原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

高校新科目の 「公共」 とは一体何??

2015年08月17日 | 時事論評
 私自身が一時高校教員を経験している身だ。

 その関係で教員現役当時より、特に「社会科」関連教科に於いて、文科相(当時は文部省だったが)の新学習指導要領の改編と共に、学校現場に於いて教科内容を目まぐるしく改定せねばならない教員側の“被害”を直接受けた立場である。

 「国語」「数学」に関しては、時代の変遷に関わらず、(学問伝授を使命とする大学は別として)高校までの高等教育レベルではさほどの改編がないのが実情ではなかろうか? 
 それでもまあ、こと「英語」に関しては“読み書き”中心教育から“聞く・話す”教育へと変遷させたい文科省の期待に翻弄され続ける学校現場の苦悩が多少理解出来ないでもない。
 話を戻して、実際問題「国語」「数学」担当教員達とは、毎年毎年同じ「授業ノート」を使用して授業を執り行っているのが事実だったと記憶している。
 それらに対し、「理科」「社会」は科学や国内・国際社会の急速な発展の影響を直接大きく受けざるを得ない科目である事は事実だ。


 私の場合、高校にての担当教科が「商業」及び「社会」の一部科目だった。
 元より私が勤務したのが(大変失礼な表現ながら)「底辺高校」だったため、学校の指導方針がさほど学習指導要領に準拠せず、教員個々の自由度を尊重してくれた事はラッキーだったかもしれない。
 それにしても「商業」「社会」のいずれの科目も、時代の流れに触れない事には立ち行くすべもない。
 そこで私が活用したのは、当時大学院を修了したばかりの我が脳内に燦然と存在する“ホットな学術情報源”だ。  これぞまさに利用価値があると私は判断した。
 当時の高校の教科書内では陳腐な内容しか記載されていなかった「商業法規」や「商業経済」等に於いて、我が修士論文をしたためるために活用した最新の諸情報を、底辺高校生にも理解可能にアレンジしつつ授業内でフル活用したものだ。 
 当時はまさにバブル経済最盛期、少し崩壊期に差し掛かろうとしていた時代背景だ。 底辺高校生とて、時代の流れを自分自身の生活の一部として個々が把握しているのを私は確かに感じ取っていた。 私の授業を聞いてくれた高校生達が、教科書を読むより私の授業を受けた方が自分が生きているまさに今の時代の社会情勢を把握し易いと感じてくれた、と信じたい。

 その傍らで、私は「現代社会」なる、自分自身が高校時代に一切経験していない授業をも受け持った。
 とりあえず何を生徒達に伝える趣旨の科目なのかを把握するため、当時の勤務校にて使用されていた教科書一冊を幾度となく読み込んだ。
 なるほど。 これ「社会科」の基本として優れた科目ではないかと、私は高評価したものだ。
 要するに、現代社会が如何にして成り立ちこれから如何に発展するのかに関する「歴史」「文化」「経済」「政治」「国際問題」「青年の今後のあり方」等々、様々な学術視点から基本項目を1年間で総括する授業と私は理解した。
 そうだとしても1年間の授業ですべてを網羅するのには到底無理があるのは歴然だし、表面だけカスッたとて生徒に何を訴えられるのかと模索した私は、自分なりに得意分野を絞り込み、私なりの「現代社会」を構成し生徒に伝えたものだ。


 ここで、表題に戻ろう。

 朝日新聞8月6日付一面トップ記事の題目は、「高校新科目に『公共』22年度 近現代史も必修」だった。 
 その内容を、以下に要約引用しよう。
 2020年度にスタートする新学習指導要領について、文科相は8月5日、22年度をめどに高校に必修の「公共」「歴史総合」(いずれも仮称)などの新科目を設ける案を公表した。
 公民科の「公共」は選挙権年齢が18歳に引き下げられたことを受け、選挙等政治参加について学習する。 将来成人年齢が引き下げられるとの意見も踏まえ、社会保障や契約、家族制度、雇用、消費行動といった社会で必要な事を学ぶ。 これにより「倫理」など別の科目を学ばなくなる可能性もある。
 「公共」とは、現代の課題と過去とのつながりを理解し、グローバルな視点で日本の歴史を捉える狙いがある。 これの新設により「世界史」は必修でなくなる見通し。 他科目の扱いは中教審が今後詳細を話し合う。
 (以上、朝日新聞記事より一部を要約引用。)


 最後に、原左都子の私論に入ろう。
 
 上記朝日新聞記事によれば、要するに新学習指導要領内で高校にて新科目として「公共」なる科目を新設する主たる理由とは、選挙権が18歳に引き下げられた事と、今後「成人年齢」が18歳に引き下げられそうな事に対する事前策と捉えられよう。

 確かに成人年齢が「18歳」に引き下げられた場合、その年齢に達するに該当する若者達がそれに関する法律規定を理解していない事には、「成人」としてのその後の人生がままならない事であろう。

 ただ、その命題とは何も成人年齢を18歳に引き下げる案が浮上する以前より大きな課題だったはずだ。
 話を元に戻すと、安倍政権が何故「18歳選挙権」及び「18歳成人」案を焦ったのかと言えば、それを実行する事により自公民政権こそが、“選挙の際により多くの得票が得られる”と身勝手に目論んだに他ならない。

 ところが時代は急変してしまっている。
 安倍政権は、もはや自堕落の過程に陥っていると私は認識している。

 安倍政権が(似非)活況化にあった少し前の頃に論議した「新学習指導要領」など、一旦白紙に戻しては如何か。
 私論としては、日本の若者が成人するのは「20歳」で必要十分と判断している。
 ここは今まで通り、「現代社会」の授業を更に充実させることに精進するべきだ。
 更には、日本も真なる国際社会として今後君臨したいのならば、高校現場に於いて「世界史」の授業こそを重点的に発展させる事に期待したいものだ。

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