(冒頭写真は、我が2度目の大学にて受講した「科学哲学」のプラトンによる“3つの比喩”より「洞窟の比喩」のページを転載したもの。 字が既に乱雑になっているが、夜間働く勤労学生の身にしてどうしてもノートの清書時間がとれなかった…。 今後は授業中に殴り書きしたそのまま状態の公開で失礼します。)
早速だが、上記写真内にある「eikasia」の意味に関して、ネット上より引用しておこう。
プラトンの『国家』第六巻で語られる「線分の比喩」においては、
人間の認識のあり方には、エイカシア(映像知覚)とピスティス(知覚的確信)、そしてディアノイア(間接的認識)とノエーシス(直知的認識)という全部で四段階の認識の階層があることが説明されます。
そして、エイカシア(映像知覚)とピスティス(知覚的確信)が現実の事物が存在する感性的世界(現象界)のみを対象とする認識であるのに対して、
ディアノイア(間接的認識)とノエーシス(直知的認識)は現実の世界の背後にある真なる実在であるイデアが存在する知性的世界(イデア界)を対象とする認識であるとされることになるのですが、
「線分の比喩」の議論では、こうした四つの認識のあり方は、数学的な比例関係において捉えられることができると説明されることになります。
(以上、「eikasia」の意味に関してネット上より引用したもの。)
どうやら「科学哲学」2校時目から、早くも“プラトンの世界”に突入だ。
やはりプラトンは著名哲学者であるし学生が感情移入し易いであろうと、W先生が配慮して下さったものと思われる。
これが、私にとっては大々的なインパクトだった!
よく分からないなりにも、面白くて面白くて!!
お陰で、私が「科学哲学」とW先生のファンになるには時間がかからなかった。
他の授業も面白いと言えばそうなのだが、この「科学哲学」の魅力に勝るものはなかった。
(後に語る「量子力学的実在論」共々、「プラトン哲学」は確実に我が脳裏に永遠に刻み込まれた。 と言える程に理解できているかどうかは不明😝 だが、とにかく私にとって後々までのめり込める対象学問となった。)😍
そんな私が、このW先生のプラトンに関する授業等々をまとめる形で、後に当該「原左都子エッセイ集」初期頃2007.11.23付けで「プラトンのイデア論」と題する“学問・研究カテゴリー”エッセイを公開している。
それを、以下に引用させていただこう。
今日は、プラトンから命名した娘の14回目のバースデー。
素直に着実に、あなたらしく成長してくれてありがとう。
14歳になったあなたに、母からブラトンの「イデア論」を贈ります。
紀元前4世紀に古代ギリシャのアテナイにアカデメイアを創設した哲学者プラトンの関心は、一方の永遠普遍なものと他方の流れ去るものとの関係にあった。 プラトンは自然界や社会の中で何が永遠普遍なのかに興味をよせた。 プラトンは永遠で変わることのない「本当の世界」をとらえようとした。 何が永遠に真理であり、善であり、美しいのかを示そうとした。
プラトンは私たちが自然の中で触れたり感じたりできるものはすべて「流れ去る」と考えた。 感覚世界に属するものはすべて時間に侵食されてしまう。 だが、すべてのものは時間を超えた「型」に従って創られている。 この「型」は永遠で普遍である。
プラトンが永遠で普遍と考えたこの「型」は抽象的なひな型であり、それをもとにあらゆる現象が型どられるひな型である。 プラトンは私たちの身の回りにあるあらゆるものの背景には限られた数の原型があるはずだ、との結論に達した。 そしてこの原型をプラトンは「イデア」と名付けた。 この考え方がプラトンの「イデア論」だ。
感覚世界にあるものはすべて、つかの間のものでしかない。 動物も植物も衰えていき、いつかは死ぬ。 岩石だってゆっくりと朽ちていく。 私たちは変化するものについての確かな知を入手することはできない。 触れたり感じたりできる感覚世界のものに関して、私たちは曖昧なドクサ(意見)しか持てない。 私たちがエピステーメー(確かな知)を持てるのは、理性でとられることができるものについてだけなのだ、とプラトンは考えた。 理性は永遠で普遍であり、永遠で普遍にかかわることしか語らない。 私たちが知覚するもの感覚するものに関して、私たちは曖昧な意見しか持てない。だが、理性で認識するものに関しては確かな知に達することができることをプラトンは示そうとした。(だから、「イデア」は日本語では「理性」と訳されたりもしている。)
