンフィクションのエッセイという立場を取る場合は特に、文章表現の世界の限界とも言えるのではなかろうか。
要するに、ブログとは“公開性”をその使命としているため、社会性や公共性をある程度意識しつつ綴るべき書き物(読み物)ではあるが、マスメディアのような“報道”とはまったく異質の存在であり、ブロガー個人の自由度がその魅力なのではないかと私は考えるのだ。
当ブログはノンフィクション分野のエッセイであるのだが、そこには一部フィクション要素も含まれていることをお含み置き下さった上で楽しんでいただけたなら、また一味違う側面も発見していただけるのかもしれない。
これからも ! !
この書き出しで開設した本ブログも11ヶ月目に入り、記事本数は160本を超えている。
ブログとはこのようにネット上で公開されるHPである。すなわち“公開性”をその使命として背負っている。 我がブログもこの“公開性”を常に意識しつつ綴っている。
では、ブログにおける公開性とは何であるのか。
それは、社会性であり、公共性であると考える。 不特定多数の人々が閲覧、訪問する可能性のあるブログは、たとえその内容が個人的日記、記録であれ、ある程度の社会性、公共性を伴っているべきであると私は常々考えている。
たまに、自分が綴りたいから綴っているだけで人が読むことは想定していない、とおっしゃるブロガーもいるようだが、そういう趣旨の純粋な日記である場合、自分のパソコンの文書作成のページにでも綴れば済みそうなものだ。が、あえてブログという形式を選択しているのは、潜在的に“公開”を意識しているものと受け取れる。その場合、やはりある程度の社会性、公共性を意識するべきかと私は考える。
ただ、ブログは“報道”ではない。あくまでも個人的な趣味の範囲の読み物(書き物)である。“報道”と“単なる読み物”との違いは、社会性、公共性の強さ、すなわち負っている社会的責任の差にあると捉えらることができる。
“報道”をその業務内容とし営業収益をあげているマスメディアに報道内容の誤りがあっては決して許されない。消費者に正確な情報を提供し続ける使命をマスメディアは常に担っている。
一方、ブログはどうか?
ブログとは一般市民が営利目的ではなく、たかだか個人の趣味で綴る単なる読み物である。(アフィリエイト目的のブログも多いが、それはブログとしては分野がまったく異質である。) 単なる読み物であれども、ブログの公開性を鑑みると個人の責任において情報の正確さに配慮がなされるべきではある。が、個人が持てる能力の範囲内での正確さの確保には限界もあれば、ブログに完全無欠の正確性を要求する読者も少数であろう。
私のブログの趣旨は種々の社会問題に対する自己のオピニオンの公開にある。そして、公開したオピニオンに対して読者の皆さんからコメントを頂戴し、コメント欄で記事のテーマ毎に読者の方々と共に更なる議論を展開していくという形式を取らせていただいている。
このように当ブログでは自己のオピニオンをエッセイという形で綴っている訳であるが、元を正せば、エッセイとはノンフィクション分野の読み物というのがその定義である。さらにノンフィクションとは虚構を交えずに事実のみを伝えるのが本来のあるべき姿なのだが、私のブログにおいては、あえて事実(特に人物像に関して)の一部をデフォルメして自己の主張を強調する等の操作を意識的に行なう事が間々ある。この操作は、記事のストーリー性の確保や読み物としての面白さ等、記事のバージョンアップを狙う目的で意図的に行なう場合もある。
このような当ブログの意識的、意図的操作に関して、読者の方々よりご意見を頂戴することがしばしばある。事実を歪曲して伝えているのではないか、オピニオンが極端である、等々の…。 その場合、自己のブログの方針を説明申し上げ、ご理解を頂戴している。
実は、この種の意見をいただく事は、当エッセイの著者である私としてはうれしい一面でもある。なぜならば、この種のご意見の根底には当ブログを単なる読み物を超えた一種“報道”的な存在として捉えて下さったり、ある意味で“普遍性”を見出して下さっているようなニュアンスが感じられるからである。(私の単なる勘違いか? そうだよね……。 失礼致しました…)
またある時は知り合いの読者の方から、記事の中で批判の対象として登場している人物は自分ではないか、とのご質問や苦情を頂戴することもある。
これに関しては、まったく“No.”である。当ブログの趣旨は社会問題等に関するオピニオンの公開であり、個人攻撃については一切その範疇としていないからである。オピニオンを述べるにあたり、事例として個人の話を持ち出すことはあるが、この個人とて上記の通り一部をデフォルメしている。モデルとなる人物が実際に存在する場合が多々あるのは事実だが、記事のオピニオン展開上取り扱い易いように相当アレンジさせていただいたり、その人物の一面のみをピックアップさせていただいている。
という訳で、私のブログの場合、実在する人物の全人格的存在がオピニオンの対象となることはあり得ない。人は皆魅力的な存在であり、例えば私のブログでオピニオンの対象として登場していただいた人物が、現実生活上では実は好意を持たせていただいていたり、尊敬させていただいている人物であったりもする。
この現実とブログ上でのミスマッチ現象は、ノンフィクションのエッセイという立場を取る場合は特に、文章表現の世界の限界とも言えるのではなかろうか。
要するに、ブログとは“公開性”をその使命としているため、社会性や公共性をある程度意識しつつ綴るべき書き物(読み物)ではあるが、マスメディアのような“報道”とはまったく異質の存在であり、ブロガー個人の自由度がその魅力なのではないかと私は考えるのだ。
当ブログはノンフィクション分野のエッセイであるのだが、そこには一部フィクション要素も含まれていることをお含み置き下さった上で楽しんでいただけたなら、また一味違う側面も発見していただけるのかもしれない。
これからも ! !