私たちは何かの陰を見たら、この陰の元にあるものがこの陰を投げていると考える。 でも、確信はない。 それで、私たちは振り向いてその陰の正体を確認する。 その正体は陰よりもずっとクリアで輪郭もはっきりしている。 プラトンは、自然界のすべての現象は永遠普遍のひな型(イデア)のただの陰だと考えた。残念なことにほとんどの人々はその陰の中の人生に満足しきっている。 一部のソフィスティケイトされた人にしかこのイデアは見えない。 プラトンはそう語っている。(プラトンはこの話を「洞窟の比喩」として説明している。)
参考文献 : ヨースタイン・ゴルデル著「ソフィーの世界」1995年
素直に着実に、あなたらしく成長してくれてありがとう。
14歳になったあなたに、母からブラトンの「イデア論」を贈ります。
紀元前4世紀に古代ギリシャのアテナイにアカデメイアを創設した哲学者プラトンの関心は、一方の永遠普遍なものと他方の流れ去るものとの関係にあった。 プラトンは自然界や社会の中で何が永遠普遍なのかに興味をよせた。 プラトンは永遠で変わることのない「本当の世界」をとらえようとした。 何が永遠に真理であり、善であり、美しいのかを示そうとした。
プラトンは私たちが自然の中で触れたり感じたりできるものはすべて「流れ去る」と考えた。 感覚世界に属するものはすべて時間に侵食されてしまう。 だが、すべてのものは時間を超えた「型」に従って創られている。 この「型」は永遠で普遍である。
プラトンが永遠で普遍と考えたこの「型」は抽象的なひな型であり、それをもとにあらゆる現象が型どられるひな型である。 プラトンは私たちの身の回りにあるあらゆるものの背景には限られた数の原型があるはずだ、との結論に達した。 そしてこの原型をプラトンは「イデア」と名付けた。 この考え方がプラトンの「イデア論」だ。
感覚世界にあるものはすべて、つかの間のものでしかない。 動物も植物も衰えていき、いつかは死ぬ。 岩石だってゆっくりと朽ちていく。 私たちは変化するものについての確かな知を入手することはできない。 触れたり感じたりできる感覚世界のものに関して、私たちは曖昧なドクサ(意見)しか持てない。 私たちがエピステーメー(確かな知)を持てるのは、理性でとられることができるものについてだけなのだ、とプラトンは考えた。 理性は永遠で普遍であり、永遠で普遍にかかわることしか語らない。 私たちが知覚するもの感覚するものに関して、私たちは曖昧な意見しか持てない。だが、理性で認識するものに関しては確かな知に達することができることをプラトンは示そうとした。(だから、「イデア」は日本語では「理性」と訳されたりもしている。)
私たちは何かの陰を見たら、この陰の元にあるものがこの陰を投げていると考える。 でも、確信はない。 それで、私たちは振り向いてその陰の正体を確認する。 その正体は陰よりもずっとクリアで輪郭もはっきりしている。 プラトンは、自然界のすべての現象は永遠普遍のひな型(イデア)のただの陰だと考えた。残念なことにほとんどの人々はその陰の中の人生に満足しきっている。 一部のソフィスティケイトされた人にしかこのイデアは見えない。 プラトンはそう語っている。(プラトンはこの話を「洞窟の比喩」として説明している。)
参考文献 : ヨースタイン・ゴルデル著「ソフィーの世界」1995年
(以上、本エッセイ集バックナンバーより引用したもの。)
先程の記述の訂正です。
失礼申し上げました。 上記エッセイの参考文献「ソフィーの世界」は、W先生ご推薦図書ではありません。 (どなたの推薦だったか忘却しております。)
W先生ご推薦図書は複数あるのですが、当時大規模書店を巡ったのは、ズーカフ著「踊る物理学者たち」(量子力学的実在論等を取り上げた著書)を求めてでした。 紀伊國屋、丸善、最後に行った「八重洲ブックセンター」でやっとこれをゲット出来た時には、どれだけ嬉しかったことか。