でも、自分が見たことを、
書込むことは、
みじかな、ニュースでもあるので、
中傷的なことや、
うそを書かなければ、
とも思います。
ヨッシーさんのおっしゃる通り、ブログは自分自身の身近な話題を取り上げ、それについてのご自身の意見や感想を述べることが使命だと思います。
社会的に発言の機会が少ない若者やいわゆる弱者がブログという形でご自分の見たこと感じたことを発言できる場としてのブログは、またとない発言の機会だと私も考えております。
これからも江古田のヨッシーさんを私は応援させていただきたいと思います。
是非また、コメントを書きに来て下さいますように!
の動きがなければ気楽に考えればいいと思いますね。
不特定多数の訪問者を対象に公開を前提として綴る訳ですから、社会性や公共性が求められるのは当然であると思います。
それを踏まえた上でどの様な様なテーマで綴っても良いと思います。
さて、秋葉原事件の容疑者がインターネットの上でも孤独だったと述べていますが、彼には情報発信者としてのメッセージ性や共感性に欠けていたのではないでしょうか。要は、ブログの命はそのコンテンツであり、メッセージ性と共感性にあると思います。
とすれば、私たちは、特に若い方はもっと自信を持って自ら情報を発信すべきでしょう。
怒りを忘れた若者が多いと思います。本当は社会に対して怒っているのでしょう。しかし、怒り方が分からないのです。怒りのエネルギーを誤った方向に放出し、短絡的な犯罪を引き起こす事になるのです。
オズボーンズの作品に「怒りを込めて振り返れ」があります。
ブログを綴る事は決して無駄な行為ではありません。怒りのエネルギーの良質な転化であり、言葉と文章を通しての自己確認作業でもあります。
今回、私がこの記事を書きましたのは、コメント等の形で読者の皆さんからいろいろな反応をいただくためです。
そういう反応があるのもブロガーとしてはうれしい事です。
本文の通り、ブログ記事とは社会性、公共性と個々人の表現の自由とのせめぎ合いの中で存在しているのかと考えます。
私の場合、公開性に関しましては開設当初より重々念頭において綴ってきております。記事本数が160本を超え、皆様よりこれだけの量のコメントをいただけ、その反響の大きさに感謝申し上げる次第です。
ガイアさんがおっしゃるように、メッセージ性や共感性を感じていただけるからこそ、このように多くのご意見を頂戴できるのでしょう。まさに、ブロガー冥利に尽きます。
一方で、自分の記事作成ポリシーにつき自分なりに今一度吟味し直す必要があるかと考えさせられる反応も頂戴します。そのため今回少し立ち止まり、そのポリシーについて再考してみたという訳です。
そして、その考えをまとめたのがこの記事です。
今回の記事では“自由度”を強調したかったのです。ブログは私にとってひとつの趣味であり、自分自身が楽しく綴り続けたい思いも強いのです。そのためには、公開性を念頭において自己規制をするばかりではなく“表現の自由”も認められるべきとの思いを公開させていただきました。
初めてのコメントです。初めてなので迎合するわけではありませんが、アッサリと賛成ですね♪^^
賛成にしろ反対にしろ、コメントで意見の交換ができれば、記事内容が格段に広がります。コメントに並ぶ文字が、「凄い」「素敵」「綺麗」だけではちょっと・・・物足らない気がしますよね☆^^
初コメントをありがとうございます。
当ブログでは異論反論を含めてコメントを歓迎しております。お陰様でこのブログ本体のみならず別ルートを通したり、また私宛に直接コメントをいただく等の方法で、毎記事に沢山のコメントを頂戴しております。
皆さんのコメントを拝見することも興味深い作業です。コメンテイターがブロガーでいらっしゃる場合、記事を拝見して頂戴したご意見のバックグラウンドを垣間見せていただいたりすることも大変有意義です。
なかなか手厳しいコメントや否定的な内容のコメントも頂戴するのですが、必ず誠意を持って議論させていただいております。引き続きお訪ね下さる方が多い事はブロガー冥利に尽きます。
さて、なぜ、ブログに書き込むのか、不特定多数の人とのコミュニケーションが楽しみだからかも知れません。原さんのエッセーは注目度ナンバーワンです。
紙の日記では三日で飽きるような人が、ネットでのブログだと、不思議と長続きする。(ダラダラと止め時を探っている人もいますが)・・・紙とネットの最大の違いは“公開するか否か”。そう考えると、ひとりがいくつかのブログを持っている場合を除いて、gooで百万以上のブロガーがいるというのは、ある意味凄いことなのかもしれませんね。そのエネルギーをもっと別の方向に向ければいいのに・・・。
匿名で、顔も知らない相手だからこそ、受け止められる事実があって、知り合いではどうにもできない観点を提供してもらえるのですから、新手の人生相談ですね(笑)
現実の交友関係や家族関係などで、勇気を出して発信しても応答が得られないから、ブログという形を採った人も多いのではないでしょうか・・・。
私も一ブロガーとして、発信者としての自覚だけは忘れないように心掛けようと思います!